第三話
一瞬が永遠に変わった夜が、静かに明けた。
繋いだ手を名残惜しげに離した二人はそれぞれの部屋で黎明を待つ。
冷たい月と交代に燃え盛る太陽が天空を支配する朝、朝餉の席につく海華と志狼の顔は穏やかそのものだ。
包帯を交換しに来た清蘭も、志狼の様子がいつもと違う事に気が付いたのだろう、『何か良い事があったのですか?』と尋ねてくる程だ。
「清蘭先生、何か仰ってた?」
寝巻きを着る志狼を手伝いながら、海華が尋ねる。
ああ、そう一言だけ答え、畳に置かれたままの古い包帯をくしゃりと丸めながら、志狼はその唇から八重歯を覗かせた。
「何か良い事があったのか、とさ」
「そう……。それで、なんて答えたの?」
志狼から渡された包帯を受け取り、その場に正座する海華の手を取り、志狼が静かに笑った。
「今まで生きてきた中で、一番良い事があった、って、答えた」
「あら、随分と大袈裟ね」
「大袈裟なんかじゃねぇ。本当の事だからな」
互いにくすくす微笑みながら、自然とその手が繋がっていく。
海華の身体を自らの方へ引き寄せ人肌の温もりを楽しむ志狼に、海華も満更ではない様子でその身を預ける。
「昨日の事は……朱王さん達には内緒にしてくれ」
「いいわよ、あたしと、志狼さんだけの秘密ね」
約束を破り、夜に海華と会ったうえ、接吻まで交わしたと知れたら朱王や修一郎にどんな目に遇わされるかわからない。
海華だって、そのくらいは容易に想像出来るのだろう、一も二もなく承諾してくれた。
だが、志狼とていつまでも海華との事を周りに隠している気など毛頭ない。
「海華、さっきな、清蘭先生に今日の夕方、朱王さん達にここへ来てもらうよう伝えてくれって、頼んだんだ。── お前との事、きちんと話して認めてもらわなきゃな」
二人の気持ちが固まったならば後は周りに認めてもらうだけ。
志狼の言葉に、海華は心底嬉しそうに繋いだ手を強く握る。
「ありがとう志狼さん……。あたし、幸せよ。志狼さんと一緒になれるなら、本当に幸せ」
「そうか、でも……許してもらえるかな?」
誠心誠意で挑めば、きっと許しは得られる。
そう信じて疑わないが、やはり一抹の不安は残る。
特に、修一郎からすれば海華は腹違いであれ実の妹だ。
北町奉行を勤める旗本家の人間を、自分のような使用人風情に……しかもこんな身体の自分の所へ嫁がせてもらえるのだろうか?
修一郎が首を縦に振らぬ以上、朱王とて答えは同じ、決して許してはくれないだろう。
形の無い不安は頭の中で肥大化し、胃袋を締め付ける。
急に表情を曇らせ、口数が少なくなる志狼の背を海華は勇気付けるよう軽く叩く。
『大丈夫よ』そう言いながら、彼女はにこりと白い歯を見せた。
「志狼さんがどんな人か兄様も修一郎様も、よくわかってる。頭ごなしに反対するほど分らず屋じゃないわ。── あたしもついてる、だから、大丈夫よ」
大丈夫、そう繰り返す海華の言葉と笑顔にどれほど救われてきただろう。
だが、自分がもっとしっかりしなければならない。
改めてそう決意した志狼は、三角巾で吊られた左腕をそっと撫でた後、無言のままに海華の手を握り締めた。
どたどたと廊下を駆けるいささか重たい足音が夜の帳が降りた療養所へ響き渡る。
やがて、乾いた音を跳ね上げ勢いよく開いた障子の向こうから、火に掛けた鉄瓶よろしく白い息を吐き出す赤ら顔の修一郎が飛び込んできた。
「遅れてすまぬ! 」
息を切らし火鉢の前にどかりと胡座をかく修一郎へ、志狼と海華は揃って深々と一礼する。
二人の横には先に到着していた桐野と朱王が並び座していた。
「御家老に呼ばれたにしては、矢鱈と時間が掛かったようだが……。 まさか、また鷹取めに難癖をつけられたのではあるまいな?」
眉根を寄せ、顎の下を擦る桐野の言葉に修一郎は違うと首を振り、かじかんだ手を火鉢に翳す。
「難癖などではない。確かに鷹取も共に呼び出されたがな。二人揃って、御家老から誉め殺しだ。賊の頭領は元より手下も一網打尽とはよくやった、とな。これで火盗の面子も保たれるだろうよ」
鬼瓦の顔を笑みの形に崩し、上機嫌の修一郎を見て志狼と海華は顔を見合せ小さく笑う。
さて、役者は全員揃った。
二人にとってはこれからが本番である。
「お忙しい中、お呼び立てしてしまい、申し訳ありません」
三人に向かい、畳に片手をつき頭を下げる志狼。
完全には癒えぬ全身の傷が、鈍い痛みを放った。
「なに、良いのだ。お前達の様子も気になっていたからな。どうだ志狼、養生出来ているか?」
始終笑顔を絶やさない修一郎に対し、緊張そのものの表情を作る志狼は、顔を上げられぬまま『はい』と絞り出すように呟く。
「そうかそうか、まぁ海華が何かと世話を焼いてくれるだろうからな。腕は……一朝一夕という訳にはいかぬ。……焦らずに長い目でみることだ」
一つ一つ言葉を選ぶ修一郎。
しかし、志狼は固い面持ちのまま『はい』と抑揚なく答えるだけ。
いつもとは違う志狼の様子に朱王は眉をひそめ、桐野は小首を傾げる。
ゆっくりと顔を上げ、志狼は三人へ視線を向けた。
「今日お集まり頂いたのは……皆様に、聞いて頂きたい事が……いえ、お頼みしたい事がございます。本来ならば、こちらから伺うのが……」
「なんだなんだ、随分他人行儀だな志狼。頼みとはなんだ、いいから早く申せ」
苦笑いを浮かべる修一郎は、大きな手で火箸を掴み、がりがりと火鉢の中にある炭をつつく。
陽気な修一郎以外の者に漂う妙に緊迫した空気。
膝の上に置いた右手をきつく握り締めた志狼の胸が、ふぅっと大きく上下する。
遂に覚悟を決めた志狼、その隣で海華が生唾を飲み下した。
「それでは……恐れ乍ら申し上げます。海華を……海華を、私の嫁に頂きたく思います」
きっぱりそう言い切る志狼は、戸惑いなど微塵も感じさせない真っ直ぐな眼差しで修一郎と桐野、そして朱王を見詰める。
室内の空気が、時間が、そして志狼の視線を受けた三人の動きが一瞬で凍り付く。
赤く燃え盛る炭が、ばちりと派手な音を立てた。
唖然とした表情で志狼を見詰めていた修一郎の口元が、ひくひく歪な痙攣を起こす。
桐野と朱王は再びお互い顔を見合せ、そのまま固まってしまう。
「し、ろう……? お前、今なんと……」
「海華を私の嫁に下さいと、申しました」
淀み無い志狼の台詞。
うっすらと赤みがかっていた修一郎の顔が、みるみるうちに耳まで紅潮し、火箸を握り締める手に青黒い血管と筋が浮き立つ。
太い眉毛はぎりぎりつり上がりそれはまさに赤鬼の形相。
幼い子供であれば確実に泣き出しているだろう凄まじい表情に変わる修一郎を前に、海華の背中に冷たいものが流れた。
「お……おい志狼、お主、本気でそう申しているのだな?」
「旦那様、伊達や酔狂でこんな事を申すほど、私は愚かではありません。修一郎様、朱王さんお願い致します、海華を俺に下さい!」
半ば叫ぶような声が、暖められた空気を切り裂く。
右手一本で身体を支え、畳に額を擦り付ける志狼を目にした途端、海華もがばりと畳にひれ伏した。
「お願いしますっ! 志狼さんと、一緒になりたいんです! 兄様……修一郎様……お願いしますっ!」
綺麗な弧を描く海華の背中。
修一郎の顔から一気に血の気が引いていき、先程の笑顔はどこへ消えたのか、今にも泣き出してしまいそうに表情が歪む。
「も……もうよい、わかった! わかったから、二人とも顔を上げろ」
所々声を上擦らせ、そう告げる修一郎へ二人はそろそろと顔を上げる。
はぁっ、と盛大な溜め息を吐き出した修一郎は、そのまま片手で顔を覆った。
「お前達の事は……前々からわかっていた、だが……なぜ今なのだ! よりによってこんな時に……えぇぃ朱王っ! お前は……お前はどうなのだ!」
「どうと……申しますと……」
「賛成か反対か! どっちなのだ!」
ひどく苛立たしげに胡座をかいた足を揺すり、修一郎は声を荒らげる。
一瞬戸惑った様子を見せた朱王だが、すぐに表情を引き締め志狼と海華を見た。
「私は……志狼さんに何の不服もありません。海華を大切にしてくれると約束できるなら、喜んで嫁に出します」
思いがけない朱王の言葉に、志狼の目が大きく見開かれる。
だが、朱王は更にその赤い唇を動かし始めた。
「ただ、私は海華、お前に一つ確かめておきたい事がある」
「私に? ……なに?」
急に話しを振られ驚きを隠しきれない海華は、きょろきょろと漆黒の瞳を蠢かす。
そんな海華を、朱王はなぜか睨むような目付きで見詰めた。
「お前が志狼さんと一緒になりたいと思うのは……同情や哀れみからじゃあないな?」
予期しなかった、あまりにも冷たい台詞をぶつけられ、海華は返す言葉を失い呆然と朱王を凝視する。 しかし、朱王は容赦なかった。
「まさか、志狼さんの手が動かないからとか、気の毒だとか、そんな馬鹿な考えを持って一緒になろうとしている訳じゃあるまいな? もしそうだとしたら、志狼さんにも桐野様にも失礼だ。結婚なんざやめちまえ」
『一緒になる資格はない』
最後に吐き捨てられた言葉が、鋭い刃と化して心に突き刺さる。
真っ白に変わる思考、溢れ出す涙は頬をつたい、赤い着物に次々とにじんだシミを作り出していった。
「ひど……い。兄様なんで……なんで、そんな事……」
ぼろぼろ涙をこぼし、うちひしがれた表情で自分を凝視する海華へ、朱王はますます厳しい眼差しを向ける。
これまでになく海華に対して辛辣な態度をとる朱王に、志狼や修一郎、桐野までもが驚愕に目を見開いた。
「酷いもへったくれもあるか。聞いた事に答えろ。── 答えられないのか? 所詮、お前の気持ちなんざその程度のもんだったんだ」
残酷そのものの台詞が海華を打ちのめす。
と、朱王は突如その場から腰を上げ、声も出せずに泣き続ける海華へつかつかと歩み寄ると、いささか乱暴にその腕をひっ掴み、無理矢理その場へ立たせた。
「痛い、っ! なに……なにするのよっ!」
「帰るんだ。いつまでも、こんな茶番に修一郎様方を付き合わせられない。志狼さんすまないな、こいつの事はさっさと……」
『忘れてくれ』その言葉は室内いっぱいに鳴り響く、『ばんっ!』と乾いた破裂音に掻き消された。
長い黒髪が宙を舞い、朱王の身体がぐらりと傾ぐ。
海華が、空いていた手で朱王の頬へ渾身の力で平手打ちを食らわせたのだ。
「海華っ! お前、自分の兄さんに、なんて事……!」
その場から跳ね上がるように立ち上がった志狼は、慌てて海華を朱王の側から引き離す。 ただならぬ気配を醸し出す二人に桐野も表情を 固まらせ、修一郎と共に立ち上がった。
「いつまでも……ふざけた事言ってんじゃないわよっ! あたしの気持ちなんて、なんにも知らない癖にっ!」
血を吐くような絶叫を張り上げ志狼の手を振り払う海華は、涙を振り撒きながらも、朱王に飛び掛からんばかりの勢いだ。
「同情や哀れみなんかで誰が一緒になれるの! あたしは……志狼さんが好きなのよ! 本当に……本当に大好きなの! 志狼さんと一緒に生きていきたいの! だから結婚したいのよ! あんたみたいな薄情者に、知った風な事言われたくなんかないわっ!」
『もう顔も見たくない』
『さっさと出て行け』
思い付く限りの罵詈雑言を朱王にぶつけ、海華は部屋を飛び出していく。
その後を志狼が追い掛け、三人の目の前から嵐のように二人の姿は消えていった。
ばたばたと響く二人の足音。
それが途絶えたと同時に訪れる静寂。 ぶたれ、赤く腫れる頬に手をやり無言のまま俯く朱王へ、修一郎と桐野が恐る恐る近寄る。
「── 朱王、平気か?」
「はい。お見苦しい所を……申し訳ありません」
人形の如く無表情な朱王の顔を覗き込む桐野は、それ以上何も言うことが出来ず、ただただ修一郎へ目をやる。
しかし、修一郎は二人を一瞥した後、くるりと踵を返し背を向けてしまう。
「なぜだ? 朱王、なぜお前は……あんな心にも無い事を申したのだ?」
低く抑えた声色。
しかし、そこに怒りは含まれていない。
激しい動揺、そしてどうしようもない悲しみだけが、修一郎の声、そしてこちらに向ける背中からにじみ出ていた。
「お前が、なんの考えもなしにあのような事を申すはずがない。── 言え。どのような意図があったのだ?」
ゆっくりとこちらを振り返る修一郎と朱王の視線が激しくかち合う。
冥い光を宿した朱王の瞳が微かに揺らめき、その唇が小さく戦慄く。
「あいつの覚悟を確かめたかったのです。志狼さんと共にこれからの人生を歩めるのか…… 修一郎様、中途半端な気持ちで結婚した二人が長続きすると思われますか?」
可哀想だから、気の毒だから、そんな気持ちを持って一緒になったのなら、きっと二人は長続きしない。
同情は時に『見下す』と同意義に変わるのだ。
朱王の言葉に、修一郎は思わず唇を噛み締め無言のままに首を横に振る。
結婚する、それが双方にとってどれほど大変か、この三人の中で一番よくわかっているのは修一郎だけだ。
他人同士が同じ屋根の下で生活を共にする、勿論、楽しい事ばかりではない。
互いの人生を預り、苦しい時、辛い時に支えあってこその夫婦。
それが出来ぬ時、夫婦生活は破綻するのだ。
「── 確かに、朱王の言うことは最もだ。 ところで、儂からも朱王、修一郎、お前達に聞いてみたい事がある」
神妙な口調の桐野に、二人の視線が集中する。
「聞きたい事とはなんだ、申してみろ」
「志狼の腕の事だ」
矢継ぎ早に答える桐野は、どかりとその場に胡座をかく。
それにつられるよう、修一郎と朱王もその場に腰を下ろした。
「お前達もわかっていると思うが……志狼の左腕は、これから先、動くかどうかわからぬ。以前のように自由に物事をこなすのも難しくなるだろう。── 海華にも、それなり苦労をかけるはずだ」
苦し気に呻き、忙しなく膝を揺する桐野。
彼が何を言おうとしているのか、二人には薄々わかりかけていた。
「それでも、志狼に海華を嫁がせてもよいのか? 苦労をするとわかったうえで、嫁に……」
「もうよい、それ以上言うな」
桐野の言葉を途中で遮り、修一郎は困り果てた面持ちでがりがりと頭を掻きながら、おもむろに横へ座する朱王へ顔を向けた。
「どうする朱王、桐野はこう申しておるが……腕の萎えた志狼に嫁がせるのは嫌か?」
「いいえ、腕が駄目になろうが足が駄目になろうが、志狼さんは志狼さん。先程も申しました、海華を大切にさえしてくれるなら、私は喜んであいつを嫁がせます。 修一郎様は……」
「右に同じだ。結婚に苦労は付き物、そのような理由で反対などしない。── 俺達が反対した所で、先程の様子じゃ海華は聞かんだろう」
自らの右頬を指差し、修一郎はにやりと笑う。
「あっさり引き下がられたら、どうしようかと思いました」
そう呟きつつ、ばつが悪そうにぶたれた頬を擦る朱王。
そんな彼の姿を目にした途端、桐野は『あっ!』と小さな叫びを上げ、その場から腰を浮かせていた……。




