第二話
「そんな馬鹿な話しないわっっ!」
海華の口から飛び出す悲鳴にも似た絶叫が、室内の澱んだ空気をびりびり震わす。
志狼の言葉に取り乱し、思わず彼が纏う着流しの胸元を鷲掴んだ海華は、張り裂けんばかりに漆黒に濡れた両目を見開いた。
「先生が……先生が病人に毒盛ったって言いたいの!? そんな事あるはずないじゃない! 先生が、伽南先生がそんな事……!」
「少し落ち着け! 誰も先生が毒盛ったなんざ言ってねぇだろうが!」
胸元を力一杯握り締める手をやんわり外し、志狼は眉間に深い皺を寄せて、自分を射殺さんとばかりに睨み付ける海華を見下ろす。
そんな彼女の背後では、顔面を紙の如く真っ白にした 朱王の身体が揺らめいた。
「なら、だったらなぜ、先生がお縄になった? 奉行所へ連れて行かれたんだ?」
ゆっくり、一言一言噛み締めるように言葉を紡ぐ朱王。
血の気の失せたその顔を苦し気に見詰め、志狼はやおら視線を反らす。
「それは……先生が、薬の調合を誤ったからだと……。その疑いが晴れない以上は……」
「ふざけた事を抜かすなっ! 伽南先生が薬と毒を間違えて調合した!? 奉行所の連中は何を考えているんだ! あの伽南先生が……馬鹿も休み休み言えっ!」
柳眉を逆立て、指の関節が白くなるほど拳を握り締めた朱王の唇から、海華に負けない怒号が飛ぶ。
しかし、その台詞には志狼とて黙っている訳にはいかなかった。
『奉行所の連中』には、彼の主である桐野も含まれているのだ。
「ここで喚き散らして何になる!? 朱王さん、あんたや海華が伽南先生を疑いたくねぇ気持ちはわかる。だがな、現に先生の調合した薬で人が一人死んでんだよ! 渡した張本人疑わねぇで、誰疑えってんだ!」
「知った風な事を…! あんたも奉行所の連中も、先生がどんなお人か何も知らないだろうが! もういい! ここであんたと話していても何も解決しない!」
そう叫ぶが早いか、土間に飛び降りた朱王は素早く下駄を突っ掛け、海華や志狼を強引に押し退け外に消えていく。
目の前で激しく叩き付けられる戸口を呆然と眺めていた海華は、かくりと肩を落として深い溜め息を吐き出した。
「ごめんなさいね志狼さん、兄様も、あたしも少し言い過ぎたわ……。悪気は無いのよ、ただ混乱してるみたいで……本当にごめんなさい」
「いや、いい。俺も頭に血が上った……」
自分の前で項垂れる海華をばつが悪そうに見り、志狼は指先で頬を掻く。
再びゆっくりと顔を顔を上げ、目元を軽く指で拭いながら海華は力の無い笑みを目の前に立つ男に投げ掛けた。
「よかったら上がって? 中崎屋さんで何があったか、聞かせて欲しいわ」
「ああ、俺もそれを話しに来たんだ。じゃあ、邪魔するぜ」
皺が寄り、乱れた胸元を軽く直した志狼は海華に言われるがまま、畳へと上がる。
先程の剣幕はどこへ行ってしまったのか、茶の用意をし出す海華の背中は酷く小さく、そして何より頼りなく、志狼の目に映っていた。
海華のいれた茶を啜りつつ、志狼は事の経緯を語り始める。
彼が桐野から聞き出した話しによれば、今朝方、中崎屋の次女である昌の元へ、姉の峰が朝餉後の薬を持参した。
病の妹を日頃から献身的に看病していた峰は、伽南が調合した薬を管理し毎食後妹に飲ませる役を担っていたのだ。
この日は、海華と伽南が偶然店先で出会った際、峰に渡された物である。
いつもと同じ玉薬を一粒、峰が用意した水で飲み下した昌、それは何ら変わらぬ毎日の光景……。
しかし、何の前触れも無く平凡な日常は木端微塵に弾け飛ぶ。
突如、昌が水の入った湯飲みを取り落としたかと思うと、くぐもった悲鳴と共に、口から大量の血を吹き出したのだ。
ごぼごぼと血泡を吐き、どす黒い血潮にまみれて狂ったように畳をのたうち回る昌、妹の吐いた生臭い赤に染まり喉も裂けんばかりの絶叫を張り上げる峰……。
血相を変えた店の主人、つまりは姉妹の父親や使用人達が部屋に駆け付けた時には、血達磨と化した昌は己が喉元を掻きむしり、父親らを睨み付けるが如く、カッと目を剥いたまま既に絶命しており、傍らの峰は失神寸前、ろくに口もきけぬ有様、畳や障子にまで飛び散った鮮血が正に地獄と呼ぶに相応しい状況だったと言う。
志狼の口から事の全てを聞き終えた海華は、口を付けるのも忘れ既にぬるくなった湯飲みを、震える手で握り締めた。
「随分と……凄惨だったみたいね……」
「凄惨なんて一言で片付けられる状態じゃない。もう店は上を下への大騒ぎ、居合わせた姉貴の方は阿呆みてぇになってよ、まだ話しが出来ないとさ」
苦虫を噛み潰したような渋い表情の志狼は、湯飲みの中に映る自分の顔をじっと睨み付ける。
しん、と静まり返る室内。
戸口を挟んだ向こう側では、長屋に住まう者らの賑やかなお喋りが響いた。
「お昌さんが死んだのは気の毒だけど……でもね、伽南先生が調合を間違うなんて考えられない。よりによってそんな強い毒なんて……」
湯飲みを傍らに置き、そう唇を蠢かす海華は、どこかすがるような眼差しで志狼を見詰める。
このままでは伽南は牢に叩き込まれ、彼の姉夫婦が営む薬種問屋も無事では済まないだろう。
最悪、お取り潰しになるやもしれぬのだ。
「先生が故意に毒を渡したって事はまずないな。お昌を殺す理由がない。だがな、他の家族にも使用人にも、お昌に毒を盛る理由はねぇんだ」
困ったように視線を反らす志狼に、正面からじわじわとにじり寄る海華は焦れったそうに親指の爪を噛む。
と、ふいに彼女の唇から、『あ』と小さな声がこぼれた。
「あのさ、お昌さん病気だったのよね? いきなり悪くなって死んじゃった、ってのはないの?」
「そりゃ、なぁ……一応旦那様もその線は疑われたんだがな……」
モゴモゴ口ごもり、いやにはっきりしない志狼の態度に、海華は小さく首を傾げた。
「疑われたけど、なんなのよ? 大体、お昌さんの病はなんだったの?」
海華の問いに深い溜め息と共に志狼が弱々しい声色で吐き出したのは、『それがわかりゃ苦労しねぇんだがな……』との台詞。
見開いた目を幾度も瞬かせながら海華は、返す言葉も見付からぬ様子で、ただただ不思議そうな眼差しを志狼に向けるしかなかった。
さて、その頃長屋を一人飛び出した朱王の姿は、北町奉行所裏手門にあった。
奉行所へ連行された伽南は、今この瞬間にも中で厳しい調べを受けているはず。
なんとかして彼から直接事の次第を聞きたいが、堂々と正面から乗り込んだ所で門前払いされるのは目に見えている。
門番が二人待ち構える正門を複雑な気持ちで通りすぎた朱王の足は、自然と人気の少ないこの裏手門へ向いていたのだ。
風雨に曝され焦げ茶色に変色した木塀に囲まれた奉行所、小さな門が構えられただけの、門番も立たない裏口を道の反対側からじっと見詰める朱王の髪を、乾いた風がかき乱していく。
砂埃を巻き上げるそれに思わず顔をしかめ、 顔にまとわる髪を片手で押さえたその時だった。
今まで静寂に包まれていた裏手門の奥から、何やら人の声が響く。
やがて現れた三人の男達の姿を目にするなり、朱王は思わず細めていた目を見開いた。
黒羽織に太刀をさす二人の侍に向かい、藍色の羽織に縦縞模様の着物を纏う、いかにも商人風の中年男がペコペコと頭を下げ、辺りを気にしつつその場を後にする。
その男の背中を見送 る侍二人へ、朱王は足音も立てず素早く駆け寄った。
「都筑様! 高橋様!」
「おぉ! 朱王殿ではないか!」
突然の呼び掛けに、侍の一人が目を真ん丸に見開き、すっとんきょうな叫びを上げる。
高橋様、そう呼ばれた小柄で丸顔の侍の横では、酒樽のごとき頑丈で屈強な体を揺らす都筑が、ほぼ四角に近い顔に驚きの表情を浮かべていた。
「どうしたのだお主……こんな所で、何をしていた?」
「どうしたも何もありません、今さっき、中崎屋さんのお嬢様が亡くなった件で伽南先生がお縄になったと聞いて……」
大きな体躯を微かに屈め、自分を見詰める都筑に朱王は苛立ちを隠し切れぬように早口で用件を告げる。
早く、一刻も早く伽南の顔が見たいのだ。
「ああ、中崎屋の件か。ちょうど今、番頭から話を聞き終えた所だ。伽南殿の事は案ずるな」
切羽詰まった様子の朱王を安心させたいのか、戸惑いがちに小さな笑みを漏らした都筑は、ちらりと裏口の奥へ視線を投げる。
彼の後を追うように、高橋もその唇を開いた。
「我々も先生が下手人だと決めつけている訳ではないからな。それに、けして乱暴な真似はさせておらぬ」
『当たり前だ!』そう叫びたいのをグッと堪え、朱王は引き攣った笑みを作る。
とにかく伽南に会わせてくれ、そう懸命に訴える朱王を前に、二人は困惑した様子で顔を見合わせた。
「おい都筑、どうする?」
「どうする? ってお前……朱王の頼みを無下にもできんだろう? 少しだけなら良いではないか。桐野様もお許しになるだろうよ」
取り敢えず中へ入れ、そう都筑に促され、朱王は奉行所へと足を踏み入れる。
都筑と高橋に前後を挟まれた見慣れぬ男に、時おり廊下ですれ違い黒羽織に帯刀の役人らは一様に怪訝な眼差しを向けた。
曲がりくねる太い一本松の生える中庭に沿った黒光りする廊下を幾度も曲がり、辿り着いたのは奉行所の中でも奥まった場所にある部屋の前。
そこは、朱王が今まで幾度か訪れた事もある場所だった。
「ここは……高橋様、伽南先生はここに?」
「ああ、そうだ。だからさっき申したろう。 乱暴な扱いはしておらぬ。……お奉行の命だからな」
微かに口角を吊り上げ廊下に正座した高橋と都筑。
それにならい、彼らから少し離れた場に座した朱王。
些か緊張を含ませ、都筑が『失礼致します』そう障子で仕切られた室内へ声をかける。
日の光を反射し、ぼんやりと白く輝く障子の向こうから『入れ』と低く、よくとおる声色が朱王の鼓膜を震わせる。
『失礼致します』その一言と共に都筑の厳つい手が障子を引き開ける。
深々と頭を下げる朱王の頭上でガラリと乾いた音がしたと同時だろう、『おや』と些か拍子抜けした声が室内から飛んだ。
「貴方…朱王じゃないですか」
「伽南、先生……!」
ガバッと顔を跳ね上げた瞬間、柔らかく暖かな光を宿した瞳と視線がかち合う。
身体中から緊張がとけ、張り詰めていた気持ちが和らぐのをひしひしと感じる朱王の前には、海老茶色の着物に身を包んだ伽南と、都筑らと同じ黒羽織を身に纏った修一郎、桐野の姿があった。
「裏口で偶然会いましたものでこちらに……」
「偶然、か。いや、そのうち来るだろうとは思っていたのだが、やはりな」
苦笑いを浮かべる修一郎は、同じ表情を見せる桐野と視線を合わせる。
追い返されることなく室内へ招き入れられた朱王は、未だ驚きを隠せない様子の伽南の隣へと腰を下ろした。
「先生がお縄になったと聞いて居ても立ってもいられませんでした」
「そうだったのですか、いや、心配を掛けさせてしまいましたね申し訳ない」
額の汗を拭き拭きそう言った朱王へ小さく頭を下げ、伽南は鼻に乗せた眼鏡を指先でつつく。
緩やかに弧を描く猫背のため、余計に年寄りくさく見える彼を横目で見遣り桐野は深々と胸の底から大きな溜め息を吐き出した。
「さて、役者は全員揃ったな? 伽南先生、そろそろ本当の事を話しては頂けないだろうか?」
「桐野様、申し訳ありませんが、先程から申しております事以外、私には何も……」
「いや、しかし伽南殿、薬師が患者の病名を詳しく話せないなど、どう考えてもおかしいとは思わないか?」
横から口を挟んだ修一郎の言葉に、朱王はぽかんと口を開けたまま都筑と高橋を交互に見る。
しかし、彼らは気まずそうに顔を背けるだけだった。
「あの……少しよろしいでしょうか?」
「ん? なんだ」
ほとほと困り果てたと言わんばかりに頭を抱える修一郎は、朱王に向かい早く話せとばかりにひらひらと手を振る。
ごくりと生唾を飲み込みつつ、朱王は引き攣った笑みを伽南へ向けた。
「伽南先生、先生は……まさかお昌さんの病名を知らずに薬を処方した訳では……」
「いいえ。そんな馬鹿な事はありません。確かに亡くなったお昌さんは重い病でした。勿論、私が調合した薬も毒薬等ではありません。 ただ、今ここで病名を私の口から言う事は出来ないのです。それもこれもお昌さんのため、他言はしないと、清蘭先生とお約束致しましたから」
そう言いながら困ったような笑みを浮かべる伽南に、朱王は軽い目眩を覚える。
この人は、自分の置かれている状況がわかっていないのだろうか?
「清蘭先生とお約束って……先生! 今そんな悠長な事を仰っている場合ではありません! 修一郎様、桐野様、清蘭先生は何と……!」
「それが聞けたら苦労はないのだ」
やたらと沈んだ、疲れを滲ませたと言った方が正しいだろう声で桐野が呻く。
「清蘭先生は今、江戸を離れておるのだ。何でも街から離れた村に重病人が出たらしくてな。どうしても清蘭先生でなければならぬと、二日前に江戸を発たれた。一応は文を出してみたが、しばらくお戻りにはならないだろう」
清蘭は誠実を絵にかいたような男だ。
何があろうと患者を投げ出し途中で舞い戻ることはないだろう。
「つまり、清蘭先生が戻らぬ限り、伽南先生の疑いは晴れないと?」
「まぁ、そうだ。病名も言えぬ何の薬を調合したかも言えぬとなれば……仕方あるまい。俺とて先生を疑いたくなどないが……」
「私は逃げも隠れも致しません。お疑いになるなら、牢屋へでもどこでも放り込んで下さい。お奉行様や桐野様には御迷惑をお掛け致しますが……約束は約束言えぬものは言えません」
最早暴論にも等しい伽南の言葉に、その場にいる誰もがガックリと肩を落とし、重たすぎる空気が室内を満たしていった。
結局、伽南の身元は奉行である修一郎が一時預かる事になり、奉行所内にある牢へ収監されることとなった。
本来ならば小伝馬町の牢屋へ送られる手筈だったが、環境が劣悪なのは言うまでもなく、血の気の多いやくざ者や破落戸が山といる場へ伽南を送るなど出来ないと、朱王が直談判したのだ。
店や家族の事を考えろ、知っている事は全て話せ、そんな皆の懸命な説得に最後まで応じず、伽南は都筑や高橋に連れられ牢へと向かう。
取り乱す訳でもなく、飄々と部屋を出て行く彼の背中を見送る朱王は、ひどく苛立たしげに歯を食い縛り、膝の上に乗せた手を力一杯握り締めていた。
「先生がああも頑固だとはおもわなかったな……」
晴れ渡る青空に下、からころと小気味良い下駄の音を響かせながら、朱王がぽつりと一人ごつ。
奉行所からの帰り道、川沿いの道をとぼとぼ歩く彼の呟きに答える者は一人としていなかった。
日向の柔らかな匂いを乗せた風が、太陽の光を受けて煌めく朱王の黒髪を揺らす。
なぜ伽南はあれほどまでに頑ななのか?
牢に囚われ、実家が取り潰される恐れもあるなか、守らねばならぬ程重要な約束とは一体なんなのだろうか……?
頭の中を、そんな疑問ばかりがぐるぐる廻る。
溜め息をつき、時には低い呻きを漏らしながら朱王は長屋へと辿り着いた。
既に日は頭上高く昇る頃、長屋の周りでは身体中に汗を滲ませた子供らが竹馬や鞠つきに興じ、きゃあきゃあと甲高い歓声を響かせている。
そんな元気の塊達を横目に、朱王は自室の戸口をがらりと引き開けた。
「ただいま。……海華?」
がらんとした土間に立ち、六畳一間を見渡して見ても、そこに朝方訪ねてきた志狼の姿は勿論のこと、海華の姿もない。
「あいつ……こんな時にどこへ行ったんだ?」
自分が飛び出して行ったことはすっかり棚上げし、小さく眉をひそめた朱王は、むっつりした表情で室内へ上がる。
その時、自身の作業机の上に一枚の紙が置かれていることに気が付いた。
何気無く手に取ってみれば、そこには丸々とした女文字で、
『志狼さんと、でかけてきます。夜もおそくなります。ごはんは外でたべてください』
と、微かに歪んだ墨字が並んでいる。
しかも、その下にはご丁寧に海華と志狼の名前が書き添えられていたのだ。
その瞬間、みるみるうちに朱王の眦がつり上がり、手にした紙が乾いた悲鳴を上げて握り潰されていく。
「あいつら……っ!」
腹の奥から吐き出された怒りの呻き。
こめかみに青筋を浮かべた朱王は『馬鹿野郎ッ!』と叫ぶと同時、渾身の力を込めて握り潰した紙をひびの走る土壁へ叩き付ける。
その頃、深い悲しみに包まれ、神妙な面持ちの弔問客が引きも切らぬ中崎屋の裏手には、板塀の陰にひっそりと身を隠すように佇む海華と志狼の姿があった……。




