第六話
「あぁ、行った行った。なかなか根性のある娘じゃないか」
洞窟の入口に身を凭れさせ去り行く海華を上から見下ろす妲姫は、にんまりとその唇をつり上げる。
その隣にいた黒装束、深くかぶった頭巾から唯一覗く目元の皺から年かさであるだろう男が、妲姫へ戸惑いを含ませた視線を投げた。
「妲姫様、あの女……本当に逃がしてしまってよろしいんですかい?」
「構わないさ。この雪だ、どうせ麓まで降りられはしないよ。こっちは志狼の首さえあればいいからね」
あっけらかんと言い放ち、踵を返す妲姫の束ねた黒髪が雪を散らす。
「空模様も悪くなってきた、時期に雪になるだろうさ。そうなったら……凍え死ぬのが関の山、一度埋もれりゃ、春まで見付からないよ」
「しかし、頭領が……」
「あの奉行所が、そう易々と頭領を返してくれるもんかね。見張りから何の連絡もないし、動きは無いんだろう。明日の朝になったら、志狼を始末して街に降りる。お前、皆に準備をしておくよう言っときな」
襟巻きを鼻の下まで引き上げ、洞窟の最奥、竹格子の近くで足を止めた妲姫へ軽く頭を下げ、黒装束は今来た方向へ駆け戻る。
凸凹の岩壁に巨大な影を這わせ、妲姫は格子の向こうで魂が抜けたようにへたり込む志狼へ向かった。
「独りぼっちで寂しいかい?」
腕組みし、目を細めてこちらを見下ろす妲姫。
しかし、志狼は顔すら上げず死んだ魚によく似た光の無い瞳から一筋の涙をこぼすだけ。
心の中に塞ぎきれぬほど巨大な穴が空き、目には見えぬ血を流す。
痣とどす黒く固まる血にまみれた右手には、まだ海華の感触が、そして暖かさが残ったまま。
瞼を閉じれば太陽の如き朗らかな笑みが浮かんでくる。
ついさっき、ほんの少し前まで自分を抱き締めてくれた最愛の存在は、跡形もなく消えていた。
大切な者を奪われたのはこれで幾度目になるだろう?
駆け換えの無い人だから全身全霊で守りたい、そんな思いはいつも空回り。
助けられなかった、守りきれなかった、全ては自分が未熟なせい、自分が殺したも同然……。
上手く動かぬ頭の中を駆け巡るのは、ひたすら己を責め立てる言葉だけだ。
いっそこのまま一思いに殺してくれればいい。
舌の一つも噛み切り、死ねるものならそうしたい。
だが、人はそう簡単に死ねないと志狼はわかっているのだ。
なんの反応も見せなくなった志狼に興味を失ったのか、妲姫は舌打ち一つ残してその場を後にする。
動かなくなったはずの左手、力なく地面に垂れ下がるその指先が、痙攣するようにひくりと一度戦慄いた………。
滴る汗が着物に染み込み、瞬く間に凍り付く。
白い息が漏れる唇は限り無く紫に近い色に変わり、小刻みに震える。
汗と雪に濡れ、黒く変色した着物は、べったりと肌に張り付き氷の装束と化して体温を、そして体力を奪っていく。
朦朧と煙る意識の中、ただ本能のままに進んでいた海華の足が、ずぶりと柔らかい雪に沈んだ。
もんどりうち、冷たい白の中に倒れ込む身体。
その場から起き上がる気力は、もう海華に残されていなかった。
寒い、冷たいは、とうの昔に感じなくなった。
今は、ただどうしようもなく眠いだけ。
すぐにでも閉じてしまいそうな瞼を必死で抉じ開け、両手は泳ぐように雪を掻く。
進まなければ、行かなければと気持ちだけは急くのだが、身体は次第に麻痺していく。
涙腺から、ぽろりと透明な雫が一つ転がり落ちた刹那、海華の全身から力が抜けていった。
「ごめ、なさ……志狼、さん……ごめん、ね……」
もう進めない……。
助けられなかった、なんの役にも立てなかった。
込み上げてくるのは慚愧の念と、志狼に対する申し訳なさだけ。
これなら、あの洞窟で共に殺されていた方がましだった……。
ぽろぽろこぼれる涙が白玉の氷と変わる。
遂に、海華の瞼が上下合わさろうとした、その時だった。
『立て』
突如頭の中に響いた低い男の声に、海華は閉じかけていた瞼を跳ね上げる。
のろのろと辺りを見渡せど、そこは人っこ一人いない山の中。
墨をぶちまけたような漆黒と、枝を震わす木々の音が不気味に響くだけ。
一寸先も見えぬ暗闇、鼻を摘ままれてもわからぬ完全な漆黒の中で、聞き覚えのない男の声が聞こえたのだ。
『あんたなら、まだ行ける。歩け。── 生き残りたいなら、また志狼と会いたいなら、早く立つんだ』
脳髄に直接染み込む声。
誰だ、そう問うこともできず、海華は戸惑いの眼差しで黒の世界を見渡した。
薄れかけていた意識は、一瞬で鮮明な物へと変わる。
『後生だ……後生だから諦めるな。志狼の命は、あんたにかかっている。……志狼のために、諦めないでくれ』
「志狼、さんの……ため……! あた、し、行く……こんな、場所で……諦めない!」
自分が助かるためではない、志狼のため、志狼のために、ここで死ぬ訳にはいかないのだ。
柔かな雪の中をもがき、力の入らぬ身体を叱咤して、海華はゆっくりゆっくり身を起こす。
ぎりぎり歯を食い縛り、足を踏み出すその姿は地獄の餓鬼かと思われるほど。
よたつきながら、ふらつきながら一歩一歩歩む間にも、頭の中ではまるで海華を導くように低く、力強い男の声が響く。
声に導かれ、どのくらい歩いただろう。
時間の感覚など忘れてしまった海華へ、正体のわからぬどこか優しい声が語りかける。
『── すまねぇな、あんたにこんな思いをさせて、本当にすまねぇ……。志狼の事、頼んだぜ。大丈夫だ、必ず生きて……』
唐突に、ぷつりと途切れた声。
それと同時、海華の視界に広がる重たい闇の中に、ぽつぽつと微かな橙色の光が揺れる。
まるで自らを誘うが如く揺れる光それが何であるかわかった瞬間、荒い息をつく海華の口から、歓喜とも悲鳴ともつかぬ叫びが迸った。
涙でにじむ視界、その先に揺れる数多の灯りは見間違う事なく提灯の灯りだ。
ふらりふらりと揺れながら灯りがこちらに近付き、漆黒に散る橙の中に『火盗』の墨文字が浮かび上がった時、耳許を掠める鋭い風の音に乗って『誰かいるぞ!』と、甲高い男の叫びが鼓膜を揺らす。
「たす、けて……! お願い……助けて下さいっっ!」
声を限り、力の限り、喉が破れんばかりの大声で一言叫んだ海華は、腰が砕けたようにその場へ崩れ落ちてしまう。
その途端、空を舞う火の粉のように激しく揺れる灯り。
光の群れの中から勢いよく飛び出した一つの提灯。
何も書かれていない無地のそれを携える長身の黒い影、後方へたなびく長い髪が世界を塗り潰す黒に溶けた。
「……なっ! 海華──っ!」
「に、さまぁ……! 兄様──っ!」
その場にへたり込み、幼子よろしく泣き叫ぶ海華の首、その傷口から薄い赤が一筋流れ、雪に赤い花を咲かせる。
膝まで埋まる重い雪を掻き分け、転がるように駆けてきたのは、間違いなく朱王、その人だった。
「海華っ! 海華……! お前……大丈夫か!」
提灯を放り出し、骨も砕けんばかりの勢いで海華を抱き締める朱王の顔は、妹を見つけ出した喜びと安堵でくしゃくしゃに歪む。
汗と涙で汚れた顔を兄の胸元に擦り付け、火のついたように泣きじゃくる海華が、朱王の肩口にきつく爪を立てた。
固く抱き合い、ただ涙に咽ぶ二人の背後から、ぞろぞろと厚手の着物に黒い脚絆、そして笠を目深にかぶった侍らが近付いてくる。
その中には、寒さで顔を蒼白にした都筑や高橋、そして修一郎と桐野の姿があった。
「あっ! 海華っ!」
一際体格のよい侍、修一郎は、そう一声叫んだかと思うと、朱王と同じく提灯を傍らに投げ捨て雪の中に座り込む二人へ向かい、ふらつきながら駆け出す。
ほぼ同時に、桐野や都筑達も降り積もり固くしまった雪を蹴散らした。
「海華っ! 海華大丈夫かっ! しっかりしろ、いいか、しっかりするのだ!」
氷のように冷えきった頬や頭を撫でていく修一郎の大きな手のひら。
肌から伝わる熱が血潮に乗り、炎に似た熱さを感じる。
涙に溺れる海華の視界に固い表情でこちらを見詰める桐野の姿が映った刹那、血の気を失った唇が大きく戦慄いた。
「しゅ、いちろ……さま、桐野……さまぁ! しろ、さんが……志狼さんが、っ!」
「海華殿落ち着け、志狼はどうした? 志狼は、どこにいる?」
顔を強張らせながらもゆっくり、一言一言噛み締めるよう問うてくる桐野へ、海華は嗚咽を堪えて必死で言葉を紡ぎ出す。
自分達をぐるりと取り囲む数多の侍達、それらが携える提灯の灯りが一つに集まり、網膜に焼け付くほど眩しく感じる。
「志狼さん……まだ、洞窟に……朝になるまで、私が戻らない、と……志狼さん、殺されて……!お願いします、早く助けて……志狼さん助けて下さいっっ!」
血を吐くような海華の絶叫が、不気味に揺れる木々の間を木霊す。
白い顔をますます蒼白に変え、その顔を跳ね上げた桐野。
その視線の先にある東の空は、産声を上げた太陽の光によって闇が薄まり、薄絹をかけたように白く変わりかけていた。
『もうすぐ夜が明ける』
東の空を見上げ、呆然とした様子で呟く桐野。
その場にいた全身の顔に一瞬にして焦りの色が浮かぶ。
いつの間にか雪はやみ、代わりに肌を突き破らんばかりの寒さが全員を襲う。
完全防備でやってきた男達が震え出すほどの寒さ、海華の衰弱は目に見えて酷くなっていった。
「都筑、高橋お前達は海華を連れて山を降りろ。このままでは凍え死んでしまう」
もはや口を開く事も難しく、がたがたと激しく身を震わせて朱王にしがみつく海華を自らへ抱き寄せ、修一郎は人垣の中から都筑と高橋を呼びつける。
しかし、海華は修一郎の纏う黒羽織の袖を千切れんばかりに掴み、何度も首を左右に振った。
「いや……私も、行きます! 私が行かなきゃ、志狼さん……だからお願いします! 私も連れて行って、ぇ……!」
修一郎に取りすがり、わぁっ! と声を張り上げ号泣する海華。
戸惑いに顔を見合わせる修一郎と桐野を前に、笠をかぶった姿の朱王は、おもむろに海華の両肩を掴み、己へ向き直らせる。
「海華、志狼は必ず、必ず無事に連れて帰る。── 俺達を信じてくれ。お前は先に山を降りるんだ」
心の底まで届くような真っ直ぐな眼差しで見詰められ、海華は真っ赤に充血した目をぱちぱちと瞬かせ、しゃくりあげながら朱王を見詰め返した。
「ほん、とに……? 兄様、約束してくれる? 本当に、志狼さんを、助けてくれる?」
「約束する。必ず、志狼を連れ戻す。── お前の大切な人なんだ、俺の命に代えてでも必ず志狼を助ける」
『信じてくれ』そんな一言と共に強く肩を揺さぶられ、海華は弱々しく兄を掴んでいた手を離す。
それと同時、涙で濡れた睫毛が静かに閉じられ、力を失った身体が音もなく朱王の胸へ崩れ落ちた。
「海華っ! お、おい朱王! 海華は……」
「気絶、したようです。 どちらにしてもこのままでは危ない。都筑様、高橋様、海華をお願いしても……」
すがるような目付きで見上げてくる朱王に、簔を付け、笠をかぶる二人は任せろと言いたげに大きく頷く。
「海華の事は心配するな! すぐに小石川へ運んでやる」
ぐったりと眠る海華を軽々と背中に背負い、都筑は雪を掻き分け先頭を走る高橋の後を追い、あっという間に暗闇の中へ消えていく。
しん、と静まり返る山中に残されたのは、鷹取以下、火付盗賊改方一行と、修一郎らだけだ。
「上条様、暗雲党に囚われた者が何者かは存じませんが……先刻の約束だけは違わぬよう」
細い目を更に細め、火盗長官である鷹取がぼそりと呟く。
その途端、修一郎のこめかみに、太い青筋が浮かんだ。
「そんな事はわかっておる! 盗賊一味はそなたらが捕らえたらよかろうっ! この期に及んでくだらぬ事を……っ!」
足に絡む重たい雪を蹴散らし修一郎が吼える。
その間にも、東の空は静かに白み始めていた。
「もう時間がありません! 早く洞窟に向かわねば、海華さんの足跡を辿りましょう!」
突如、修一郎らを取り囲む侍らの間から切羽詰まった叫びが上がる。
そこにいたのは、皆と同じ笠に簔姿の若侍、轟 春勝だった。




