第十二話
「お仙!」
「にぃちゃん! どうして!?」
狭い室内で突然の鉢合わせになった兄妹は、互いに引っくり返った叫びを上げ、室内にいた浅黄はその場で軽く腰を浮かせる。土間に突っ立ったままのお仙を室内へ上げた海華は、作業机の前に胡座をかく朱王の隣へちょこんと座った。
「話はこれから兄様がしてくれるわ、だからお仙さんも座ってちょうだい。あたしはお茶でも淹れるから、後は兄様お願いね」
そう言って立ち上がった海華の背中へ視線を送りつつ、朱王は壁から身を離して浅黄とお仙へ向かい合う。
「さてと、役者が揃ったところで話を始めるが、浅黄、見ての通りお仙さんは無事だ。お仙さん、浅黄はもう陰間茶屋とは何の関係もない人間になった。これから二人が何処へ行こうが何をしようが自由だ」
『自由』その単語を一際強調する朱王に、お仙は戸惑いがちに視線を揺らし、膝の上に乗せた手忙しなく握る。
「でも、にぃさんには、まだお店に借金が……」
「それも耳を揃えて返してきた。お仙さん、あんたが用意してくれた金でだ」
顔にかかる前髪を掻き上げつつ朱王が発した台詞に、お仙はハッと息を飲み、浅黄は目を丸くして隣にいる彼女へ顔をやる。
「お仙があの金を!? あんな大金、どうやって用立てたんだ?」
「親分の……鬼熊が、手下に内緒で貯め込んでいたお金があったの。江戸に来た時、鬼熊が塒の軒下に埋めているのを、たまたま見ていたから」
言い難そうに口ごもるお仙に、横から湯気の立った湯飲みをそっと差し出した海華は、『それだけじゃないでしょう?』と小声で囁く。
「えぇ……。ほんの少しなんだけれど、あたしも分け前を蓄えていて。―― もし、江戸でにぃちゃんを見付けられたら、借金も何も全部払ってお店から出してあげよう、って……」
次第に尻すぼみとなる声。彼女の台詞に浅黄は声を詰まらせ、唐突に彼女を抱き寄せる。倒れ込むように兄の胸に収まったお仙、彼女の両目から堰を切ったように涙があふれ出た。
「お、にぃちゃ……ッッ!」
「すまない……お仙、悪かった。お前にこんな苦労を掛けさせて……ッ!」
固く抱き合い涙に咽ぶ二人の影が、白っ茶けた畳に長く伸びる。作業机の上に湯呑を置いた海華と視線を合わせて軽く微笑んだ朱王は、コホンと一度咳払いをした後、組んでいた足を組み替えた。
「お仙さんから隠し金の話を聞いたとき、これで浅黄を店から出せると思ったんだ。もしや手下どもが舞い戻っているかと思って海華を一緒に行かせたんだが、塒には誰もいなかったらしい。血に汚れた金だが、まぁ役に立ったようだな」
そう言って、朱王は作業机の下をまさぐり泥に汚れた小汚い壺を一つ引っ張り出す。あちこちにヒビが入った壺を涙を拭う二人へ押し遣り、朱王は作業机の上の湯呑を手に取る。
「これは残りの金だ。これから色々と用立てなけりゃならないだろうから、これは二人に渡しておく」
「朱王さん……海華さんも、本当になんて礼を言ったらいいのか……俺とお仙のために、ここまでしてくれるなんて」
礼の言葉も見つからない、ただただ『ありがとうございます』と繰り返し畳に額を擦り付ける二人。
と、海華は何かを思い出したかのようにポンと一つ手を打ち、袂に片手を突っ込むと中から一枚の紙切れを取り出した。
「これ、渡すの忘れてた。実は伽南先生がね、お二人の事をすごく心配なさってたの。浅黄さん……ううん、惣太郎さんがお店を辞められたって伝えたら本当にお喜びになって、もし惣太郎さんさえよかったら、先生のお店で働かないかって。住むところも必要だから、近くの長屋を用意したって。だから、今夜からはここに行くといいわ」
お仙の傍ににじり寄り、その紙を手渡せば、彼女は海華の手ごとそれをきつく握り締め深く深く一礼する。
「しばらくは、兄妹水入らずでゆっくりすればいい。『引き込みのお久仁』は、もう死んでいるから追っ手の心配もすることはないだろう」
茶を啜る朱王の一言に、お仙は泣き腫らした目を瞬かす。
「あたしが死んだ? それって、どういう……」
「大丈夫、その事はあたしと兄様に任せて。なにもお仙さんの命を取ろうってんじゃないわ。そのうち瓦版にも載るかと思うけれど、お仙さんの身代わりを用意したの」
「投げ込み寺に棄てられた遊女や無宿人の骸を拝借させてもらった。背中をバッサリやって、顔も潰しておいたから、人相はわかるまい。着物はお仙さんから借りた物を着せたし、櫛も簪も、お久仁の名前が入った守り袋も持たせてある。これで、引き込みのお久仁は死んだ」
「でも、大変だったのよ、お仙さんと年恰好が似ている骸探すの。あっちこっちのお寺やお墓へ夜中に忍び込んでさぁ」
時おり笑いを混じらせ話す朱王と海華。唖然とした様子で顔を見合わせた惣太郎とお仙の頬が軽く引き攣る。
「朱王さん、綺麗な顔してやる事は大胆なんだな……」
「そうか? まぁ、半腐れの骸を担いで運ぶのは、なかなか骨が折れたよ」
飄々とした様子で話す朱王に、惣太郎は自らの前にあった金入りの壺へ視線を向けた。
「朱王さん、一つだけ頼みがあるんだ。コレを……この金を、受け取ってくれないか?」
壺を朱王へ押し遣り、浅黄は畳に両手をつく。
「これは、確かに汚い金だ。でも、俺たちにはこれしか礼をする方法がない。だから、どうかこの金を……」
「俺たちに礼なんか必要ない。あさ……いや、惣太郎さん、先に海華を助けてくれたのは惣太郎さんだ。だから……」
「お願いします! どうか、どうかコレを受け取って下さい!」
腹の底から叫ぶように、畳に手をついていたお仙が甲高い声で叫ぶ。
「ここまでして頂いて、何一つお礼が出来ないなんて、あたしもにぃちゃんも気が済まないんです、お願いです、どうか、どうかコレを……!」
額が擦り切れんばかりに頭を下げるお仙を前に、朱王と海華は考え込むように胸の前で腕を組む。
「どうする海華?」
「どうするったって、ここまでされちゃ貰わない方が悪いわよ。あたし、これだけ頂くわ」
言うが早いか、彼女は壺の中に手を突っ込んで山吹色に輝く小判を一枚取り出す。それを見ていた朱王もその場から腰を上げ、壺に手を入れ小判を一枚掴み取る。
「なら、俺も一枚頂こう。気を遣わせてすまなかった。ありがたく頂戴するよ」
小判を懐にしまいつつ朱王は微笑む。顔を伏せたまま、何度も何度も頷いた。二人の啜り泣きを含ませて、いつの間にか西へ傾いた太陽が橙色の光りで室内を照らす。四人の影は古びた畳に刻まれていった。
『お世話になりました』
そう丁寧に礼を述べ、惣太郎とお仙は中西長屋を後にする。仲良く寄り添い歩く二人の後ろ姿が見えなくなるまで、朱王と海華は長屋門の前で見送った。
「あの二人、これから幸せになれるわよね?」
ポツリとこぼす海華に、朱王は流れる黒髪を掻き上げ頷く。
「そうだな、今まで苦労したんだ。きっと幸せになれるさ。まぁ、夜の蝶から昼の蝶に変わったってところかな」
「あら、随分と綺麗な事を言うわね。色街ででも覚えたのかしら?」
ニヤ、と白い歯をのぞかせる海華の頭をコツリと小突き、そのまま踵を返して部屋へ戻ってしまう。
その後を小走りに追い掛ける海華の顔からは、悪戯っぽい笑みが消えないままだ。
昼と夜との境界線、時は静かに過ぎていく。江戸の夏は、まだ始まったばかりだ。
終