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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十一章 窮月の襲撃者
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第五話

 舞い散る粉雪が傷口にしみる。

再び放り込まれた竹格子の向こう側、薄闇に包まれて海華の啜り泣きが微かに漂った。

細い首に幾筋もの痛々しい切り傷を浮かばせる海華に膝枕され、死人よろしくぐったりと横たわる志狼が、青ざめた瞼を何度か戦慄かせる。


 身体中を紫色の痣で彩り、束ね髪もとうにほどけた志狼は、生きているのが不思議なくらい満身創痍の有り様は、誰もが目を背けたくもなるだろう。

仰向けに横たわり、その胸に抱えられた左腕はピクリとも動かず、肩は妙な位置までずれており肩の骨が折れている、または外れているのは明らかだ。


 地面にのたうち、身体を貫く激痛に転げ回る志狼を蹴り飛ばしつつ腹を抱えて大笑いしていた妲姫が、『もう飽きた』と二人をここへ放り込んだのはもう数刻ほど前の事。

肩を押さえて呻き、神経を焼き付くす痛みに床を右手で掻きむしり、のたうち回って悶絶し続けた志狼が、ついに意識を彼方へ飛ばし、たった今目を覚ましたばかりだった。


 「志狼さん……志狼さん? ねぇ、お願い。志狼さんこっち見て……」


 虚ろに揺れる志狼の瞳を上から覗き込み、はらはら涙を流す海華は、腫れ上がる志狼の頬を撫で続ける。

全身を苛む痛みに顔を歪ませ、切れてどす黒い血がにじむ唇を微かに蠢かせた。


 「へい、き……だ。お前、は……大丈夫、 か?」


 「だい、じょぶ……っ! あたしは、大丈夫だから……志狼さん目を開けて、寝ちゃダメ!」


 骨身にしみる寒さの中、眠ってしまえば二度と目覚めることはできない。

今にも眠りの淵に堕ちてしまいそうな志狼の身体を揺すり、必死に声を掛け続ける海華を夢見るような眼差しで見上げる志狼の頬が、ひくひくと痙攣を起こした。


 「寝て、たまるか……お、前を必ず……朱王さんに、返すんだ。じゃなきゃ……旦、那様に……」


 朦朧と煙る意識の中、途切れ途切れに呟かれる台詞に海華は澄んだ瞳からただただ涙をこぼしながら、志狼の右手を強く握る。

と、志狼はその手をやんわりほどくと、傷だらけの身体を戦慄かせ、ゆっくりその身を起こし始めた。


 ふらふら力なく起き上がる志狼は、そのまま海華の胸へ音もなく倒れ込む。

浅い呼吸、低くなる体温、だらりと垂れ下がったままの左腕……。

全身を貫くであろう痛みに志狼が一瞬息を詰めるのを感じ、海華はその身体をしっかり抱き締めた。


 「志狼さんっ! あたしと……あたしと兄様に、話しがあるんでしょ?…… 約束、守ってくれるわよね? お願いだから死なないで…… 桐野様の所へ、帰るのよ……!」


 はらはらこぼれる涙を痣の浮いた頬に受ける志狼の目尻に、じわりと透明な物が浮かぶ。

海華の震える右肩に食い込む五指、思い切り身体を伸ばした志狼の唇が、涙に濡れる海華の小さな唇をそっと塞いだ……。


 唇に触れた柔らかな感触に、大きく目を見開いた海華の嗚咽がぴたりと止まる。

自分が何をされたのかを理解した途端に、胸中で激しく脈打つ心臓。

唇が交わったのはほんの一瞬なのに、永遠かと錯覚ほど長い時間に思えてしまう。

微かに口角をつり上げながら、志狼は力なく海華へ覆い被さるように、その肩へ頭を凭れさせた。


 「悪ぃ、な……。この先、いつできるか…… わからねぇから、さ……」


 これが最後かもしれない。

ずっと一緒にいたかったのに、それすらも叶わぬ夢と散るのか……。

約束の一つも守る事が出来なかった。

痛みに麻痺した頭で感じるのは、ただ己の不甲斐なさ、そして朱王や桐野、海華に対する申し訳なさだけ。

悔しくて、情けなくて、止めどなく涙があふれ海華の肩口を濡らしてゆく。


 「こんなの、嫌よ……。騙し討ち、みたいじゃない。こんなの……っ! 志狼さん、本当にあたしの事、好いてる?」


 「当たり前、だ。……嫌いな奴に、こんな真似……」


 「なら、兄様や桐野様の前で、ちゃんとそう言って……! 」


 凭れ掛かる志狼を力の限りに抱き締めて、嗚咽を噛み殺しそう呟く海華。

霞がかる意識の中でも、その声は暗闇に射す一筋の閃光の如く、はっきりと聞こえる。

唯一満足に動く右手が、海華の背中へしっかり回された。


 「あたしと……あたしと一緒に帰るのよ。それから、桐野様にご挨拶しなくちゃ。 勿論、兄様にも。あたしもちゃんと言うわ、志狼さんが好きだって、だから……だから、その後、もう一度……っ!」


 後の言葉は涙で続かない。

ここで終わりになるなんて、こんな所で全てが終わってしまうなんて……。

長い睫毛を震わせ、泣きじゃくり『死んじゃイヤ』と何度も何度も呟く海華の胸は張り裂けんばかりだ。

生きて帰りたい。

絶望の淵に叩き落とされ、二人が願うのはただそれだけ。

身体中の水分が涙に変わるかと思うほど泣きつくした海華。

その視界の端で、ゆらりと漆黒の影が揺らめく。


 のろのろと力なく顔を上げた海華が見たものは、もう見慣れてしまった妲姫の冥い笑みだった。


 「なかなか面白い事やってるじゃないか。 あたしも仲間に入れとくれ」


 「── あんたなんかお呼びじゃないわ…… 」


 涙で掠れた、しかし精一杯の反抗を含ませて海華は眉を逆立て妲姫を睨む。

大袈裟に肩をそびやかせ、妲姫は赤い唇を開いた。


 「怖いねぇ。だけど、そう邪険にしないでおくれよ。せっかく助かる機会を上げようと思ったのにさ」


 「助かる、機会……?」


 最早口を開く気力もない志狼に代わり、怪訝な面持ちで妲姫を見上げる海華。

そんな彼女を見下ろし、妲姫はにやにやといやらしい笑みを作り出す。


 「そうだよ。お姉さん、あんたをここから出して上げる。明日の朝、日が昇るまでにここへ戻ってこれたなら、志狼さんは返して上げるよ」


 紅を塗った唇から飛び出した思いもよらぬ台詞。

驚愕に目を瞬かせる海華の背に、志狼の右手、短く切り揃えた爪が強く食い込む。

耳許を吹き抜ける寒風が、刹那の時を切り裂いた。


 「なによ、そんな話し……どうせ無事に帰す気なんか、さらさらないんでしょう?」


 低く呻き、自分に凭れる志狼の背を抱き寄せる海華の胸中を覗くように、妲姫は目を細め小首を傾げる。


 「黙ってここにいた所で、結果は変わらないよ? あんたも志狼さんも死ぬだけさ。それなら、一丁賭けてみる気はないかい?」


 『帰ってこれたら、志狼さんも助けてあげる』


 岩壁に反響する妲姫の声。

甘い誘惑にすら感じられるその言葉に、海華の目元がぴくりと蠢く。


 「嘘つき……! あたしが行ったら、志狼さん殺す気なんでしょう? あんたの口車なんかに、易々と……」


 「口車に乗るも乗らないも関係ないさ。あんたには、ここから出てもらうよ。── そうじゃなきゃ、あたしが楽しくないからね」


 そう言うが早いか、妲姫は格子の戸口を乱暴に叩き開け中へ押し入る。

全てはあっという間の出来事。

満身創痍の志狼へ妲姫の鋭い蹴りが食らわされ、ぼろぼろの身体が毬の如く吹き飛ぶ。


 志狼を庇う暇すらなく、海華は襟具りを鷲掴まれ格子の中を引き摺られた。


 「離してっ! やだ……やだっ志狼さんっ!」


 「みは、なっ! 止めろ……頼、むっ! 止めてくれ……!」


 全身を貫く激痛に顔を歪め、芋虫よろしく床を這う志狼。

伸ばした右手は虚しく空を掴み、悲鳴を上げて必死に暴れる海華は呆気なく格子から引き摺り出されていく。

海華の両手が襟首を掴む妲姫の手を力一杯引っ掻いた瞬間、妲姫は海華を地面へ叩き付け、その鳩尾へ情け容赦ない蹴りを繰り出した。


 重たい物を蹴り飛ばす鈍い響きと共に、海華の身体が痙攣する。

声にならない悲鳴を迸らせる志狼の目の前で、ぐったりと動かなくなった海華は妲姫の手によりごみよろしく引き摺られていく。


 「やめ、ろ……頼む、海華だけ、は……るなら、俺にしてくれ、海華だけは……助けてくれっ! 頼むっ! 助けて……助けてくれ ──っ!」


 血を吐くような志狼の叫びが洞窟一帯に木霊す。

硬い地を掻く右手の爪は剥がれ、鮮血が赤い帯となる。

しかし妲姫はそんな志狼を鼻で笑い、声も出せず荒い呼吸を繰り返す海華を、軽々と肩へ担ぎ上げた。


 「そう大騒ぎするんじゃないよ。死ぬ順番が違うだけの話しさ。好いた女が三途の川の向こう側で待っていてくれるんだ。死ぬのが少し楽しくなるだろう?」


 笑みを混じらせ放たれる台詞に志狼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。

松明の焔が揺らぐ洞窟。

黒装束の男らが左右に控える、その間を進む妲姫は、洞窟の入口で足を止めた。


 「無事に戻ってこれたらいいねぇ。志狼さんと、一緒に待ってるよ?」


 朦朧とした意識の中で響く妲姫の声。

冷たい風が頬を打った、そう感じたと同時、海華の世界はグルリと大きく回転する。

白銀と紫、そして漆黒が混ざり合う中へ放り込まれた海華の身体に丸太で打ちのめされたような鈍い衝撃が襲い掛かった。


 ぼん! と鈍い音を立て、身体が分厚く降り積もった白雪にめり込む。

腹を蹴られた苦しさと、口内に入る雪に激しくむせ込みながら、海華は涙が滲んだ目を瞬かせた。

くの字に曲がる身体をのろのろ起こし、ぼやける視界いっぱいに広がった光景を前に、海華は愕然とする。

そこは、辺り一面深い雪に閉ざされた山奥だった。


 足跡一つない純白の世界、その向こうには葉を落とし、丸裸となった木々が冷たい風にわなわなと枝を揺らす。

夕暮れ迫る紫色の空に浮かぶ漆黒の影は、まるで冥府より現れた亡霊のようだ。

雪、木、空……それ以外は何もない場所。

海華が囚われていた洞窟は、すぐそばにあるなだらかな山の山肌に空いたものだった。

洞窟から地面まではかなりの距離があり、雪がなければ大怪我をしていただろう高さ、気力、体力共に限界を迎えかけている海華には、とてもよじ登る事などできない。


 勿論、江戸の市中付近にも山はある。

しかし、ここがどの山のどの辺りなのか、街はどの方向なのかは全くわからなかった。

明日の朝までに山を降り、人を連れて再びここへ戻ってくるなど不可能に近い。

道に迷い凍死するのがおちだ。


 呆然と木々を見詰める海華を嘲笑うかのように、雪を巻き上げひゅうひゅうと吹き荒ぶ乾いた寒風。


 『もうだめだ』


 頭の中に浮かぶそんな言葉とは正反対に、海華の足は一歩、また一歩と柔らかな処女雪を踏み締めていく。

無意識に、身体が助けを求めて動き出したのだ。

足を踏み出すたび、柔らかな雪に膝頭までずぶずぶ埋まる。

下駄も履かない冷えきった足先からは感覚が消え去り、肌を刺す極寒の世界にいるにも関わらず、顔や背中は滝の如き汗を噴き出した。


 雪に足を取られては転び、転んではまた起き、起きては転びを数えきれぬほど繰り返し、雪原に一本の筋を作り上げながら、海華はただひたすら真っ直ぐに進む。

諦めは、滴る汗と共にどこかに消え失せた。

今はただ、『生きたい』それだけを強く思う。

生きて、生き抜いて、再び兄に、そして志狼に会いたい、と。


 全身真っ白な雪にまみれ、歯を食い縛り寒さを堪えて、進め、進め、進め……!


 「絶対……戻、る……戻る、から……! 待ってて、志狼さん……待ってて……!」


 呪文のように、自分に言い聞かせるように、低く低く呟きながら海華の目はたた、前だけを見詰める。

白い世界を行く一点の赤。

ふらつきながら遠ざかるその赤を山の中腹から見下ろす人影が紫紺の空に黒い点となり、不気味に浮かび上がっていた。

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