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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十八章 恋に焦がれて鳴く蝉よりも…
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第四話

 「提灯置いていってくれた? そんなの当たり前ぇだ。こんな場所へ灯りも置かずにほったらかすなんざ、それこそ人非人のやることじゃねぇか」


 忌々しげにそう吐き捨てる志狼へ海華はチョンと肩をそびやかし顔にかかる髪を耳へかける。

珍しく、本当に珍しく白粉をはたいたのだろう。

いつもより白く滑らかに見える頬が、月光に照らされぼんやりと光を産み出した。


 よくよく見れば、唇にも薄くだが紅を引いているようだ。

この夜を彼女がどれだけ楽しみにしていたかを考えると、胸に芽生えた怒りの焔が見る間に消えていくのを、志狼ははっきり感じていた。


 「それで……どうして春勝様を先に帰した? まさか喧嘩でもおっ始めた訳じゃねぇだろうな?」


 「そんなんじゃないわよ。……春勝様にね、兄上様の御許しを頂けたら、一緒になろうって言われたわ」


 赤く艶めいた唇が紡ぎ出す台詞は、志狼の鼓動を爆発的に速めさせ、頭の中を一瞬で真っ白に塗り潰す。 身体中から噴き出す冷たい汗が見に纏う着流しをじっとりと湿らせた。


 「一緒に……か。良かった、じゃねぇか」


 渇いた口内で粘る舌を無理矢理動かし、やっとのことで声にした言葉は、静かに闇へ溶ける。

しかし、志狼の台詞に海華は酷く寂しげな面持ちで小さく首を横に振ったのだ。


 「……あたしね、春勝様に聞いたの。奥方様になったら、何をすればいいのか。春勝様のために、あたしに何が出来るのか、って。そしたら春勝様、こう答えたの。『何もしなくていい』って。……笑いながら、そう言ったのよ」


 小さな声色が、弱々しく震える。

じっと己の爪先を見詰める海華の頭上を、ふわふわと光の帯が横切った。


 「何もしなくていい? それ、どういう意味だ?」


 「そのままの意味よ。綺麗な着物着て、お茶にお花のお稽古事。いつもニコニコ笑って…… いつかは立派な子供を産んで……。ご飯の支度も洗濯もお掃除もしなくていい。ただ、大人しく屋敷にいればいい、って」


 ふぅ、と溜め息を一つ、海華はゆっくりと顔を上げ、志狼を見据える。

黒曜石の輝きを放つ瞳に捕らわれた刹那、治まりかけていた鼓動が再び早鐘を打ち始めた。


「あたし、何のために結婚するのかわからなくなっちゃって……好いた人のために、何も出来ないのよ? 何もしなくていいなんて……凄く寂しくて、どう答えていいか、わからなくて……」


 だから、ここで一人考え込んでいた。

そう一気に話し終えた海華は、まるで答えを探すかのように志狼の顔を見詰め続ける。

どう返せばいいのかわからぬまま志狼は、ぐっと生唾を飲み下した。


 「今すぐ答えを出す必要なんてないんじゃないのか?」


 生温い闇をふらふら飛び交う光の玉を目で追いながら、志狼がぽつりと呟く。

不思議そうな面持ちで顔を上げ、自分を見詰めてくる海華から視線を逸らせないまま、志狼はどこかぎこちない笑みを浮かべた。


 「志狼さん本当に? 本当にそう思う? あたし がこんなにぐずぐずしていて……いつまでも煮え切らないままで、春勝様はあたしのこと待っていて下さるかしら?」


 不安げに揺れる瞳は、まるで答えを探しているかのように志狼を凝視する。

痛いくらいに感じる視線をそのまま受け止めた志狼は、おもむろに海華が腰掛ける岩の横、夜露に湿る青草の上へどかりと胡座をかいた。


 「本当にお前のことを好いているなら、待てねぇ方がおかしいだろう? 結婚ってのはな、牛馬の売り買いじゃねぇ。どっちかが強引に物事運んでも上手くいきゃあしねぇんだ。── 大体よ」


足元に揺らぐ草を一本引き千切り、指先で玩ぶ志狼の目は、風に吹かれ音もなく波紋を描き出す水面に向けられる。


 「何一つ悩みもしねぇで一緒になるなんて、それこそあり得ねぇ話しだと思わねぇか? 二人で一緒に悩んで、考えて、一つ一つ解決していかなけりゃ、結婚した後が続かないと思う」


 薄い唇からゆっくりと生まれる言の葉は、紛れもなく志狼の本音だ。

たとえそれが自分の不利になるような内容だったとしても、これだけは伝えたい、伝えなければならない事だった。


 「……今すぐ答えを出さなくてもいいのかしら?」


「お前一人でぐずぐず悩むな。悩むなら、春 勝様も巻き込んで悩め。答えなら、自然に出て くるはずだ」


 自らの問いに即答され、海華はわずかに潤んだ瞳を浴衣の袖でそっと拭い、頬や額に張り付く黒髪を掻き上げる。

木々のざわめきしか響かない池の畔。

鼻先を掠めて飛び去る蛍をじっと見遣りながら、海華は『ありがとう』そう一言だけ呟く。

鼓膜を揺らしたその声に、志狼の口角が僅か、つり上がった。


 「なんだか話し聞いてもらったら、すっきりしちゃった。……どうして志狼さんがここにいるのかはわからないし、深くは聞かないけど……でも、ありがとう」


 「別に。礼を言われるほどのこたぁしちゃいねぇ。ああそれと…… 一度ここに来た方がいい、って言ったのはお前だぜ? 俺も、今夜は蛍狩りにきたんだ」


 「ふぅん……男一人で蛍狩りか……。ちょっと寂しいけど、まぁ、それもいいかもね」


 にや、と白い歯を覗かせる海華に、放っておけ、と言わんばかりに鼻を鳴らしてそっぽを向く志狼。

そんな二人を見守るのは、黒い世界にちりばめられた数えきれぬ程の光る命と、夜を支配する鏡のような満月だけだった。







 菖蒲ヶ池の一件から、早くも七日あまりが過ぎようとしていた。


 あの日から志狼は海華と顔を合わせる機会もなく、また桐野の口からも彼女についての話題はぱたりと出なくなり、あれからどうなったのか、志狼には知るよしもない。


 ただ、何の話しも騒ぎもないということは、あの話しは順調に、円満に進んでいるのだろう。

漠然とそう思いながら日々を過ごす志狼の胸中には、言葉には言い表せないもやもやとした物が溜まったままだ。


 あの夜、彼女に対する気持ちをはっきり伝えることが出来なかった。

その時点で、既に自分は負けたのではないか。

今さら自分がしゃしゃり出て、余計事態を混乱させる、はたしてそれが彼女のためになるのだろうか……?


 海華には一人で考えるな、などと言ってしまったが、結局は自分とて一人悶々と考え込む毎日を送っている。

矛盾した話しだとは思いながらも志狼にはなすすべがないのだ。


 台所にある大きな水瓶へ井戸から汲み上げた清水を満たす志狼の口からは、彼には似つかわしくない、深い深い溜め息が何度もこぼれる。

真夏とはいえ、地の底から汲んだばかりの井戸水は身を切るように冷たく、かじかんで赤く染まった指先が、じんじんと鈍い痛みを発した。


 「── 掃除、終わらせちまうか……」


 そうぽつりと呟きつつ、小桶を井戸端に置いた志狼が、青く澄みきった空を仰ぐ。

日本晴れの清々しい日、本来ならば掃除、洗濯、買い物に庭仕事とやらねばならぬ事は山ほどあるのだ。 だが、それのどれ一つとして満足に手につかない。


 これでは駄目だ、桐野にだらけていると叱責されるかもしれぬ。

ここは気持ちを入れ換えて、己の仕事に励まなければ。

そう心中で一人ごち、掃除用の桶にたっぷりと新しい水を注ぎ、使い古した雑巾を手にした、その時だった。


 「志狼! おい志狼! おらぬのか志狼っ!」


 表門の辺りから響く、やたらと切羽詰まった、しかしよく聞き慣れた声に、志狼はその顔を跳ね上げる。 視界に飛び込んできたのは、浅黒く日焼けした顔に数多の玉の汗を光らせる桐野だった。


 「おお志狼! お前ここにいたのか!」


 「旦那様……! お帰りなさいませ、今日はもう?」


 随分帰りが早いものだ、そう言いたげな表情を見せる志狼に、桐野は軽く首を横に振って見せる。

飛び散る汗が、黒い羽織に点々と小さなシミを作り出した。


 「いや、これからまた奉行所へ戻る。お前に知らせたい事があってな。急で済まぬが、今夜修一郎と朱王が参ることになった。酒と肴の支度を。よいな?」


 「承知致しました。……旦那様その、海華は……?」


 「海華は、今日はこないのだ。儂らだけ、男だけでの話しがあってな」


 『海華は来ない』その一言が、志狼の中に芽生えた希望の芽を容赦なく刈り取っていく。

『飯はいらぬ。酒の用意だけしておけ』それだけ言い残し、桐野は再び風を伴って、足早にその場を後にする。


 主の後ろ姿を見送る志狼。

がくりと音もなく肩を落とした彼の影が、乾いた大地へ黒く刻まれていった。






 ぎらぎらと天空で燃え盛る太陽が西の空に身を隠し、白銀の月が顔を覗かせた頃、八丁堀にある桐野邸にぼんやり行灯の明かりが灯る。


 中庭から見える客間、張り替えられたばかりの真新しい障子に写る四人の影。

昼間、桐野が残した言葉のとおり今宵は朱王と修一郎が客人として訪れているのだろう。


 酒飲みが面突き合わせれば酒宴となるのは必須。 しかし、室内はしんと静まりかえり、まるで通夜のよう。

赤鬼よろしく顔を紅潮させた修一郎は、眉間に深い皺を刻んだまま黙々と酒を胃袋に流し込み、その隣に座する桐野も難しい表情のまま、手にした猪口を玩ぶ。


 朱王と志狼に至っては、目の前に並ぶ肴にもろくろく箸をつけられぬまま、唇を固く結んで忙しなく視線を宙にさ迷わせるだけだ。


 「おい朱王、海華が春勝との縁談を断ったと言うのは……まことか?」


 「は、い……。あいつ何を考えているのか……先日いきなり、あの話しはなかったことにして欲しいと……」


 むっつりと顔をしかめたまま、低い声色で問う修一郎へ、体を小さく小さく縮め、ひどく恐縮しきった様子の朱王が今にも消え入りそうな声で答える。


 『春勝様とは一緒になれない』

そう海華が言い出したのは、今から三日前のこと。 二人の仲が上手くいっているとばかり思っていた朱王や修一郎、そして桐野にとっては、まさに青天の霹靂、天地をひっくり返したような大騒ぎだ。


 一体何があったのだ、理由はなんだと皆が散々問い詰めたのだが海華は『後できちんと説明する』と言ったきり、口を閉ざしたままであり、春勝と言えば『海華が気に入らぬなら仕方ない』と、実にあっさりしたものだ。


 「結婚するのが嫌なら嫌でいいのだ。ただその理由わけを知りたい。朱王よ、海華は未だ何も言わんのか?」


 猪口を薄い唇に当て、一息に酒を飲み干す桐野の台詞に首を縦に振る朱王は、一刻も早くこの場から立ち去りたい、といった様子でゆっくりと桐野へ向かい伏せていた顔を上げた。


 「全く何も……。二人で蛍狩りに行った後から、どうも様子がおかしいと……」


 「蛍狩りか……。そこで二人に何かあったか、もしくはどこぞの誰かに妙な話しを吹き込まれたかだな」


 肴にと出された豆腐の田楽にズブリと箸を突き刺し、修一郎が呟く。

その途端、びくりと肩を跳ね上げた志狼の唇から、声にならない呻きが漏れた。


 自分は決して『妙な話し』を吹き込んだ訳ではない。

しかし、結論を急ぐなと言ったことは事実。

それを修一郎や朱王が知ったならきっと只では済まされない。

また、桐野にも迷惑がかかるであろう。


 『なぜだ』『どうしてだ』『これからどうする?』だいの男が三人、うんうん唸りつつ思案にくれているその横で、一人冷や汗を流す志狼は、震える手で空となった徳利を盆へ乗せていく。


 『新しい物をお持ちします』口内で粘る舌を懸命に動かし、そう告げた彼は、ふらふらと覚束無い足取りで立ち上がり、障子へ手をかける。


 『このままでは嫁かず後家だっ!』背中から響いた修一郎の悲鳴にも似た怒号が、志狼の鼓膜を激しく揺らした。


 「あれ以上やられたら心臓がもたねぇな……」


 酒を満たした徳利を次々と湯の張られた鍋に突っ込みながら、志狼が溜め息混じりに一人ごつ。


 今は一番落ち着く、そして安全だろう台所に一時撤退した志狼。

あの場に残してきた朱王を少しばかり気に掛けつつ、水でも飲もうと水瓶へ向かう。

木蓋に手を掛けた、その時だった。


 「──!? 誰だ、っ!?」


 手にした木蓋を乱暴に投げ捨て、志狼は台所の裏手、闇が静かな口を開ける表へと鋭い叫びを放つ。 そこには猫の子一匹いるわけでない。

しかし、彼の研ぎ澄まされた、本能とも言えるだろう感覚は、暗闇に潜む何者かの気配を捉えたのだ。


 咄嗟に掴んだのは、普段使いなれた擂り粉木 すりこぎ)。

ずしりと重いそれを握り締め、台所を出た志狼が向かったのは、すぐ先にある勝手口。

井戸を過ぎた先にある戸口、その傍らに生える背の高い雑草が、夏風にそよぐが如く小さく揺れる。


 「そこに誰かいるんだろう? 隠れても無駄だ。とっとと出てこい。……出て来ないなら……」


 『こっちから行くぞ』そうドスを効かせた声色で告げた刹那、黒い影となり浮かぶ草むらが、がさがさと派手にざわめく。

咄嗟に擂り粉木を振り上げた志狼の前に、小柄な影法師が、にゅうっ、とその姿を現した。


 「お、前……! 何やってんだ!?」


 「ごめん、なさい。玄関で、声……掛けたんだけど……」


 月光に白く霞む視界。

やたらオドオドした声で答える影は、海華その人だった。

慌てて振り上げていた擂り粉木を背後へ隠し、よく顔を確かめようと身を乗り出す志狼を、海華はまるで悪戯を見付かった子供よろしく上目遣いで見詰め、ちらりと赤い舌を覗かせる。


 「黙って入ってごめんなさい。お勝手が開いてたから、つい」


 「いや……いいんだ。気付かなかった俺も悪かった。それよりどうした? 朱王さんに何か用か?」


 自分を案じるような志狼の問い掛けに、海華は小さな笑みを浮かべつつ首を横に振る。


 「そうじゃないの。── やっぱり、兄様ここにいたのね」


 「ああ……。朱王さん、何も言って行かなかったのか?」


 「うん、『修一郎様方と大事な話しがある』ってだけ。それで、初めは修一郎様のお屋敷に行ったの。そうしたら、雪乃様がここだって教えて下さったわ」


 『大事な話しって、あたしの事なんでしょ?』

微笑み混じりに問うてくる海華に何と答えて良いかわからず、志狼は無言のままにぎこちなく頷く。

やっぱりね、そう言いたげに、海華はそっと瞼を伏せた。


 「修一郎様や桐野様まで巻き込んじゃって……後で謝らなくちゃね」


 「それは……いや、旦那様なら大丈夫だ。それより、お前飯は食ったのか?」


 場違いだろうか、よく回らない頭が作り出した台詞に、志狼は内心焦り出す。

しかし、彼の心など知るよしもない海華は『お腹空いて目眩がしそう』そう一言告げた後、帯の辺りを軽く擦った。


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