第二話
「ちょっと、── ちょっと志狼さん!」
突如頭上から響いた切迫する女の叫びに、志狼は慌てて顔を跳ね上げる。
見上げれば、真っ白な湯気の立つ湯飲みを二つ盆に乗せ、心配そうな面持ちでこちらを見下ろす海華と視線がかち合った。
「……大、丈夫? 気分でも悪いの?」
「いや……大丈夫だ。すまん、少し外の空気を吸いたくて」
「そう? それならいいけど……。身体冷やすと傷にひびくわよ?」
『もう中へ入ったら?』そんな海華の言葉に素直に頷き、志狼はよろめきながら立ち上がる。
然り気無く志狼の左側を支える海華の持つ盆から、ふわりと甘い香りが漂った。
「甘酒よ」
にこ、と小さく微笑みつつ海華が障子を開ける。
羽織っていた綿入れの前を掻き合わせ赤々と燃える火鉢の横へ胡座をかいた志狼へ海華が湯飲みを一つ渡す。
「……かなり生姜入れたな?」
「うん、身体が暖まるから」
自らも湯飲みを持ち、唇へあてがいながら、海華は火鉢の炭を火箸でつつく。
その横顔をじっと見詰めながら、志狼はそっと唇を開いた。
「海華……」
「なぁに?」
「いや……。あ、のお釜野郎はどうなったか、知ってるか?」
心にもない質問を口にしてしまい、気まずげに俯く志狼。
湯飲みを手のひらで包み、海華が無言のまま頷く。
「火盗が引き立てて、お裁きなしに鈴ヶ森で磔よ。頭領も、近いうちに修一郎様がお裁きを……。あ、そうだわ、あたしすっかり忘れてた!」
突然引っくり返った声を上げ、湯飲みを盆へ置いた海華は、おもむろに自らの懐をまさぐり出す。
そこから引っ張り出されたのは、あちこちにほつれの目立つ古い護り袋だった。
「これ、あいつに取られちゃったでしょ? 桐野様が、取り戻して下さったの。志狼さんに返しておいてくれ、って頼まれてたのよ遅れてごめんなさいね」
ちらりと赤い舌をのぞかせて、護り袋を差し出す海華。
まさか戻ってくるとは思っておらず、驚き半分嬉しさ半分でそれを受け取った志狼は、大切そうに右手でそれをしっかり握る。
「良かったわね、おっ母さんの形見だから……」
「ああ、良かった……。あのな海華、今からする話し、笑わないで聞いてくれるか?」
護り袋を見詰め、ぽつりとこぼす志狼へ海華は小首を傾げて見せる。
憂いを帯びた志狼の瞳に、古びた護り袋が小さく写り込んだ。
「うん、笑ったりなんかしない。約束する」
いつもと同じ、暖かな笑みを向ける海華。
知らず知らず、志狼の表情も柔らかなものに変わっていく。
「そうか。── 頭が変になったと思われたら困るから、一応、な。俺、父ちゃ……いや、親父とお袋に、会ったんだ……」
志狼の唇が紡ぐ台詞に海華は返す言葉も見付からない様子で、ただ真ん丸の瞳を更に丸くする。
二人の声が響かぬ室内で、赤く燃え盛る炭火が、ぱちりと小さく火の粉を舞わせた。
「あ、の……志狼さんごめんなさい、志狼さんのご両親って、確か……」
『亡くなっていたはず』その台詞を胸の奥に押し込めて、海華は志狼を凝視する。
多少の動揺はあるのだろう、海華の手から持っていた火箸がぽろりと落ちた。
「あ……いや、確かにどっちもとうの昔に死んでる。だから、夢だったと言われりゃ夢かもしれねぇ。── でも、確かに二人と話したんだ。お前の事を……」
一つ一つ言葉を選びながら志狼は両親との会話を海華へ話して聞かせる。
本当に夢だったのか、と志狼自身が戸惑うほど、あの会話は鮮明に思い出された。
志狼の口から語られる話しを黙ったまま聞き入っていた海華。
だが、ふと何かを思い出したかのように長い睫毛を震わせ、目を瞬かせる。
「── 待って、それじゃあ、あの時の声って……山を降りる時に聞こえたの。諦めるな、志狼のために立て。志狼を頼んだ、って……」
『たぶん親父だ』そう答えながら志狼は無意識に苦笑いを浮かべる。
海華に会った、その意味がやっとわかったのだ。
「親父に言われた。大事な者は死んでも守れ、ってな。俺も、そうしたいと思う。でも……こんな身体じゃ、お前を守れないかもしれねぇ」
三角巾で吊られた左腕を擦り、苦し気に呻く志狼。
悲痛な面持ちを見せる海華は、赤い唇をきつく噛み締める。
「ろくに仕事も出来ないんじゃいつまでも桐野様の所にもいられないだろう? それに、また伊賀や甲賀の連中に襲われるか知れねぇ。 ……今の俺じゃ、お前を守るなんて無理だ」
淡々と話し続けるうち、鼻の奥がツンと痛み出す。
情けなかった。
悔しかった。
しかし、これが現実、自分の力量不足なのだ。
これから訪れるであろう茨の道に海華を引き摺り込む訳にはいかない。
好きだから、愛しているからこそ諦めなければならなかった。
「今回の事も、お前を巻き込んで本当にすまないと思ってるんだ。俺なんかと一緒にいたら、また……」
「もういいわ。止めましょうよそんな話し」
志狼の言葉を遮って、冷めてしまった甘酒を一気に飲み下した海華は、困ったように眉根を寄せて志狼を見詰める。
「随分元気ないと思ってたら、そんな事を考えてたの? ねぇ志狼さん、あたし、志狼さんの左腕だけを 好きになった訳じゃない。腕が一本駄目になったからって、志狼さんの事、嫌いになんてなれないの」
にっこりと華やかな微笑みを見せて、志狼の右手をとる海華の指先は、微かに震えていた。
表情とは裏腹、心中は千々に乱れているだろう事は志狼にも容易に想像できる。
「片手だからって、お料理の味付けは出来るわ。お洗濯だって……他にも、出来る事はたくさんあるのよ? 出来ない所は、あたしが手伝う。あたしが、左腕の代わりになる、っ!」
痛いくらいに繋いだ手を握り、海華は声を詰まらせる。
徐々に潤み出す海華の瞳を見詰めたまま、志狼は頭の芯が痺れていくのを、はっきりと感じていた。
「志狼さんに、おんぶに抱っこで守ってもらおうなんて、思わない。伊賀や甲賀が来たら、二人で戦いましょう」
目尻からこぼれる光の雫。
音もなく瞳から転がり、紅い着物へ暗いシミを作り出すそれは、射し込む日の光に照らされて水晶の煌めきを放つ。
必死に嗚咽を噛み殺し、次の台詞を紡ごうとする海華の身体を志狼は唯一動く右腕で、力強く己の方へと抱き寄せた。
「本当に……本当に、俺でいいのか? まだ、考え直す時間はあるんだ。今なら……まだ間に合うんだぞ?」
「そんな時間いらない。考え直す必要なんてない……! 志狼さんの腕になるって、もう決めたんだから……!」
涙に濡れる顔を肩口に擦り付け両手で力一杯志狼の身体を抱き締める海華。
苦しいくらいの抱擁を受ける志狼の目尻からも、つぅっと一筋の雫が流れた。
「── もっと、こうしてりゃあ良かったな……」
志狼の唇からこぼれた台詞。
こうなる事がわかっていたなら、左腕が動くうちに、もっと海華を抱き締めておけばよかった。
もっと強く、飽きるほどに抱き締めておけばよかった……。
後悔先に立たずとはよく言ったもの。
今は、残された右腕で力の限り海華を抱き止める。
だが、一度死にかけた事を思えば今この瞬間、 自分は幸せなのだろう。
肩に当たる額、その前髪を掻き分けて滑らかな皮膚にそっと唇を近付ける。
……その時だった。
廊下の彼方から聞こえる数人の足音を、志狼と海華の鼓膜が捉える。
電光石火の勢い、磁石の同極が弾かれる勢いで、二人の身体が離れた。
『志狼さん入るぞ』そんな一言と共に障子が開き、顔を出したのは寒さに頬をうっすら赤らめた朱王だった。
「ああ、海華もここにいたのか、ちょうど良かった。志狼さん、雪乃様がお見舞いに来て下さったんだが……」
「な、なに、奥方様が? わかった、こんな成りじゃ失礼だな、着替えたらすぐ行く」
忙しなく視線を動かし、寝巻きの合わせを直す志狼の背後では、朱王と目も合わせない海華が、しきりに目元を擦っている。
どこかいつもとは違う雰囲気が流れる部屋。
朱王は小さく首を傾げた。
「二人共どうかしたのか? 海華、お前何を泣いてる?」
突然声を掛けられ、びくりと肩を跳ねさせた海華は弾かれるように朱王へ顔を向け、無理矢理な笑顔を作り出す。
「え? いや……ちょっと、ね。埃が目に入っちゃって……たいしたことないから、大丈夫」
「そうか……? ならいい。お前も早く来いよ」
怪訝な面持ちを崩さぬまま、朱王は障子を閉めると忙しない足音を立てながら、その場を離れて行く。
足音が遠ざかるのを確かめた後二人は顔を見合せ深々と溜め息をついた。
「心臓が止まるかと思ったぜ。とにかく、奥方様をお待たせしちゃ不味いな」
「そうね、今すぐ着替えの用意するわ。…… 話しの続きは、後でゆっくりね」
志狼へ背中を向けながら、ぽつりと呟いた台詞。
『何か言ったか』そう寝巻きを脱ぎながら聞き返す志狼へ、海華は無言のまま小さく首を横に振った。
鏡の如き満月が、降り積もる雪を煌々と照らし出す。
鼓膜が痛くなるほどに、しんと静まり返る冬の夜。
骨の髄まで凍り付く寒さを厚い冬布団でしのぎながら、志狼は今宵何度目かの寝返りをうつ。
昼間、見舞いに訪れたのは雪乃だけではない。
都筑と高橋、忠五郎に留吉等々……と、二人の身を心配し足を運ぶ者は少なくなかった。
皆の気持ちは本当に嬉しく思う、その反面、傷の癒えぬ身体にはいささか負担が掛かったようだ。
気だるい疲れに浸食される身体と頭。
うとうと微睡む志狼の顔を障子から射し込む白い月光が照らしてゆく。
その時、隣室から届いた『志狼さん』と自らを呼ぶ微かな声に、閉じていた瞼が一瞬で開く。
「志狼さん……志狼さん、もう寝ちゃった?」
「いや、まだ起きてる」
ぴたりと閉め切られた襖、日が暮れたら絶対開けてはならぬと修一郎からきつく申し渡されている、禁断の扉だ。
「よかった、昼間の続きを話したかったの。 …… そっち、行ってもいい?」
襖一枚隔てて響く海華の声。
志狼の心臓が、一度大きく跳ね上がる。
「いいのか? 朱王さんや修一郎様に知れたら……」
「今だけは……二人の秘密にすればいいじゃない? 見ている人なんて誰もいやしないわ」
小さな笑いを交えた台詞に志狼の唇も思わず綻ぶ。
約束を破るのは気が引けるが……やましい事をするつもりは毛頭ないのだ。
「── 少しだけだぞ」
「わかってるわよ」
するすると音を立てずに襖を開く海華は、寝巻きの上に綿入れを纏い、滑るように室内へ入る。
布団から身を起こした志狼は、瞬時に全身を包む冷気に、ぶるりと大きく身震いした。
「風邪ひかないでね」
そう言いながら志狼の背中に綿入れを掛ける海華は冷たい畳にちょこんと正座し、膝の上へ両手を揃えた。
「昼間の話し、ね……。志狼さん、本当にあたしでいいの?」
不安げな色をにじませる瞳。
海華が何を言いたいのか、志狼には皆目見当がつかない。
「あたしでいいの、って……お前、何を言って……」
「だって……志狼さんには、これから、もっと素敵な人が見付かるかもしれないのよ? あたしより美人で、優しくて……もっともっと志狼さんに相応しい人が……だから、今あたしを選んで本当にいいの? 後悔、しない?」
時折言葉を詰まらせつつ、一気に喋り切る海華を、志狼は呆気にとられた様子で見詰める。
が、次の瞬間、深い溜め息と共に右手がわしわしと癖毛を掻き乱した。
「あぁ、確かにな。お前より美人で優しい女なら星の数ほどいるだろうぜ」
自分から視線を反らす志狼を前に、沈痛な表情の海華は己の膝先をじっと見る。
と、その右頬に志狼の手が添えられ半ば強引に正面を向かされる。
冷たく輝く月光の矢が、畳を斜めに切り裂いた。
「── 命懸けて俺を守ってくれた女は、お袋と海華、お前だけだ。俺が心底惚れた女は、今もこれからも……海華、お前だけなんだ」
噛んで含めるように、ゆっくりと闇に溶ける志狼の声。
真摯に、真っ直ぐに心の奥底へ染み込む台詞に嘘偽りはない。
黒曜石に似た瞳を見開き、何か言いたげに震える唇を、志狼は親指の腹でそっと撫でる。
「お前が生きて、旦那様達を呼んでくれたから俺も今、生きていられる。……お前『で』いい、んじゃない。お前『が』いいんだ」
昼間同様に片手で抱きすくめられて、海華の頬が桜色に染まる。
未だ痣が浮んでいるであろう胸板と柔らかな乳房を通して、嵐の如く激しい互いの鼓動が重なった。
「海華……俺、たいした稼ぎも能もないからさ、お前にゃ、贅沢なんてさせてやれないぜ?」
艶やかな黒髪に鼻先を埋め、感極まった声色で志狼は呟く。
身体全体で感じる相手の体温と、命の拍動に海華はうっとりとその目を閉じた。
「貧乏暮らしは、慣れてるわ」
「── 毎日こき使うかもしれねぇぞ?」
「体動かすの、大好きなのよ」
海華の背に回された志狼の右腕が微かに震える。
「幸せに……出来るかどうかはわからねぇ ……。でも、一生大事にする。それだけは、それだけは約束する……。それでよかったら……」
『俺と一緒になってくれ』
耳許で熱っぽく告げられる結婚の申し込み。
志狼の寝巻きをきつく握り締める海華は、トロンと蕩けた眼差しを頬を紅潮させる志狼の顔へ送る。
「あたしでいいなら……喜んで」
「さっきも言ったろ? お前がいい、お前でなきゃ嫌なんだ」
柔らかい猫っ毛を撫で、額同士をコツリと合わせて穏やかな笑みを見せる志狼につられ、海華もにこりと照れ臭さそうに微笑む。
その時、志狼の右手が再度、頬に添えられた。
「それでな、海華……。洞窟の続き、したいんだが……駄目か、な?」
遠慮がちに呟かれた志狼の言葉に、今度は海華が不思議そうな面持ちで小首を傾げてみせる。
正直、あの洞窟での事は記憶が曖昧なのだ。
「ごめんなさい、続きって……何の、かしら?」
「その……お前が、騙し討ちみたいって、言ってたやつ、だ」
そう言われた途端、海華はみるみるうちに耳まで赤くなりぐっと口をつぐんでしまう。
「やっぱり、駄目か?」
「── 駄目、じゃないよ……。だって、もう一度して、って言ったの、あたしだから」
潤んだ目で真っ直ぐに見詰められ、激しい鼓動が胸を突き破らんばかり、より激しくなる。
静寂に包まれた空間で感じるのは互いの息遣いと怒濤の如き脈動だけ。
志狼の身体が微かに動いた瞬間反射的に目を閉じる海華。
畳に映る二つの影が一つに重なり唇に触れる暖かで、柔らかな感触に思考が白く変わる。
海華の両手は、すがるように志狼の寝巻きを強く掴んでいた。
洞窟の時よりも深く、長く交わった唇が離れ、海華の身体が志狼の胸へ力なく崩れおつ。
熱にうかされた瞳を瞬かせる海華の頭を撫で、志狼はしなやかなその身をもう一度、強く強く抱き締めた。




