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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三章 鬼神小町
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第一話

 湿気を含む重たい熱が、ねっとりと全身を包み込む。


 吹き出る汗は蒸発することなく肌を濡らし、襦袢に、そして着物に次々と吸い込まれていった。不快な事この上ない気候に辟易しているのは、人間様だけではないのだろう、足元をふらつきながら通り過ぎる痩せた野良犬は、真っ赤に染まけった舌をダラリと垂らし俯きがちに日陰をめざす。


 プラプラ揺れる舌先から滴る涎の玉、地面に落ちた瞬間、あっという間に黒っぽいシミと変わるそれをボンヤリ眺めていた海華、その手には強烈な陽射しに麗しきかんばせを照らされる姫人形があった。


 傀儡廻しを生業とする彼女、ここはいつも立っている四つ辻だ。頭上は雲一つない日本晴れ、白く燃える太陽が今を盛りと輝き、身も焦がさんばかりの熱波で命あるものを苛んだ。


 仕事をしようにも、通行人は皆、暑さにやられて足早に自分の前を通り過ぎていくだけ。のんびり足を止めて人形芝居を観てくれる者などいやしない。

これ以上ここにいても、得られる金などたかが知れている。


 そろそろ別の所へ移ろうか、それとも諦めて引き上げようか。額に滲む汗を拭き拭きそんな事を考えていた海華。と、突然背後からポンと肩を叩かれ反射的に背後を振り返った。


「あら兄様!」


「お疲れさん、たまたま通り掛かったら、お前が見えてな」


 紺色の風呂敷包みを下げた朱王は、暑さのためだろういつもは背中へ流したままの黒髪を一束ねに結わえている。


「どこかに出掛けてた?」


「あぁ、お前には言っていなかったな。佐久間屋さんへ写生に行っていた。その帰りだ」


 そう言いながら風呂敷包みを小脇に抱え直し、額に張り付く前髪を指で払い除けた朱王は、親指で自身の背後を軽く指した。


「今日はもう切り上げて、何か食って帰るか?」


「本当!? 嬉しいわ。こう暑くちゃ、お勝手をやる気も起きないもの。せっかくだから、早めにお湯屋にも行きたいわ」


 赤く火照った顔を輝かせ、すぐさま人形を木箱にしまい込んだ海華は、早く行こうとでもいうように朱王の袖を軽く引っ張る。


「で、どこに行く?」


「お福さんの所にしないか。しばらく顔出してなかったろう?」


「あ、そうね。たまに」挨拶しておかないと」


 朱王の提案に頷いた海華、き木箱を持ち上げ背負おうとする。しかし横から延びた朱王の手が、その木箱を取り上げた。


「持ってやる。一日暑い中で大変だったろう」


「あら、今日は随分優しいじゃない? 雨なんか降らなきゃいいけど」


 ニヤリと笑って軽口を叩くも、兄の気遣いをありがたく受けた海華は満面の笑みで彼の隣を歩く。二人が向かっている『お福さんのところ』とは、中西長屋の近くにある蕎麦屋『おふく』の事だ。

近くという事もあり、長屋に住み始めた頃からよく使っている店だが、お多福人形に瓜二つの女将、お福は、二人、特に海華を娘のように可愛がってくれている。


 最後に店へ行ったのは春の初め頃、久し振りにお福の朗らかな笑顔と溌剌はつらつとした声を聞きたくなった。


 連日続く暑さで食欲も失せかけている、ここは冷たい蕎麦をツルリとやって体力を付けなければ。まずは、この容赦なく照りつける太陽から一刻も早く逃れよう、そう思いながら朱王の袖を引いた途端、袂から滑り落ちた何かが海華の足元にパサリと落ちる。


「あら、なぁにこれ?」


 足を止め、落ちた物に海華は目を遣った。それは日の光を受けて眩しく輝く一通のふみだった。


「あぁ……。悪いが処分しておいてくれ」


 その文を前に微かに眉を顰めた朱王はそのまま先を行ってしまう。どこか不自然な彼と手中にある文を交互に見比べた海華は、『あぁ』と納得したように小さく呟き意味深な笑みを浮かべて彼の後を追い掛けた。








 目的の店、蕎麦屋「おふく」は年季の入った縄暖簾が湿った風に揺らめき、二人を手招く。まだ夕餉には早いだろう時間帯、店はそれほど混んでおらず朱王らを含めて三、四人の姿しかない。店の中に一歩足を踏み入れるなり、『いらっしゃいませぇー!』と間延びした女の声が狭い店内に響いた。


「お福さん、こんにちは!」


「あら、海華ちゃん! 朱王さんもいらっしゃいませ」


「ご無沙汰していました」


 ふくよかな頬を桃色に染め、濃い茜色の前掛けに縦じまの着物を纏った中年女、お福が顔中に笑み作って二人を出迎える。色白の肌に小柄で丸々太った身体つきをしたお福は、肉が弛んだ首元辺りに溜まる汗を拭きつつ二人を窓側にある席に案内した。


「お暑いところをよくいらっしゃいました、何にいたしましょう?」


「あたし、笊がいいわ、兄様は?」


「俺も笊で。それと冷で一本付けてくれ」


 『わかりました』と愛想良く笑い、お福は大きな身体をノソノソ揺らして奥へ引っ込んでゆく。彼女の姿が見えなくなったのを確かめて、海華は先ほど朱王から渡された文を袂から取り出し飯台へと置いた。


「ねぇ兄様、これ、中を見てもいい?」


「好きにしろ」


 飯台に肘をつき、上目遣いで訊ねてくる彼女へ、朱王はぶっきら棒に返事をする。彼の返事を聞き、早速文を開いた海華はニヤニヤしながら文を読み始めた。


「へぇ、朱王様のお顔が昼も夜も頭から離れません……初めてお会いした時から恋い焦がれ、お慕い申し上げておりました、か。凄いわねぇ、これはベタ惚れだわ」


 笑いを噛み殺しつつ文を畳み直す海華を前に、バツが悪そうな面持ちで朱王が目を逸らした。


挿絵(By みてみん)


「気色悪い奴だな、早くそんな物しまえよ。帰ったら竈の焚き付けにでもしてくれ」


「はいはい、わかりました。いつものように処分しますから」


 そう言いながら文を袂に押し込もうとした時、お福が傍と酒を盆に乗せ運んできた。


「お待ちどうさま。あら、海華ちゃんそれって恋文かね?」


「大当たりよお福さん。でも、あたしじゃなくって兄様に。好かれる男は大変みたい」


「そりゃぁね、朱王さんの顔を拝めば、どんな女だってコロリと惚れちゃうよ」


 分厚い唇に片手を当てて笑うお福に、朱王は困ったような面持ちで小さく溜息をつく。


 「好きでこの顔に生まれたわけじゃないよ。この文を寄越した人とだって、一、二回挨拶した程度なんだ。それなのにこんな物を二度も三度も……全くいい迷惑だ」


 形の良い唇から生まれる文句、それを流し込むように手酌で注いだ酒を一気に飲み干す朱王を見て、海華とお福は顔を見合わせ小さく噴き出した。


 「確かにねぇ、生まれ持ったもんじゃぁどうしようもないもんねぇ。それじゃぁ、ごゆっくりしていってね」


 慰めるようにポン、と朱王の肩を叩いて奥へ引っ込むお福。海華は朱王の手から徳利を取り、彼にお酌を始める。注いでもらった酒を、今度はゆっくり口を付けた。


「そう臍を曲げないでさ、恋文押し付けられるのなんて毎度の事じゃない」


「まぁ、そうだな。ここひと月で何通渡されたか……。お前、きちんと処分してくれただろうな?」


「勿論。ちゃんと竈の焚き付けに使わせてもらったわ。だけど……兄様って本当、女泣かせだわよ」


 そう呟きつつ、海華は蕎麦を啜りだす。それから続く他愛もない会話。二人が店を出たのは、それから一刻ほどもたった頃だった。

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