第四話
「朱王、お前まさか……海華を試したのか? 海華があのような行動に出ると予測して……わざとあんな?」
呆気に取られた様子、目を丸くして自分を見詰めてくる桐野の視線を避けるよう、朱王は己の膝先に視線を落とす。
「試した……と言われれば、その通りです。ですが、海華の本心が聞きたかった、その言葉に嘘はありません。── あれだけの事を言われたのです、激昂しない方がおかしい。海華は……」
「本気で志狼に惚れておる。同情や哀れみで一緒になりたいのではない、それは本心だ。だから、これ以上俺達が反対しても無駄なのだ」
あっさりと言い放つ修一郎を見遣り、桐野はわずかに顔をしかめる。
「思い切った事をしたものだ。それにしても朱王、お前これからどうやって海華をなだめる気なんだ?」
今までになく怒り狂い、部屋を飛び出して行った海華。
ちょっとやそっとで機嫌が直るはずはない。
「もし、長屋に戻らぬとでも言われたらどうするつもりだ?」
「なに、心配いらぬ。その時は俺の屋敷に来させればよいからな。まさか、いつまでもここにいられるとも思っていないだろうよ」
桐野とは正反対、楽観的な態度を見せる修一郎。
苦笑いを見せる朱王も一抹の不安があるとはいえ、修一郎の考えに不服はないようだ。
「…… いつかはこの時が来ると覚悟はしておりましたが……いざとなると、素直になれないものですね……」
突然、朱王の唇からぽつりとこぼれる微かな呟き。
きっと、これが彼の本心なのだろう。
それがわかっているからこそ、修一郎と桐野は聞こえないふりをする。
激動の夜は深々と更けてゆく。
その日、三人が小石川を後にしたのは、月が大きく西へ傾きかけた頃だった……。
翌日は、志狼が八丁堀へと戻る日だった。
長く世話になった清蘭とお藤らへ丁重に礼を述べ、海華と連れ立って療養所を後にする志狼。
療養所ではほとんど寝て過ごしていたようなもの、数日ぶりの外出に足元はどこかふわふわと覚束無い。 雪道に足をとられ、時折ふらつく志狼の身体を支え、片手には着物さら下着やらが入った風呂敷包みを抱えつつ、並び歩く海華の顔は頭上に広がる青空とは正反対に暗く曇り、口数も極端に少ない。
昨日の今日だ、落ち込むのも無理はないと思いながらも、志狼もどう話しを持ち出してよいやらわからず、自然と会話は少なくなる。
八丁堀への道すがら、会話という会話はほとんどなく、遂に桐野の屋敷まで着いてしまった。
「── じゃあ、あたしはここで。後は、大丈夫?」
「ああ。ありがとう……。あ、ちょっと待て!」
持っていた荷物を志狼へ渡し、玄関先で帰ろうとする海華を呼び止めて、志狼は右手で玄関の戸を開く。
「せっかく来たんだ、少し休んでいけ」
「ううん、いいわよ。志狼さん疲れてるでしょ?」
緩やかに首を横に振る海華。
一度玄関を開き、荷物を中へと放り込んだ後、海華へ駆け寄った志狼は強引にその手を引っ張り、再び玄関へ向かう。
互いの間に言葉はない。
玄関先に積もる、日の光に曝され溶けかかった雪に、乱れた下駄の跡だけを残して二人の姿は屋敷の中へ消えて行った。
桐野の屋敷へ半ば無理矢理引き込まれた海華は、そのまま客間へと通される。
志狼がこの屋敷で一番最初に行った事、それは火鉢へ火を起こす事だった。
空気ごと凍り付いたかのように冷え込む室内に、焼けた炭の臭いが微かに漂う。
真っ赤な炭を満たした火鉢に向かい合って手を翳す二人。
最初に口を開いたのは、やはり志狼だった。
「お前……今日、朱王さんの所に帰るのか?」
その問い掛けに、海華は無言で首を横に振る。
「なら……夜はどうする気だ?── お前さえ良ければ、旦那様にお願いして……」
「今夜は、修一郎様のところでお世話になるわ。── さっき、雪乃様が小石川までいらしてくれて……」
まだ朝の早いうち、わざわざ自分を訪ねてきてくれた雪乃は、今夜はうちにおいでなさい、と言ってくれた。
きっと、修一郎から経緯を聞いたのだろう。
それを聞いた志狼は、なぜ朱王が今まで海華をほったらかしにしたままなのか、その訳がやっとわかった。
修一郎との間で海華をどうするか既に話しがついていたのだ。
そうでなければ、あの朱王の事だ、必ず海華を迎えに来ているはずである。
昨夜の冷酷すぎる台詞も何か意図があるのだろうとは思っていたがその理由を志狼は未だわからないでいた。
「一先ず、今晩の寝床は確保出来たの。…… これから先は、わからないけど」
そう自嘲する海華は、火鉢に翳す手を軽く擦り合わせる。
背中を丸め、いつもより小さく見える海華は、ふっ、と乾いた溜め息を一度だけ吐いた。
「お前、もう朱王さんの所に戻らないつもりか?」
「今は、戻るつもりはないわ。気持ちの整理が出来ないから……でも、いずれはね……」
いつまでも修一郎の所に厄介になる訳にもいかず、さりとて他に行くあてもない。
まさか、ここに置いて欲しいなど口が裂けても言えなかった。
「兄様……どうしてあんな事を言ったのかしら? あたし、そんなに信用されてなかったのかな……」
しょんぼりしょげてしまう海華を前に、志狼は確信を持って『そりゃあ違う』と否定する。
朱王が海華を信用していないなど考えられないからだ。
「海華、そりゃあ違う。朱王さんは……きっと、何か考えがあって、あんな事を言ったんだ。 お前を嫌いだからとか、信用出来ないからだとか、そんな理由じゃないように思う」
「その理由って、なに? あたしはそれが知りたいの……このままじゃ、兄様とは喧嘩別れしたままだし、あたし達の事も宙ぶらりんよ!」
火鉢に翳していた手を強く強く握り締め、海華は突如弾かれたように立ち上がる。
何か決意を込めた瞳。
志狼は戸惑いながら、海華を見上げた。
「志狼さん、あたし行くわ」
「い、行くって……修一郎様の所か?」
「ううん、兄様の所。兄様が何を考えてたのか、ちゃんと聞き出してくる!」
そう叫ぶが早いか、勢いよく障子を跳ね開けた海華は、そのまま氷のように冷たい廊下へ飛び出して行く。
その耳には、背後で甲高い声で自分の名を叫ぶ志狼の声は最早届いていなかった。
天空から降り注ぐ麗らかな光に凍てつく雪が緩み出す。
溶けかけ、ぬかるむ道に深い下駄の痕を刻み付け、一人長屋に向かい疾走する海華の姿があった。
吹き抜ける風は未だ冷たく、息を吸い込む度に喉の奥がひりひりと痛む。
しかし、そんな事を気にしている暇はない。
道行く人々の間を身を踊らせ、ひらりひらりと走り抜ける海華の足は雪解け水と粘りつく泥で足首まで汚れていた。
大通りから裏道に入り、思い付く限りの近道を通り抜け、やっと見えてきた中西長屋の傾きかけた長屋門を潜り抜ける。
髪を乱し、頬を真っ赤に染め上げ、駆け込んできた海華を見た部屋の前の雪掻きに精を出していた大家は、ぽかんと口を半開きにしその背中を見送った。
走りに走り、やっと辿り着いた兄と自分が住まう部屋。
戸口の前で足を止め、身体全体を揺らして洗い息を整える海華の首筋は、流れ落ちる汗できらきらと輝く。
震える指先が戸口にかかり、軋むそれを一気に開いた、その瞬間だった。
冷えた空気が渦を巻き、ひゅっ、と鞭が唸る音を立て室内へと吹き込む。
見えない白刃と化したそれは、作業机の前に座り、驚きに顔を跳ね上げた朱王の黒髪を宙へ遊ばせた。
いっぱいに目を見開き、驚愕の表情で海華を凝視する朱王の右手には、鈍色に光る彫刻刀が握られている。
左手には人形の胴体、机に転がる手足や首……。
薄暗い中で妙に不気味に映るそれを一瞥した海華の唇が、『兄様』と掠れた声を紡ぎ出した。
「海、華……?」
突然飛び込んできた妹の姿を前に、朱王は思わず彫刻刀をその手から取り落とす。
海華は何も言わぬまま戸口を閉め土間に立ち尽くした。
「兄様……あたし、聞きたいことがあるの」
息を切らし、目の据わった海華の様子にただならぬ物を感じながら、朱王は『なんだ』と一言呟き海華を正面に見据えて、壁に背を凭れさせた。
「兄様……昨日は、どうしてあんな事を言ったの?」
単刀直入な問い掛けに、朱王の表情が幾分険しく変わる。
静かなる闘争、空気に見えない火花が散った。
「お前の覚悟が知りたかった。雰囲気に流されての選択ではないか、志狼への気持ちは本物なのか、それを確かめたかった」
「あたしの事、信用出来なかった?」
「そうじゃない。いいか海華、結婚ってのはな、自分の人生を相手に託し、相手の人生も引き受けるって事だ。その覚悟がなけりゃすぐに破談する」
『お前に、その覚悟はあるか』
心の奥まで見透かされるような朱王の視線。
ふぅっ、と大きく息を吐いた海華は、自分に向けられるのと同じ、真っ直ぐな視線で朱王を見返す。
「あたしは……志狼さんと生きて行くの。これだけは変わらない。志狼さんの人生は、あたしが引き受ける。あたしの人生も、志狼さんになら預けられる」
きっぱりと言い切った海華に、朱王は険しかった表情をやや崩し、『そうか』と一言呟きつつ静かに頷く。
机上に置かれた彫刻刀。
研ぎ澄まされたその刄が戸口から射し込む光を受け、清廉な光を放った。
「……そうか、わかった。それがお前の気持ちなんだな」
そう静かに告げ、朱王は再び作業机へ向かう。
何事もなかったかのように彫刻刀を握り、作業を進める朱王の姿を前に、海華の口元がぴくり と引き攣った。
「それだけ? 他に、言う事ないの?」
「他に何を言って欲しいんだ?」
こちらに顔も向けず、淡々とした返事を返す朱王に、怒りなのか悲しさなのかわからぬ感情が込み上げる。
しかし、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
一番聞きたい事が、まだ残っていたからだ。
「兄様は、あたしが志狼さんと一緒になるの、反対なの?」
「俺が反対したら、お前結婚を止めるのか?」
間髪入れない問い掛けに、海華は言葉に詰まる。
自分に向けられる朱王の言葉に、ここまで棘があるのは本当に久し振りだった。
「それは……」
「止めろと言われりゃ止めるのか? その程度なら、結婚なんざするな。すぐ駄目になって戻ってくるのがオチだ。出戻りなんて、こっちも迷惑する」
ふん、と鼻で笑いながら吐き捨てられた台詞に、海華の中で何かが切れた。
「そうですか、わかりました。もう兄様には、何も言いません」
低い声色でそう呟いた刹那、下駄を脱ぎ捨て室内に駆け上がる海華は、そのまま長持ちへと向かい、蓋を跳ね開ける。
畳に広げた風呂敷へ長持ちから取り出した着物や襦袢を次々と包んでいく海華を、朱王は何も言わず横目でちらちら眺めていた。
大きく膨れた茜色の風呂敷を抱え、背中には人形の入った木箱を背負う海華は、ひび割れた鏡台の小引き出しの中をまさぐった後、そのまま土間に降り、朱王に向かって深々と頭を下げる。
「今までお世話になりました。どうぞお元気で」
そう言いながら素早く頭を上げた海華の顔は青白く、表情は固い。
しかし、そんな海華へ朱王は顔を向ける事も声を掛ける事もなかった。
がらりと乾いた音を立て、海華が戸口を引き開ける。
室内を出ていく、木箱を背負った小さな背中。
再び戸が閉め切られ、海華の気配が消えたのを確認した朱王の手から、人形の胴体が転がり落ちる。
次の瞬間、固く握り締められた左手が、だんっ! と凄まじい音を響かせて作業机を殴り付けた。
辺りに飛び散る木屑、転がり落ちる人形の 頭……。
彫刻刀を放り出し、ずるずると崩れるように壁へ凭れ掛かる朱王の表情は、長い髪に隠れて、うかがい知ることは出来ない。
その薄い唇から、ふぅっ、と掠れた溜め息がこぼれた……。
『部屋を出てきました』
その日の夜、海華がそう告げた時、修一郎とその妻、雪乃は一瞬言葉を失い互いに顔を見合わせた……。
ここは北町奉行邸宅、つまり修一郎の住まう武家屋敷。
今宵一晩、海華はここで厄介になっているのだ。
夕餉も終わり、風呂も使わせてもらった海華は、昼間より幾分柔らかな表情に変わっていた。
しかし、海華から詳しい話しを聞き出した修一郎は心中穏やかてはいられない。
すぐさま朱王、そして桐野の元へ遣いをやり、雪乃には海華を説得するよう言い付けた。
ここは女同士の方がいいだろうそう考えてのこと、勿論雪乃も快諾してくれた。
朱王達が来るまで二人きりにさせて下さい、そう言い残し、雪乃は海華を連れて自室へ消える。
二人がどのような話しをしているのか、まさか盗み聞きするわけにもいかず、修一郎はただ一人、自室で悶々とした時を過ごす事となった。
ちらちらと燃える蝋燭の灯りをぼんやり眺めつつ、何杯の茶を飲み干しただろう。
『失礼致します』と涼やかな声色と共に、障子へ映る女の影が目に飛び込んできた瞬間、修一郎は思わず腰を浮かしていた。
「おお雪乃、ご苦労だった、それで、海華は何と申していた?」
「あらいやだ、そう急かさないで下さいませ」
濃紺に白い雪模様の入る着物を纏う雪乃が、困ったように小さく笑う。
落ち着かない修一郎の前にきちんと正座した雪乃は、ふぅと軽く息を整えた。
「結論から申しますと、海華ちゃん、もう朱王さんの所へは戻りません。明日から住む長屋を探すと言っていましたわ」
「雪乃、それを思い止まらせるのが、お前の役目……」
「申し訳ありません、でも、今の海華ちゃんは何を言っても聞き入れないと……色々話しを聞いたのですが、今回は朱王さんも少し言い過ぎたようですわ」
着物の袖を口に当て、くすくす笑う雪乃とは正反対に、修一郎の眉間に深い深い皺が寄った。
「なに、朱王の奴がまた余計なことを?」
「余計なことではございませんわ。ただ素直に言えなかっただけかもしれませんね」
そう言いながら、雪乃は海華から聞き出したことを一言一句違わず修一郎へ話して聞かせる。
雪乃の話しを全て聞き終わった時修一郎の顔からは先程見せた不機嫌さは消し飛び、代わりに浮かぶは苦笑いだった。
「つまりは、なんだ……あいつ自分が寂しいから海華を嫁に出したくないと、そういう事か?」
「ええ、たぶん。寂しいけれど、面と向かってそう言えもしない、だからあんな意地悪な言い方になってしまったのでしょうね」
『 いつかはこの時が来ると覚悟はしておりましたが……いざとなると、素直になれない』
雪乃の台詞を聞いた途端、昨夜、小石川で朱王が呟いた台詞が修一郎の頭に甦る。
すると修一郎は、何を思ったのか雪乃を手招きし、その耳許でそっと何かを囁いた。




