第一話
※窮月……十二月の異称
分厚く冷たい純白の雪が江戸の街を多い尽くす。
今年は雪が多い、寒さも厳しいと人々の話題はもっぱらそれに尽きていた。
夜の帳が降り、きん、と耳鳴りがするかと思うほどに冷え込む八丁堀。
その一番奥まった場所に立つ与力組頭、桐野 数馬の屋敷から、凍える空気を揺らし、たくさんの男達が談笑に興じる声がひっきりなしに響いていた。
屋敷の中央部にある客間、雪に負けないくらい真っ白な障子紙に写るは、侍姿の影が四つと長い髪を揺らす細身の影が一つ。
それらの影の持ち主、それはこの屋敷の主、桐野とその周りに座する部下の町廻り同心である都筑と高橋、そして彼にとっては盟友、北町奉行の上条 修一郎、そして彼の異母兄弟である人形師、朱王だ。
彼らの前にはお膳に並べられた数多の料理が並び、その傍らにはこれまた数えきれない程の空になった徳利が転がっている。
既にかなりの量の『辛いもの』……つまりは酒を胃袋へ流し込んだのだろう、修一郎や高橋は茹で上がった蛸よろしく額までを真っ赤に染め、さほど顔色の変わらぬ朱王や桐野も、もう何度猪口を傾けたのかなど覚えてはいない。
笊と蟒蛇が顔を揃えた酒宴。
酒が苦手な者なら、この場の空気を吸っただけで酔っ払ってしまいそうな雰囲気だ。
当然、支度をする側ものんびりしてはいられない。
「お酒お持ちしました!」
そんな甲高い声と共に、障子に映し出される小柄な影。
朱王が障子を開いてやると、そこには徳利やつまみの乗った皿を山と乗せた大きな盆を持つ、襷掛けと紺色の前掛け姿の海華が立っていた。
「お、酒か! 丁度いい、もう切れていたところだ」
空徳利を逆さに振っていた赤ら顔の都筑が、目尻を下げつつ海華を手招く。
その隣に正座した高橋は、既にうとうとと舟を漕いでいた。
「こんなにお飲みになられて、大丈夫なんですか?」
「なにをこれしき、今日は特別だ!」
にこにこと盛大に破顔し、海華の酌を受ける都筑。
苦笑いしながら酒を注ぐ海華を、朱王の隣に胡座をかいた桐野が手で小さく招く。
「海華殿、客人をこき使ってしまって、すまぬな」
「いいえ、志狼さん一人じゃ大変ですから。 それに、毎日してる事と変わりませんもの 」
お盆を胸に抱き締め、そう笑う海華の耳元で、今度は朱王が小声で囁いた。
「海華、飯はどうした?」
「さっき志狼さんと済ませたわ」
『そうか』そう短く答えて、朱王が猪口を傾ける。
夕餉を済ます前にこの屋敷に呼ばれた二人、着いてすぐ海華は志狼を手伝うため、台所へ引っ込んでいたのだ。
軽く会釈し席を立とうとした海華を桐野が引き止め、今度は彼が海華の耳元で何かを囁く。
「承知致しました」
桐野の言葉に満面の笑みを見せ、部屋を出ていく海華の背中を見送った桐野は、朱王に酒を勧めながら、ちらりと視線を投げた。
「ところで朱王よ……この頃どうだ? その、海華の様子は」
「はい、変わった事と言えば…… 夜に出掛ける回数が増えたくらいです。御神籤を売っている訳ではなさそうですが」
顔色一つ変えずそう口にする朱王へ、今度は桐野が苦笑いを見せる番だった。
「お疲れ様! あちら、だいぶ出来上がってたわよ」
台所へ戻るなり、海華は洗い立ての皿を拭く自分と同じ前掛けに襷掛け姿の志狼へ、そう声を掛ける。
竈では酒を暖めるための湯を満たした鍋と、根菜と鶏肉の煮物が入る鉄鍋がぐつぐつと真っ白な湯気を上げている。
火の気の絶えないこの場所だが、真冬の時期には冷え込みが厳しく、志狼の吐く息も僅かに白く変わっていた。
「そうか、夕方から飲み続けだからな。お前も休めるうちに休んでおけ。今、茶でもいれるぜ」
そう言いながら急須と湯飲みの支度を始める志狼の背後で、海華は何故か空の徳利に酒を注ぎ、それを鍋にはった湯の中へ浸ける。
更に、桐野達へ出した酒の肴の残りを数品、皿へ盛り付け始めたのだ。
「せっかく来てくれたのに、忙しい思いさせて悪かったな」
「いいのよ、あたしはただお酒用意して運ぶだけだもの。この料理、全部準備した志狼さんの方が、ずっと大変だわ」
「いや、お前がいてくれて助かった。── おい、まだ酒は足りてるんじゃ……」
ぬる燗程度に温められた酒と、肴の盛られた皿をお盆へ乗せる海華を見て、志狼は澄んだ瞳を幾度か瞬かす。
そんな志狼を前に桐野へ見せたのと同じ笑顔を作る海華は、盆を静かに台所と廊下の境目、上がり框へと置いた。
「これは志狼さんのよ。桐野様がね、志狼さんにも一本つけてやってくれ、って頼まれたの」
「旦那様に? そうか、そりゃありがたい」
口角を僅かにつり上げ、上がり框へ腰を下ろす志狼へ猪口を渡した海華は、慣れた手つきで酌を始める。料理や酒の支度、そして酔っ払いった五人の相手に忙殺されていた二人にとって、初めて迎える静かな時間だった。
「── 師走に入ったと思ったら、急に冷え込んだわね」
「そうだな。炭の減りも去年より早い」
海華の酌を受け、他愛ない会話を交わしながら酒を飲む志狼の目は、窓から見える夜の闇、そこにちらちらと舞い始めた六花を追っている。
やがて竈にかけていた鉄瓶が、しゅんしゅんと勢い良く熱い湯気を噴き出し、火から下ろせと騒ぎ出す。
吹きこぼしては大変、とばかりに慌てて立ち上がり、竈へ向かう海華の後ろ姿へ目をやった志狼はその背に『なぁ』と短く呼び掛ける。
鉄瓶を火から外し、海華はくるりとこちらを振り向いた。
「なぁに?」
「うん、雪が溶けたら……いや春が来る前に、お前と朱王さんに話したい事があるんだ」
真っ直ぐに自分を見詰める志狼を、きょとんとした面持ちで見返し、海華は小首を傾げる。
「あたしと兄様に、話し? どんな事?」
「それは、今ここでは言えねぇよ。でも……、時が来たら必ず話す」
「そう……。わかったわ。兄様には、あたしから伝えるわね」
にこ、と微笑む海華につられるよう、志狼も同じ表情を返す。
「すまねぇな。 茶は俺がいれるから、すまねぇついでに酒の残りを確かめてくれねぇか?」
「お安い御用よ」
志狼と入れ違いになるよう、酒瓶へ走る海華。
と、茶葉を急須へ入れる志狼の背後から、『あらっ!』と小さな叫びが上がったのだ。
『海華はどうしたぁ?』
そんな呂律のまわらぬ叫びが酒精の充満する室内に響く。
頭から首筋まで赤く……まるで赤鬼の如き相貌で、海華はどこだと連呼しながら、ふらつきつつ立ち上がろうとする修一郎を、傍にいる桐野が慌てて止めた。
「海華は台所だ、ほら危ない! とにかく座れ」
「台所ぉ? なぜ海華が女中の真似をせねばならぬ! ここへ呼べ!」
真っ赤な顔で喚く修一郎に酒を勧めて何とか宥め、桐野は困ったような笑みをこぼす。
「無粋な奴だ。少しはあの二人に話す時間をやらぬか」
そんな呟きが耳に入り、思わず朱王の表情が緩む。
桐野なりに、海華達の事を気に掛けていてくれたのだ。
先刻の耳打ちも、きっとそれに関してなのだろう。
料理と酒を粗方平らげ、部屋は杯盤狼藉のありさまであり、その中に酔い潰れた都筑と高橋が酒精がおびき寄せた睡魔に負け、座ったままで低いいびきをかいている。
『だらしない奴らだ』そうぶつぶつ文句を言いながら手酌をする修一郎を横目に、桐野と朱王は顔を見合せ小さく笑う。
その時、廊下に面する障子に二人ぶんの影が現れたかと思うと、『失礼致します』と、いささか遠慮がちな声と同時、滑るように障子が開いた。
「おお、志狼、海華も。どうかしたか?」
「はい、申し訳ありません、実は……酒が切れてしまいまして」
「私達、今から買いに行って参ります」
一礼した二人の口から出た台詞に、朱王の表情が一瞬曇る。
「今からか? もう表は暗いぞ。大丈夫か?」
「平気よ、志狼さんと一緒に行くんだし。それに、早くしないとお店も閉まっちゃうわ」
「海華ー……! お前が買い出しなど、そんな真似は……しなくてもよぃっ!」
べろんべろんに酔っ払った修一郎が、酒精で濁った目を瞬かせ、空になった猪口を振る。
「酒は……ないのかっ!」
「嫌だわ、そんなに大声をだして。修一郎様、お酒はすぐに買って参ります。──兄様、志狼さんだけじゃ持ちきれないわ、だから、あたしも行く」
「そうか? ── なら、気を付けて行ってこい。志狼さん、こいつを頼む」
「ああ、わかった 。海華を使ってすまないな。すぐに戻ってくる。では旦那様、行って参ります」
『気を付けてな』桐野の言葉に見送られ、志狼は一礼しその場を去る。
彼の後につこうとした海華だったが、ふと足を止め、朱王の元へと小走りで駆け戻ってきた。
「どうした、忘れ物か?」
「うん、兄様あのね、志狼さんが、近いうちあたしと兄様に話したい事があるんですって。時間とってもらえるかしら?」
「話し?…… ああ、わかった。その時は時間をとろう」
「お願いね。じゃあ、行ってきます」
くるりと身を翻し、部屋を出ていく海華。
障子がきっちり閉め切られたのを横目で眺めつつ猪口に残った酒を飲み下し、朱王は心中で『来るべき時がきた』と静かに呟いていた。
繊細な雪の花が砕け散る儚い音と共に、二人ぶんの下駄の跡が純白の道に刻まれる。
風はない。
しかし、その分深々と冷え込む冬の夜、墨塗りの夜空からは未だに白い欠片が舞い降りていた。
「寒いわねぇ……」
大きな酒瓶を抱え、橙色と赤色の布地で出来た分厚い綿入れに身を包んだ海華が、肩を竦めながらぶるりと一度身震いする。
同じく藍色をした綿入れを纏い灰色の襟巻きを巻く志狼は、そんな彼女を見るなり、首もとの布を外し取った。
「これ、巻いてろ。少しは違うぞ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。志狼さんが寒いじゃない」
『気持ちだけ頂くわ』そう微笑みながら返す海華を引き留め、志狼はいささか強引に襟巻きをその細い首へ巻き付ける。
驚いたように目を見開く海華から目を反らす事もなく、志狼は微かな微かな笑みを見せた。
「お前に、風邪引かせらんねぇからな」
じっと見詰められた事など、今まで数える程しかなかった。
寒さのためではない理由で頬を桜色に染め、海華は無意識に下を向いてしまう。
「あり……がとう。なら、遠慮なく」
じわりと染み入る温もり、照れ臭そうに上目遣いで志狼を見遣り、海華も唇に微笑みを浮かべる。
「凄く、暖かい」
「そうか。── さ、凍えちまう前に、早く行くか」
自らと海華の肩口にうっすら積もる雪を払い、志狼が踵を返す。
「それにしても、今夜は修一郎様方、随分とご機嫌ね。何かあったのかしら?」
「ああ、お前、知らなかったのか? 去年から上方、江戸一帯を荒らし回ってた盗賊がいるだろ、あの頭領がお縄になったんだよ。『暗雲の惨九郎』とか言ったな」
「何か聞いた事のある名前だわね。天下の悪党をお縄に出来たから、ご機嫌だった、って訳か」
満面の笑みで酒を胃袋へ流し込んでいた修一郎の顔を思い浮かべ納得したように頷く海華。
と、彼女の足が不意にぴたりと止まった。
「おい、どうした?」
「うん、あれ……」
海華が指差す方向を、志狼は手にしていた提灯をかざして目をこらす。
周りは雨戸を閉め切った店が軒を連ね、月明かりと提灯以外に光源はない。
月光が雪に反射し、ぼんやりと光る一本道の向こう、白一色に染まる世界の真ん中に、踞る何かがあった。
「志狼さん、あれ……人、じゃない?」
「ああ。間違いねぇ。ありゃ人だ」
互いに顔を見合せ、小さく頷いた二人は、その『踞る人』に向かい、雪を跳ね上げつつ駆け出す。
激しく揺れる提灯、その灯りのもと二人が目にしたものは、目にも鮮やかな江戸紫の着物だった。
雪道の真ん中に踞り、胸を押さえて苦し気な息を吐く一人の女。
雪避けのためだろう、頭に被った手拭いの端をきつく噛み締める唇は、紙のように真っ白だ。
「あの、どうしました? 大丈夫ですか?」
手拭いに隠れ、顔のわからぬ女に恐る恐る声をかけ、海華はその場にしゃがみ込む。
「胸が……。胸が、急に苦しくなって」
今にも倒れてしまいそうな様子で身を震わせ、掠れ声でそう告げる女の首筋に、一筋の遅れ毛が揺れる。
「胸? やだ、心臓かしら? この近くですか? 志狼さんこの方送って行きましょう」
「わかった。俺はそっちを持つから、お前はここを支えろ」
酒瓶二つと提灯を雪の上へ置き、女の傍らへ膝をつく。
「まぁ、なんて……なんてお優しい方達でしょう……」
俯いたまま女がぼそりと呟く。
それと同時、女の顔を隠していた手拭いが、唐突に吹き抜けた一陣の風に吹かれ、宙に舞った……。




