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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十七章 嘘偽りに効く薬
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第一話

 散り落ちた桜のくすんだ花弁が土埃にまみれて旋風と戯れる。

春も盛りを過ぎた江戸、過ぎ去った春を惜しむ反面、これから訪れるであろう夏を心待にする人々は今日も変わらぬ日々の営みを、青く晴れ上がる空の下で送っている。


 道と道とが交差し、数多の人が行き交う辻で人形を操り、声高らかに義太夫を唄う海華も、いつもと何ら変わらぬ時を過ごしている最中だった。

人波を掻き分け、あの男が現れるまでは。


 『海華!』喧騒の中から確かに聞こえた自分の名を呼ぶ男の声。

人形を操る手をピタリと止めた海華は、その声の主を探し、目を幾度も瞬かせ辺りを見回す。


 「おい、こっちだ!」


 「え、っと……あー! いたいたぁ! 志狼さん こんにちはー!」


 ようやく目的の相手を見付けた海華は、人形を抱いたまま顔を綻ばす。

そんな彼女に軽やかな足取りで近付いた灰鼠色の着流しを纏い、癖のある髪を後ろで束ねた男、志狼は、胸に大きな風呂敷包みを抱えていた。


 「今時間なら、きっとここだろうと思ってな。どうだ、繁盛してるか?」


 緩やかにうねる志狼の髪が、柔らかな日差しを受けて煌めく。

その微かな光に目を細め、海華は照れ臭そうに微笑みを返した。


 「繁盛って、まぁ、いつも通りよ。それより志狼さんは? 何か御使いもの?」


 ただ用もなく、彼が街中をぶらつく訳はない。

海華の問い掛けに、志狼は軽く頷きながら風呂敷包みを抱え直した。


 「旦那様の繕い物を引き取ってきたんだ。これから戻る所なんだが……寄っていくか?」


 その一言に、海華は相貌を崩しこくん、と小さく頷く。

志狼と街中で出会うたび、彼は茶に誘ってくれるのだ。

勿論、茶菓子も振る舞ってくれる訳であり、海華の密かな楽しみとなっていた。


 「なら、お邪魔しようかな。あっ、と……その前に、ちょっと用事を済ませてもいい?」


 「ああ、いいぜ。ところでどこに寄るんだ?」


 『お茶屋よ』そう答えつつ、踵を返した海華 が、今日の稼ぎと人形を木箱にしまいこむ。

今朝、朝餉の前に茶葉が切れている事に気付いたのだ。


 「うちの兄様ね、ご飯食べたら必ずお茶飲みたがるの。今朝なんて文句たらったらよ」


 唇を尖らせ木箱を背負う海華を横目で眺めつつ、志狼も何かを思い出したように、あぁ、と呟く。


 「そう言やぁ、うちの茶も切れかかってたはずだな……ちょうどいい、良い物があるか覗いてみるか」


 八十八夜はまだ先だが、新茶が出回るまでの繋ぎくらいはあるだろう。

そう考えながら、志狼は懐に手を捩じ込み財布をまさぐり始める。


 他愛ない会話を交わしながら二人が訪れた茶問屋、中崎屋は、江戸でも五本の指に入る…… とまでは行かないが、それでも大店の部類に入るだろう、日本橋で古くから暖簾を構えている店だ。


 朱王も海華も茶葉の種類にこだわりはないが、以前、朱王が人形の依頼を受けてからというもの、専ら茶は中崎屋で調達している。


 若草色の暖簾が二人を手招くよう、柔らかな春風に揺れる。

過ぎ行く人波を抜け、その暖簾を潜ろうとした時だった。


 「あ? ありゃ伽南先生じゃねぇか?」


 海華の後ろを歩いていた志狼がそうすっとんきょうな声を上げ、店の裏手へ続く脇道へ顔を向ける。

彼につられ、身体を仰け反らせるように同じ方向に目を向けた海華の口からも、『あら』と微かな声を漏らした。


 店の裏手、ちょうど裏口あたりになる場所から、ひょこひょこと軽い足取りで歩いてくる一人の小柄な男の姿が見える。


 鳶色の着流しに似たくさい色の羽織を纏い、小さな眼鏡を鼻の上にちょんと乗せたその男は、二人の視線に気が付いたのか、ふいにこちらへと顔を上げた。


 「あ、本当! 伽南先生だわ!」


 「おや海華! それと……確か志狼さんでした ね?」


 突然目の前に現れた二人に驚きの表情を浮かべて目を瞬かせた伽南だが、すぐにニコニコ人懐っこい笑みを見せ、ゆっくりこちらに歩み寄る伽南。


 『ご無沙汰してました!』そう一言、ぴょこんと頭を下げる海華と軽い会釈だけを返す志狼を交互に見遣る伽南の短い束ね髪に、陽光が反射した。

薬問屋『香桜屋』の長男坊であるこの男は、小柄、童顔も相まって若くは見えるが、既に三十路は越えている。


 「こんな場所で遇うなんて珍しい。二人共お茶を買いにですか?」


 「はい、ちょうど切らせてしまって……先生こそ、中崎屋さんに病人でも?」


 小首を傾げて尋ねる海華に、伽南は困ったような笑みを浮かべてこめかみを掻く。


 「えぇ、まぁ……。ここの娘さんが長いこと臥せっていまして。私がお薬を調合させて頂いています」


 「ここの娘……と言うと、二人いるはずですが」


 横から志狼が口を挟む。

はい、と言いたげに何度か頷いた伽南は、ちらと今来た脇道へ視線を向けた。


 「ご病気なのは妹様の方ですよ。お姉様は、近々結納を控えていらっしゃるとか。これがまた仲の良い姉妹でしてね、お姉様が身の回りのお世話をしているのです。海華、貴女と朱王のようですね」


 「そうですかぁ? 私達は仲が良いって言うよ り……」


 「朱王さんが、妹べったりなんだよな」


 ぼそりとこぼれた志狼の本音。

伽南は思わず 盛大に吹き出し、当の海華は『兄様に言い付けてやるから』と、捨て台詞を吐きつつ、志狼を睨みすえていた……。







 次に寄らなければならない家があるからと、 伽南は足早にその場を後にする。

そんな彼の後ろ姿を見送り、二人は中崎屋の暖簾を潜った。


 店内に一歩足を踏み入れた途端『いらっしゃいませ』の一言と共に鼻を擽る爽やかな茶の香り。

胸の中に清涼な風が吹き抜けるような心地好さに、思わず海華は頬を緩めた。


 それぞれの茶葉が銘柄や産地が墨書きされた小さな木箱に収められており、それが数多と重なる店には、海華と志狼の他に客は二、三人程しかおらず、使用人であろう店に立つ少女は手持ち無沙汰で紺色に染められた前掛けの裾を指先で玩んでいる。


 「時期外れの割には色々揃ってるじゃない」


 「まぁ、そう簡単に腐る物じゃないからな。 いつも買ってるのは……あぁ、これか」


 あれやこれやと品定めをしながら、志狼が手に取ったのは、なかなか上等の部類に入るだろう茶葉だ。


 「あら、結構いいお茶選ぶじゃない? さすが筆頭与力様は飲む物からして違うわねぇ」


 にや、と白い歯を覗かせ茶々を入れる海華を小さく鼻で笑い、志狼は手にした茶より更に高い品を彼女の鼻先へ突き出した。


 「そう言う朱王先生んとこは、これくらい値の張る茶じゃなきゃなぁ。なにせ知る人ぞ知る人形師様だもんな」


 『そんな安物なんざ口に合わないだろ?』

そう言いながら、海華の選んだ品……この店でも一番の安物を指差す志狼に、顔をしかめて思い切り舌を突き出し、自らの選んだ品をしっかりと胸に抱き締める海華を、使用人の少女は笑いを堪えつつ眺め、やがて前掛けをまさぐりつつ二人の元へとやってきた。


 「何かお探しの物はございますか?」


 にこにこと可愛らしい笑みを見せた少女が、志狼の側にある茶葉の箱に手を掛けた時だった。

店の奥、ちょうど母屋にあたる部分から、この世のものとは思えない女の絶叫が店内に木霊したのだ。


 『痛いっ! 痛い! 死ぬっ!』


 『助けて!誰か……』


 『早くお薬を頂戴っ!』


 そんな叫びの合間合間に獣の如き咆哮や鼓膜を突き破らんばかりの金切り声が迸る。

ばたばた慌ただしく廊下を駆ける足音がしたかと思った刹那、その叫びは嘘のようにぴたりと止んだ。


 「な、に? 今の……?」


 「さぁ、な……?」


 あまりの出来事に目を丸くさせその場に呆然と立ち尽くす二人。

だが、そんな二人とは対照的に、使用人の少女は深々と溜め息をつきつつ、またか、と言いたげに母屋へ顔を向けた。


 「お騒がせして申し訳ありません。今、お嬢様が病で臥せっておりまして……どうぞお気になさらずに」


 「お気になさらずにって……医者を呼ばなくて平気なのか? 相当痛がってたぞ?」


 志狼の台詞に、少女は苦笑いしながら小さく首を振った。


 「ええ、こう言うのもなんなんですけれど……いつもの事なんです。昼夜構わずで、 ……もう奥様や、お峰お嬢様が可哀想」


 たっぷりと憐憫れんびんの情を含ませ少女はそっと瞼を伏せた。







 「本当に物っ凄い悲鳴だったのよ。ぎゃー! 助けてー! ってさぁ」


 使い古した急須に熱い湯を注ぎながら、海華はそうポロリと溢す。

ふぅん、と聞いているのかいないのかわからぬ返事を返した朱王は椀に残っていた味噌汁を飲み下し、静かに箸を置く。


 一汁一菜の粗末な、しかし海華が手間を掛けて拵えた夕飯を残さず平らげ、満足げな溜め息をつきつつ背後の壁に寄り掛かる朱王は、顔にかかる髪を鬱陶し気に掻き上げる。

やがて、室内に芳しい茶の香りが一杯に広がりだした。


 「中崎屋の娘と言えば……確か上はお峰とかいったな。妹の方は……おまさだ」


 「そうよ。お姉さんは近々結納だか婚礼だかが近いらしいわ。って事は、昼間大騒ぎしてたのは、妹のお昌さんなのね」


 真っ白な湯気が立つ湯飲みを兄へ差し出し、自分の湯飲みにも涼やかな新緑色の茶を注ぐ海華は、納得した、と言わんばかりに大きく頷く。


 「俺も一度しか顔を会わせたことはないが、大人しそうな感じの娘だったな。そこまで大騒ぎする程の大病なら旦那様方も大変だろう」


 「そりゃ大変よ。もう七転八倒のたうち回ってます、ってな音がしてたわよ」


 そう言いつつ、湯飲みに唇を当てたまま、海華は旨そうに茶を啜る兄をじっと見詰める。

その視線に気付いたのか、朱王は小さく眉を寄せた。


「なんだ、さっきから人の顔をじろじろと……気味悪いぞ」


 「なによ、気味悪いなんて失礼ね! それより兄様、今日のお茶、いつもと違うと思わない?」


 湯飲みを手のひらに包み込み、にこにこと微笑みを向けてくる妹と湯飲みを交互に見遣り怪訝な面持ちで、朱王は首を傾げる。


 「いつもの茶と……何か違うのか?」


 『味は同じだ』そう一言、再び茶を啜り出す兄に、がっくり肩を落とし、海華は傍にある茶筒を手にとった。


 「今日はね、いつも飲んでるより高いお茶っ葉にしたのよ……。今までのより、渋くもないし甘味もあるじゃない。飲ませ甲斐がないわねぇ……」


 溜め息をつきつつ、茶筒を畳へ置く妹へ気まずい表情を向ける朱王の視線が宙をさ迷う。

正直、今までの茶との違いなどさっぱりわからない。


 「そ、そんなもの言われなけりゃわからん。 大体、なぜいきなり高い物を買ってくるんだ!」


 「それは……!」


 そう叫びかけ、海華はグッと口をつむぐ。

本当は、志狼が自分に薦めてくれた物を、何の気なしに買い求めたのだが……。


 「たまには兄様に美味しいお茶飲ませてあげたいと思ったからに決まってるじゃない! それくらい察してよね!」


 しどろもどろになりながらも、咄嗟にそう叫ぶ。 その途端、朱王は心底嬉しそうに破顔し、湯飲みを手のひらに包んで転がした。


 「そうか、お前もなかなか可愛いところがあるんだな」


 『もう一杯飲むか』そんな台詞と共に茶を啜る兄を眺めつつ、海華は無理矢理な笑みを作り出し、微かに震える手で己が湯飲みをしっかりと握り締めていた。


 その翌日、慌ただしく朝餉を終えた朱王は、海華の出した茶を立て続けに二杯飲み干すなり、そのまま仕事机へと向かってしまう。

何でも、急ぎの依頼が続けて二つ入ったらしく、こ こ数日は風呂屋へ通う以外、長屋から一歩も外へは出ていないという有り様だ。


 純白に煌めく日の光が斜めに射し込む室内では、こちらも慌ただしく朝餉の片付けを終えた海華が、古ぼけた鏡台に向かい、さらさらと流れる黒髪を櫛ですいている最中だ。


 「ねぇ、兄様。そう毎日石みたいに同じ場所に座ってないで、たまには外出てみたら?」


 鏡越しにちらりと映る兄の背中にそう声を掛けるも、返った返事は『時間が無い』の一言だけ。

それがただ出不精の言い訳だとは知りながら、海華は敢えて否定せず、苦笑いを浮かべる。


 「はいはい、わかりました。あたし、今日久し振りに伽南先生の所へ寄ろうと思うの。兄様、何か伝えておくことある?」


 「そうだな……あまり無理はなさらずに、ご自愛下さいと、伝えてくれ」


 白木を削る小気味良いのみの音と共に告げられた台詞に、海華は手にしていた半月型の櫛を取り落とし、思わず盛大に吹き出してしまった。


 「『ご自愛下さい』ね、そっくりそのまま兄様に返すわ、一日中座ったままでいないで、少しは……」


 『休んでね』の言葉が海華の唇から出ることはなかった。

なぜなら、その瞬間に戸口が外れんばかりの勢いで激しく叩かれたと同時に、自分達の名を叫ぶ男の、それもよく聞き慣れた男の叫び声が響いたからだ。


 「おい、志狼さんじゃないか」


 尋常ではない叫びに、思わず作業の手を止め顔を上げた朱王。

彼の問いに答える間もなく土間に飛び降りた海華は、未だがたがたと揺れる戸口を引き開ける。


 日に焼け、白っ茶けた戸口の向こうには、うっすらと日焼けした顔を蒼白に変えた志狼が、肩で息をしながら立ち尽くしていた。


 「どうしたの志狼さん!? こんな朝っぱらか ら……」


 「どうしたもこうしたもあるかっ! お前、伽南先生が……」


 ここまでの道のりを走り通しできたのだろう、僅かに声を枯らせる志狼の身体から、微かに汗の匂いがする。

あまり見たことのない彼の狼狽した様子に朱王は怪訝な面持ちで腰を浮かせ、海華はちょこんと小首を傾げた。


 「伽南先生? ちょうど今日窺うところだけ ど?」


 「志狼さん、先生に何かあったのか?」


 朱王の言葉に、志狼は乾いた唇を一舐めし、大きく首を縦に振る。


 「伽南先生が、たった今奉行所へ連れて行かれた……。中崎屋の娘が、先生の調合した薬で、死んだんだ。どうやら毒が混ざっていたと……」


 荒い息の下、途切れ途切れに告げられる事態に、二人の頭は一瞬で思考停止に陥る。

最早返す言葉すら見付からない、志狼の語る話しが、現実だとは思えない。


 瞬く間に室内を支配した静寂と凍り付いた時の中、朱王は無意識だろう、震える唇で、『嘘だ』とたった一言呟いた。

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