第一話
第一話とりと重たく湿る夏の空気が胸に染み渡る。
額に浮かぶ玉の汗を手の甲で拭いつつ、海華は濡羽色に染められた夜空を見上げて深々と溜め息をついた。
生ぬるい水にどっぷりと浸かっているかのように、辺りを取り巻く空気は湿気を帯び、息をするのも一苦労、蒸し暑い夏の訪れに海華は既にバテ気味だ。
べたべたと顔にまとわる黒髪を鬱陶しげに払いつつ、海華は背中の木箱を小刻みに揺らして、毎夜御神籤を売る場所、つまり色街近くにかかる橋へと歩を進める。
日々の糧を得るためとは言え、こんな夜は兄の言い付けを聞いて長屋に籠っていればよかった、そう胸の中でぼやく彼女の唇からは、またもや深い深い溜め息が生まれた。
月も霞に隠された夜、通りを行く人影は疎らだ。
どこかから哀愁漂う犬の遠吠えが響いたと同時、言葉には言い表せない……不吉な予感が疾風の如くよぎる。
何も起きなければいいのに、正体不明の胸騒ぎを覚えた海華の足は自然と速まり、かつかつと規則正しい下駄の音が暗い道に消えて行く。
『何も起きなければいい』そんな海華の願いは、目的地を間近に儚く消え去る事となるのだ。
「つべこべ言わずに謝れってんだろうがっっ!」
霞掛かる夜空に男のダミ声が響き渡る。
通りから少し離れた脇道で、海華は酔っ払い三人組に周囲を囲まれていた。
「先にぶつかってきたのはあんたらじゃないのっ!」
「喧しいやぃ! 女の分際でナマ抜かすな!」
ぎゃんぎゃんと激しい言い争いの理由はと言えば、どうやら道でぶつかった、ぶつからないの下らないものらしい。
胸が悪くなるほどの酒臭い息を吐き散らした酔いどれの一人が、やおら青筋を浮かべて柳眉を逆立てる海華の手首をひっ掴み、地面へ引き摺り倒そうと力を込めた。
「ちょ……なにすんのよっ!?」
「うるせぇ! こうなりゃ身ぐるみ剥いで川にでも捨ててやらぁ! 金も少しは持ってんだろうよ!」
その一言で、残りの男二人も怒涛の勢いで地面に転がる海華へ掴みかかる。
木箱は湿った地面へ飛び、赤い着物は泥まみれ。
乾いた音を立てて帯が引き抜かれ下卑た笑いが鼓膜を打つ。
『離せ畜生!』喉をぶち破らんばかりの甲高い罵声を張り上げ、海華が死に物狂いで四肢をばたつかせた、その瞬間だった。
「そこで何をしているっ!?」
ぬるい空気を引き裂く弓矢の如き、凛とした若い男の声が酔いどれ共の手をぴたりと止めさせる。
やがて、ばたばたと地を駆ける力強い足音が聞こえた途端、海華を襲っていた無頼漢は、転がるようにその場から逃げ出して行った。
「女一人に三人がかりで……! 恥を知れっ!」
逃げていく三つの背中へそう怒鳴りつつ、声の主は大慌てで帯を結び直す海華の側で立ち止まる。
『怪我はなかったか?』 そう言いながら手を差し伸べてくる男の姿が雲間から射し込む月光に浮かび上がった刹那、海華はポカンと口を開けたまま、その場に固まってしまう。
白い光に照らされたのは、年の頃二十歳後半だろう若侍だ。
すらりと通った鼻筋に、くっきりとした二重に力強い光を湛えた瞳、凛々しい、清々しいを体現するようなその侍は、自分を穴の開ほどに見詰める海華の手をとり、柔らかな微笑みを投げ掛けた。
「とんだ目に遇ったな。大丈夫か?」
そんな言葉と共に地面から助け起こされた海華は、乱れた胸元やはだけかかる裾を慌てて掻き合わせ、真ん丸に目を見開いたまま、ほぼ直角に近い形で侍へ向かい頭を下げる。
「あ……ありがとう、ございました……!」
「なに、たまたま通り掛かっただけ、礼には及ばぬ。だが、夜分に女の一人歩きは危険だ」
円らな瞳を僅かに細め、自分を見下ろす侍を上目遣いで見遣る海華から、『申し訳ありません』と今にも消え入りそうな弱々しい謝罪の言葉が生まれた。
ぬるりと湿り気を帯びた風が侍の袴をゆっくり揺らす。
微かな汗の匂いが鼻を掠め、助け起こされた時、握られた手が鈍い熱を産み出した。
「とにかく、怪我をせずに済んだのはよかった」
恐る恐る海華が顔を上げた途端先ほどと同じ穏やかな微笑みを向けられ、顔全体が焼けるように熱くなる。
ろくな返事も返せず、ただ真っ赤な顔で口をぱくつかせる海華を不思議そうに見詰めながらも、侍は笑みを絶やさない。
「そなた、住まいはどこだ? 送って行くぞ」
「いえ!……あの、大丈夫です……」
「そう案ずるな。送り狼になどならぬ」
「違うんです! その、本当に近くなので……一人で、大丈夫ですから……」
『すぐ近く』咄嗟についてしまった嘘に目を白黒させながらも、地面に転がる木箱をたどたどしい動きで背負う海華。
『本当に平気か?』そう問い掛けてくる侍へ再び深く頭を下げながら、海華はある重要な事を尋ねて忘れていたと、今更ながらに気が付いた。
「あの、助け頂いてありがとうございました。私……中西長屋に住んでおります、海華と申します。よろしければお名前を……」
「名前か……。名乗る程の者ではない。これから夜道は充分に気を付けろ」
そう一言言い残し、さっと踵を返した侍は腰に挿した刀を月光に煌めかせ、漆黒の重たい闇に消えて行く。
『ありがとうございました!』そう消え行く背中に大声で叫びながら海華は三度深く頭を下げていた。
御神籤売りに出掛けた妹が、顔から足まで泥まみれで部屋に帰ってきたのを見るなり、作業机で人形の仕上げに没頭していた朱王はぽかんと口を半開きにさせ、土間に立ち尽くす海華を凝視する。
「お、前……どうしたんだ、そのなりは?」
「ちょっと、ねー。転んじゃったのよ……」
いつもは白い頬をうっすらと紅色に染め、海華は乾いた唇を三日月形に歪める。
着物のあちこちに泥をくっつけながらもどこか嬉しそうなその様子に、朱王の顔がひくひくと引き攣った。
「転んだって、怪我はなかったのか? だからこんな夜に出掛けるなと……」
「うぅん……出掛けて良かったわ。あたし……やっぱり出掛けて良かった」
うっとりと、まるで夢見るように呟きつつ、水瓶から小桶に水を移して手拭いを浸す海華。
軽やかな鼻歌まで唄い、上がり框に座って泥を拭う妹の背中を、彫刻刀を持ったままの朱王は不気味な物を見る目付きで、じっと眺めていた……。
海華が泥まみれで帰宅してから三日が経った。
一晩過ぎてしまえば、海華の様子は元通り。
あのふわふわと夢見がちな様子が見られなくなり、朱王も別段気にする事はなくなっていた。
平凡だが穏やかな毎日が再び訪れ、この日珍しく仕事を休んだ海華は、からりと晴れ上がる夏空の下、兄と連れ立って街へ繰り出した。
勿論、遊び歩くのが目的ではない。
朱王が注文を受けた人形の衣装に使う反物を選びに、錦屋へ出向いていたのだ。
あれがいい、これは駄目だといくつもの反物を品定めし、悩みに悩んでやっと決めた品を手に店を出た二人は、どこかで一息入れようと数多の人が行き交いすれ違う大通りを歩いている最中である。
道の傍らには、真っ黒に日焼けした金魚売りが座り、大きな盥いっぱいに満たされた水が、きらきらと日の光を反射する。
その中で優雅に泳ぐ赤や黒の金魚らを、二、三 人の幼子が賑やかな歓声を上げ、じっと見詰めていた。
遥か彼方からは、瓜売りの口上が小さく響く。
夏も本番、じりじり照り付ける陽射しに顔をしかめながら、海華は緩慢な動きで額ににじむ汗を手の甲で拭った。
「蒸し暑いと思ったらいきなりじりじりなんだもの、これじゃ身体がついていかないわ」
「お天道さんに文句言っても仕方あるまい。 茶屋に寄るのはやめて、干からびないうちにさっさと帰るか?」
汗で首筋にまとわる髪を掻き上げ、意地悪な笑みを見せる兄へ、暑さで頬を紅潮させた海華が眉を逆立て『絶対行く!』と小さく叫ぶ。
その時だった。
「おい朱王! 海華!」
背後の人混みから飛ぶ、よく聞き覚えのある太い叫び。
ほぼ同時に後ろを振り返った二人の目に、満面の笑みを浮かべた鬼瓦……いや、修一郎の顔が飛び込んできた。
「修一郎様!」
「あ、桐野様も一緒よ!」
目を瞬かせそう口にする兄妹へ、巨漢の修一郎は半ば強引に人波を掻き分け、細身の桐野はその後ろを軽々と人を避けつつ向かってくる。
二人ともいつもの黒羽織ではないところを見ると、職務中ではないようだ。
「こんな所で会うとは奇遇だな海華、変わりはなかったか?」
「はい、お陰様で」
にこにこと朗らかに笑いながら言葉を交わす修一郎と海華、お白州で鬼と恐れられる奉行の面影はどこにもない。
そんな彼を苦笑いを浮かべて見遣る桐野に、朱王は軽く一礼した。
「ご無沙汰しておりました。今日は……お勤めではなく?」
「ああ。ちょっとした私用でな人に会いに行くところだ。……そうだ朱王、お主もよく知る男だぞ」
意味深な桐野の台詞に朱王は小首を傾げて手にしていた反物入りの風呂敷包みを持ち直す。
にこりと白い歯を見せ微笑んだ桐野が、くるりと後ろを振り向き海華との談笑に夢中となる修一郎の肩をポンと叩いた。
「おい修一郎、ここで二人に会ったのも何かの縁だ。共に連れて行こうではないか」
「おぉ!そうだ、そうしよう。政勝も朱王の事を随分と案じていたからな、きっと喜ぶぞ」
嬉々として手を打つ修一郎の口から出た『政勝』と言う名に、朱王はハッと息を飲む。
「政勝、様……轟様は、今確か……」
「勘定奉行を務めておる。いつも三人で酒を酌み交わすとな、奴め、お主と道場で共に汗を流していた時の事を、今でも懐かしそうに話しているのだ」
いつものように静かな、どこかしみじみと語る桐野に朱王は唇を固く結んだまま、再び小さく頭を下げる。
薄い胸の奥底で、眠っていた記憶がジワリと熱い熱を産み出した。
江戸における勘定奉行は勘定方の最高責任者であり、幕府の直轄領地の支配などを司る。
寺社奉行、町奉行と共に三奉行に数えられ、役高三千石の旗本だ。
つまり、身分的には町奉行である修一郎と同じであり、与力組頭を勤める俗に不浄役人と蔑まれる御家人、桐野より上、という事になる。
しかしこの三人、共に剣術道場で切磋琢磨し汗を流した盟友同士であり身分の違いなど無いも同然なのだ。
役宅へ向かう道中、修一郎と桐野の口からは思い出話しが尽きることなく語られ、その顔からは始終笑みが絶えることがない。
しかし、二人の後ろを行く朱王はどこか浮かない表情のまま、その唇はきつく閉じられていた。
修一郎と共に通い詰めた道場、そこで出逢った桐野や轟に稽古をつけてもらい、剣のイロハを叩き込まれた。
年端もいかない子供だった時分、女と間違えられる顔立ちと体つきから、からかわれ、時には物陰に引き摺り込まれて良からぬ真似をされそうになった事もある。
そんな窮地に陥った時、いつも救いの手を差し伸べてくれたのは、修一郎や桐野、そして轟だった。
だが、そんな彼に別れの言葉も告げられぬまま、自分は十数年前、道場から、そして江戸から姿を消したのだ。
どうしようもならぬ事態だったとは言え、不義理をしてしまった自分を轟はどう思っているのだろう。 今更なにをしにきたのだ、そう怒鳴りつけられても仕方無い事をした。
めっきり口数の少なくなってしまった兄に何かを感じ取ったのだろう、横を歩いていた海華が、軽く兄の袖を引く。
「兄様、どうしたの? 大丈夫?」
「ああ……平気だ」
無理矢理口角をつり上げ、半ば引き攣った笑みを作る朱王だが、それでも海華はどこか不安そう。
いっそのこと、修一郎らの誘いを断ればよかったと思いながらも二人は役宅に向かい足を進める。
やがて辿り着いた役宅、そびえ立つ正門の前に立ったと同時、朱王は腹の底から息を吐き出し腹を括った。
黒光りする瓦が敷き詰められた屋根、門をくぐり抜け足を踏み入れた広々とした玄関、修一郎が奥に向い声を掛けると、すぐに白髪をきっちり結わえた使用人らしき老人が現れ、四人を中へ招く。
すんなりと招き入れられたのは、主である轟 政勝が修一郎らが訪問するのを前もって知らせていたからだろう。
磨き上げられた廊下を通り、夏の花々が色とりどりの花弁を揺らす庭を横目に客間へ通された四人。
十畳以上はあるだろう広々とした室内、床の間には滝の描かれた掛軸が吊るされ、舶来品らしき壺や獅子の置物が飾られている。
出された茶菓を前に、一番下座に座る海華は心配そうな面持ちで横に座る兄へちらちらと視線を投げていた。
「待たせたな! いや、遅くなってすまなかった」
がらっ! と勢いよく奥の襖が引き開けられ、いささか掠れた声が飛ぶ。
柔らかな笑みを浮かべて現れたのは、薄茶色の着流しを纏った一人の男。
背丈は桐野程だが、彼より肉付きはいい。
中肉中背としか言い様のない体躯と僅かに角ばった顔に二重瞼、顎の下に小指の先程の黒子がのぞく三十路も半ばの男が、江戸の三奉行の一人、轟 政勝だった。
「修一郎、数馬もよく来たなぁ。前に会ったのはいつだ?」
「確か三月前だ。お主変わりはなかったか?」
座布団の上にドカリと胡座をかき、破顔する轟に、同じく早々と足を崩した修一郎が口を開く。
『変わりはない』そう答えた轟の目は、すぐに修一郎から朱王、そして海華へと向けられた。
「ところで……この者らは誰だ? 修一郎、お主の連れか?それとも数馬の……」
「なんだお主、覚えておらぬのか? 道場で共に竹刀を振るった仲ではないか。……まぁ、その頃この男は元服前の子供だったがな」
湯飲みを唇に当てたまま、桐野がニヤリと笑う。
その瞬間、轟は大きな目を更に大きく見開いたまま唇を戦慄かせた。
「道場で……? と、言うことはもしやそなた……朱王、か!?」
微かに震えた声が空気に溶ける。
じっと轟を見詰めた後、『ご無沙汰しておりました』そう声を詰まらせながら言った朱王は、深く深く一礼し、青い畳へ額を擦り付けたのだった……。
「お前……本当に朱王か!? 顔を上げろ! 早く顔を上げろ!」
目を白黒させ、畳の上を擦るように朱王の前に座る轟へ向かい、朱王はそろそろとその顔を上げる。
畳に手をつき、食い入るようにその顔を凝視していた轟は、やがて『間違いない』そう呟いて、唇に笑みの形を作り出した。
「間違いない、朱王だ。あれから十年以上経つが、面影が残っているぞ。お前……元気にしておったのか」
しみじみと言った轟の瞳には喜びの色こそあれど朱王を責める様子は全くない。
それを感じ取ったのか無意識に表情を柔らかいものに変え、朱王は首を縦に振った。
「長い間、ご無沙汰しておりました。きちんとご挨拶もせず江戸を離れてしまって……」
「そんな事を気にするでない! 訳あって里へ帰ったと修一郎から聞いておったが……隣におるのは奥方か?」
「いえ、妹でございます」
奥方、の台詞に苦笑を漏らしながらも、海華は轟へぺこりと頭を下げる。
「海華と申します。その節は、兄がお世話になりました」
「そうか、もしかしたらと思っていたが、やはり弟妹がいたのか」
どこか納得したように顎の下に手を当て頷く轟に、朱王や海華は勿論、修一郎や桐野までが不思議そうに目を瞬かせた。
「政勝、お主朱王に妹がいた事を知っていたのか? 俺は何も話していなかったはずだが?」
修一郎の言葉通り、あの当時海華の存在を知る者は一条家の者と数人の使用人のみ。
他言はするなと、修一郎も朱王もお静よりきつく言い渡されていたのだ。
「いいや、誰からも聞いてはおらぬ。ただ、弟妹がいるのではないかと予想はしていたのだ。朱王お前、稽古の後に茶店へ寄ると、いつも菓子を残して持ち帰っていただろう? それを見て、な」
にっ、と白い歯を見せる轟の台詞に、朱王はいささか恥ずかしそうに視線をさ迷わせる。
確かに彼の言う通り、三人で茶店の暖簾をくぐった時、必ず菓子を役宅で待つ海華へ持ち帰っていたのだ。
「始めは犬猫にでも喰わせるのかと思うていたが、途中からどうも違う、と。ところで朱王、今は何をしているのだ? 格好からして武士ではないのだろう?」
「今は、人形師を生業としております。妹は傀儡廻しを」
御家復興は叶わなかった、そんな小さな嘘を漏らす朱王の心中を察してだろう、横から桐野がゴホンと軽い咳払いを一つ。
「そこまでは知らぬであろう? 希代の天才人形師だぞ。作る人形どれもこれもが目のたま飛び出るような値で売れるのだぞ」
「桐野様……!」
あまりに自分を過大評価した桐野の言葉に、朱王は慌てて顔を跳ね上げるその隣では、海華が笑いを噛み殺すのに必死だ。
轟も、丸い瞳を更に丸くし、感嘆の溜め息を漏らす。
「そうか、お前も立派に身をたてたのだな。 朱王と言う名の人形師がいるとは、確かに聞いた事がある。『すおう』とはなかなか無い名だが、まさかお前とは思わなんだ」
『せっかくだから、一つ作ってもらうか』そう笑いながら言った轟。
その笑い声が消えぬうち、室内と障子で区切られた廊下の向こうから、『失礼致します!』そう凛とした若い男の声が響いたのだ。




