第十一話
さて、海華がお仙をが長屋へ連れてきた翌日、朱王は照月、浅黄が勤める店を訪れていた。
昼も半ばを過ぎた頃、眠たげな仏頂面を引っ提げて玄関先へと出てきた女将は、朱王を一度見るなり『浅黄にご用かい?』と嗄れ声で尋ねてくる。
やはり客商売、一度見た顔は忘れないのだろう、そう妙に感心しながら、朱王はダミ声を上げる女将の背中を眺めていた。やがて階段を軋ませ降りてきた浅黄は、どこか疲れた……いや、窶れた様子で、朱王の姿を認めるなり飴色に変色した手摺をしっかり掴み上げる。
「急にすまないが、旦那に話がある。呼んでくれるか?」
浅黄を一瞥し、女将へ向かい言った朱王に、こめかみに膏薬を貼った中年女は眉間に数本の皺を寄せ、ジロジロ無遠慮に朱王を眺める。
「うちの人に用事ってなんだね? まさか、浅黄を身請けしたいとでも言いなさるのかい?」
冗談混じりに口にした女へ、朱王は顔色一つ変えずに『そうだ』と即答する。一瞬でその場の空気が凍り付いた。
「身請け、って! 朱王さん、なに言って……」
「いいからお前は黙っていろ。女将、早く旦那を呼べ。必要なモノは全部揃っているからな」
あっさり言い退ける朱王を胡散臭そうな眼差しで見遣っていた女将だが、やがて身振りだけで奥にくるよう朱王と浅黄を促す。これから一体何が起きるのか、紙より白い顔で身を強張らせ朱王の隣に座る浅黄は、いつもより一回り小さく見えた。
やがて、女将に連れられ奥からやって来た照月の主人は、蛸入道と形容するのがぴったりだろう、大黒さまの胴体にツルツルのハゲ頭が乗った大柄の中年男だ。
風呂上がりかと思われる赤ら顔を不機嫌そうに歪め、ジロリと二人を睨み付けた主人は女将の隣にドカと胡座をかき、おもむろに煙草盆を引き寄せる。
「浅黄を身請けしてぇってぇのはアンタかい?」
無遠慮に煙管をふかしながら問い掛けてくる主人の声は、女将と似たり寄ったりの嗄れ声だ。苦い煙草の臭いが充満し、揺蕩う紫煙が視界に流れるのを眺めながら、朱王は軽く頷き女将へ視線を向ける。
「浅黄の借金は、いくらあるんだ?」
そう問われて女将は伺いを立てるように主人へ顔を向け、その場から腰を上げる。そして帳場に置いてある帳面を取ると、指を舐め舐め紙を捲っていく。
「浅黄の借金、借金っと……。ちょうど五十両だね」
女将のかさついた唇から飛び出た金額に、浅黄の表情が曇る。五十両、これだけの借金を清算するために、彼はいつまで身を売り続けなければならないのだろう。
「朱王さんってぇ言ったな、あんたぁ有名な人形師の先生だってぇ聞きましたがね。浅黄を身請けしてぇってぇなら、まずはこの五十両、耳揃えて返してもらわにゃなんねぇぜ? それと……ほかにも色々用立ててもらわにゃならねぇ。ざっと見積もって八十両だ」
朱王と浅黄を燻すように煙管をふかし紫煙をまき散らす主人の前で、朱王は表情一つ変えぬまま懐をまさぐり、紫の袱紗で包まれた小さな包みを主人の前に放り投げる。
ガチャン! と、耳障りな金属音を立てて紫の袱紗から飛び出たのは、眩いばかりに輝く山吹だった。女将はヒィ、と空気が漏れるに似た声を上げてその場に固まり、主人も煙管を煙草盆に落としそうになりながら、目玉が零れ落ちるかと思われるほど大きく目を見開き、自らの前に散らばる小判を凝視する。
「百両ある。浅黄の借金と身請け代、後は縁切り代で二十両だ。これで文句はあるまい」
主人と女将を交互に見遣り、胸の前で腕を組む朱王に、主人は赤ら顔を更に紅潮させ、音を立てて生唾を飲み込む。そして、微かに震える手で畳の上の小判を寄せ集せた。
「確かに……、百両だ。払うもんさえ払って貰えりゃ文句はねぇ。浅黄、気前のいいお人に身請けされたなぁ」
自分に向けられたろう台詞、しかし浅黄から返事はない。彼はその場に驚愕の表情を浮かべたまま、その場に凍り付いていた。
「話しはついたな。なら、浅黄は俺が引き取る。おい、必要な物を纏めろ。すぐに出るぞ」
浅黄の腕を肘でつつきつつ、朱王が言う。
「すぐ……すぐに、って、これから?」
「当たり前だ。ほら、いつまでもボーっとしていないで、早く荷物を纏めろ」
急き立てるように言われ、浅黄はよたつきつつその場から立ち上がり、ふらふらと、まるで病人のように覚束ない足取りで階段を上がっていく。身の回りの物、必要最低限の荷物を纏めた浅黄は朱王に支えられるように照月から離れ、朱王の住まいである中西長屋へと向かう。
ちょうど時を同じくして、錦屋の裏口から姿を現したお久仁……いや、お仙の手には、大きな風呂敷包みが一つ下げられていた。
さて、錦屋を後にしたお仙が向かったのは、先日訪れた海華の住まい、中西長屋だ。今日、彼女が錦屋から暇を乞うた。つまり、自ら店を辞めたのだ。
盗賊の存在にいち早く気が付き、店の物を叩き起こして廻った彼女を、錦屋の主人や女将は『店を救ってくれた恩人』と呼び、何度も頭を下げて礼を述べてくれた。
勿論、彼女が盗賊の一味、引き込み女だとは露知らずだ。このまま働いてくれ、店にいてくれと何度も頼み込まれたが、お仙にしてみれば気まずい事この上ない。
故郷に帰って親の面倒をみます、とか何とか適当な言い訳をして、どうにか店を辞められたお仙、自分はこれからどうすればよいのか、兄はどうなってしまうのか、様々な思い、悩みと葛藤しているのだろう暗い面持ちで深く俯き、とぼとぼと長屋へ向かうお仙の背中を柔らかな日差しが白く染める。
ふと気が付けば、目の前には傾きかけた長屋門。
これを潜ってすぐ手前の部屋が、朱王と海華の住家である。重苦しい気持ちで戸口の前に立ったお仙、『ごめんください』と小さく声を掛けるとすぐ、『どうぞ!』と、いささか甲高く明るい女の声が応える。
ガタピシ軋む戸が開き、姿を現したのは、茜色の着物を纏った海華だった。
「いらっしゃい! 待ってたのよ」
初めて会った時と同じ人懐っこい笑みを浮かべる海華に、お仙の唇も微かに綻ぶ。
「遅くなってごめんなさい」
「いいのよ、錦屋さんは? 無事に辞められた?」
「えぇ、旦那様や女将さんには、本当に申し訳ない事をしたけれど……」
「仕方ないわ。お仙さんのお蔭で錦屋さんが助かったとも言えるんだし。あ、ごめんなさいね、こんなところで」
立ち話なんてみっともないわ、そう口に手を当てて笑った海華は、お仙を室内に招く。背後から聞こえる子供の歓声に後押しされるように土間へ足を踏み入れたお仙は、部屋の中にいる『とある人物』の顔を目にした途端、アッ! と掠れた叫び声を上げた。




