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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十章 猫と秋刀魚と誰かの手首
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第二話

 クロが運んできた手首に朝っぱらから長屋は上へ下への大騒ぎだ。

はす向かいにすむ大工の女房が前掛けを絞めたまま番屋、忠五郎の元へと走り、大家はすぐ近くで駒回しに戯れていた六つ、七つほどの子供に命じて海華を呼び戻しに走らせる。


 当のクロはと言えば、周りの騒ぎなどお構い無し、上がり框の猫飯を綺麗に平らげて今は部屋の片隅で満足げに顔を洗っていた。


「こいつぁ長げぇ間水に浸かってたみてぇだな。腐れる一歩手前だ」


地面に転がるそれを覗き込み、十手でとんとんと肩を叩く忠五郎は、側に佇む朱王へ目を向ける。


 「こいつ、運んできた猫っつうのはどこにいるんでぇ?」


 「部屋の中におりますが……今、留吉さんが……」


 そう不安げに言い、朱王が部屋へと目を向けた途端、フギャ──ッッ! と空気を切り裂く獣の咆哮と、ぎゃあ! といかにも情けない男の悲鳴が重なりあい、長屋中に響き渡る。

鼻を手で押さた留吉が、掠れた悲鳴と共に部屋から転がり出て来たのを前に朱王は頭を抱え、盛大な溜め息をついた。


 「男には全くなつかないので……止めるよう進言したのですが」


 「あいつのあるんだか無いんだかわからねぇ鼻ぁ引っ掻くんだから、なかなかな猫だぜ。それにしてもこの汚ねぇ傷口、あの猫が食いちぎったに違ぇねぇ」


 近所の者が寄越してくれたむしろを手首にかけ、忠五郎は井戸端で涙目になりながら鼻を洗う留吉を横目で見遣る。

騒ぎを聞き付け 部屋から出てきた長屋の住人ら。

おっかなびっくりと言った様子で筵に視線を集中させる者、子供に向かい、外に出るなと怒鳴る母親に、筵へ向かい手を合わせる長屋の古老と、悪い意味で大賑わいだ。


 はてさてこれからどうしたものか。

小さく盛り上がる筵を前に渋い表情を崩さない朱王、その背後から『兄様──っ!』と、甲高い悲鳴にも似た女、いや、海華の叫びが響いた。


 「兄様! 兄様一体何の騒ぎなのよ! 猫が手首くわえてきたって……誰の手首なの!」


 「誰の手首って、そんな事、あの馬鹿猫に聞いてみろ!」


 不機嫌をそのまま顔に表し、朱王は、ちらりと室内へ視線を投げる。

そんな兄と足元に広がる筵を交互に見遣り、海華は顎先から滴る汗を拭い飛ばす。

何が何やらわからない、と言いたげな海華へ忠五郎は事の次第をそっと耳打ちした。


 「…… じゃあ、この手首はクロが噛みちぎって? 」


 口元に手を当て、呆然と部屋の方を見る海華の横で、忠五郎が無言で頷く。


 「犬ならわかるけど……猫にそんな力があるなんて信じられないわ。それに、どうしてあたしのいない時に……」


 『兄様へ見せたかったのかしらね』


 海華が何気無くこぼしたその一声を『馬鹿』と切り捨てながらも朱王の視線は宙を泳ぐ。

いつの間にやら部屋から出ていたクロは、そんな朱王へにやりと白く輝く牙を覗かせた。





 手首の主は一体誰か。

そんな最大の謎は意外にもあっさり解決する。

長屋近くを流れる川の中で、死後幾日か経った女の骸が発見されたのだ。


 生い茂る雑草や水草に絡め取られ下流に流れていかなかった代わり発見も遅れ、すっかりふやけ血の抜けた骸は蝋細工のように真っ白、そして右手首は欠けていた。

女の身元は懐に所持していた財布等の所持品から高橋が調べあげ、浅草で髪結い所を営む『吉江』と言う女だとわかる。

彼女は七日ほど前、湯屋に行くと出掛けたのを最後に、忽然とその行方をくらませていた。


 一面識もない女の手首を、なぜクロが朱王の元へ運んできたのかそんな謎は残ったが、いかんせんクロが答えてくれる訳でない。

とにかく、吉江を待つ家族の元へ留吉が走り、骸と手首を引き取ってもらったのだが、話しはこれからである。


 大家曰く『迷子の手首』事件から二日余りが過ぎた日、ちょうど海華が夕餉の片付けを終えた頃、長屋へ志狼がやって来たのだ。


 『こんばんは』そんな一言と共に戸口を引き開けた志狼の口から、ふわりと白い吐息が揺れる。

秋も半ばのこの季節、日が落ちれば軽く身震いする寒さが訪れるのだ。

志狼の姿を目にするなり海華はにこりと朗らかな笑みを見せ、朱王は眉間に軽く皺を寄せる。

そして、海華の膝の上で惰眠を貪っていたクロ……すっかり部屋へ入り浸るようになった、傍迷惑な同居『猫』は、弾かれるようにその黒い瞼を開き、ふぅっ! と威嚇の声を上げた。


 「お、それが噂の黒猫か? 随分と肥えてるな」


 「そうなの。いつもお茶碗に山盛りご飯食べるのよ」


 金色の瞳を剥き出し威嚇するクロを面白そうに眺め、海華と談笑していた志狼。

しかし、その横顔に注がれる鋭い視線にやっと気が付いたのか、彼は慌てて朱王へ顔を向けた。


 「あ、遅くにすまねぇ。朱王さん、その…… ご無沙汰してたな」


 「ご無沙汰ね……。俺はあんたをつい昨日、長屋の前で見掛けたがな? 確か今時間だった気がするが……誰かに待ち惚けでもくわされたか?」


 じろり、と横目で志狼を睨みつつ、朱王は作業机の下から酒瓶を引っ張り出す。

志狼が長屋の前で誰を待っていたかなど、朱王がわからぬはずはないのだ。


 「いや、朱王さんそりゃ……」


 「ああわかってる。お前が何を言いたいのか……どのみち、俺が一番聞きたくない答えなんだろう? それより早く戸を閉めて中へ入れ」


 湯飲みを二つ畳へ置き、朱王は再び横目で志狼を見遣る。

そんな彼を前に海華と志狼は顔を見合せ苦笑い。

言われるがままに冷えた風が吹き込んでくる戸口をしっかりと閉め室内へ、朱王の正面へ座ってありがたく朱王の注いだ酒を手にした志狼。

その後ろで、海華の太股に顔をすりよせ気持ち良さそうにごろごろ喉を鳴らすクロの姿があった。


 「…… 猫の分際で、随分と図々しいんじゃねぇか?」


 海華にじゃれつくクロを座った目付きで眺め、志狼がぽつりとこぼす。

自分だって未だ海華と熱い抱擁を交わした事もなければ、手を繋ぎ歩いた事すらないのだ。


 「ああ、確かに図々しい。必ずいつか叩き出してやろうと思っている」


 酒を満たした湯飲みを口に運び朱王はむっつりした面持ちで一度頷く。

飯を食うだけ一人前、後は一日ぐうたら寝ているだけの居候。

だらりと四肢を伸ばして寝こけている姿を見ているだけで、真面目に働いているのが馬鹿くさくなる。


 二人の真意は違えど答えは一緒という訳だ。


 「二人供なに馬鹿なこと言ってるの。 クロは猫なんだから、仕方無いじゃない。 それより志狼さん、今日はどうしたの?」


 膝の上でじゃれつくクロを抱き上げ、海華が小首を傾げる。

湯飲みの酒を一気にあおり、志狼が背後に座る彼女へ振り向いた。


 「そうだそうだ、すっかり忘れてた。 この猫がくわえてきた手首の主、確か吉江とか言う浅草の髪結いってなぁ知ってるな?」


 「ええ、瓦版に載っていたから知ってるわ」


 「骸が見付かったその日のうちに、家族が引き取りにきたんだろう?」


 海華と朱王の言葉に、志狼は意味ありげな笑みを唇の端に浮かべる。

 

 「そうだ、骸引き取りに来たのは死んだ女の亭主なんだが、それが二十も年下なんだ。女房が四十路だろ? 亭主がいくつか、わかるよな?」


 「二十も年下……って事は、あたしより若い亭主なの?」


 頬を引き攣らせる海華に、茶碗を持ったまま呆然と志狼を見詰める朱王。

四十路と言えば年増も年増、大年増。

息子ほど年の離れた男と一緒になれたのは、ひとえに手に職があり男一人養うに、そして食って行くのに困らぬ身だからだろう。


 「気の弱そうな青瓢箪だったって、親分と留さんが話してたのを聞いたんだ。 なんでも、腐れて膨れ上がった死骸にすがり付いて、人目もはばからず泣き叫んでいたらしいぜ」


 そう言いながら、朱王が再びついでくれた酒をちびちびと舐める志狼。

互いに顔を見合せた兄妹は、もはや言葉も出ない様子だ。


 「よほど女将に惚れてたんだろうぜ、って親分は話してたがな、朱王さん、どう思う?」


 「どう思うって……そりゃ親分の言う通りなんじゃないのか? それとも、その亭主に何かやましい所でも?」


 突然話しを振られ、しどろもどろに答える朱王へ志狼はニヤリと白い歯を覗かせた。

二人の姿を交互に見遣る海華も、興味津々で身を乗り出している。


 「ねぇ、志狼さん勿体振らないで教えてよ、その人何か怪しいの?」


 「怪しいも何も…… 最愛の女房が死骸で見付かって十日も経たないうちによ、亭主が色街界隈をうろつくかね?」


 『俺にゃわからねぇな』


 そう一言呟き、酒を啜る志狼。

海華に抱かれていたクロは、そんな志狼の姿を眺めつつ、金色の瞳をくるりと回した。


 「亭主が色街に? それも留吉さんから聞いたのか?」


 酒瓶を傾けつつ尋ねる朱王へ首を横に振って見せる。


 「いいや、俺が実際この目で見たんだよ。同い年くらいかな、若い女と連れ立って歩いてた。こそこそと脇道に入ってたぜ」


 「まだ喪もあけていないのに! 何を考えてるのかしら!」


 志狼の話しに憤りを隠しきれない海華が上げた叫びに、クロは柔らかく丸めていた身体をびくりと跳ね上げた。


 「確かにとんでもない野郎だが── 年下の亭主を選んだ時点で死んだ女将もそうなる事は覚悟していたんじゃないか?」


 つらっ、とした顔でそう言い放ち、志狼の酌を受ける朱王。

そんな朱王の言葉に『ああ、そりゃ言えるな』 と同調の台詞を口にし、志狼はその場にどかりと胡座をかいた。


 「あの亭主もまだ若いからな。これから先、独身貫き通すってなぁ出来ねぇ相談だろうよ」


 「なにさそれ、随分と手前勝手な言い種じゃないの。あたし一緒になるなら、絶対浮気しない人を選ぶわ。…… 誰かさんがそうだとは限らないけどね」


 じろりと横目で睨みを効かせる海華、その視線を背中に受ける志狼は、小さく肩を跳ねさせ助けを求めるように朱王を見詰める。

そんな二人を見ていた朱王は、馬鹿馬鹿しいと言いたげに海華へ向かいフンと鼻を鳴らした。


 「お前、何もわかっちゃいないな。絶対に浮気しない男なんざいるもんか。浮気の一つも『できない』男を選べ」


 「ああ、そうか! そうよねぇさすが兄様、言う事が違うわ」


 「だろ? ちょうどいい奴がいるんじゃないのか?」


 にや、と悪戯っぽく笑う朱王を前に、志狼は盛大な溜め息をつきつつ力なく肩を落とす。

笑いたいのを必死でこらえ、クロを抱く手に力を込める海華の影が、ひび割れた土壁に大きく映り儚く揺らめいた。

志狼が長屋を訪れた翌日、海華の姿は浅草にあった。

晴れの日も雨の日も数多の人が行き交い賑わいを失わない浅草寺、そして仲見世を素通りし、海華が向かったのは右手の主が暖簾を構えていた髪結い床だ。


 女の髪結いは遊郭や武家、商家の奥方連中、所謂馴染み客の所へ直接出向き、店を構えるのはもっぱら男の髪結い、いわば床屋だ。

女だてらに店を構える、それは死んだ吉江の今は亡き父親が腕の良い床屋だったこと、そしてその腕を吉江がそっくり受け継いだからだと風の噂に聞いていた海華。


 人混みに紛れ店に近付いた海華、昨夜志狼から聞いたとんでもない亭主の顔を一度拝んでやりたい……つまり好奇心が先に立ち、仕事そっちのけでやってきたのだ。

向かいにある商家の板塀に身を隠し、男が出てくるのを今か今かと首を長くし待ちわびる、そんな彼女の足元で、くにゃりと闇が蠢いた。


 「あんたが一緒にくるなんて、珍しいわね」


 足元にまとわる柔らかな毛の塊に視線を落とした海華の唇に微かな笑みが浮かぶ。

『にゃおぅ』と掠れた返事を返す影……クロは、琥珀色に輝く瞳をすっ、と細めた。

普段、髪結い床などとんと縁がない海華だ。

どんな口実で店へ入ろうか……。小豆色の暖簾が揺れる店先を見詰め、己の切りっぱなした黒髪を玩びながら思案していると、突如、足元にじゃれついていたクロが地面を軽く蹴り、道へと飛び出す。


 漆黒の矢と化したしなやかな身体は行き交う人々を目にも止まらぬ速さで次々と避け、揺れる暖簾へ一直線に駆けて行く。

声を上げる暇もない一瞬の出来事に、海華は目を白黒させるしか出来なかった。


 「ちょっ……ちょっとクロっ! 駄目じゃない勝手に!」


 足を縺れさせ、人混みをすり抜けクロの後を追い道を横切ると、クロは一度だけこちらを振り向いた。 しかし、すぐに海華から顔を背けると、なぜだ ろう、店内へ向かいしきりに甘えた鳴き声を上げ始めたのだ。


 幼い子供が母親を呼ぶように、にゃあ、にゃあ、と甘ったるい声を出し、店の前をうろつくクロとそれを眺める海華。

その時、秋風に戯れる暖簾の奥から一人の中年女が、ひょいと顔を覗かせる。

にゃあん!と一際大きなクロの声が海華の鼓膜を揺らした。


 「あれまぁ! あんたタマじゃないの! いきなりいなくなったと思ったら……お前今までどこにいたんだね?」


 酒樽に手足が生えた、と言えば言い過ぎだろうか?

でっぷりと肉を纏う体格のよい中年女は、その丸太を思わせる太い腕で軽々とクロを抱き上げる。

ぱたぱた尻尾を振りたくるクロ。

肉に埋もれた女の目が、そこに立ち尽くす海華を捉えた。


 「タマを連れてきてくれたのはひょっとしてお姉さんかい?」


 「は、い……。 少し前に、うちの長屋に迷い混んで……クロ、いやタマは、こちらの飼い猫だったんですか?」


 思いもよらぬくらいの急展開に思考がついていかず、しどろもどろになりながら海華は女を見上げる。 粗末なかすりの着物につぎはぎの前掛けをしめた、たぶんここの使用人であろう女は、ふっくらした頬に笑窪を刻み、こくりと頷いた。


 「そうですよ。ここの女将さんが目の中に入れても痛くないくらいに可愛がってた猫でね。少し前にふらりといなくなって、心配してたんですよ」


 「ここの女将さん!? じゃあこの間、川で死んでた……」


 「そうですよ。女将さん、なんであんな惨い死に方を……。ああそう言えばタマが見えなくなったのも、女将さんがいなくなったのと同じ頃だったねぇ。タマは、旦那さんにはちっともなつかないから……」


 困ったような微笑みを浮かべる女。

その背後、ちょうど暖簾の隙間から黒い羽織がちらりと揺れたのを女の話しに釘付けとなっていた海華は、未だ気付いていなかった……。

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