第二話
立てつけの悪い戸口がガタガタと震え、『ただいま』と疲れを滲ませた女の声が室内に届く。鑿の動きを止めた朱王が戸口へ顔を向けたと同時、半分開いた戸の隙間から、冷たい夜風とともに赤い着物がヒラリと揺れた。
「今帰りました」
「あぁ、お帰り。今日は随分と遅かったな」
「えぇ、結構粘ってみたんだけど、全然ダメ。真夜中の山道か、ってくらい人が歩いていないのよ、もう嫌になっちゃうわ」
よほど落胆しているのだろう、はあぁ、と腹の底から息を吐き出し土間に置いた水瓶へと向かった海華は柄杓を手に取り水をすくい上げる。喉を鳴らして柄杓の水を飲み干す彼女を見ながら、朱王は軽く口角を上げた。
「そりゃそうだろう、気味の悪い人斬りがうろついているんだ、日が落ちりゃ、皆家に引っ込むさ。何も命掛けで酒を飲みに出歩くこともあるまい」
「そうねぇ……。本当、そいつのせいで、こっちは商売あがったりよ。早くお縄になってくれないかしら」
そう忌々しそうに吐き捨てて、柄杓を置いた海華は室内に上り込み背中の木箱を降ろすと、それを壁際に置いた鏡台の横へと押しやる。そんな彼女へ、鑿と人形の頭を手にした朱王が身体ごと振り返った。
「そうぶつくさ言っていないで、明日からはお前も早めに帰ってこい。奴は女子供見境なく殺すらしいからな」
「うん、わかったわ。夜道に長々立ってても、お客が来ないんじゃしょうがないから。まぁ、人斬りがお縄なるまでの辛抱よね」
『本当、嫌になっちゃうわ』そう最後に付け加えて、海華はわずかに頬を膨らませ、畳へ大の字に寝転ぶ。
その様子がひどく子供じみていて、朱王は思わず小さく噴き出してしまった。
「今頃、町方連中が血眼になって捜しているさ。それより、そんなところで寝るなよ、風邪をひくぞ。疲れているなら、早く寝ろ」
「はぁい……。じゃあ、あたし先に休むわね。兄様も、あまり遅くまで無理しないで」
再び机に向かってしまった朱王の背中にそう声を掛け、畳から身を起こした海華は、継ぎ接ぎだらけの枕屏風の向こうから、これまたあちこちに継ぎの当たる布団を引っ張り出す。『兄様』の言葉が示す通り、この二人は実の兄妹だ。
朱王は数えで二十九、海華は数えで二十三、人形師の兄と傀儡廻しの妹が上方を離れこの長屋に住みついてから、まだ十年は経っていないだろう。
二人の生まれは何処なのか、生みの親は誰なのか、そしてどんな経緯で今の生業につくことになったのか、それを詳しく知る者は、この長屋には誰一人としていない。
人形ひとつで大金を稼ぎ出せる朱王が、どうしてこんな貧乏長屋に住みついているのか? 答えは簡単、どこの誰とも知れぬ者を、そして素性のわからぬ二人をすんなり受け入れてくれたのがこの長屋の大家だけだった、ただそれだけである。
一見してヤクザ者ではない、どこか人を寄せ付けない冷たい雰囲気を醸し出す朱王は、深く他者と関わることを嫌う。
ゆえに他者と大きな揉め事を起こすわけでもない彼と、明るく社交性のある海華は、意外にスンナリとここでの暮らしに溶け込んだ。
遊女ですらも顔を赤らめる、男にしておくには勿体無い、人形なんかを作らせるより、男娼として傍にはべらせたい……等々、時には感嘆と羨望を、そして時には嘲りと蔑みを込めた目で見られる朱王は同業者の中でも人一倍目立つ存在だ。
本人の意に反して、彼の周りには常に人が集まりたがる。
が、妹である海華は兄とは正反対の女だった。
美貌を褒め称えられる兄とは違い、彼女は十人並み。
つまり美人でもなければ岡目でもない、平々凡々の容姿であり、朱王の妹だとは信じてもらえない事もしばしばである。
が、彼女には兄にはない太陽のような明るさと人好きのする笑顔を持つ、まさに天真爛漫を絵に描いたような女だった。
そんな彼女が安らかな眠りから目覚めた朝、頭上に広がる空には前日とは打って変わり鉛色の分厚い雲で覆われていた。
今にも大粒の雨が降り出しそうな天気である。外仕事の彼女は、身支度を整えて朝餉の支度をするために、井戸端へと走る。
朝も早くから忙しく働く彼女は、作業の合間にもいつ雨が降り出すか、と案じるような眼差しを天へと向けていたが、朱王は、天気の事など知った事かと言わんばかりに朝餉を終えるとすぐさま作業机向かい、作業に没頭し始めた。
海華が出掛けた事にも彼は気付いていない。机の前から一歩も動かず、人形の頭を彫る作業にのめり込む朱王。
一度集中してしまえば、時は早馬のように過ぎ去っていく。彫刻刀を操り始めてどのくらいの時間が経っただろう、カラカラ……と戸口が開く軽い響きを耳にして、朱王の手がピタリと止まった。
「どうした、何か忘れ物か?」
顔にかかる前髪を木屑だらけの手で掻き上げ、戸口の方を向いた朱王の視線の先には、あきれ果てた面持ちの海華が小さな竹の葉包みを持ち、土間に立っている。
「忘れ物って……もう、どうせこんなこったろうと思ったわ。兄様、あたしが出てから何時過ぎたと思ってるのよ? 世間様では、とっくにお昼になってんのよ?」
腰に両手をあて、心底呆れたという風に聞き返した海華はそのまま部屋に上がると、自分の目の前で怪訝な面持ちのまま小首をかしげる朱王に、手にしていた竹の葉包みを差し出した。
「これ、買ってきたから食べて」
差し出された包みを素直に手に取り、それを開くと、中には稲荷寿司が数個並んでいる。
茶色く煮しめた油揚げで包まれた酢飯、醤油の甘辛く香ばしい香りが鼻を擽った途端、朱王の腹の虫が低い悲鳴を上げた。
「言われてみれば……腹が減ったな」
「でしょう? 今お茶淹れるから」
さっそく寿司を一つ摘まむ朱王の横で、海華は茶の準備をしようと茶筒と鉄瓶を取り出す。てきぱきと茶の支度をしていく彼女の横顔を見ながら、朱王は米粒の付いた指先をペロリと舐めた。
「お前の分はないのか?」
「うん、あたしはもう食べてきたから、気にしないで」
「そうか。―― お前、これからまた出るんだろう? 一つ頼みごとがあるんだ」
そう言いながら朱王は背後を振り返り、作業机の引き出しから一枚の紙切れを引っ張り出して海華へと差し出す。
「悪いが、帰りに錦屋さんに行って反物を取ってきてくれ。それを、お駒さんの所へ」
「わかったわ。人形の着物ね、仕立て方はどうするの?」
「そこに書いてある。それをそのまま渡してくれ」
そう言いつつ、彼はまた一つ稲荷を口の放り込む。
錦屋とは、朱王が人形の衣装を選ぶ際、贔屓にしている反物屋であり、お駒はその反物から人形の衣装を仕立ててくれる、所謂『仕立て屋』だ。
「錦屋さんとお駒さんね、わかりました。それじゃ、あたしもう行くわね」
「ああ、気を付けてな。あまり遅くならないように帰ってこいよ」
自分に向かって茶を満たした湯呑を手渡し、紙切れを木箱にしまう海華は、慌ただしく土間へと降りる。その後ろ姿に一言掛けた朱王は、湯気の立つ茶を一口啜り、彼女の背中を見送りながら『たまには着物でも買ってやるか』と一人ごちた。
とっぷりと日が暮れた酉の刻、夜空に浮かぶ満月から放たれる月光も暗雲に飲み込まれ、その麗しい姿を潜ませる。
所々に立つ辻行燈が暖かな、それでいて眠たげな光を放つ以外に光源はない。
大きな柳が陰鬱に長い葉を揺らす川沿いの道を独り、急ぎ足で通り過ぎるのは、背中に大きな木箱を背負った女、傀儡廻しの海華だ。
彼女はある柳の傍で一度足を止め、漆黒に塗り潰された夜空を見上げて小さな溜息を吐く。
「やだ、こんなに遅くなっちゃった。兄様、きっと心配してるわね」
ポツリとこぼれた台詞は、音もなく闇に溶けていく。
本来ならば、今頃とっくに長屋の自室に戻っており、朱王と湯屋にでも行っていたはずである。
しかし、その予定は錦屋の暖簾をくぐった時から既に狂い始めていたのだ。
そもそも、彼女が錦屋を訪れたのは、まだ日のあるうちだった。
店先で彼女を迎えてくれたのは錦屋の女将、海華とも顔見知りである女将は、彼女を店の奥に上げ、朱王が依頼していた反物をすぐに出してくれた。
が、長かったのはそれからだ。
たまたま店が暇だったのだろう、女将は海華を茶菓でもてなし延々と世間話を始めたのである。
反物の話から歌舞伎の話、そして近所の噂話に亭主の愚痴等々、もとよりお喋りである女将の口は止まる事がない。
海華も話し相手をするのが嫌いな性質ではないゆえ、茶を飲み飲み、菓子を摘まんで話の聞き役に徹していた、そんなこんなでどのくらいの時間だ過ぎただろうか、ハッと気づいた時には既に、太陽は西の空に傾きかけていたのである。
これには海華も慌てて暇を請い、錦屋を飛び出して仕立て屋であるお駒のもとに走ったのだがそこでもまた、長話の罠に掛かってしまったのだ。
お駒は、海華が持ち込んだ反物と朱王から預かった紙を目にして、『これならすぐに仕上がるよ』と一言、せっせと手を動かしながら同時に口も動かした。
結果、人形の衣装はそう経たないうちに完成したのだが、海華は真っ暗な夜道を独り帰宅する事となったのである。
辻行燈の並ぶ川沿いをしばらく歩いた海華の足が、とある小路の前でピタリと止まった。
「ここから行けば近道だったわ」
そう独りごち、彼女は漆黒が口を開く小路の奥を見詰める。日中はよく利用する長屋への近道、夜は人気もなく、しかも明りもないそこは、普段ならば通らない、細く入り組んだ裏道である。
人がいない、明りがない、本来ならば今時分、好んで通りたくはない。道だが、今は一刻も早く長屋に帰りたかった。
「速足で行けば、大丈夫よね? 」
そう自分に言い聞かせるよう呟いた海華は、一度己の胸の前でギュッと両手を握り締め気持ちを落ち着かせるように、そして湧き上がる恐怖を誤魔化すように生唾を飲み下す。
彼女の足先が小道の方向へと向いたその時、墨をぶちまけたような闇夜を切り裂く絶叫が、彼女の鼓膜を劈いたのだ。
空気を震わす獣の咆哮、全身に鳥肌が立つような、骨の髄まで痺れるようなその絶叫に海華の方が小さく竦む。『うぉぉぉぉぉーーッッ!』と再び聞こえた絶叫に恐る恐る背後を振り返った海華、その尋常ではない叫びは今しがた、自分が来た方向から響いたのだ。
「なに……!? 今の、なんなの?」
思わず口からこぼれた独り言。闇から響く悲鳴に吸い寄せられるかのように、海華は今来た道を逆戻りする。
乾いた地面を蹴り、夜の闇を切り裂いて走る海華は、まるで蝋燭の明りに吸い寄せられる蛾のようだ。
息を切らせて走りに走り、やがて辻行燈の光がぼんやりと見えたと同時、悲鳴の主もその姿を現した。
ゆらゆら揺れる橙色の光、背の高い行燈の下で、一人の男が地面を這いずり回っているのだ。
よくよく目を凝らせば、その男が格子柄の着物を纏っている事がわかる。
壊れた絡繰り(からく)人形の如く歪な動きで手足をばたつかせる男、その周囲は、どす黒い「何か」が一面に広がっていた。
夜道で遭遇したあまりにも異様な光景に、海華は息を飲みその場に立ち尽くす。
暗い道を吹き抜け涼しい夜風が、胸が悪くなるような生臭い臭いを運び海華を包み込む。
海華は、その臭いに覚えがあった、そう、これは「人間の血潮」だ。
大きく目を見開き立ち尽くす海華の前で、男は何かから逃げるように闇夜と同じ黒の中を必死にもがく。
その時、辻行燈の陰が二つに割れ……いや、行燈の陰を裂くように一人の人影が現れた。
声も出せず、ただその影を見詰める海華、その黒曜石の瞳が映し出したもの、それは一匹の白狐だった。
足音も立てず姿を現した『白狐』は顔の部分に白い狐の面をかぶり、闇色の羽織袴を纏った、身体つきからしても男に間違いなかった。
手には血潮の滴る大刀を握り閉める狐は、まだ海華の存在に気が付いていないらしく、地面でのたうつ男に一歩、また一歩と近づいていく。
地面に広がる生臭くどす黒い血にまみれた男は、青白い口の端から白い泡を噴き、ひぃひぃと空気が漏れる音に似た呻きを上げながらも、この場から逃げ出そうと必死に四肢を蠢かす。
しかし、白狐はたった数歩で男に追いつき、まるで虫けらを踏み潰すが如くに男の背を思い切り踏み付けて、何の躊躇いもなく握り締めていた大刀を振り下ろしたのだ。
行燈の光に無慈悲な煌めきを放つ刀身、肉が裂け骨が砕ける鈍い衝撃。
切断面から噴水の如く血潮を迸らせて、男の首が毬よろしく宙を舞う。
血の池に倒れ込み、激しく痙攣を繰り返す首のない骸、格段と強くなる血の臭い、目の前で何が起きているかもわからないまま、海華の下肢から一気に力が抜けていく。
ガタンッッ! と背中の木箱が激しく地面にぶち当たる音が、その場の空気を一気に掻き乱した。
ほぼ同時に、大刀の血潮を振り払っていた白狐が、弾かれたように顔を上げ海華の方を振り向く。闇夜に光る金色の眼、紅が塗られた唇は耳まで裂けている。
白粉を塗りたくったように白い顔が、漆黒の舞台で不気味に浮き上がった。
「ひ……ひぃ、ッッ!」
乾いた唇の隙間から漏れたか細い悲鳴、手足はガクガク震え言うことを聞かない。
逃げたい、早く逃げなければ、しかし焦れば焦るほど、海華の身体はその場で無様に戦慄くだけだ。
その間にも、白狐はこちらに向かって歩みを進め、遂に海華の目の前に仁王立ちとなる。
爆発せんばかりに拍動する心臓、頭いっぱいに響く重い鼓動に意識を支配されそうになりながら、海華は化け物のように大きな影となって立ちはだかる白狐を見上げた。
「―― お前、見たな……?」
くぐもった、地の底から湧きあがる低い声色が頭上から降る。
「答えろ。見たか、と聞いておるのだ」
再び心までを凍らせる声で問われ、思わず海華はガクガク首を縦に振る。
もはや否定も命乞いの言葉も出てこない。ひどく素直に体が反応し、震える指は堅い地面を握るように引っ掻いた。
「そうか、見たのか。ならば……仕方あるまい」
そう一言呟いて、白狐は黄金の目で海華を睨んだまま手にしていた大刀を構える。
ガチャ、と鍔のなる不気味な音がした刹那、海華の目が張り裂けんばかりに見開かれた。
「女、間が悪かったな」
『恨むなら己を恨め』そんな捨て台詞とともに、大刀が真っ直ぐに振り上げられる。
鋭い刃が風を斬る響き、海華の視界が黒く染まった瞬間、『そこにいるのは誰だ!?』と、道の向こうから男の叫びが飛び込んでくる。白狐の手が、ピタリと止まった。
「誰だ……貴様ッ! そこで何をしているっ!」
再び響いた男の怒号、それに続いて、バタバタと大勢の人間が地面を掛ける足音が響く。
白狐は小さく舌打ちし素早く大刀を収めると、鈍色に光る眼で思い切り海華を睨み付けた。
「女、命拾いをしたな。だが……お前の顔は忘れぬぞ」
白い面が微かに歪む。
笑っている、そう海華が感じた時には既に白狐の姿は跡形もなく夜の闇に消え去っていた。