第二話
手拭いが彼方へ吹き飛ぶ。
それとほぼ同時、『逃げろっ!』と、絶叫にも似た志狼の叫びが暗黒の夜空に響き渡った。
全ては刹那、一瞬の出来事。
志狼の目の前で、道に膝をついていた海華の体が、がくん!と派手な痙攣を起こす。
網膜に焼き付く鮮やかな江戸紫。
留袖から伸びた女にしては筋肉質のしなやかな腕、その先に続く手のひらが固く握り締められ、海華の鳩尾に深々とめり込んでいたのだ。
悲鳴を上げる暇すら与えられず紅の着物が音もなく雪上へ崩れ落ちる。
握り拳の第二波が志狼の顔面へ繰り出されようとした時、志狼の懐から飛び出した護身用の短刀が、冷えた空気に煌めく一筋の線を描き出した。
「親切な御方には、お礼をしなけりゃね」
短刀の一撃を身を反らせて避けながら、掠れ声で笑う女は、おもむろに着物を脱ぎ捨て、志狼へ叩き付ける。
一瞬塞がれた視界、邪魔な布地を一刀両断の元に切り裂いた時には、最早そこに女と海華の姿はなかった。
「海華──っ! 野郎っ! どこにいるっ! 出てきやがれっ!」
突然の襲撃、そして海華の姿が消えた事で、志狼は半狂乱になり叫ぶ。
足元では踏みつけられた提灯がめらめらと炎を上げ、周囲の雪を溶かしていた。
「そう怒鳴らなくても聞こえているよ」
短刀を握り締め、冷や汗を滴らす志狼を嘲笑う声が頭上から降る。
弾かれるよう、背後を振り向けばある商家の瓦屋根に、朧の月を背にして真っ黒な影が立っていた。
後ろ束ねの長い黒髪が乾いた風にぞろりとたなびく。
黒装束に身を包んだ細身の影は、その肩にぐったりと身動き一つしない海華を担いでいる。
細面、高く通った鼻筋、こちらを見る二重の瞳には、剃刀を思わせる鋭く冷たい光が宿り、その薄い唇は、うっすらと笑みの形に歪められている。
それは、身震いするほど美しい『女』だった。
「てめぇ……何者だっ! 海華を返せっ!」
「そりゃ出来ない相談さ。この子は、こっちで預かるよ。勿論あんたにも来てもらう」
「なん、だと?」
女の言っている意味が分からずがわからず、ただ歯噛みしながら屋根を見上げる志狼。
ちらちら舞い散る白雪が、その頬にぶつかり、溶けて消える。
「そのままの意味さ。与力組頭、桐野 数馬様方、使用人さん……。 もう少し楽しませてくれる男だと思ったけど……残念だったよ」
にやにやと嫌な笑みを見せながら、白い歯を覗かせる女。
『なぜ旦那様の名知っているのか』
その問いは、志狼の口から生まれることはない。
立ち尽くす志狼の首、ちょうど盆のくぼ辺りを、骨が折れるかと思うほどの衝撃が襲う。
一瞬で止まる呼吸。
反り返る喉から『ひゅっ!』と甲高い笛にも似た音を迸らせ、志狼の視界は真っ赤に染まる。
さらさらと細かく、乾いた雪に崩れ落ちる身体。
ぴくりとも動かない志狼を取り囲むように、いつ現れたのであろう瓦屋根で笑う女と同じく、全身を黒装束で固めた幾人もの人間が、白く染められた道に漆黒の影を落としていた。
幽玄の闇の中を、白い稲妻がいく筋も飛び交う。
皮膚から伝わる突き刺さるような冷たさ、骨を走る激痛に、からからに干からびた唇から低い呻きが漏れた。
「── ん…… ろ、うさ……志狼、さんっ!」
強く身体を揺さぶられ、悲鳴じみた呼び掛けを鼓膜に受けて、志狼は重たい目蓋を必死にこじ開ける。 ぼやけ、歪む視界。
薄暗い、極寒の世界に揺れる赤、そこには、ひどく心配そうに顔を歪め自分を覗き込む海華の姿があった。
「あ……み、はな……」
「良かった、やっと気付いてくれて……! なかなか起きないから本当に心配したのよ」
「そう、か。すまねぇ……それより、お前は大丈夫か?」
首の後ろを擦り擦り、ふらつきながら身を起こす志狼の脇を支える海華は、青白い顔に無理矢理笑みを作り小さく頷いて見せる。
目をこらし、辺りを見回せば、そこはごつごつ隆起した剥き出しの岩肌に囲まれた洞窟のような場所だった。
二人の背後は岩の壁、そして正面には竹で組まれた格子が立ちはだかり、さしずめ牢屋に閉じ込められているようだ。
月明かりも差さないそこは、所々壁に据え付けられた松明が唯一の明かりとなっている。
入り口付近から吹き抜ける雪混じりの寒風に去らされた岩肌は凍えんばかりに冷たく、全身の筋肉は痛いくらいに硬直し、がちがち歯の根が噛み合わない。
おまけに二人が身に付けていたはずの綿入れは剥ぎ取られたのだろう、海華の首に絡む襟巻きだけが虚しく風に揺れていた。
「ここ、どこなのかしら? あたし達、どうして……?」
「わからねぇ……。あいつら、一体……」
未だろくに動かぬ身体を寄り添わせ、檻の向こうへ鋭い眼差しを向ける志狼。
と、その瞳が視界の向こうに揺らめく数人の人影を捉える。
だだっ広い洞窟中に、ひたひたと響く足音。
志狼の背中に冷たい物が流れた。
「おや、やっとお目覚めだね? 気分はどうだい?」
夜道で響いた、あの嘲るような掠れ声が硬い岩の壁に反響する。
じりじり音を立てて燃える松明の明かりに照らし出されたのは、束ねた黒髪を揺らす黒装束の『女』と、同じく黒ずくめの人間が四、五人立ちはだかっていた。
「てめぇ、一体何者だ! 何のために俺達を……」
「お頭を返してもらうため、とでも言っておこうかね。」
にや、と唇の端をつり上げつつ女は二人の顔を覗き込むように身を屈める。
「お頭……? ってぇ事は、あの暗雲の……」
「大当たり! あんたの旦那様が、牢屋にぶち込みやがった、暗雲の惨九郎、あの方だよ。 あんた達の命とお頭の命を交換だ。さぁ旦那様は、どう出るかね?」
赤く紅を塗った艶やかな唇が、笑みの形に歪む。
力いっぱい奥歯を噛み締め、女を睨み付ける志狼へ、女はちょこんと小首を傾げる。
場違いに饒舌な女と対称的に、周りにいる者らは言葉一つ発しない。
「そう怖い顔をしないどくれ。それよりも志狼さん? あんた……」
『どうしてあたしが男だとわかった?』
不意に『女』……いや、目の前の『男』になるだろう者が発した台詞に、志狼の背後に隠れていた海華は、驚きに目を瞬かせる。
今度は、志狼がにやりと薄い笑みを浮かべる番だった。
「手拭いが飛んだ時だ。ご婦人に喉仏なんざあるはずねぇからな。このお釜野郎」
呻くように呟く志狼へ、男はひくりと片眉を動かす。
「あの時かい、こりゃ抜かったよ。でもね志狼さん、いつまでもそんな減らず口叩けると思ったら大間違いだよ」
荒縄で硬く組んだ竹格子を握る手に筋を浮かばせ、低く吐き捨てる男、その血走った瞳が表情を固まらせ志狼にすがり付く海華へ向けられた。
「お姉さん、あんたこの男の『いいひと』かい? 残念だったねぇ……。無事でここから出られると思うんじゃぁないよ?」
松明の明かりに浮かぶ、美しくも禍々しいその顔に、海華は声すら出ずに縮み上がる。
その時、入り口から誰かが駆け抜ける慌ただしい足音が響き渡った。
「妲姫様!」
「なんだ、随分早く帰ってきたじゃないか」
妲姫と呼ばれ、男がくるりと振り返る。
入り口側から駆けてきた黒ずくめの、声からして男は妲姫の足元で方膝をつき、深々と頭を垂れた。
「ご指示通り、八丁堀の屋敷へあれを。しばし様子を見て参りましたが、もう天地を引っくり返したような大騒ぎで。時期に奉行所も動き出すかと」
「そうかいそうかい、最初は奉行の妻君を拐かす手筈だったが、桐野の方を狙って正解だっ たよ。…… あいつらの情報も、何かと役に立つじゃないか」
ゆっくりと立ち上がりつつ口にしたその台詞を、志狼は聞き逃していなかった。
「あいつらの、情報……?」
「ん? ああ、まだ話してなかったねぇ。志狼さん、桐野の屋敷にいるあんたを狙えと言って来たのは、伊賀忍者、影牙衆の頭領だよ。わかるだろう? あんたの父親のお仲間だ」
『あんたの父親』、それを耳にした刹那、志狼の心臓が凍り付く。
寒さのためではなく、がたがた震え出す身体。
志狼に現れた異変を感じ取った海華は、彼の着物を皺が寄るほどきつく握り締めた。
「あたしらがまだ上方にいた頃、あちらさんと少し付き合いがあってね。その時にあんたの事を聞いたよ。お頭がお縄になった後、向こうから使いが来てね、質にするなら、桐野の屋敷にいる使用人にしてくれと」
ひゅう、と吹き抜ける風に松明の炎が揺れる。
「あの屋敷に、一族の恥がいる。 代わりに殺してくれるなら、それ相応の謝礼を出す、上方へ戻るつもりなら、仕事もやりやすくしてやる、とね」
『あんたは、大事な金蔓さ』
妙に優しい猫なで声が志狼の鼓膜を撫でる。
がっくり項垂れたまま、小刻みに身体を震わすだけの志狼に、海華はかける言葉すら見付からないでいた。
「一先ず、お頭がお戻りになるまで、あんた達にはここにいてもらうよ」
なびく髪をかきあげ、そう楽しげに言いのける妲姫。
そんな彼をきつい目付きで睨みつつ、海華が白く色が抜けた唇を戦慄かす。
「お頭が、戻ってきたら……あたし達は、どうなるの?」
「どうなる、か。そうだねぇ……志狼さんには、間違いなく死んでもらう。お姉さんは…… あたしの気持ち次第だね」
にんまりと嫌な笑みを見せる妲姫を、海華は絶望に塗り潰された表情で見詰める。
『まぁ、ゆっくりしておいで』 そんな捨て台詞を残し、妲姫は周りの黒装束を引き連れ、悠々とその場から立ち去っていった。
その頃、八丁堀の桐野邸……いや、奉行所は夜分にも関わらず蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。
酒を買いに出掛けた二人が一向に戻る気配はなく、どうしたのだと気を揉んでいた修一郎達。
近くの酒屋に行ったにしてはあまりにも遅い。
二人の身に何かあったのではないか。
そう考えると居ても立ってもいられず、様子を見てくると朱王がその場から立ち上がった、それとほぼ同時だった。
障子一枚隔てた廊下から、がつんと硬い物がぶつかり合う大きな音が未だ酒精のこもる室内に響き渡ったのだ。
二人が帰ってきたのだろうか、そう思いながら慌てて障子を開け放つ朱王。
その目に一番始めに飛び込んできたのは、黒光りする廊下へ深々と突き刺さり、白刃の刀身で月光を反射する一歩の短刀だった。
斜めにめり込むそれにはなにやら布切れのようなものが絡み付いている。
周囲に怪しい者はいないか、と警戒しながら短刀を引き抜き、素早く室内へ下がる朱王。
彼が手にしている短刀を見た瞬間桐野の顔に険しい表情が浮かぶ。
それは、間違いなく志狼が護身用として身に付けている物だった。
そして、刀身に絡み付いている朱と橙の布切れ、それは確かに海華が着ていた綿入れと同じ布地である。
その布地に包まれるように刀身に刺さる一枚の紙切れを震える指で開いたのは、桐野であった。
その紙には流れるような美しい文字で、志狼と女は預かった。無事に帰したいなら、暗雲の惨九郎を二日以内に解放せよ。
少しでも遅れた場合、今度は二人の生首を放り込む。
そんな内容が書き綴られていたのだ。
酔いも一気に覚め果てる内容に修一郎はその手紙を鷲掴み、未だ高いびきの都筑と高橋を怒号一発叩き起こすと、脱兎の如く屋敷を飛び出し奉行所へ直行し、取り残された朱王と桐野は、ただただ呆然と互いに顔を見合わせる。
あの志狼が、易々と拐かされるはずはない。
しかし、現に二人は帰ってこないのだ。
無意識に、二人は屋敷を飛び出して二人が歩いたであろう道を疾走する。
汗を散らし、必死の形相で夜道を駆け抜ける桐野と朱王。
あと少しで酒屋、という距離まできた時、目の前に広がる光景に二人は言葉をなくす。
踏み荒らされた雪道、空の酒瓶があちこちに転がり、哀れ地面に落ち、燃え落ちた提灯からは、ぶすぶすと黒い煙がくすぶっている。
その傍らには志狼の纏っていた藍色の綿入れが、滅茶苦茶に切り裂かれた状態で打ち捨てられていた……。
「なぜ惨九郎を牢から出せぬのだっ!」
奉行所の一室、修一郎の控える室内に桐野の怒号が飛ぶ。
細面を怒りに赤く染め上げ、こめかみに青筋を浮かべワナワナ全身を震わせる桐野の正面には、深く頭を抱える修一郎の姿があった……。




