表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第四十章 猫と秋刀魚と誰かの手首
186/205

第一話

 杏子色の夕空に鰯雲が浮かぶ。

赤蜻蛉が薄羽根を煌めかせ頭上を飛び交う季節、皆が夕餉の支度に取り掛かる時間帯、傾いた門が目印となる中西長屋の一角から、もくもくと一筋の白煙が立ち上っていた。


 その煙りの出所、それは朱王の部屋の前である。


 いつもは背中に流している黒髪を一つに結い束ね、眉間に皺を寄せもうもうと上がる煙を破れた団扇で必死に扇ぐ朱王。

じゅうじゅうと何かが焦げる音と香ばしい匂い、白煙の隙間から見える使い古した七輪……。

黒く焦げ付いた焼き網の上には、こんがりと焦げ目の付いた秋刀魚が二匹、並べられていた。


 海華が魚売りのぼて振りから買い求めた秋刀魚は、言わずもがな今夜のおかずだ。

活きの良いうちに焼き、味わおうと七輪を用意したのはいいが、海華とて秋刀魚だけに掛かりきりと言う訳にはいかない。


 これでもかと言うほど料理の出来ない兄に任せるのは心配だが、自分が近くにいれば大丈夫だろう、そう考え、魚焼きを朱王に託したのだ。

盛大にむせ込み、跳ねる油を手足に受けて、その熱さに飛び上がる朱王。

その頃、当の海華と言えば……。


 「それでその旦那と女はどうしたのさ?」


 「勿体振らないで早く教えとくれよ海華ちゃん!」


 「そんなに焦らないでよ! 二人して連れ込み茶屋にしけこもうって時にさ、運悪く女将さんが帰ってきちゃったのよ! 後はわかるでしょ? もう凄い修羅場!」


 「やだねぇあの蛸親父! 顔に似合わない事するからだよぉ!」


 米を磨いでいたお石の一言に井戸端から、どっと賑やかな笑いが起きる。

そう、野菜を洗いに出掛けた海華は、そのまま井戸端会議の輪の中へ取り込まれてしまったのだ。

待てど暮らせど帰ってはこない海華。

部屋の竈では、しゅんしゅんと白い湯気を噴き上げる釜が、もうじき飯が炊けると訴える。

煙りがしみ、涙が滲む目を何度か擦り、朱王は団扇を地へ放り出した。


 「海華いい加減にしろっ! いつまでべらべら喋っているつもりだっ!」


 「もうすぐ行きますよ! そんなに怒らないで!── でね、またその後が傑作なの!」


 朱王の怒声もなんのその、洗い終わった葉野菜を笊に入れたまま海華は再び世間話に没頭しだす。

苛立ちを抑え切れぬまま、再び団扇を広い秋刀魚を扇ぐ朱王。

そろそろ頃合いだ、と程好く焦げ目の付いたそれを箸で持ち上げたその瞬間だった。

長屋門の陰から、さっと黒い影が走り出たかと思うと、魚を持つ朱王の背中へ力一杯ぶち当たる。

音もなく、突然襲い掛かってきた妙に柔らかく暖かみのある物体。


 悲鳴すら上げられず、その場に膝を付いた朱王の手から箸と秋刀魚が弾け飛び、透明な油を散らし宙を舞う焦げの付いた魚は、無惨に地面へ転がり、ざらついた土埃にまみれた。

地面に黒い油染みを作り出す秋刀魚へ、疾風の如く駆け寄った黒い影。

それは丸々と太った一匹の黒猫だった。

『なにをするんだっ!』そう猫に向かい、真顔で怒鳴る朱王。

尋常ならざるその声に、表にいた者全ての視線が彼に集中する。

勿論、その中には目を真ん丸に見開いた海華の姿もあった。


 秋の乾いた空気を揺るがす叫びに動じもせず、黒猫は一度金色の瞳を細めた後、まだ煙の立つ秋刀魚の尻尾をぱくりとくわえ、長い尻尾をくねらせつつ悠々とその場を後にする。

あまりにも大胆かつ図々しい猫の行動に、朱王も怒りを通り越し唖然とするばかりだ。

団扇をしっかり握り締め、呆気に取られた様子で去り行く猫を凝視する朱王の前で、七輪に一匹だけ残されていた秋刀魚から、ぼっ! と橙色の火が吹き出した……。






 「晩飯がこれだけって事があるかっ!」


 お膳に乗せられた夕餉を前にした瞬間、朱王の怒りが爆発する。

こめかみに青筋を浮かべる彼に負けじと、味噌汁をよそっていた海華が柳眉を逆立てた。


 「仕方無いでしょ! 誰かさんのせいでせっかくの初物、一匹は盗られてもう一匹は炭にしちゃったんだから! 」


 「俺のせいだと言いたいのか! だいたいお前がグダグダと無駄話に花を咲かせているからだ!」


 そう吐き捨て、箸を引ったくる朱王の前には山盛りの白飯と数切れの沢庵、そして味噌を添えた大根おろし。

これが今宵の夕餉、本来ならば、ここに油の滴る秋刀魚があるはずだった。

しかも初物の。


 「そりゃあたしだって悪いとは思ってるわよ! でもね兄様、魚の番もろくに出来ないの? しかも相手は猫じゃない!」


 葉野菜の味噌汁を朱王へ突き出し、乱暴な手付きで前掛けを外す海華。

どちらの言い分も一理ある。

二人ともそれを充分わかっている故、余計腹が立つのだろう。


 「それにしてもあの泥棒猫…… 今度見付けたら、ただじゃおかん」


 「もう止めましょ。いつまで怒ってても仕方ないわ。魚が戻ってくる訳じゃないんだから」


 苛立たしげに沢庵を噛み砕く朱王に目を遣りつつ、些か呆れ顔の海華は味噌汁を啜る。

ぎすぎすした空気の中で終えた味気無い夕餉。

その夜、秋刀魚の匂いを振り撒く七輪は、部屋の外に放置されることとなった。






 さて、翌日。

昨日のもやもやした気持ちをほんの少し引き摺りながら、二人は朝を迎える。

寝惚け眼の朱王は、未だ布団に潜りっぱなし。

朝餉の支度をせねばならない海華は、そんな兄を構っていられないとばかり、手早く身支度を整えると、きりりと襷をかけて米の入った笊を持つ。


 表から射し込む目が眩むほど眩しい朝日を受けがらりと戸口を開け放つ海華。

その途端、足元に絡み付くやけに暖かく、毛むくじゃらの塊に、海華は小さな悲鳴を上げて飛び上がる。

みゃおぅ、と些か甘えたような鳴き声が足元から響いたと同時、海華は丸い目を更に丸くし、その場へ屈み込んでいた。


 「あなた、昨日の秋刀魚泥棒じゃない!」


 思わずそう叫んだ海華の脛へ、猫は何度も頭や身体を擦り付けながら、ごろごろと喉を鳴らす。

その愛らしい様子に自然と海華の口角が緩んだ。

だが、そんな海華の後ろでは、布団からむくりと起き上がった朱王がとてつもなく不機嫌な表情を浮かべ、寝癖のついた長髪を掻き上げる。


 「昨日の馬鹿猫か? また何か盗られる前に、さっさとつまみ出せ」


 寝起きで嗄れた声が海華の背中に飛ぶ。

その意味がわかったのだろうか、猫は金色の瞳をいっぱいに見開き朱王に向かい全身の毛を逆立てながら、しゃーっ! と威嚇の声を放った。


 「── なんだ畜生の分際で。さっさと出ていかないと……生皮剥いで三味線屋へ売り飛ばすぞ」


 どかどかと足音も荒く上がり框へやってきた朱王へ、煌めく牙を見せ付けながら、猫は海華の陰へ身を隠す。

朱王と猫の間で、目に見えない火花が激しく飛び散り、まさに一触即発の状態だ。


 「ちょっと兄様、朝から物騒なこと言わないで! たかが猫一匹じゃないの、きっとお腹が空いているんだわ」


 「腹が減ってる? こんな丸々と太っていて……三日食わせなくても死ぬもんか!だいた い、こいつは野良猫じゃない! どこぞの家で 飼われているんだろう」


 確かに朱王の言う通り、野良猫にしては毛艶もよく、あまりにも太り過ぎだ。

頑なに『叩き出せ』と吐き捨てる朱王。

決して食い物に意地汚い男ではない、されど食い物の恨みは恐ろしいのだ。


 「そこまで邪険にすることないじゃない? いくら飼い猫だったからって、きちんと餌もらえてるとは限らないわ。色んな所を廻って餌探ししてるかもしれないし」


 振り向き様、そう口にする海華は笊を傍らに置き猫を抱き上げる。

元より動物が嫌いではない海華だ。

猫も本能的にそれを感じ取ったのだろう、海華に身を委ねたまま満足そうに目を細めた。


 「あまり構うな。居着かれたら困る」


 「そのうち帰るわよ。その前にお前が食べられそうな物、何か探さなきゃね」


 自分の肩口に顔を擦り寄せる猫と笊を抱えたまま海華は土間を出て行く。

その背中を不機嫌そのものの表情で眺めながら、朱王は短い溜め息をついていた。



 猫が長屋を訪れて五日程が経った。

『あまり構えば居着いてしまう』朱王の心配は見事的中してしまい、連日猫はこの部屋へ海華目当て……いや、餌目当てに通って来るようになったのだ。


 海華が朝餉の支度を始めると同時にどこからともなく現れ、たらふく飯を食った後は日がな一日部屋に入り浸り、日向でぐぅぐぅ寝てばかり。

ほぼ毎日がそれの繰り返しであり最早、野良猫か朱王の家の飼い猫か、わからない有り様だ。


 しかもこの猫、長屋の女には年寄りだろうが子供だろうが見境なく甘え、擦り寄るが、男には例え赤ん坊でも威嚇の声を張り上げ、全身の毛を逆立てたて爪を覗かせる。

いくら女のような顔をしていると言えども、朱王も立派な男、よって猫はちっともなつかない。


 海華とは違い、たいして動物が好きではない朱王。

別に猫に好かれようが嫌われようが知ったことではないが、さすがに我が物顔で部屋に入り浸られるのは腹が立つ。

一度、襟首を引っ掴み表へ放り出そうとしたのだが、太めの体に似合わぬひらりと華麗な身のこなしで逃げられ、お返しとばかりに手の甲を強か引っ掻かれたのだ。


 手を怪我する、それは仕事が出来なくなるに直結する大問題だ。

頭の一つもかち割りたい衝動にかられながらも、その日から朱王は猫を無視することに徹している。

この日も、朝餉の片付けを終えた海華が仕事に出掛けてしまい、部屋には朱王と猫……海華が『クロ』と名付けた猫だけが残される。

名前の通り、頭から尻尾の先まで漆黒、烏の濡れ羽色をしたクロはささくれた畳にだらしなく伸び、燦々と降り注ぐ暖かな日射しを全身で受け止めていた。


 かたや朱王は、三日前に受けた文楽人形の修理に掛かりきり。

先方からは、受ける際、あれやこれやと注文を付けられ四苦八苦しながら人形の頭を修繕している朱王を尻目に、クロは気持ちよさそうに高いびきだ。

相手にすまい、そう心で思う朱王、時折、長い尻尾が呑気に揺らぐのが視界に入り、この日ばかりはどうしても集中できないでいた。


 「食っては寝て、食っては寝て、か。全く……いい御身分だな?」


 海華が聞いたならば、きっと笑い転げるに違いない子供じみた台詞が朱王の口から溢れる。

食べて寝るのが動物なのだ、猫に働けと言うのが、どだい無理な話し。

しかし、小刀を動かす朱王からは次々とクロへの文句が転がり落ちる。


 「鼠の一匹も捕るならまだしも、お前が走るところもしばらく見ていないぞ。 ぐうたらに尻尾が生えたような奴だな」


 その台詞に抗議するかのようにクロは薄目を開け、ぎゃう、と、くぐもった声を上げる。


 「なんだ、文句だけは一丁前か? こっちはな、お前にを食わせてやっているんだ。いいか、鶴だって恩を返しにくるんだぞ?」


 『お前も何かできないのか』


 勢いに任せ、そう吐き捨てた事を、朱王は後々後悔することとなるのだ……。







 その翌日、朱王と海華が朝餉を終えたというにもかかわらず、クロは一向に姿を現さなかった。

あまりご飯に味噌汁をぶっかけ、そこに魚の骨、鰹節の削りかすを混ぜ混んだ所謂『猫飯』を用意し待っていた海華は、部屋の戸を開け放したまま、何度も表を覗きに行くなど朝から落ち着かない。


 「クロ、どうして来ないのかしら?── 兄様、まさかクロに意地悪したんじゃないでしょうね?」


 「馬鹿言うな。誰があんな野良猫なんぞに構うか。大方、違う居座り先を見付けたんだろうさ。それか、無駄飯食うのが申し訳ないとでも思ったんじゃないのか?」


 ふん、と鼻で笑い、彫刻刀の手入れを始める朱王を横目で睨みつつ猫飯を上がり框へ置いた海華は、小さく肩を落としたまま仕事に出掛ける支度を始める。


 「兄様ぁ、あたしそろそろ行ってきます。もしクロが来たら、これ食べさせて上げてね。表へ出しておくだけでもいいから」


 「ああ、わかったわかった。早く行ってこい」


 「…… 本当にわかってるの? まぁいいわ。 行ってきます!」


 ぷく、と頬を膨らませながらも、海華は木箱を背負い、戸を開きっぱなしにして部屋から飛び出していく。

上がり框にぽつんと置かれた猫飯に視線を投げ、緩慢な動きで作業机の前から腰を上げた朱王は、戸口を閉めようと土間へ向かう。

戸口に手を掛けた瞬間、視界に飛び込んでき たのは、ひょろりと長く、くねくね動く漆黒の紐。

みるみるうちに、朱王の眉間に深い皺が寄る。


 「貴様……」


 低く呻くような朱王の言葉に答えるよう、クロは全身をくねらせ足音一つ立てず、朱王の傍へ歩みよる。

やたら嬉しそうに金色の目を細め緩やかに尻尾を降り近寄るクロ。しかし、その口にくわえられている物が目に入った刹那、朱王は『うっ』 と息を飲みその場から数歩後退った。


 クロが得意気にくわえ、運んできた物、それは白蝋のように真っ白な人間の手首だった。


 何かにすがり付くよう鉤型に曲がった五本の指は細く、長い。

華奢な指やほっそりとしたその形から、どう見ても女の手首であろうそれは食いちぎられぐちゃぐちゃの血の気が失せた断面を無惨に曝し、そこからはわずかに赤い水滴が落ち葉の遊ぶ乾いた道に滴り落ちている。


 頬を引き攣らせ、己を凝視している朱王を見上げ、その足元に手首をぽとりと落とす。

そして、『どうだ』と言いたげに目を瞬かせ、みゃおぅ! と一声鳴いたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ