第五話
ぶぅん、と鈍い音と共に数えきれぬほどの蝿が黒い塊となって海華を襲う。
突然の襲来に悲鳴すら上げられず慌てて地面に這いつくばる彼女の頭上を、そして顔や身体にバチバチぶつかり唸りを上げて飛び交う蝿の群れは、やがて高く晴れ渡る秋空の彼方へ消えていった。
傍若無人な虫の群れが消え去った後、海華を襲うのは凄まじき糞便の臭いと、肉が腐り蕩ける悪臭……いや、悪臭などと生温い表現は出来ないほどの臭いの塊だ。
頭を強かに殴られたかのような衝撃。
息も止まり、震える四肢が地べたを掻く。
『早く逃げろ』本能は悲鳴にも似た警告を発するが、泥と千切れた草にまみれた両足は瘧にかかったように、ただがたがた震えるだけ。
早く誰かを……朱王でも桐野でもいい、誰か人を呼んで来なければ。
全身から冷や汗を噴き出し、ようやく起き上がった海華の耳に、微かに何かの声が届く。
猫の鳴き声に似た掠れたそれが何の音なのか、それがわかった刹那海華の足は無意識に地を蹴り飛ばしていた。
日の光りも入らぬ小屋へ身を踊らせたと同時、襲い掛かる腐臭に意識が明滅する。
胃袋がひっくり返り、肌や目にびりびりとしみるほどの悪臭。
涙で潤むその瞳が捉えたものは、まさに地獄そのものの光景だった。
冷たくぬかるむ足元は糞便の泥沼。
あちこち無造作に敷かれた筵の上には、骸骨の如く痩せ細り、腹を蛆に食い荒らされた赤ん坊の死骸がごろごろと転がっている。
まだ息があるのだろう、微か身動きする数人の赤ん坊は汚物の海を掻き分け、干からびた喉から必死の鳴き声を上げていた。
「なによ……なによ、これっ!? 」
血の気の失せた唇を戦慄かせ、海華が叫ぶ。
既に嗅覚は麻痺し、臭いなど感じない。
しかし、目から脳に送られるこの世のものとは思えぬ光景に、もうどうしたらよいのかわからない。
ただただ立ち尽くし、叫ぶしか出来なかった。
ぐちゃり、ぐちゃりと粘り着いた音を立て、男か女かもわからぬ赤ん坊が身をのたうたす。
まるで助けを求めるように、小さな手のひらをいっぱいに開き、感情の見えない目を見開いて……。
『うぎゃあ』
足の下から、鈍くか細い声がする。
足首に触れるひやりとした感触。
弾かれるように足元に目をやれば汚物と泥にまみれ、骨と皮ばかりになった赤ん坊が足へすがり付いてき た。
干からびた小さな口元が引き攣るように歪み、そこから濁った唾液が滴る。
生気の薄れたつぶらな瞳と視線がかち合った瞬間、海華は空気を揺るがす金切り声を張り上げて、渾身の力をもちその赤ん坊を蹴り飛ばす。
悲鳴を上げる気力すらなく、鞠の如く跳ね飛ぶ小さな身体。
張り裂けんばかりに見開かれた両目から涙の粒を散らせ、口からは狂人の悲鳴を迸らせる海華は、脱兎の如く小屋から飛び出し、墓石へ何度も何度もつまづき転びながら、寺の方向へ疾走していった。
「どうしたのです? 突然……」
苦笑いを浮かべると同時に小首を傾げ、玉仙は背中を向けたままの志狼へそう声をかける。
一度大きく深呼吸をし、志狼は胸に抱いた人形をしっかりとい抱き締めた。
「金は……今、持ち合わせは一両ばかししかねぇ。それじゃ到底足りねぇんだろ?」
「せめて五、いいえ、三両程度は……」
「すまねぇが、今すぐ耳を揃えてって訳にゃあいかねぇ。だが、金は必ず用意する」
振り向き様、そうはっきりと口にする志狼と、下からねめるような目付きで彼を見上げる玉仙の視線がかち合う。
素の色をした唇を小さく笑みの形に歪め、玉仙はこっくりと頷いた。
「わかりました。可愛い子供の為です。話を違わないように。では、赤ん坊をこちらに……」
志狼へ向かい真っ直ぐに腕を伸ばす玉仙。
ここで人形とわかってしまっては、全てが台無しだ。
人形を操る手のひらに冷たい汗をかきながら、志狼は泣き笑いの表情を浮かべ、微かに声を震わせる。
「そう、急かさないでくれ。お坊様、俺とガキゃあ今ここで、今生の別れなんだ。……もう二度と顔を会わせる事もあるめぇ」
爆発するように拍動する心臓の音が、玉仙にまで聞こえてしまうのではないか。
思考停止しかかる頭で考えた、芝居がかった台詞を紡ぐ志狼は再び外を振り返り、視界の中に桐野や朱王の姿がないかを必死で探す。
「産まれたばかりの赤ん坊を手放さなければならぬあなたの気持ちは痛い程わかります。ですが、赤ん坊の幸せを願えばこそ。……それにしても、その子は泣きもせず……大人しい」
『誰でもいい、早くきてくれ!』
そう心の中で絶叫を放ち、志狼はきつく唇を噛み締める。
からからに乾いた口内で舌が縺れた。
「そう、なんだ。このガキゃあ、めったやたらとぐずらねぇ。ただ静かに寝てる方が多いのよ。だから、親の手煩わせねぇいい子だからよ、余計可愛くなっちまう。わかるだろ? だから……」
『いい養い親を見付けてくれ』その台詞は声となり、志狼の口から出る事はなかった。
遥か彼方から響いた、声にならない甲高い叫びと金切り声が鼓膜を打つ。
それは、微笑を湛えて志狼を見ていた玉仙の耳にも届いたようだった。
「何事です!?」
一瞬表情を強張らせ、弾かれるよう立ち上がった玉仙。
食い入るように外を凝視する志狼の目の前、ちょうど背の高い庭木の陰から、いつの間に隠れ潜んでいたのだろう、長髪をたなびかせた朱王がその身を踊らせる。
玉仙と志狼、そして朱王が見詰めるその先には、涙で顔をぐちゃぐちゃに汚し、短い髪を振り乱して泣き喚く海華の姿があった。
「何事です! あなた達は一体……!」
突然の乱入者に慌てふためき、柳眉をつり上げる玉仙。
そんな彼女を他所に、志狼は素足のまま表へと飛び出す。
声を限りに泣き叫ぶ海華の尋常ならざる声に、寺の中にいたのだろう桐野や都筑、高橋がその姿を現した。
「海華っ! お前どうして……何があったんだ!?」
「兄様……! 赤ちゃんが死んでるっ! 死んで、死んでる! 腐ってるッッ!」
兄の胸へすがり付き、半狂乱状態で『死んでいる、腐っている』と連呼する海華。
その目に浮かぶは狂乱の色。
妹の身体から揺らぐ鼻をつく悪臭に顔をしかめる朱王、その手のひらが、言葉にならない叫びを散らす海華の頬を強かに打ち付ける。
ぱん! と乾いた破裂音が響き、海華の細い身体がぐらりと揺らぐ。
一瞬、その場の空気が固く凍り付く。
平手打ちされ、赤く染まる頬を押さえて、海華は呆然とした様子で兄を見上げた。
「── 海華、何があった?」
妹を真正面から見詰めゆっくりと訪ねる朱王に、海華は赤い唇を戦慄かす。
「お墓の、奥で……小屋で、っ赤ちゃんが死んでる……たくさん死んでる……っ!」
震える声色でそう告げた後、力なく海華がその場に崩れ落ちる。
そんな妹を支え起こし朱王は射殺さんばかりの激しい眼差しで、室内に立ち尽くす玉仙を睨み付けた。
志狼、桐野、そして都筑と高橋も、一斉に玉仙へ視線を向ける。
顔面を紙のように白くさせ、なわなわ身を震わせる玉仙。
『見たな』とその薄い唇が言葉を産み出した。
「見たな……あれを、あの小屋に……全て、見たのだな……」
この世の終わりを迎えたような、絶望に塗り潰された表情で玉仙はひたすらそう繰り返す。
「── 北町奉行所の者だ。今の話しを、詳しく聞かせてもらおうか?」
一際厳しい声色をした桐野がそう言い渡し、土足のまま室内に上がり込む。
何も言わず、逃げようともしない玉仙は、そこに根が生えたように立ち続けるだけ。
海華の啜り泣きだけが静かに響く。
都筑と高橋に両脇を挟まれ、玉仙が引き立てられようとした、まさにその時だった。
「お玉! ちょいとお玉、いるのかい? また一人持ってきたよぅ」
嗄れたがらがら声が廊下から聞こえ、玉仙のすぐ隣にある襖が、がらりと開け放たれる。
そこにいた全員の目が向けられたその先には、以前、志狼と海華ががこの寺から後を追っていた薬研堀の産婆の姿があった。
「なんだいあんた達っ! ここで何してんだっ!?」
突然目の前に現れた侍らに、産婆は黄ばんだ歯を剥き出して罵声を上げる。
「それはこちらの台詞だっ!」
「お前、その赤子をどうするつもりだ!」
恫喝に負けと語気を荒らげたのは、表情も険しい都筑と高橋。
その刹那何を思ったのだろう、産婆は訳のわからぬ叫びを張り上げ、抱えていたおくるみを力一杯宙へ投げ飛ばした。
真っ白な塊が、放物線を描いて都筑らの頭上を飛ぶ。
全ては一瞬の出来事、しかし空を舞う赤ん坊を見ているその場の全員には、それが酷く長い永遠もの長さに感じられた。
叫びも悲鳴も上げられず、ただ赤ん坊を目で追う朱王と海華。
その時、室内にいた志狼の足が畳を蹴る。
抱いていた人形を放り捨て、おくるみに向かい腕を伸ばすその身体が室内を斜めに飛んだ。
見事赤ん坊をおくるみ共に受け止め、そのまま畳へ倒れ込むよう落下した志狼。
どん! と室内の空気が激しく震動し火がついたように赤ん坊が泣き叫ぶ。
強かに身体を打ち付け、顔をしかめた志狼が顔を上げると、そこには罵詈雑言を吐き散らし桐野に羽交い締めにされる襤褸を纏った産婆の姿がある。
響き渡る罵声と怒号、足を踏み鳴らす鈍い響きに赤ん坊の甲高い鳴き声……。
狂乱の舞台と化した客間に、『おっ母さんっ!』と一際悲痛な叫びが響いた。
「── 志狼さん、大丈夫か?」
床柱に凭れ掛かり、ぼんやりと宙を見詰める志狼の頭上から彼の身を案じる朱王の声がする。
無言のまま小さく頷き、差し出された手をとって畳から立ち上がった志狼は、深々とした溜め息をつきながら桐野や高橋が玉仙と産婆を引き立てていく様を眺めていた。
志狼が受け止めた赤ん坊は、今は海華の胸に抱かれ、自らの親指を吸っている。
「一時はどうなる事かと思ったぜ」
そうぽつりとこぼす志狼の肩を軽く叩いた朱王は、無事に役目を果たし終え、畳に転がった赤ん坊の人形を掴み上げる。
だらりと力なく垂れ下がる腕が、志狼にはどこか物悲しく見えた。
「俺もな、いつ飛び出せばいいかと様子を伺っていた。だが、志狼さんの芝居があまりにも上手くてな。出そびれたよ」
「一世一代の大芝居だったぜ。それもこれも、朱王さんの人形あってだ。── ところで、海華は平気か?」
あれほど取り乱した様子の海華は滅多に見ることはない。
よほど酷いものを見てしまったのだろう。
海華を心配する志狼に、朱王は軽く頷きつつ表で赤ん坊をあやす妹を横目で見遣った。
「あいつなら、もう大丈夫さ。墓場の小屋ってやつも、忠五郎親分が調べているらしい。 ……それにしても、絹田屋の赤ん坊……可哀想に」
そう静かな、沈んだ声で呟き、ふっ、と視線を壁へやった朱王は、飾り棚へと近寄り飾られていた市松人形を手に取る。
「朱王さん、その人形……」
「ああ、俺が作った物だ。── 飾り用にと頼まれたが、本当は赤ん坊に持たせるためだったんだな」
人形の髪を撫で、唇をつぐんでしまった朱王の背中を見る志狼の頭の中に、薬研堀で出逢った老婆の言葉が浮かび、そして消えていった。
濃紺に染まる空に糸のように細い三日月が浮かぶ。
寺での一件から二日程経った日の夜、行灯が眠たげな光を揺らす中西長屋の朱王の部屋に、修一郎に桐野、そして志狼の姿があった。
「どうだ桐野。あの尼と産婆は口を割ったか?」
海華の酌を受け、猪口に満たされた酒を一気に飲み干した修一郎が隣に座する桐野へ視線を向ける。
「『娘』の方はぽつぽつ喋りだしたがな、『母親』は知らぬ存ぜぬの一点張りだ」
ぐい、と猪口を空ける桐野の口から忌々しげな声が漏れる。
竈の前に立ち、燗酒の支度をしていた海華は、前掛けで手を拭いながら、ちらりと兄へ視線を投げ、朱王はそれに答えるよう幾度か瞬きを繰り返す。
桐野の話しによると、海華が発見した墓場の外れにあった小屋の中には、干からびたものから腐り爛れたものまで、数えきれぬ程の赤子の骸が転がっており、小屋の側にあった古井戸の底にも、両の手では足りぬ程の小さな白骨が散らばっていたとの事だった。
赤ん坊は殆どが飢え死にか凍死であり、かろうじて息があった四人のうち二人も、その日のうちに息を引き取ったという。
正視するに耐えない、凄惨な現場。
気丈な忠五郎も顔を青くし、留吉に至ってはその場で嘔吐、卒倒したそうだ。
「酷い話しです……。桐野様、絹田屋の赤ん坊の行方は?」
今まで無言を貫いていた朱王が、静かに唇を動かす。
一瞬だけ間を置き、桐野はただ、首を横に振った。
「生き残った者の中に、絹田屋の赤ん坊はいなかった。養い親を探すという話しが真っ赤な嘘ならば、おそらくは……」
最後まで言葉を紡がず、桐野は新たに注がれた酒を胃袋に流し込む。
言うも苦痛、聞くも哀れだ。
「ところで朱王よ。お前、あの人形はどうしたのだ?」
ふと話しの流れを変えられ朱王は戸惑いの色を隠せない。
寺で見付けたあの人形、朱王は自らの手で絹田屋へ返しに行ったのだ。
そこで、正願寺で起こった事、そして尼の正体を主人に全て話して聞かせた。
自分の孫をどんな人間に預けたのか、それを知った主人は朱王の前で畳に臥し号泣したのだ。
酷い事をしたとは思う。
しかし、いずれは主人も、そして母親である娘も知らねばならない事実なのだ。
「孫の為にと持たせた人形が、まさか形見になるとは思わなかったでしょう」
わずかに顔をうつむかせ、暗い声色で呟く朱王へ志狼が徳利を差し出す。
今宵の酒はちっとも酔わぬ。
苦い苦い酒だった。
「…… だが、あの尼と産婆が親子だったとはな。儂も驚いた。元は陸中で、親子揃って堕胎を生業としていたようだ」
「そんな人達が、どうして江戸なんかに?」
桐野の言葉を受け、新たな酒を盆に乗せた海華が朱王の横へ腰を降ろす。
同じ盆には、志狼が持参してくれた漬物と海華がこしらえた牛蒡の煮付けが酒の肴として乗せられていた。
「どうやら、娘のお玉が先に江戸へ出てきたようだ。何年か前だったか、陸中界隈で大飢饉があっただろう。山のように人が死に、子堕しでは食えなくなったのやもしれぬ。お玉は船宿女中をしていたが、ひょんな事から正願寺の住職と知り合い、取り入った」
「それで……住職亡き後、あの寺に居座り、母親を呼び寄せて赤ん坊殺しを……」
空になった猪口を指先で玩び、そうこぼした志狼。
彼の言葉に同調するように、桐野は無言で頷く。
「そうだ。養い親を探すと持ち掛け、養育料として金をとっていた。器量の良い子はべらぼうな値段で売り飛ばしていたようだが、大半はあの小屋に放置して……」
『なにが仙女よ』
桐野の台詞を遮り、海華が低く呻く。
膝の上に揃えられた手が、筋が浮き出るほど固く握り締められた。
「何が仙女よ……。ただの人殺しじゃない」
悔しげに、どこか苦しげにこぼす海華へ、誰も言葉をかけられない。
いくら気丈な彼女でも、あの死屍累々たる光景を目の当たりにして少なからず心に傷を受けているのだろう。
酒を飲めない海華は、このやりきれない気持ちのをどこで発散すればよいのか……。
「仙女じゃぁなくて……あの寺にゃ鬼女が住んでいたようだな」
海華の横でそう言いながら、志狼は漬物を口に放り込む。
すっかり沈みきってしまった部屋の空気を一変させたのは、またしても桐野の一言だった。
「それにしても朱王、お前が造った赤ん坊の人形、あれは実に見事だった。たった五日であれだけの物を仕上げるとは、さすが稀代の天才だ」
「そんな……私はいつもの仕事をしたまでです。── ですが、今回は長屋の人達にも世話になりました」
「特にお隣の安坊にはね。兄様ったら、いきなり髪の毛を分けてくれなんて。あたしびっくりしちゃったわよ」
今まで暗い表情を浮かべていた海華も、思わず口角をつり上げる。
人形の頭に植える髪の毛、絹糸やらなにやらと様々な材料を揃えた朱王だったが、納得いく仕上がりにならない。
ならば本物をと、隣に住まう若夫婦に頭を下げて頼み込み、赤ん坊の髪を剃り落として分けてもらったのだ。
と、不意にその場から立ち上がった海華は朱王の作業机へ向かいそこに置かれていた赤ん坊の人形を抱き抱える。
海華の手によって命を吹き込まれた人形は、円らな瞳で瞬きを繰り返し、紅葉の手のひらを目を丸くしている修一郎へと差し出す。
「いや、桐野から話しとして聞いてはいたが、これは凄いな。本当に生きているようだ。 瞬きをする人形など、初めて見たぞ。朱王、これはどうなっているのだ?」
「目の上に少々細工を……人形が傾けば瞼が降りる仕掛けです」
「あの手足はどうなっている? 軋む音一つせぬな?」
「関節の部分に油を染み込ませた布を巻きました。軋みもせず、滑らかに動きます」
朱王を質問攻めにしていく修一郎と、それを苦笑しながら眺めている桐野。
と、突然桐野は無言のまま修一郎の羽織の袖を引く。
「なんだ桐野、今朱王から人形の……」
「しっ! 人形など後でもよい、あれを見てみろ」
そう修一郎に耳打ちし、桐野は彼らから少しばかり離れた部屋の隅、ちょうど作業机のある方向を指差す。
そこにはいつの間に移動したのだろう、人形を抱いた海華と志狼が肩を寄せ合い、並び座していた。
「俺、赤ん坊受け止める時に人形放り投げちまったからな、壊れてなくて安心した」
「そう簡単には壊れないわよ。でも、志狼さん凄く上手に人形動かせたみたいね? 一日だけしか教えてなかったのに……」
「そりゃあ、な……お前の教え方が良かったからだよ」
赤ん坊の人形を間に、和気藹々(わきあいあい)と話す二人、誰が見ても若夫婦だと思うだろう。
みるみるうちに修一郎と朱王の顔が不機嫌そのものに変わる。
「── 志狼め、どさくさ紛れに大胆な…」
「何が『お前の教え方が良かったから』だ、 調子のいい……」
「まぁ、よいではないか。── そのうち、あの人形が『本物の赤子』に変わるのだ」
『バカなことを申すな!』そう一言吐き捨てた修一郎は、むっつりした表情を崩さず、そこにある徳利を朱王と共に次々と空にしていく。
その傍らで、桐野だけが微笑ましげに二人を眺める。
この夜、部屋の明かりが消えたのは、夜が白み始め黎明が新しい一日の始まりを告げる頃だった。
終




