第六話
「あ、雪乃様! 伽南先生!」
表に向かい、海華がそう声を張り上げた瞬間、朱王は手にしていた茶碗と側にある酒瓶を慌てて作業机の下に押し込み、志狼は目を白黒させながら残っていた酒を飲み下す。
海華の背中からちらちら覗く人物、それは供の者を連れた雪乃と伽南の姿だった。
「海華、ご無沙汰していましたね」
「こんにちは海華ちゃん。すぐそこで、伽南先生とお会いしたのよ」
にけにこと朗らかな笑みを見せる二人。
お供の中年女を外に残した雪乃と伽南を室内に招き入れ、海華はさっそく茶の支度をし始める。
深々と頭を下げる朱王、そして志狼の前に座った二人。
雪乃の口から最初に生まれた言葉は、三人に対する謝罪だった。
「ごめんなさい、うちの主人が随分先走った真似をしてしまって……。迷惑だったでしょう?」
悲しげに顔を歪め、頭を下げる雪乃に三人は戸惑いながらも顔を横へ振る。
「謝るなんて……お止め下さい雪乃様、修一郎様は、私達の事を思って……」
「そうですよ、本当にありがたく思っています。迷惑だなんて……」
朱王と海華の台詞にほっとした様子を見せ、雪乃はやっと頭を上げる。
その隣に座り、湯気の立つ茶を啜る伽南が、朱王へ向かい目尻を下げた。
「そうですか、風の噂には聞いていましたが、志狼さんと海華所帯を持つのですね」
『おめでとうございます』そう頭を下げる伽南へ、海華は礼を述べつつ肩を落とす。
「信じてくれたの、先生だけです……。このままじゃ、いつ祝言挙げられるのか……」
「そうしょぼくれるなよ。後から、また二人で挨拶回りに行こうぜ」
しょんぼり項垂れる海華に苦笑いを浮かべ、軽く肩を叩く志狼。
そんな二人を交互に見遣り、伽南は何か考え込むように小首を傾げた。
「信じてもらえない、とは? 朱王、一体どういう事ですか?」
「はい、それが……」
所々口ごもりながら、朱王が事の経緯を説明する。
驚きの表情を浮かべてその話しを聞いていた雪乃と伽南。
全ての話しを聞き終わった後、二人は困り果てた様子で顔を見合わせる。
「そうですか、あの時の事があって、 皆……」
「信じてくれないなんて、そんなの海華ちゃんが可哀想だわ」
今にも泣き出しそうに目を瞬かせる雪乃を前に、海華も朱王達に気付かれぬよう、そっと目尻を指先で拭う。
しかし、救世主は全員が思っていたよりも早く現れたのだ。
「ちょいと朱王さん! お邪魔しますよ!」
矢鱈と威勢のよい嗄れ声と共にがん!と勢いを付けて木戸が跳ね飛ばされる。
それと同時、顔を跳ね上げた皆の目の前には、色とりどりの継ぎが当てられた分厚い半纏を纏う、前歯の欠けた中年女が満面の笑みを張り付かせて立っていた。
「あ……お、石さん?」
呆けた声色で呟く海華へ、お石は口元をひくつかせ、戸口を掴む手に力を込める。
そう、この唐突に現れた中西長屋の歩く瓦版、お石こそが、三人にとって救いの神となったのだ。
「あ、らぁ……ごめんねぇ、お客様、いらしてたんだね?」
引き攣り笑顔を見せるお石は、伽南と雪乃を交互に見た後、そろそろと滑りが悪い戸口を閉めようとする。
しかし、その手は雪乃の発した一言によって、ぴたりと止まった。
「あ、少しお待ちになって!」
「はいっ!」
ピン! と背筋を伸ばしたままお石の身体が硬直する。
緊張にうっすら汗をかくお石へ、雪乃はにっこり微笑みかけた。
「急にごめんなさい。貴女、この長屋にお住まいなの?」
「は、はい……そうでございます……」
こんな貧乏長屋には似合わない豪奢な着物を纏う美しい雪乃を前に、お石はただただ首をこくりと動かす。
まさに掃き溜めに鶴とはこの事だろう。
忙しなく宙をさ迷うお石の視線。
その目は『この人は誰だ』と朱王らに問い掛けていた。
「お石さん、この方は………北町奉行、上条 修一郎様の奥方様雪乃様だ。雪乃様、こちらはこの長屋の大家の奥さんで、お石さんです」
「北町、奉行……って、あの鬼修……っ!」
とっさに飛び出てしまった台詞に、お石はみるみるうちに顔を蒼白にさせ、口元を手で覆う。
しかし、雪乃は相変わらずにこにこと優しい笑みを湛えたままだった。
「ええ、あの鬼修の家内です。大家さんの奥様なの、ちょうど良かった、少しお願いしたい事があるのだけれど……」
「はい、はいっ! そりゃもうあたしなんかに出来る事でしたらはい、なんなりと!」
直立不動のまま、お石は金魚よろしく口をぱくつかせる。
お石に何を頼みたいのか、皆目見当もつかない四人は互いに顔を見合せ小首を傾げた。
「今度ね、ここにいる海華ちゃんがお嫁入りする事になったの。朱王さんや海華ちゃんには、主人共々とってもお世話になりましてね、 ぜひ、この長屋の皆さんにも海華ちゃんを、盛大に送り出してあげて欲しいの」
「海華ちゃんがお嫁入り……じゃあ、あの話しは本当……」
顔から汗を滴らせ、目を白黒させるお石。
志狼と海華を見ながら、雪乃は静かに可憐な唇を動かした。
「海華ちゃんには……いいえ、この二人には、皆さんに祝福されて幸せになって欲しいの。初対面でこんな事をお願いするのは申し訳ないのですが……。引き受けて頂けないかしら?」
「は……はいっ! 承知致しましたっ! 朱王さん、海華ちゃん信じなくてごめんよ。奥方様、このお石、喜んで一肌脱がせて頂きます! で、祝言はいつ頃……」
「そうですね……今すぐはさすがに無理でしょうし、年越しも近くなりますね」
「雪乃様、春先はいかがでしょう? ちょうど桜も咲く、いい季節です」
そんな伽南の意見に、雪乃は勿論のこと、朱王達も表情を緩ませ頷く。
『では、来年ですね!』そう一言叫び、お石は興奮に瞳をぎらつかせながら、雪乃へ一礼したかと思いきや、疾風の如く部屋の前から駆け出して行く。
『ちょいとみんな! 大変だよ──っ!』
乾いた空気を震わせるお石の叫びが、中西長屋一帯に響き渡ったのは、お石が姿を消してすぐの事だった……。
雪乃の一言は絶大な効果を産み出した。
海華が嫁入りするのは本当だ、その話しは瞬く間に長屋一帯に広がり、二人の部屋には次々と住人知人らが訪れて、祝いの言葉とわずかばかりの祝金を置いていく。
その中には住人以外、例えば朱王の仕事仲間の姿もありこの事を誰から聞いたのか、と問えばほとんどの物は『小石川』とか『香桜屋』と答えるのだ。
どうやら、伽南が噂、という形で小石川や自らの生家で海華らの事を話し廻っているらしい。
朱王や海華、そして志狼も改めて『奉行』の役職がどれ程のものかを痛感させられ、また雪乃や伽南の心遣いに頭を下げるしか出来なかった。
昼間は来客の対応に終われて内職はおろか、志狼と会う時間もなかなかとれない海華。
志狼も不自由な身体になった故に毎日の仕事にも今までの倍時間が掛かる。
この日、海華は実に十日ぶりに桐野の屋敷へとやってきた。
重厚な門から松や梅の木が生える庭を抜け、きれいに雪かきされた玄関へ辿り着く。
『ごめんください』そう中へ向かって声を掛ければ、屋敷の遥か彼方から『上がってくれ!』と、叫びに近い志狼の声が微かに響いた。
言われるがまま室内へ上がり、磨きあげられた長い廊下を、周りの部屋を伺いながら進む。
しかし、どこにも志狼の姿はなかった。
「ねぇ志狼さーん! どこにいるの?」
「離れだ! そこの廊下を真っ直ぐきて、突き当たりだ!」
次第に大きく、はっきりと響く志狼の声。
足裏が張り付きそうなほど冷たい廊下を小走りに、声に誘われ廊下の突き当たりまで来た海華は、そこにある日に焼けた襖をそっと引き開ける。
そこは、十畳あまりはあろうかと思われる広い部屋、中庭に面する障子からは、燦々と太陽 の光が降り注ぎ、家具も何も無いがらんどうの部屋を真っ白な光が埋め尽くす。
そんな目映い光と、埃と古い畳の臭いが充満した部屋の真ん中に雑巾で懸命に畳を水拭きする志狼の姿が目に飛び込んできた。
「こんな格好で悪ぃな。ここ、すぐ済ませるからよ」
片手で器用に雑巾がけをする志狼。
畳を滑る雑巾に目を向けた海華は慌てて志狼の横へ膝をついた。
「志狼さん、これじゃ畳が濡れちゃうわ。あたし絞り直すから……」
「そうか……。悪ぃ、縁側でさ足で押さえて絞ったんだが、やっぱり駄目だったか」
じっとり濡れたままの雑巾を海華へ渡し、悔しげに唇を噛む、そんな志狼をチラと一瞥し、 障子の近くに置かれた桶へ海華は向かった。
「── 全部、自分一人でやらなくてもいいわよ」
冷たい水でじゃぶじゃぶ雑巾を洗いつつ、ぽつりと海華が呟く。
小さな背中を見詰める志狼へ振り向く海華は、固く絞った雑巾を差し出しニコリと白い歯を見せた。
「出来る所は志狼さんがやって。難しいなら、あたしが手伝う。……あたしは、志狼さんの左手なんだから」
花が咲くような柔らかな笑顔で告げられた言葉。
それに無言で頷いて、志狼は雑巾を受け取る。
その顔は、次第に海華と同じ表情へと変えられていった。
畳に雑巾をかけ、縁側も拭いて湿気取りに障子を開け放つ。
途端に吹き込む冷たい風に身を振るわせながら、二人は離れとは正反対の居間に駆け込み、 カンカンと燃え盛る火鉢に赤くかじかんだ手をかざした。
「せっかく来てくれたのに、手伝わせて悪かったな」
「そんな事は言いっこなしよ。……一緒に住む場所の掃除なんだから、あたしもやって当たり前」
赤くなった頬をニコ、と緩め、海華は嬉しそうに口にする。
そう、あの離れは、これから二人が生活を共にする場所。
しいて言うなら愛の巣だ。
「── 白無垢、用意出来たのか?」
「うん、あの時に誂えたのを、修 一郎様に預かってもらってて……昨日、取りに行ってきたわ」
「そうか、なら……花嫁道具は?」
「長屋から持ってくるのは着物類だけよ。 箪笥や何やらは、兄様と修一郎様が注文してくれた。物は……後のお楽しみだって、見せてくれないの」
困ったように微笑みながら海華は側にあった茶道具を引き寄せる。
急須に茶葉を入れた所へ、志狼が湯気を立てる熱湯を注いだ。
「そうだ、お料理道具も持ってこなきゃね。これからは、あたしもここの使用人だから、たくさん働かなきゃ」
布巾で盆を拭きながら何気なく呟いた海華。
その言葉を否定するかのように、志狼は緩く首を振る。
「使用人じゃねぇ。家族だ。桐野様は、いつも俺にそう言って下さる。だから、お前も桐野様の大事な家族だ。── 俺の大切な嫁だからな」
真っ直ぐな視線を送る志狼の瞳は、ただ海華一人だけを映し出す。
赤い頬を更に赤くしながら、『ありがとう』と消え入りそうな声色で呟く海華。
すっかり照れてしまった様子で俯く海華の手から、そっと急須が取り上げられる。
「お前の白無垢姿、楽しみにしてるぜ」
小さく微笑み、片手で茶を注ぐ志狼の言葉に、再び無言のままコックリ頷く。
爽やか茶の香りに包まれて、久方ぶりに訪れた二人だけの時間を楽しみながら、交わす会 話は希望と喜びに満ち溢れたものばかり。
冬将軍が江戸を去り始める頃、この屋敷で新しい生活が産声を上げるのだ。
終




