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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十八章 恋に焦がれて鳴く蝉よりも…
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第五話

 『お腹が空いた』そう言われ、黙っていられる志狼ではない。

すぐさま海華を台所へ招き入れ、鍋に放りっぱなしだった酒と適当な肴を持ち、客間へ走った彼は、戻ってくるなりおひつの蓋を跳ね開けた。


 上がり框に腰掛け、じっとこちらを見る海華の視線を背中に受けながら、志狼は慣れた手付きで飯を盛り、佃煮やら漬物、有り合わせの食材で飯の支度を整えていく。


 「こんな物しかなくて悪いな」


 「これだけあれば充分よ。うちの夕飯より品数あるわ。じゃ、遠慮なく、いただきます!」


 目の前に出されたお膳に手を合わせ、にこにこと笑みを浮かべる海華は、椎茸と昆布の佃煮を口に放る。 よほど腹が減っていたのであろう、あっという間に減っていく白飯を眺めながら、志狼は急須とお茶っ葉を取りに向かった。


 「汁物がねぇんだ。今、茶をいれるから待ってろ」


 「ありがとう。手間掛けさせちゃってごめんなさい。……兄様にあたしが来てること、話した?」


 ちら、と不安げな視線を投げてくる彼女に、小さく首を振って答える志狼。

朱王にも誰にも、海華が来ている事を話してはいない。

もし話してしまえば、きっと朱王は彼女を追い返してしまうだろう。


 「話しちゃいねぇ。だから、ゆっくり食え」


 「うん。……ありがとう」


 志狼の言葉に安堵したのか白い歯を見せつつ、海華は沢庵をつまむ。

やがて湯気の立つ茶を運んできた志狼が、彼女の隣へ静かに腰を降ろした。


 「── 春勝様との縁談、断ったんだってな」


 「桐野様から聞いたのね? そうよ……。お断りしたわ。あたしには、最初から勿体無いお話しだったのよ。それに……」


 空になった茶碗をお膳へ置き、湯飲みを手にした海華は、ぼんやりと遠くを見詰め、一度口を閉じる。


 「最後までわかり合えなかったの。春勝様のお考えと、あたしの考えが。何回も話し合ったんだけど……やっぱり駄目だった」


 熱い湯飲みを手のひらで転がし、自嘲気味に小さく笑う彼女の表情には、一抹の寂しさが伺えた。


 「春勝様はね、苦労もしない、食べ物にもお金にも困らない働かなくてもいい生活が、あたしには一番なんだ。って、始終仰ってたの。でも……でもね、あたし、働かない生活なんて考えられない。日がな一日家でじっとしているなんて……そんなのちっとも幸せじゃないわ」


 『まるで死んでるみたい』そうぽつりと溢れた台詞が、如何にも海華らしい、そう志狼は思った。

今まで働きづめに働いていた彼女だ、突然何もするな。家にずっと居ろと言われれ 、反発するのは必須だろう。


 「つまり、一緒になってからも働きたい、ってか? 旗本の奥方が傀儡廻しで辻に立つなんざ、前代未聞だな?」


 「草鞋編みの内職も出来ないわよね? そんな生活真っ平御免よだから断ったの。兄様達には……少し落ち着いてから、ちゃんと話すつもり」


 「それがいい。修一郎様もえらく心配なさってる。……それにしても、せっかく玉の輿に乗れたのをあっさり断るなんざ、お前も馬鹿だ。 馬鹿が……」




 『そういうところが、俺は好きだ』




 志狼の唇から無意識にこぼれ落ちた言葉に、海華は湯飲みを唇に当てたまま、幾度も目を瞬かせる。

自分を穴の開くほど凝視してくる彼女と目が合った刹那、志狼は己の発した一言の重大さを 思い知り、全身の血が引いていくのを、はっきりと感じた。


 「志狼さん、今……なんて言ったの?」


 ちょこんと小首を傾げて問い掛けてくる海華を前に、志狼はひどい狼狽を隠しきれないまま唇をぱくつかせる。

顔は今にも爆発せんばかり、耳朶まで真っ赤に染め上げ、全身からは冷や汗だか脂汗だかわからぬ物が、次々と噴き出してくる。


 「いっ、や! 気にするな! ちょっと口が……そうだ、口が滑ったんだ! 好きだって のはその、そういう意味じゃなくてだな」


 「そういう意味ってどんな意味? ちゃんと話してくれなきゃわからないわ。もしかして志狼さん、本当はあたしのこと嫌いなの?」


 さも哀しげに顔を歪め、俯いてしまう海華を前に、志狼の焦りは頂点に達する。


 「嫌いじゃねぇ! そんな事あるもんか! っ……いや、ちょっと待ってくれ、あぁ~……俺 は本当に何を言って……」


 上手く言葉を紡げない唇を金魚よろしくパクつかせ、志狼は頭を抱えながら、自分に言い聞かせるようにぶつぶつと何事かを呟く。

普段絶対に見る事がない彼の狼狽ぶりに、にんまりと 意味ありげな笑みを浮かべる海華の頬も、うっすら桜色に染まっていた。


 「いやねぇ、そんな大声出しちゃって。冗談よ冗談。今のはぜーんぶ、冗談だから」


 ころころと鈴が転がるような笑い声を上げつつ茶を啜る海華。

ゆっくりと顔を上げた志狼の顔からは、未だ玉の汗が滴る。

額に貼り付く髪の毛を無造作に掻き上げつつ乾いた唇を開いた。


 「冗談、か……。でもな俺……冗談なんかじゃなくてよ、お前の事、好きだぜ」


 志狼にしては珍しい掠れた、しかし、真っ直ぐに心へ届く声。

一瞬視線を宙にさ迷わせた海華だったが、すぐにその顔に柔らかな微笑みが生まれる。


 「ふぅん……。それはどうも、ありがとう」


 照れ隠しなのか、いささかぶっきらぼうな返事に思わず志狼は小さく吹き出してしまう。

静寂が支配する台所に響く、微かな二つの笑い声。


 丸めた背中を小さく揺らす志狼の背後、母屋に続く廊下の奥で漆黒の影が揺れたのを、志狼も海華も、全く気付いてはいなかった。





 「志狼……よくやった。やっと想いを告げられたのだな」


 感嘆の溜め息と共に桐野の口から感極まった呟きが漏れる。

母屋と台所を繋ぐ廊下、その暗がりと柱の陰にぎゅうぎゅうと身を押し付け合い、志狼と海華を覗き見している朱王、修一郎、そして桐野の姿があった。


 追加の酒を運んできた志狼が、いやに慌て客間を後にし、全く戻ってこない。

それに首を傾げた桐野が台所へ向かい、そこで海華と志狼が何やら話し込んでいる場面に遭遇したのだ。


 これは何か起こるに違いない、そう確信し、すわ一大事と朱王、修一郎を呼びつけ今に至るのである。


 志狼のぎこちない告白を見届けた桐野は細面に笑みを湛え、ひどく満足気だが、修一郎と朱王は共に無言を貫いたまま、複雑な表情で顔を見合わせていた。


 「何が『嫌いではない』だ。好きなら好きとはっきり言えばよいではないか」


 「海華も海華です。ついこの間まで、春勝様を好いていると言っていたくせに」


 どこかふてくされた様子で呻く修一郎に、眉根を寄せる朱王が答える。

二人にしてみれば、志狼と海華が寄り添っている、今この場面が一番気に食わないのだ。


 「そう苛立つな。何でも単刀直入に言えば良いものではない。それに海華殿とて、今すぐ志狼を受け入れた訳ではないだろう。返事はまだ返していない」


 桐野に諌められ、修一郎は深く腕を組ながら眉間に深い皺を寄せる。

桐野の言っていることに間違いはない。

しかし、それを素直に受け入れられない自分がいるのだ。


 今すぐ海華をこの場から連れ去りたい、長屋へ帰したいと思っているのは修一郎だけではない、むしろ朱王の方がその思いは強いのではないか、と修一郎は心中思っているのだ。


 「政勝や春勝には気の毒だが、今回は志狼の一人勝ちだったな。海華が志狼の嫁になるなら、これほどめでたい事はない」


 「しかし桐野様、本当に海華でよろしいのですか?」


 柱の陰から身を乗り出し、そう呟く桐野へ、恐る恐る朱王が尋ねる。

その瞬間、くるりとこちらを振り返りつつ桐野はいささか驚いたような表情を浮かべた。


 「当たり前だ、海華なら文句のつけどころがない。よく働くし気立てもいい。何より志狼が見初めたのだ。儂がなぜ反対しなければならぬの? ── 勿論、お主や修一郎が、志狼にやっても良いと申した場合の話しだ」


 「ふん、俺はそう簡単には許さぬぞ。たった一人の大切な妹だ。なぁ、朱王?」


 にや、と意地悪な笑みを作り、口角をつり上げる修一郎が、桐野を見下ろす。

それに同調するように、朱王も小さく頷いた。


 「そうですね。お前にはまだ早い、海華はやれないと言ったなら……志狼さんはどうするでしょうか? きっぱり海華を諦めますか?」


 「いや、諦めぬだろう。あいつはああ見えて……かなりの頑固者だ。十年でも二十年でも、許しが得られるまで待つだろう。あいつは、そういう奴だ」


 桐野の返事に、修一郎と朱王は再び顔を見合わせ苦笑い。

『そう簡単に許すものか』そう再び呟く修一郎は、握り拳で乱暴に目尻を拭う。

朱王の口からは、寂しさか、はたまた安堵かわからぬ細い細い溜め息がこぼれていた。




 その後、縁談は正式に破談となった。


 修一郎と二人、轟家へ詫びに出向いた朱王。

こちらからの一方的な断りに、政勝はさぞかし憤慨しているだろうと、内心びくつきながら向かったが、政勝も弟と同様『話しが纏まらぬなら仕方がないな』と、実にあっさりしたものだ。


 春勝から事の次第を聞いていたらしく、『あいつの言い方も悪かった。まだまだ嫁を貰うには早かったようだ』と反対に頭を下げられ、 最早朱王は恐縮しきりだった。


 大きな揉め事もなく、無事に事が済んだ。

そう胸を撫で下ろした朱王、しかし現実はそう甘くない。

彼の煩慮は始まったばかりだったのだ。


 「── 邪魔するぜ」


 いささか遠慮がちに戸口を叩く音、そして呼び掛けと共に、そろそろと戸口が開く。

作業机の前に座り、人形の仕上げに精を出していた朱王は、目だけを動かし開きかかる戸を眺めた。


 「ああ……朱王さん、いたのか」


 「ここは俺の部屋だからな」


  ひょっこり顔を覗かせた志狼をろくろく見ずに、ぶっきらぼうな答えを返す朱王は『また来たのか』と言いたいのをこらえ机へ散らばった木屑を払い除けた。


 「仕事中に悪いな。その……海華は……」


 「朝から出たまま帰ってない。どこの辻にいるかなんざ、俺も知らん。── 他に聞きたい事は?」


 「……いや、もうない……」


 冷たくさえ感じる言葉を真っ正面から叩き付けるような朱王の返答に、志狼は頬を引き攣らせつつ所在なげに土間へ立ち尽くす。

そんな彼を横目で睨み付けながら、朱王は手にしていた彫刻刀を静かに机上へ置いた。


 「いつまでそこへ突っ立っているつもりだ? ……上がれ」


 「え、いい、のか?」


 「いいから、早く上がれ。気が散って仕方が 無い」


 「そうか? なら遠慮なく」


 そそくさと土間から畳へ上がった志狼と視線を机に戻した朱王。

いつもなら机の下にある酒瓶を引っ張り出すのだが、今は酒どころか、茶の用意をする気も起こらない。


 海華の縁談が破談になってからというもの、志狼は三日とおかずに、ここへ顔を出すようになったのだ。

その目的は言わずもがな、海華である。

それがわかっているからこそ面白くもないし、以前のような気持ちで彼を迎え入れる事ができないのだ。


 「あいつなら日が暮れるまで帰ってこないぞ。それまでここで待つか?」


 「あ……いや、やっぱり仕事の邪魔しちまうか? それならこれで……」


 「いや、そういう意味じゃないんだ。……あのな志狼さん、俺は、あんたが海華に会うのをとやかく言うつもりはないんだ」


 朱王の唇からぽつりとこぼれた台詞に、志狼は驚愕の表情を浮かべて顔を跳ね上げる。

朱王は相変わらず、作業机へ向かったままだ。


 「すお、さん。俺……」


 「まだだ。俺の話しを最後まで聞け。会うのは構わない。ただ、良からぬ真似はするなよ」


 ゆっくりと顔をこちらへ向ける朱王の瞳が、ぎらりと鋭い光を放つ。

『あんたと海華の事を、まだ許した訳じゃない』 抑揚のない声で告げられた台詞が鼓膜を震わせた刹那、志狼はゴクリと生唾を飲み下し、朱王を穴の開く程に凝視した。


 「なっ、なんで、朱王さんそのこと……!? 」


 今にも爆発するのではないかと思わせるほど顔を赤くさせ、腰を浮かす志狼は、何やかにやと上手く言葉にならない言い訳を必死に繰り返す。

そんな彼へ呆れ果てたような眼差しを送る朱王は、微かな溜め息を吐き出しつつ、握っていた彫刻刀を再び置いた。


 「なんでもヘチマもあるか。桐野様から粗方聞いた。それに、あんたの様子見てりゃ嫌でもわかるさ。たいした用事も無いくせに、めったやたらとうちに顔を出すからな」


 『口を開けば海華、海華だ』そう後付けされた台詞に、志狼は目を白黒させつつ、ぺたりと畳にへたり込む。


 「反論があれば聞くぞ?」


 「もういい……朱王さんの言う通りだ、認めるよ……」


 赤くなった頬をパチパチ両手で叩き、きっちり正座しなおした志狼は、改めて真正面から朱王と向き合った。


 「いつかはちゃんと話そうと思っていた。朱王さん、俺、海華のことが好きだ。その……嫁に、欲しいと思ってる」


 「── もし、俺が駄目だと言ったら? 海華が断るかもしれないぞ?」


 志狼とは反対に、どかりと胡座を組み直した朱王は机に肘をつき、ねめるような目付きで志狼を見据える。

容赦なく叩き付けられる意地悪な台詞に堪えるよう、膝の上に乗せた手を握り締め、志狼は唇を噛んだ。


 「海華が嫌だと言うなら、きっぱり諦める。 朱王さんが駄目だと言うなら……いいと言ってもらえるまで、俺は待つ。絶対に諦めねぇ」


 言い澱むことなくそう言い切る志狼の瞳に、嘘や偽りは感じられない。

はぁ、と再び盛大すぎる溜め息をつき、ばりばり頭を掻く朱王は、志狼に向けていた視線を戸口へと移し、その薄い唇を開いた。


 「あんなじゃじゃ馬でも、大事な妹だ。ほいほい他所の男へやる気はない。本気であいつが欲しいなら、俺に『妹を頼みます』と、頭を下げさせるくらいの男になってみろ。そうなれないなら、一昨日来やがれ」


 厳しい表情と口調で、そう吐き捨てる朱王とは裏腹、志狼の顔に微かな希望の光が射す。

今の言葉を聞く限り、頭から否定されたわけではないのだ。


 「わかった、必ず……必ず海華に相応しい男になる。朱王さんが安心して海華を渡せる、そんな人間に必ずなる!」


 「威勢はいいな。だが、俺の見る目は厳しいぞ? それを覚悟しておくんだな。あ、と…… さっきの話しだが……」


 「もうわかってる。朱王さんが許してくれるまで、海華におかしな真似はしねぇ。俺も男だ。約束は守る」


 『そうか』そう短く答えたまま朱王は作業机に向かい直し、仕事を再開させる。

最早何も言うべき事はない、そう考えたのだろう。

志狼も敢えて何も言わず、黙々と作業を続ける朱王に背を向け、未だ帰らぬ海華を待つ。


 この日、海華が長屋へ帰りついたのは、西の空が杏色に染まりかけた頃だった……。




志狼が長屋を訪れた翌日、朱王は完成した人形を納めるため、昼近くに街へと出掛けた。

受け渡しも無事終わり、懐が重く感じるくらいの報酬を得た朱王は、暑さも手伝ってか真っ直ぐ長屋には戻らず近くにある茶店の暖簾を潜る。

店の中には、朱王と同じ目的、つまり暑さから逃れようと駆け込んだ男女でごった返しており、生憎表に出された席しか開いていなかった。


 冷茶と菓子を頼んだ朱王は、日除け屋根があればいいだろうと、表の席に腰を掛ける。

いくら日陰と言えど、地面から上がる重たい熱が身体を包み、滴る汗に真新しい手拭いもじっとりと濡れていく。


 茜色の前掛けを絞め、こめかみに一筋の髪を汗で貼り付かせた若い娘が、にこやかな笑みと共に茶を置いていった、ちょうどその時だった。


 「おぉ、朱王ではないか」


 「これは、桐野様!」


 不意に声を掛けられ、顔を上げたと同時に飛び込んできたのは、黒く日焼けした顔に玉の汗を浮かべる桐野の姿。

弾かれるように立ち上がり、一礼する朱王の隣へ腰を下ろした桐野は、懐が引っ張りだした手拭いでごしごしと顔全体の汗を拭った。


 「海華はいないのか? お前一人で茶屋へ入るなど珍しい」


 「人形を納めた帰りでした。この暑さで、つい……」


 照れたように笑う朱王へ、桐野も小さな笑みで返す。

早速注目を取りに来た娘へ朱王と同じ物を頼み、桐野は汗染みのついた手拭いを懐へ押し込んだ。


 「ここで会うなど思ってもみなかったが、朱王、昨夜志狼から……まぁ色々と話しを聞いたぞ」


 「海華とのことですね? 」


 湯飲み茶碗を唇に当てながら、朱王はそう呟く。


 「今はまだ早いと申したそうだが、相違ないか?」


 「はい、間違いございません」


 この後桐野がどう出てくるか、それを考えると自然と朱王の身体に力がこもる。

この男に限って理不尽な物言いや言い掛かりをつけてくるなど考えられないが、それでも家族同様と言い切る志狼の事となると、理性では抑えきれぬ何かがあるやもしれないからだ。


 「朱王、儂は以前も一度申したことがあるが……志狼はどこへ出しても恥ずかしくない男だ。勿論、海華殿の夫としても……儂が言うのもなんだが、申し分ないと思っている」


 そこまでを一息に言い切り、茶で唇を湿らす桐野の横顔を、朱王は何も言わずに見詰めてる。

その視線に気付いたのか、桐野は顔だけをゆっくりとこちらへ向けた。


 「志狼のどこが気に食わぬのだ……と、言いたいところだが、それでは言い掛かりになってしまうな。本当のところは朱王、お前がそう言ってくれて、儂は良かったと思うている」


 桐野が告げた予想もしない言葉に、朱王は一瞬驚きの表情を浮かべる。

そんな彼を前に、再び桐野はその口を開いた。


 「朱王、志狼はな、心底海華に惚れている。だが、それゆえ性急過ぎるのだ。今、志狼の気持ちを真っ正面から海華へぶつけたとしたら、戸惑うのは海華ではないのか?」


 細い目を更に細め、声を低くし告げられた台詞に朱王は視線を地面に落として小さく頷く。

白い額に浮かぶ汗がこめかみをつたい、朱王の纏う着流しに音もなく吸い込まれていった。


 「海華とて、この短期間で気持ちの整理などできんだろう」


 続けられる台詞に、素直な気持ちで朱王は頷いていた。

縁談の話しが持ち上がり、そして消えていくまで、ひと月と経っていないのだ。


 「海華は、伊達や酔狂で男を好きだなど言う女ではありません。本気で春勝様を好いておりましたし、口には出しませんが、きっとまだ思いは完全に断ち切れていないと思うのです」


 水滴に包まれた湯飲みを手で包み、朱王がぽつりぽつりと語り始める。

共に同じ屋根の下で暮らす家族である、桐野が志狼の気持ちを理解できるよう、朱王も海華の気持ちが痛いくらいにわかるのだ。


 「今、志狼さんに好きだと言われてたところで春勝様の事を綺麗に忘れる、言葉は悪いですが今すぐ志狼さんに乗り換える……海華はそんな尻軽な女ではありません」


 茶碗の中、新緑色の水面に映る己の顔をじっと見詰める朱王。

自分の妹が、男を取っ替え引っ替えするような女だと思いたい兄がどこにいるか、この先の人生を幸せに暮らして欲しい と思わない兄がどこにいるだろうか。

客の出入りが激しい賑やかな茶店だが、今の朱王にはその喧騒すらどこか物悲しく感じる。


 「お前とて、海華を嫁がせたくない訳ではなかろう?」


 「それは、勿論」


 「だが、今すぐ手放すのも寂しい、と」


 「……全く違うとは言い切れません」


 にや、と意味ありげな笑みを寄越してくる桐野の問い掛けに、朱王は些か恥ずかしそうに顔を伏せぼそぼそと言葉を濁す。

そんな彼の背中を、桐野は骨ばった手のひらで、ばん!と力強く叩いた。


 「海華と志狼だけではなく、朱王、お前にも少しばかり覚悟をきめる時間が必要なようだな」


 「はい……。ですが、それは修一郎様にも必要かと」


 今度は朱王が白い歯を覗かせ桐野を見遣る。

それに同調するかのように、桐野は大きく頷いた。


 「あ奴にこそ必要なものかもしれぬ。しかし志狼もこれからが大変だ。お前ばかりか修一郎の了解も得なくてはならぬからな」


 冷たい茶をグッと飲み干し桐野は満面の笑みを浮かべる。

海華と志狼、そして周りの皆を巻き込んだ縁談話は、ここに静かに幕を降ろした。


 いつの頃からか、海華と志狼が仲睦まじく寄り添い、江戸市中を歩く姿が見られたのだが、それはまた、別の機会に語られる物語である……。







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