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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十一章 窮月の襲撃者
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第七話

 春勝の一言で、その場の空気が一気に動き出す。

そう、ここでぐずぐすしている時間は残されていない、今や一刻の猶予もない状態なのだ。


 「春勝の申す通りだ、また雪でも降ろうものなら足跡が消えてしまう」


 雪原にしゃがんだままの朱王を引き立たせ、桐野は点々と続く海華の足跡を目で追う。

沈黙を貫いたまま、全員の足は自然とその後を追い掛けていた。


 東方から放たれた透明な光が白銀の刃と化して洞窟内へ突き刺さる。

冷たい岩壁に背を凭れさせていた妲姫は、その氷の如き冷たく澄みきった両目をゆっくりと開いた。


 「残念……戻ってこられなかったねぇ」


 艶めいた唇から白い吐息と共にこぼれた呟き。

静かに後方を振り替える、その先には十数人はいるだろうか、黒装束に身をかためた男らが手に手に大刀な脇差し、あいくち等々を手に控えている。


 黒頭巾から唯一覗く瞳はぎらぎらと不気味な光を宿し、肌に刺さるかと思われる鋭い眼差しを一身に受けながらも、妲姫は身震いするほど妖艶な笑みを浮かべた。


 「あの男は、どうしてる?」


 「ぶっ倒れたまんまでさ。息はしているようですがね。……ありゃあ、もう長くはないかと」


 先刻妲姫に耳打ちをした年かさの男が真っ先に口を開く。

彼の答えに満足げに頷き、妲姫は足音一つ立てずに男らの間を抜け洞窟の最奥にある竹格子へと歩を進めた。

骨身にしみる冷気が充満するそこに、ぐったりと横たわる人の残骸……そうとしか形容のできない志狼の姿がある。

顔色は死人のような土気色、途切れ途切れに弱々しい息を吐く唇は黒い血があちこちにこびりついていた。


 指先一つ動かす気力も体力もないのだろう、端から見れば死人そのものの志狼を見下ろし 妲姫は不意に眉根を寄せる。


 「志狼さん、残念だけど、あのは戻ってこなかったよ。もう夜が明けちまった。…… って、もう聞こえていないかねぇ?」


 圧し殺した笑みが壁に反響する。

まばたき一つしない、半開きになった志狼の目は虚ろな光を宿したまま、ぼんやりと天井の一点を見続ける。

乾いた唇から、ふっ、と一筋の白い息が漏れた。


 このまま放っておけば、確実に黄泉の国の住人となるであろう志狼に、妲姫は余り関心はないようだ。 軽く舌打ちをした後、くるりと踵を返す、その時だった。


 「妲姫様っ! 妲姫様……!てぇへんだっ!」


 洞窟の入口、たった今妲姫が来た方向から黒装束が一人、足を縺れさせつつ駆け込んでくる。

妲姫の眉間に微かな皺が刻まれた。


 「なんだい、騒々しいね」


 胸の前で腕組みし、荒い息をつく男を不機嫌 うに見下す妲姫へ、男はしきりに入口の方向を指差す。


 「外っ……! 外に、火盗の奴らがっ!」


 目を白黒させながら叫ぶ男。

その台詞を聞いた途端、妲姫の顔がみるみるうちに紅潮していく。

動揺し続ける男を力一杯突き飛ばし、入口へ走る妲姫。


そこへ群がる男らを押し退け、入口から顔を突き出した妲姫が目にしたもの、それは蟻の群れの如く洞窟へ向かってくる、火の消えた『火盗』の提灯を携えた簔笠姿のたくさんの侍達の姿だった。


 「あの女……っ! まさか、火盗の連中を呼んでくるなんて……っ!」


 ぎりぎり奥歯を噛み締める妲姫の口から し殺した呻きが漏れる。

地面からこの洞窟までかなり距離はあるが、既に侍達は斜面に足を掛け続々とこちらへ向かっている。

ここに到達するのにそう時間は掛からない、そう判断した妲姫の行動は実に素早いものだった。


 「何をぼんやり眺めているんだい! さっさと迎え撃たないかっ! 雪山に不馴れな火盗の連中なんざ恐れるに足りないよっ!」


 『ここで全員血祭りだ!』


 はりつめた空気を震わせる妲姫の一喝と共に、手に手に鈍色に光る凶器を握る黒装束が洞 窟から一斉に飛び出す。

膝まで埋まる雪山の中腹で賊一味を迎え撃つ侍らの口から、獅子にも似た咆哮が放たれた。


 「来たぞっ! 手加減などするなっ! 刃向かう者は斬り捨てろ──っっ!」


 鷹取の口から小さな体躯に似合わぬ怒号が迸る。

野太い男の彷徨が響き渡る一面の雪野原。

陽光を跳ね返す朱王の刀身が一陣の風と化し、襲い掛かる黒装束を一刀両断の元に斬り捨てた。

踏み荒らされた純白に飛び散る目にも鮮やかな鮮血、鼓膜を突き破らんばかりの絶叫、悲鳴があちこちて炸裂する。


 清らかなる世界で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図。

鮮やかな太刀捌きで賊を次々と骸に変えてゆく朱王と桐野の隣では修一郎の太刀が黒頭巾をかぶる頭を勢いよく撥ね飛ばす。


 累々と横たわる命亡き死骸に変わる賊と侍。

返り血を浴び、胸元や肩を赤く染めた修一郎と桐野、そして朱王がやっと洞窟の入口へ辿り着いた時だった。


「お寒い中をご苦労様でしたねぇ」


 暗がりから聞こえる、ねっとりと耳に絡み付く声色。

白日の世界から一転、薄闇に包まれるそこで目をこらす三人の前に現れたのは、溜め息が出るほど艶っぽい、絶世の美人だった。

花のかんばせ、たおやかな柳腰の麗 人。 しかし、その手には闇の中にあってもなお、鋭 い輝きを放つ凶刃が握られ、その切っ先は首にぐるりと腕を回され無理矢理引き立たせられている志狼の首筋に突き付けられていた。


 数日前とは全く違う、余りにも変わり果ててしまった志狼の姿に三人は言葉も出せず、呆然と立ち尽くす。


 「あたしは、頭領を帰せ、と申したはずですがねぇ? 余計な真似をすると……」


 淡々とした台詞と共に煌めく白刃が、すっ、と志狼の首筋を滑る。

刃を追うように滲む血潮、苦痛に小さく歪む志狼の顔を目にした瞬間、桐野の口から『やめろっ!』と悲鳴じみた叫びが飛ぶ。


 「志狼を離せ……! 貴様、この期に及んで逃げおおせると思うてかっ! 今すぐ、今すぐ志狼を……」


 「それはこっちの台詞でございますよ! いいかいお侍様、あたしをお縄に出来るのは、この死に損ないの首が飛んだ時だけなんですよ!」


 勝ち誇った面持ちで吐き捨てる妲姫の黒髪が、射し込む陽光に美しい艶を放つ。

そんな妲姫とは正反対、襤褸雑巾の如き有り様の志狼はダラリと垂れ下がる左腕を、力なく寒風に揺らせた。


 「この男を生かしておきたいなら、今すぐにここから離れるこった。今度は、こっちの言う事素直に聞いて、さっさとうちの頭領を……」


 その先の台詞は、妲姫の口から音となって生まれる事は永久になかった。

どすっ! と重い皮袋を打ちのめす鈍い打撃音が、その場にいる全員の鼓膜を震わせると同時、風に吹かれる柳よろしく妲姫の体が前のめりに揺らぐ。


 一瞬光を失う妲姫の瞳。

その横では、今まで伏せていた目をいっぱいに見開き、力一杯歯を食い縛る志狼の姿があった。

前方に傾ぐ妲姫の身体。

その鳩尾には志狼の右肘が深々と突き刺さる。

一瞬の永遠、目の前で起こる出来事に三人は身動き一つできないでいた。


 「こっ、の……! くたばり損ないが ──っっ!」


 瞬時に体勢を立て直した妲姫の白刃が、力なく崩れ落ちる志狼の右腕に深紅の線を刻み込む。

岩壁に散る赤、引き攣った志狼の悲鳴。

血にまみれた身体が地に打ち付けられるのと、太刀を振りかざす桐野が飛び出すのは、ほぼ同時だった。

怒りに表情を歪め、腹の底から雄叫びを張り上げる桐野の刃が妲姫の短刀を鋭い金属音と共に宙へ飛ばす。


 しかし、しなやかな身のこなしで白刃を避けた妲姫の強烈な回し蹴りを胸に受け、桐野の身体は人形のように軽々と岩壁へ叩き付けられた。

激しく揺れる世界。

叫ぶ暇すら与えられず、朱王と修一郎が太刀を振るう。


 銀の軌跡を描き空気を裂く冷たい刃。

二人から繰り出される攻撃を易々かわす妲姫の鋭く研がれた爪が、修一郎の頬を掠める。

小さな呻きを上げ、思わず顔を押さえた修一郎へ膝蹴りを一発食らわせ、妲姫の瞳は早くも朱王を捕らえていた。


 「振り回してるのは玩具かい! どいつもこいつも、骨がないったら!」


 岩の如く握り締めた拳を次々撃ち込まれ、朱王のこめかみから一筋の汗が流れる。

壁際には桐野、足元には修一郎と志狼が倒れ、足場は雪と氷にまみれていた。

最悪な環境、しかし逃げ出す訳にはいかない。

かぶったままの笠を撥ね飛ばし、黒髪をたなびかせる朱王の喉が、ひゅっ!と鋭い笛の音を立てた。


 上段の構えから一気に斬り込む朱王の刀を横に避けた妲姫の正拳が、骨を砕く勢いで朱王の胸元を狙う。

どん! と鈍い音を立て、鎖骨のすぐ下にめり込む拳。

身体を震わす衝撃と痛みに意識を明滅させながらも、朱王は瞬時により高く刀を掲げ、柄尻の部分で妲姫の首筋を渾身の力を込めて打ち付ける。


 ぐっ! と空気を飲む気配と共に揺らぐ身体。

とどめとばかりに盆の窪に峰打ちを喰らわせて、全てが終わった。


 虚ろな目を見開いたまま、冷たい地に勢いをつけて倒れ伏す妲姫と、痛みに顔を歪め、その場に片膝をつく朱王。

早鐘を打ち鳴らす心臓を何とか鎮め、打たれた部分を押さえながら辺りを見回せば、桐野と修 一 郎は呻きつつもその場から起き上がろうともがいている。


 朱王が真っ先に駆け寄ったのは傍らに倒れたままの志狼の元だった。


 「志狼……! 志狼さん、っ!起きろ……起きろっ! 大丈夫かっ!」


 冷たい身体を力一杯揺さぶれば、夢を見ているように揺れる朦朧とした瞳が朱王に向けられる。


 「す、お……さ。海華……海華が……海華、を……助けて」


 戦慄く右手で朱王の羽織を握り海華、海華と繰り返す志狼の瞳から、玉の涙が次々とこぼれる。

そんな志狼の手をきつく握り返しながら、朱王は『海華は無事だ!』と絶叫にも似た叫びを張り上げた。


 「海華は無事だ! 生きている……生きているんだっ!」


 頭上で響く朱王の叫びに志狼の顔が小さく歪む。

痛みのためではない、志狼は、笑っているのだ。


 「いき、て……る? そう、か……よか、 た……よか、った、ぁぁ……」


 涙と笑いを含ませる微かな呟きと、次々にこぼれる涙が冷たい床に転がる。

ふらつきながら、這いずるようにこちらへ向かってくる修一郎と桐野も、悲痛な眼差しを朱王と志狼へ向けていた。


 「海華が、待っているんだ! あんたの事を、待っているんだ! だから死ぬなっ! 生きて帰るんだっっ!」


 鼓膜を破らん程の絶叫。

しかし、志狼の瞼は静かに静かに閉じられていった……。






 火付盗賊改方のや春勝の働きもあり、暗雲一味はお縄となった。

しかし、双方に多数の死者を出したのは言うまでもない。

先に奉行所と火付盗賊改方長官である鷹取との取り決め通り、今回は全て火盗の手柄と相成ったのだが、今の修一郎や桐野にそんな事を気にしている余裕は、勿論なかった。


 意識を飛ばしてしまった志狼を抱え、共に傷を負った三人は春勝の助けを受けて山を降り、小石川へと直行する。

そこには、先に都筑や高橋の手によって運び込まれた海華の姿もあった。


 丸二日間飲まず食わず、極寒の洞窟内き放置され激しい暴行を受け続けた志狼は医師の清蘭や知らせを受け駆け付けた伽南から、心臓が動いているのが不思議だと言わしめるほど危険な状態であった。

死ぬ可能性が高い、覚悟していてくれと三人は伝えられていたのだが、とても海華に言うことはできない。

早く会わせてと泣きじゃくる海華をなだめ、誤魔化すのは朱王にとっても辛い事だった。


 幸い、三人の傷は命に関わるものではなく、その日のうちに帰っても良いと清蘭は言ってくれたのだが、海華と志狼を残して帰る事などできず、朱王と桐野は無理を言い、その日一日は 小石川に泊まることにした。

とにもかくにも身体を暖め、傷の治療が最優先。

外れていた左肩は、三角巾で固定するにとどめる。

相変わらず意識は戻らない。

しかし、弱く脈打っていた志狼の心臓は、日に日に力強い鼓動を取り戻し始めたのだ。


 唇を湿らせ、なんとか水は取れている。

ここに運ばれて二日が経ったこの日、後は早く意識を取り戻せば一命は取り止められると清蘭から話があった。


 「── 朱王、海華の様子はどうだ?」


 頬の傷も生々しい修一郎に問われ、朱王は、すっと目を伏せる。

あの日以来、修一郎は桐野と共に毎日小石川へ顔を出してくれるのだ。


 「ほとんど志狼の側から離れません……。傷はだいぶ癒えましたが、志狼が起きるまで、ここにいると……」


 苦し気に顔を歪ませ、そう呟く朱王に修一郎も桐野も掛ける言葉が見付からない。

今、一番辛いのは誰でもない、海華なのだというのは、この場にいる全員がわかっていた。

眠り続ける志狼の手を握り、自らも怪我を負いながら懸命に介抱し話し掛ける。

そんな海華の姿が痛々しくて見ていられない。


 押し黙ってしまう三人の傍らで赤々と燃える炭をくべた火鉢が細かな火の粉を散らす。

ぱちぱち小気味よく爆ぜる炭、その奥にある襖の向こうには、未だ目覚めぬ志狼と傷心の海華がいるのだ。

朱王、そして桐野の口から無意識にこぼれる微かな溜め息は、白く煙り空気に溶ける。


 桐野は無言のままそっと己が目頭を押さえ、嗚咽を必死に堪えるように小さく俯いていた……。





次話に続く。


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