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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十二話 無垢なる想い
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第一話

 「── ねぇ志狼さん、寒くない?」


 横たわる志狼の掛け布団を肩口まで引き上げ、海華が静かに問い掛ける。

しかし、青白い顔で眠り続ける志狼から返る言葉はなかった。

満身創痍を具現化したような、まさに屍の如き志狼が小石川に運ばれてきた時、海華はすぐに対面させてもらえなかった。

今となれば、朱王や伽南が頑なに自分を引き留めたのか、その理由がわかる気がした。


 顔や身体の至る所を真っ白な包帯と皮膚に浮かぶどす黒い模様で飾り立て、虫の息の志狼と対面した時、気が狂ったかと思われるほどに泣き叫び、なだめるのが一苦労だったと海華は朱王から聞かされていたが、その時の記憶は曖昧なのだ。


 今はただ、志狼が一日でも早く目を覚ましてくれるのを信じて待つだけ。

幸い、清蘭や妻のお藤は海華がここに留まる事を許してくれた。

自らが受けた傷を癒しながら、志狼の手当てを手伝って、海華はこの数日を過ごしていた。

朱王や桐野、そして修一郎は毎日様子を見に来てくれる。

志狼は大丈夫だと励ましてくれる。

自分ばかり泣いてはいられない、気を強くもたなければ……。

そんな考えが日々心の内をしめていき、海華の目から涙は消えた。


 弱音一つこぼさず、答えの返らぬ志狼へ毎日毎日話し掛け、甲斐甲斐しく世話をする海華の姿は頼もしくもあり、同時に痛々しく朱王らの目に映る。

今、どんな慰めの言葉をかけても、それは陳腐に響くだけ。

ただ、希望を失わぬよう励ますしか朱王らにはできないのだ。


 「ねぇ志狼さん、あたしの首……だいぶ良くなったって、清蘭先生が仰ってたわ。次は…… 志狼さんの腕、治す番ね」


 ざんばらにほどいた志狼の肩まである髪を撫でながら、海華は唇を動かし続ける。

閉じたままの瞼はぴくりとも動かない。


 「腕……必ず元通りになるわ。動くようになるから……だから、早く起きなきゃ駄目よ?」


 幼い子供に語り掛けるような優しい口調。

痩けてしまった志狼の頬、うっすらと固い髭が 生えた頬を撫で、海華は日の光が射し込む障子へ視線を向ける。

冷たく煌めく冬の陽光が優しく網膜を撫で、海華の睫毛を柔らかな光が包んだ……。






 押し寄せる眩いばかりの光の激流。

上も下もわからぬ世界に放り出された身体が、くるくると虚無の世界を墜ちてゆく。

訳もわからぬ恐ろしさと動揺に固く固く瞑った瞼を恐る恐る開いた途端、志狼の全身を痛いくらいの閃光と、鼓膜を震わす音の大波が飲み込んでゆく。


 頬を撫でる暖かく、若葉の香りを纏う穏やかな風。

次々と耳に飛び込む人々の賑やかな談笑、人混みの喧騒……。

燦々と太陽の光が降り注ぎ武士や商人、その他数多の人々でごった返す、白昼の大通り。

その真ん中にぽつんと佇む志狼の姿が、そこにあった。

自分が立っている場所がどこかわからず、志狼はしばし呆然と佇む。


 ここはどこだ? 一体、いつの間に……?

混乱する頭をぐるぐる駆け回る疑問の数々。

動揺を隠しきれず、辺りを見回す志狼は視界に広がる風景にふと懐かしさを感じた。


 左右に建ち並ぶのは、色とりどりの暖簾を揺らす商家。

緩やかに曲がる道、その先には、大川に掛かる古びた橋があり、反対側には大きな湯屋があったはず……。 そして、湯屋を過ぎてすぐの小路を更に進んだ所には……。


 「ああ……、ここは……」


 混乱した頭が自然と弾き出した答え、それは笑ってしまうほど簡単なものだった。

どうしてすぐに気が付かなかったのだろう。

自分が、産まれ育った場所だというのに。

七つで親を殺されて、この街を飛び出した。

以来、一度も訪れた事がなかった場所。

幼かったあの頃と、何一つ変わっていないこの場所。

無意識に、志狼の足は地を蹴って前へと進む。


 自分の原点となる場所へ。

湯屋を過ぎ、小路を抜けた先にあるごちゃごちゃと軒が連なる貧乏長屋。

人一人がやっと通れるくらいの道を行き、崩れ掛けた長屋の更に奥隠れるように作られた部屋の前でその足はぴたりと止まった。


 井戸の近くだからか、いつもじめじめ湿る足元、よれて黄ばんだ障子紙、縦横無尽にひびが走る埃で汚れた土壁、全てがあの時のまま。

震える手が、そっと戸口にかかり耳障りな音を立てて軋む戸口が、ゆっくりゆっくり開かれる。


 六畳と少しあるかないかの狭い部屋、その中から自分へ向けられる二つの視線。

その視線の主が誰かわかった刹那志狼の口から声にならない叫びが迸る。

箪笥や長持ち、台所道具などの生活用品が雑多に置かれた微かにかび臭い室内には、一組の男女の姿があった。


 「志狼……? 志狼なの? 大きくなって……」


 ちょうど志狼の真っ正面、壁を背にして煎餅布団の上に正座していた女が掠れた声で志狼の名を呼ぶ。 つぎはぎの当たる粗末な着物を纏う女は、長い髪を結い上げもせずそのまま背中へ流し、青白く血色の悪い丸顔を笑みの形に変える。

そのすぐ近くでは、船着き場で働く荷揚げ人らしき紺色の仕事着を身に纏った浅黒い男が古畳へ胡座をかき、無言のままで志狼を鋭い目付きで睨み据えた。


 「父、ちゃん……母ちゃ、ん……っ!」


 からからに渇き、粘りつく舌がやっと紡ぎ出した台詞。

にこ、と微笑みを返す女とは正反対に男は渋い面持ちを崩さず、ぐいと志狼を顎でさす。


 「いい加減に戸を閉めろ。…… おっと、お前ぇはそこだ、黙って立ってろ」


 男の指示に目を白黒させ、あたふたと戸口を閉めた志狼。

再び振り向いた時、男は隣にあった煙草盆から煙管をとり、煙草を詰めている最中だった。


 「ど、して……どうして、父ちゃんと母ちゃんが……!」


 「どうしてもなにも、俺達は元からここにいるぞ」


 あっさりとそう答え、男は煙管をくわえて深々と紫煙を吸い込む。

辺りに広がる苦い煙草の煙が、志狼の鼻を掠めていった。


 「元からって……そんな、だって父ちゃんと母ちゃんは……」


 『殺されたんだ』そう叫ぼうとして、志狼は 咄嗟に口をつぐむ。

もしや、両親が死んだというのは自分の勘違いであり、本当は生きていたのではないか?

そして、ずっとこの部屋で平穏に暮らしていたのではないか……?

不意に頭をもたげた小さな疑問。

そんな心の内を読んだかのように、男は煙管を煙草盆へと置き、志狼とよく似た癖のある束ね髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。


 「── なぁ、志狼。お前ぇ、またここで、俺達と暮らしてぇか?」


 「え、っ……?」


 うまく整理が出来ていない所へ投げられた質問に、志狼は驚きに見開いていた目を何度か瞬かせる。

しかし男は平然とした様子で、再び『俺達と暮らしてぇか?』と同じ質問を繰り返した。

即座には答えられなかった。

長年死んだとばかり思っていた実の両親が、今目の前にいる。

共に暮らしたい、また、以前と同じ親子三人で穏やかな生活を送りたい……。


 実の子ならば、そう思って当たり前だ。

我儘ではない、叶わぬ想いでもない……。

志狼の両手が、固く固く握り締められた。


 「俺は……俺……また、父ちゃん達と……」


 「そうか、ここにいてぇか。それなら……あのが泣くが仕方無ぇな」


 煙管を玩ぶ男の口から漏れた『あの娘』という一言に、志狼の目元がぴくりと引き攣る。


 「あの娘って、海華の事か?」


 「ああ、海華って名なのか」


 「父ちゃん、海華に会ったのか?」


 「会った……と言われりゃ会った、か。少しばかり話しもした」


 再び煙管を口にする男を、傍らに座る女がちらちらと見遣る。


 「それなら……なんで、俺がここで暮らすとあいつに会えなくなるんだ? 俺、あいつと……」


「そりゃあ出来ねぇ話しだな。ここにいてぇなら、あの娘の事は諦めろ。今までの全てを捨てていいなら、ここに残れ。……決めるのは、手前ぇだ」


 きっぱりと言い切る男は、ふいと顔を背けて薄い唇から白い煙を吐き出す。

言われている意味が、さっぱりわからない。

父は海華が気に食わないのだろうか? どうにか考え直してもらいたい、必死の思いで助けを求めるよう に女へ視線を向ける志狼。

静かな笑みをたたえる女は、志狼へ向かい無言で首を横に振った。


 「志狼、ここは……そういう所なの。迷いがあるなら、悪いことは言わない。その娘の所へお帰りなさい」


 静かに、本当に静かに語られる台詞。

志狼は全てを理解した。

やはり、両親は黄泉の住人となっていたのだ、と……。


 「…… どうだ、やっとわかったか?」


 言葉を紡ぐ事も出来ず、ただ魂が抜けたかのように立ち尽くす志狼へ男が再び鋭い視線を向ける。


 「あの娘の所に帰るか、俺達といるか、お前が選べ」


 有無を言わせない厳しい口調で告げた男は、かん! と強く煙管を煙草盆へ打ち付ける。

苦い香りが揺蕩たう部屋、一瞬の静寂が三人を包む。

志狼が、ごくりと生唾を飲み下した。


 「俺……あいつの事、置いて逝けねぇ……。 約束したんだ、一緒に帰るって。だから……」


 「なら、さっさと帰るこったな。女待たせるなんざ、最低の奴がやるこった」


 事も無げに言い放ち、男はちらりと女を見る。


 「父ちゃん……母ちゃん、すまねぇ。 俺……」


 「貴方が謝る事なんて、何もないわ。それより、私達のせいで……貴方には辛い思いばかり」


 ふっ、と悲しげに顔を歪め俯いてしまう女へ、志狼は慌てて首を振り無理矢理な笑みを作って見せた。


 「そんな事ない! 俺、父ちゃんと母ちゃんの子供で、幸せだ。だから、そんな顔しねぇでくれ。── 会えて、よかった」


 そう言いつつ、白い歯を覗かせる志狼と同じ表情を作りつつ、男は胡座を組み直す。


 「達者で暮らせ。── ほら、早く行かねぇと、あの娘、別の男に盗られるぜ?」


 「そりゃあ大丈夫だ、あいつが俺を放り出して他の男に走るはずねぇよ」


 「へぇ、そりゃ大した自信じゃねぇか? 自惚れにならなきゃいいがな。……さぁ、行け! 早く行って……安心させてやれ。俺の二の舞になるな、大事なもんは、死んでも守れ」


 真っ直ぐにこちらを見詰める男と女の視線は力強く、そしてどこまでも暖かい。

『おう!』と短い返事を残し、踵を返した志狼は勢いを付けて戸口を跳ね開ける。

途端に襲う、眩いばかりの光の洪水。

目も眩む真っ白な光に包まれ、志狼はきつくきつくその目を閉じた……。






 力無く投げ出されていた右腕、その指が、痛いくらいに海華の手を握り締める。

突然の出来事に、海華の全身を電流が貫いた。

慌てて志狼の顔を覗き込めば、青白い瞼が数度痙攣を起こし、ゆっくり、ゆっくりその目が開く。

幾日ぶりに現れた漆黒の瞳は、虚ろな光を放ち視線は弱々しく宙をさ迷った。


 「し、ろ……さん? 志狼さん……っ! 起きたのね! やっと……起きてくれたのね!」


 歓喜の悲鳴を上げる海華、未だに夢現をさ迷う眼差しの志狼は、全身から生まれる鈍痛に顔をしかめつつ、乾いた唇を懸命に蠢かす。


 「みは……な? お前、無事……だった、 か? ここは……」


 「小石川よ。清蘭先生の所。もう大丈夫…… あたし達、助かったのよ」


 声を震わせ、強く志狼の手を握る海華の瞳から、白玉の涙が次々にこぼれて敷布に落ちる。

悲しみの涙ではない、喜びからあふれるそれは止まる所を知らなかった。


 「今、先生呼んでくるわ。桐野様も、呼んでくるから!」


 志狼の手を一度離し、よろめきながらその場を立った海華は清蘭と桐野を大声で呼びながら脱兎の如く走り去る。

身体に感じる振動と海華の叫び声を聞きながら、志狼は痛みを耐えるよう強く奥歯を噛み締める。

ぼんやりとぼやける視界の中、天井を見詰める志狼、その頭に『大事な者は、死んでも守れ』と、最後に父から授かった言葉が何度も何度も甦り、無意識だろう、海華の温もりが残る右手が握り締められていた。






 志狼が意識を取り戻した、そう海華からの一報を受け、療養所は歓喜の色に染め上げられる。

はりつめていた気持ちの糸が、安堵により切れたのだろう、桐野は海華同様喜びの涙に咽び、朱王と修一郎も狂喜乱舞せんばかり。

重症に変わりはないが、一命はとりとめた志狼はしばらく小石川に滞在し傷の治療に専念する事となった。

が、そこからが問題だった。

海華も一緒に泊まり込むと言ってきかないのだ。

桐野の元に帰るまで面倒を見ると言い出した海華、その願いは清蘭にあっさり聞き入れられたが、朱王と修一郎は別だ。


 自分達の目が届かないこの場所で何かあったらどうする、と鼻息を荒くする修一郎に、こんな状態で何が出来るか! と桐野の雷が落ち、結局は朱王も首を縦に振らざるを得なかった。

勿論部屋は別々、夜は絶対互いの部屋を行き来しないこと、これが修一郎と朱王の出した条件だ。


 治療の山場、外れた左肩も志狼ですら激痛に悲鳴を上げる清蘭の荒治療で何とか元に戻った。

しかし、状態は皆の想像以上に深刻だった。


 左腕が、全く動かせないのだ。


 動かせないだけではない、肩から指先にかけて強い痺れが残り、熱いも冷たいも、触られている事すら感じない。

力も入らず、だらりと垂れ下がる腕を支えるためには三角巾で腕を吊るしか方法はなかった。

どうにかならないのか、治療方はないのかと詰め寄る桐野に、清蘭は申し訳なさそうにこう答えた。


 『腱や筋が切れているか、傷んでいるかのどちらかです。このまま動かないか、動くようになるかは、全くわからないのです』と。


 治療方法と言えば筋肉や筋が固まらぬよう、毎日揉みほぐすのみ。

対処療法しかない。

突き付けられた現実は、あまりに残酷なもの。

桐野は酷く落胆し、修一郎や朱王が慰めの言葉を掛けるのも躊躇われるほどだ。

志狼と言えば、最早悲しみの涙も出ないほどに意気消沈し、ただぼんやりと動かぬ左腕を擦る毎日が続く。


 ともすれば折れてしまいそうな心。

今の志狼には、海華の存在が唯一の光だった。


 いつも朗らかな笑みを絶やさず不自由な身となった自分を献身的に看護してくれる。

冷たく硬くなった左腕を、就寝前に毎日揉みほぐしてくれるのも、彼女だった。

海華が支えてくれるから、絶望のどん底に墜ちて行かずにいる。

今の自分にとって、いや、これからずっと、海華はかけ換えのない大切な存在なのだろう。


 だが、そう思えば思うほど志狼の心をある一つの疑問が侵食していく。

こんな身体となった自分に、海華をめとる資格があるのだろうか?


 この先、腕が治る保証はどこにもない。

桐野は、何も案ずるなと言ってはくれる、しかし家事も何も満足に出来ない状態で、いつまでも居座るなど考えられない、そこまで甘える事は許されない。


 まともに働けもしないだろう自分が、海華を幸せに出来る筈がない、まして、朱王や修一郎が許してくれる筈がない……。


 胸の奥底に重く渦巻く苦悩と不安、形の見えないそれに押し潰されそうになりながら、冷たい縁側に座り込む志狼は痛みを感じぬ左腕に爪を立てる。

吹き抜ける寒風に曝される身体を小さく丸め、抱えた膝に顔を埋める志狼。

さらさらと舞い上がる粉雪が、志狼の黒髪の一部を白く彩り、跡形もなく消えていった。


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