第五話
倒れ込んでくる巨体を慌ててかわす志狼の傍らで、目に一杯の涙を浮かべた海華が小さくしゃくり上げる。
消え入りそうな声で兄を呼び、廊下に大の字になって倒れている男にふらふらと近寄る彼女の肩を、志狼は強く掴んでその場に引きとどめた。
「少し落ち着け、こりゃ朱王さんじゃねぇ。お前が言ってた熊だろうよ」
「え……? あ、本当だ……」
改めて暗闇に目をこらし、足元の男を見下ろす海華。
良く良く見れば、それは兄とは似ても似つかぬ中年男。
白目を剥き出し、口から泡を噴いて気絶する男は、兄とあの部屋に消えた一人に間違いなかった。
「兄様は? 兄様どこに行ったの?」
「多分あの部屋だろうよ」
そう言うが早いか、志狼は男を一跨ぎ、蝋燭の灯りが闇をぼかす室内へ足を踏み入れる。
細身の後ろ姿が室内へ消えたと同時、『やっぱりなぁ』そんな感嘆と呆れの入り交じる志狼の呟きが鼓膜を打つ。
志狼の後を追い、慌てて室内に飛び込んだ海華は、目の前に広がる光景に思わず小さな叫びを上げていた。
ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた煎餅布団には、あちこちどす黒い血が飛び散り、障子は骨が折れ、紙が破けて原型がわからぬ程。
その全てが滅茶苦茶の世界の中に数人の男らが丸太の如く転がっていたのだ。
その中には、あの破落戸の姿も又蔵の姿もある。 みな顔のあちこちに紫色の痣を浮かべ、口からは鮮血を滲ませる酷い有り様だ。
地の底から沸き上がるような低い呻き声が不気味に響く室内。
一体何が起こったのか、呆然と立ち尽くす海華の視界の端、ちょうど暗がりとなった一角で、もぞりと何かが蠢く。
最初気付いたのは、志狼だった。
「おい、大丈夫か?」
「し……ろう、さんか?」
荒い息と共に返された呟きに、海華は弾かれたように部屋の隅へと走る。
薄汚れた土壁にぐったりと凭れかかっていたのは、あちこちを血で染め上げ、身体中に青痣を張り付かせた朱王の姿だった。
「兄様……っ!? 兄様ぁ! 大丈夫!? ねぇ大 丈夫なの!?」
声を上擦らせ、すがり付いてくる妹を抱き留める朱王は、多分殴られたのだろう、黒い痣が浮かぶ目元を痛みに耐えるようひくつかせ、切れた唇を歪める。
海華を抱く腕、その手首はべろりと生皮が剥がれ、乾いた血が硬く固まっていた。
「海華……無事、だったか。良かった……。志狼さん、も、手間かけさせて……すまない……」
苦しい息の元、途切れ途切れに言葉。
苦笑いで返した志狼は、痛々しい傷口が顔を覗かせる手首を、手早く自分の手拭いで包む。
「水臭い事は言うな。それにしても……派手にやったな?」
微かな笑みを含ませ、志狼はぱちりと片目を瞑る。 まぁな、そう返した朱王の呟きは海華の啜り泣きに消されるくらい小さく弱々しいものだった。
「もうすぐ旦那様達が来られるだろう。少しは辛抱できるか?」
あちこちに転がる暴漢共の手足を裏庭から調達した荒縄で固く縛り上げ、志狼は力なく壁に凭れかかる朱王を一瞥する。
無言のままに頷き、皺だらけの乱れた着流しをのろのろと身に纏う彼の脇では、不安に目を潤ませた海華が そっと寄り添っていた。
「兄様、あの女は?」
「逃げた。亭主がぶちのめされたのを見て……一目散に、逃げてったよ……」
薄い唇の口角だけをわずかに上げ、朱王は静かに目を閉じる。
と、玄関辺りがやけに騒がしくなり、激しく戸口が打ち付けられる音と共に、『ここを開けろっ!』と男の野太い叫び声が三人の鼓膜を震わせた。
「あ……修一郎、様?」
「ああ、お出ましか。ちょっと行ってくる」
そう一言告げ、志狼は玄関へと走り去る。
幾ばくもしないうち、狭い店内に荒々しい数多の足音が響き、顔面を蒼白にした修一郎が襖を押し破らんばかりの勢いで、室内へと飛び込んできた。
「朱王っ! 海華っ! 大丈夫かっ!?」
「修一郎様ぁ……!」
海華の口から嗚咽混じりに彼の名がこぼれる。
今までの不安や恐怖からやっと解放されたかのように、彼女は熊を思わせる巨体に力一杯すがり付いていた。
余程慌てて屋敷を飛び出してきたのか、修一郎の着物は胸元の合わせ目が乱れ、いつもは髪の毛一筋の乱れなく結わえられている髷は、あちこち解れ脂汗の滲む額にべたりと張り付いている。
ぐすぐす鼻をすすり、嗚咽を必死に堪える海華を抱き締め懸命にその薄い背を撫でる修一郎の背後から顔を出したのは、これもあちこちに皺が浮かぶ着流しを纏った桐野だった。
「どうやら二人共無事なようだな。一時はどうなる事かと思ったが……。しかし朱王、今回はお主らしくない。随分と手酷くやられたな?」
足元に転がる男らを跨ぎ、朱王の隣に屈む桐野。 彼の発したその台詞に、朱王は痛みに耐えるよう、わずかに顔を歪ませる。
乾きかけた血が皮膚を引き攣らせぴりぴりと焼けるような痛みを生んだ。
「お恥ずかしい、限りです……修一郎様にも、桐野様にも、とんだご迷惑を……」
「なにが迷惑だ! こんな酷い目に遇ってまで、そんな水臭い事を申すな!」
こめかみに青筋を浮かべ、室内の空気を震わせそう一喝する修一郎。
頭上で轟くその声に、海華は思わず肩を竦める。
「なぜお前達がこのような場所にいるのかは、後々ゆっくり聞かせてもらう! とにかく、今は医者だ、医者!」
そう言うが早いか、修一郎は海華ね身体を離し、壁に寄り掛かる朱王を抱き起こす。
それなりに身長のある彼を肩で支えて立たせながら、修一郎は未だ無様に倒れ伏す男らを修羅の目付きで睨み付けた。
「桐野、この者らはお主に任せる。じきに都筑らも来るであろうから、きっちり搾り上げてくれ。それと……」
「ここへ来る時、畳針握り締めて走ってきた女の事であろう? 案ずるな。それも纏めて調べにかける。だからお主は早く小石川に行け」
あっさりとそう言いのけた桐野は、修一郎を促すように小さく目配せを一つ。
それに頷き、半ばよろけながらその場を後にする修一郎。
店の玄関先で、ぼんやりと眠たげな光を放つ提灯を一つ携えた志狼が三人を出迎える。
唯一自由に動ける海華へ提灯を渡す瞬間、志狼の口から『よかったな』と短い台詞が一つ零れ、星屑の瞬く夜空に消えていった。
修一郎の肩を借り、小石川へ急いだ朱王らは、医者である清蘭の治療を受ける事となる。
殴る蹴るの暴行を受け、あちこちに青痣を張り付けていた朱王だったが、幸いにも命に関わる大事に至ることなく、包帯を数ヶ所巻かれただけで、その夜のうちに長屋へ帰された。
海華も首を絞められ出来た痣以外、怪我らしい怪我も なかった。
後は奉行所、つまりは修一郎と桐野の仕事。
又蔵一味が関わる数多の悪行も、時期に白日の下に曝されるだろう。
今回の出来事は犬に噛まれたとでも思うしかない……。
だが、朱王と海華にとってそう簡単に終わらせられる状況ではなかった。
なぜ、あの刺青屋に二人がいたのかを修一郎に説明しなければならない。
いや、彼は既に事のあらましを又蔵からすっかり聞かされているであろう。
どちらにしても、修一郎は自分達に説明を求めてくるだろうし、自分達にも説明する義務はあるのだ。
ふらふらになって長屋へ戻り、布団に潜り込んでからも、二人の頭の中では、ぐるぐる回るからくり玩具よろしく、その事ばかりが巡り行く。
とっくに覚悟は出来ている。
しかし、真実を話すのは、やはり怖いのだ。
どう伝えればよいか、どう言えば修一郎を傷付けずに済むか……答えの出ない問いに頭を悩ませる二人。 だが、極限まで高まった身体の疲労には打ち勝てない。
知らぬ間に泥の眠りに落ちた二人が翌日目を覚ましたのは、既に太陽が天高く登りかけた頃だった。
いつもより酷く顔色の悪い朱王は、寝起きで蜘蛛の巣の如く絡まった黒髪を気だるげに掻き上げ、のろのろと緩慢な動きで布団の上に胡座をかく。
土間側、つまり朱王の左隣では、目の下にうっすらと鼠色の隈を浮かばせた海華が、顎が外れんばかりの大あくびを一つ、再び掛け布団を頭まで引き上げる最中だった。
「おい……おい! いい加減起きろ。もう昼 だ……」
「昼だからなんなのよぅ……このまま寝てたって、誰にも迷惑かけないってば……」
不機嫌な、しかし夢現をさ迷う蕩けた声色が掛け布団の下から聞こえる。
それに答えぬまま、朱王は白い包帯が巻かれた右手で、勢いよく海華の掛け布団を剥ぎ取った。
「嫌だってば! 何するのさぁ!」
「ぐちゃぐちゃ言わずにさっさと起きろ! いつ修一郎様がいらっしゃるかわからないんだぞ!?」
戸口から射し込む日の光に、立ち込める埃がちらちら輝く。
修一郎、その名を耳にした途端、敷き布団の上に猫よろしく丸まり、ふて腐れた表情を浮かべていた海華が、弾かれるように飛び起きた。
「そうだった……! 今日よね、修一郎様いらっしゃるの。日のあるうちかしら? それとも……」
「たぶん夜だろう。お互いいつまでも酷い顔でいられないからな。さっさと顔洗って着替えよう」
いささか掠れた声でそう言いながら、朱王は覚束ない足取りで布団から腰を上げる。
未だ傷の痛みはあるのだろう、兄の様子に海華は小さく溜め息をつき、『夜なんてこなければいいのに……』と、呻くように一言こぼしながら、ばりばりと寝癖のついた短めの髪を掻きむしった。
夜の衣を纏った『憂鬱』が、兄妹の下へ舞い降りる。
気だるい身体と鉛を飲み込んだように重い心を抱えたまま、二人はまんじりともせずに一日を過ごした。
海華は飯を炊く気にすらなれず、朱王は催促する気も起きないらしい。
六畳一間の狭い部屋で、たいした会話もないまま、ただ修一郎がいつ訪れるかを待っているのだ。
ちらちら揺れる蝋燭の灯りが、ひびの走る壁に二人の影を墨絵の如く黒く巨大に浮かび上がらせる。
夕方辺りから落ち着きのない海華は、ちらちらと戸口の方へ幾度も視線を投げながら、随分前に冷めてしまった湯飲みの茶で唇を湿らせ、朱王は作業机で意味もなく彫刻刀を玩ぶ。
やがて、閉め切った戸口の向こうから、からころと微かな下駄の音がしたと同時に、二人は緊張に表情を強張らせ無言のままに顔を見合わせていた。
戸口の上部、ちょうど障子紙が張られた部分に、にゅう、と厳つい影法師が浮き上がる。
どんどん、と力強く叩かれ、戸口が軋む乾いた音に、『邪魔をする』と、よく聞き覚えのある太い声色が重なった。
「夜分にすまぬな。邪魔をするぞ」
そう一言、大きな体躯を揺らせ戸口を潜った修一郎に、二人は深々と頭を下げる。
そんな彼らを一瞥し、修一郎は室内へと足を踏み入れ、壁を背にした朱王の正面へどかりと腰を下ろした。
「ご足労頂き申し訳ございません。この度は、修一郎様にも桐野にもご迷惑を……」
「その事はもう過ぎた話だ。気にするな。それより今夜はお主らに所用があって参った」
静かに、しかしはっきりとした口調の修一郎。
暖かみのある蝋燭の灯りに照らされる彼の顔には、深い疲労の色が浮かぶ。
自分に向けられた修一郎の広い背を前に、海華は口から心臓が飛び出してしまいそうに緊張し、乾いた唇を固く噛み締める。
出来るなら、今すぐここから逃げ出してしまいたいくらいだ。
「あの刺青屋……又蔵とやらの調べは滞りなく済んだ。なぜお主達があの店にいたのかも、奴は洗いざらい吐いたぞ。それで朱王、お主……」
慎重に、一言一句言葉を選びつつ修一郎は一度口を閉じる。
そんな彼に真っ直ぐな眼差しを向ける朱王の細い首筋から汗が一滴滑り落ち、着流しの襟に吸い込まれていく。
「又蔵の申したことは……お主が背中の傷を消そうとしていたと、それはまことか? 刺青で傷痕を消したいと、本当に思って……」
「あの男の申した事に相違ありません。私 は……背中の傷を消してやると、又蔵の口車に乗せられてあの刺青屋に参りました」
きっぱりと言い切った朱王の瞳は、顔を硬直させ息を飲む修一郎だけを映し出す。
次に彼の唇から飛び出すのは激しい罵声か、それとも地をも揺るがす怒号か……。
それは、今まさに修一郎と対峙する朱王にも、修一郎の背後で身を縮める海華にも、ついぞわからぬことだった……。
「私が浅はかだったのです。あんな輩の甘言に騙されて……おかしな期待をした、私が馬鹿でした」
自嘲気味に、しかし淡々と言葉を紡ぐ朱王の顔からは、何の表情も読み取ることができない。
朱王の唇が止まると同時に訪れた静寂。
鼓膜が痛く感じる程のそれを破ったのは、今にも泣き出しそうな海華の弱々しい声だった。
「兄様を怒らないで下さい……兄様、凄く悩んで……本当に悩んであの店に行ったんです。 私も好きにすればいいなんて言ってしまって……だから、兄様だけが悪いんじゃないんです」
己の膝先をじっと見詰め、そう呟く海華に背を向けたまま、修一郎は困り果てた面持ちでぼりぼり頭を掻く。
『いいから、お前は黙っていろ』必死に自分を庇う妹の言葉に胸がちくりと痛むのを感じながらも、それを押し留める台詞が朱王の唇から生まれる。
悔しげに、しかしどこか哀しげに顔を歪めた海華は、きつく噛み締めたまま、更に深く俯くだけ。
そんな彼女がくすりと小さく鼻をすすり上げたと同時、修一郎はがっくりと頭を垂れ、腹の底から深々と溜め息をついた。
「怒らないで、か……そうだ、海華お前ならそう思うだろうな。だが……俺にはわからん。 朱王、俺はお前を怒鳴りつければ良いのか、それともお前に伏して謝らねばならぬのか、未だもってさっぱりわからぬのだ」
太い眉を八の字に、心底困ったと言わんばかりに何度も首を傾げる修一郎。
そんな彼の口から飛び出した予想外の台詞に、海華は勿論朱王までが呆気にとられて目を丸くする。
そんな二人を横目に、修一郎は深く腕組みし、いつもならシャンと伸びた背中を緩やかに丸めた。
「背の傷をそこまで気にしていたのなら、刺青まで入れて消そうと決心したのなら、なぜそれを俺に言わなかったか。あんな怪しげな輩に頼む前に、なぜ一言相談しなかったのか……それは確かに腹立たしい」
「で、は……なぜ謝らねばならぬなどと? 修一郎様に非はございません。馬鹿な真似をしたお前が悪いと、なぜ叱って頂けぬのでしょう?」
気持ちの動揺を隠しきれぬ朱王の声が、わずかに震える。
再び盛大な溜め息を吐き出した修一郎は、ますます背を丸くさせながら、『うぅ』と弱々しい呻きを漏らした。
「ただ怒るだけで済むなら、ここまで悩まぬ。謝らねばならぬのは、つまりだな、その……」
普段とは明らかに異なる様子の修一郎は、視線を朱王が背にするひび割れた壁にさ迷わせ、もごもごと口ごもる。
焦れったい気持ちを抑えるかのように、海華は膝の上に揃えた手をきつく握った。
「謝らねばならぬ理由は……お前にその傷を付けたのは、俺の母だから、だ」
ゆらりと顔を上げ、そう告げる修一郎。
その真っ直ぐな視線に貫かれるかのように、朱王の身体がびくりと跳ねた。
「自分を傷付けた者の息子に、傷跡を消したいなど言えるはずもない、その分、俺がもう少し気を配るべきだった。母亡き今、それができるのは、俺しかいないはずだ。そうしなければならないのは俺だった。俺は、今の今までその責務を投げ出していた……。だから、俺はお前に、母の分も謝らねばならないのだ」
顔を紅潮させ、一気に言い切った修一郎は、はぁはぁ肩で息をしながらも、畳に両手をつく。
自らの前で深く頭を下げる修一郎を、朱王も海華もただただ驚きの眼差しで見詰めるしかなかった。
「頭を上げて下さい!」
悲鳴じみた叫びを喉の奥から迸らせ、朱王はささくれ立った畳に、だんっ!と音を立てて手をつく。
普段は殆ど見られない兄の取り乱した様子と、未だ畳に伏したままの修一郎に、海華は混乱し、一言も発せないまま小さな唇を戦慄かせた。
「謝らないで下さい! 修一郎様が謝らねばならないことなど何も……! 私が、ただ私が馬鹿だったから……過ぎた過去を消し去ろうなんて、出来もしない事を考えたから……今回の件は、全て私の自業自得なのです!」
頬を引き攣らせ更に続ける朱王の指先が、畳の上で細かく震える。
一時でも叶わない夢をみた、それが修一郎に頭を下げさせるというとてつもなく重大な結果を生み出してしまったのだ。
改めて自分のしでかした事の重大さに戦く朱王に、ゆっくりと顔をあげた修一郎は、彼には似合わぬ、と言ってはあんまりだろう柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「お前は決して馬鹿などではない。当たり前の事を考えた、そして当たり前の行動をしたまでだ。もし、俺がお前の立場だったならきっと同じ事をしていただろう。もしも、だ。万が一でも、お前の傷が消えると言うのなら……」
ふっ、と一度、修一郎は言葉を区切り、そしていささか照れ臭そうな笑みを向ける。
「俺は神や仏を拝み倒す。金を出せと言われれば、そうだな……雪乃以外は、一切合財売り飛ばしても惜しくはない」
『少し大袈裟か?』そう苦笑いする修一郎を凝視する朱王の胸が真っ赤に焼けた炭火を飲み込んだが如くに熱くなり、鼻の奥がツンと痛む。
ふと海華に目を向ければ、彼女は既に潤む目元を着物の袖口で拭っている最中だった。
「なぁ朱王よ。お前、本気で傷痕を消したいのなら、江戸にも腕のたつ医者はおる。どうせなら長崎辺りの蘭学に精通した医者でもいい、一度話しを……」
「いいえ。もういいのです……もう、傷はこのままでもいい、それよりも、私は修一郎様のお気持ちが堪らなく嬉しい。傷が消えたと同じくらい、本当に嬉しいのです」
声を震わせ、込み上げる涙をやっとのことで押し止めながらも、朱王は真っ直ぐに修一郎を見詰める。 その視線に、そして言葉に嘘偽りはない。
外見だけに目を向け、一番大切な人を、ものを蔑ろにしてきた。
ありのままの己を受け入れる難しさ、その大切さを思い知った今、もう迷う必要はない。
「今……初めて、傷を消さないで良かったと思います。そうでなければ、修一郎様のお気持ちを窺い知る事は出来なかったでしょう」
目尻を僅かな赤に染め、そう語る朱王の薄い唇に、仄かな笑みが浮かぶ。
それを見た修一郎も、ほっと安堵の表情を見せた、その時だった。
どんどん、と外から戸口が叩かれ、『邪魔をするぞ』とよく聞き慣れた声が三人の鼓膜を震わせる。 慌てて土間に飛び降り戸口を引き開けた海華。
その口から、『桐野様!』と驚き混じりの叫びが飛び出し、吹き込む風に抵抗するかのように、蝋燭の焔が身を捩らせた。
「夜分にすまぬな」
細面に柔和な笑みを浮かべてそう口にする桐野の後ろには、なぜか酒瓶を携えた志狼が佇んでいる。
「お……お主! なぜこにいるのだ!?」
すっとんきょうな叫びを上げ、腰を浮かしてこちらを振り向く修一郎に、桐野はにやりと意味深な笑みを投げ掛けた。
「なぜもヘチマもあるか。お主の事を案じてに決まっておろうが。朝も早くから、まるで墓の下から這い出てきたような面で出てきたと思えば、俺はどうしたらいい、どう話しをしたらいいと、丸一日頭抱えて唸るお主を見るに見かねて……」
「わかったっ! わかったもういい! それ以上は申すな!」
厳つい顔を茹で上がるかと思うほど赤く上気させ、修一郎が甲高い叫びを放つ。
必死に笑いを堪える桐野は、そのまま室内に上がり、修一郎の横へ腰を下ろした。
「案ずるより産むが易しだと言ったはいいが、時が経つにつれてこちらが気になってな。 どうだ、しっかり話しはできたか?」
「うむ……今しがた、な。やはりお主の申す通り、案ずるより産むが易しだった。昼間あれほど悩んでいたのはなんだったのか……」
うぅ、と小さく唸って頭を抱える修一郎に、今まで表情を固くしていた朱王も思わず唇を綻ばす。
その様を見て桐野も一安心したのだろう、彼は自らの背後に座する志狼へと顔を向けた。
「よし、話が済んだのなら、後やる事は一つだ」
『飲むぞ』桐野のそんな一言に緊張に固まっていた空気があっという間にほぐれていく。
「ちょうど良い酒が手に入ってな。 海華、急で済まぬが支度をしてはくれまいか? 人手が足らぬようなら志狼も貸すぞ?」
「はい……っ!? あ、わ、かりました、あの……いやだわ、何もお出しできる物が無くて……」
うっすらと涙の滲む目をごしごし擦り、頬を紅く染めた海華は、『何か買ってきます!』そう叫ぶと同時に弾かれるように腰を上げ、 足を縺れさせながら土間に飛び降りる。
そんな慌てふためく彼女に苦笑いを漏らし、志狼は手にしていた酒瓶をささくれた畳に置いた。
「夜道を女一人では危険です。私も一緒に」
「そうか、すまぬな志狼。おおそうだ、お前ついでに酒屋に寄ってきてくれ!」
そう一言叫んだ修一郎は懐から財布を引っ張り出し、ぽん、と財布ごと志狼に投げて寄越した。
「桐野、お主には悪いがこれだけでは到底足りん。志狼!出来るだけ上等なやつを買えるだけ買ってくれ!」
「承知致しました」
にや、と白い歯を見せて一礼する志狼は、さっさと土間に降り、海華の背中を押すようにして夜の帳が降りた外に身を滑らせる。
されるがまま、彼と共に表に出た海華。
今しがたまで涙に濡れていた目尻が、冷たい夜気にひりひりとしみた。
二人分の乾いた下駄の音が、星屑瞬く夜空に消える。
酒の肴になりそうな乾き物や、菓子を大量に買い込んだ海華は、これまた並々と酒の満たされた酒瓶を三つ抱える志狼と肩を並べて長屋への帰路についていた。
「上条様、今夜はとことんまで飲むつもりらしいな」
「そうね。桐野様も志狼さんも帰れないかもしれないわよ? うちで雑魚寝していく?」
くすくす小さな笑いを漏らし、横目で志狼をちらりと見遣る海華は、まるで気持ちを切り換えるかのように、ふっ、と軽い溜め息をつく。
「でもびっくりしたわ。修一郎様はまだわかるけど、桐野様や志狼さんまで来るんだもの」
「旦那様もお前達の事を案じておられたんだ。俺も……あれからどうなったのか、正直気になっていたからな」
柔らかにうねる癖毛を揺らし、志狼がぽつりと呟く。
「珍しいわね、気になってた、なんて。雨でも降るんじゃないかしら?」
「可愛くねぇ奴だな。こういう時には、『ありがとう』って言えばいいんだよ」
眉間にわずかな皺をよせる志狼に、笑いながらも『ありがとう』と告げる海華は、足元に転がる小石をこつん、と蹴り飛ばす。
小さな影が、固い地面を二、三度跳ねた。
「でも……本当にありがとう。あの時志狼さんが助けてくれなかったら、私も兄様も死んでたわ。命の恩人よ。ありがとうね、志狼さん」
やけにしんみりとした口調の彼女に、志狼は照れ臭そうに下を向いたまま。
「いや、まぁな。そう大層な事した訳じゃねぇさ……その、朱王さんもお前も、大怪我じゃなくてよかった」
無意識に、海華と歩く速度を合わせる志狼。
長く伸びた二つの影、それを見ているのは、二人の話を聞いているのは天空に煌めく星々と、世界を埋める闇だけだ。
「でも、私達幸せだわ。今回本当にそう思った。みんな、心配してくれたんだから。それに、誰も傷を消すことを非難しなかった。誰も、馬鹿な事した、って笑わなかった……」
「お前達の事、ちゃんと知ってる奴なら、誰も笑いやしねぇ。少なくとも、朱王さんは間違った選択はしてないと思うぜ。だから上条様だって、怒ったりなさらなかっただろ?」
志狼の一言が、じんわりと胸に染み入る。
「うん……。私と兄様、これからは過去も、傷の事も引っ括めて生きてかなきゃね。もう、後ろなんて振り向かない」
お互いに支え合って生きてきた。
だが、今は支えてくれる人達が沢山いるのだ。
決意を滲ませた海華の言葉に、志狼は小さく口角を上げ、何度か頷いて見せる。
「振り向かない、か。ただ、突き進むだけじゃ疲れるぜ? たまには立ち止まって……一息つくのも悪かねぇ。俺はそう思う」
平坦な道か、荒れ果てた荒野になるか、それはわからない。
だが、人生と言う名の道は、海華が思うよりずっと、長いものかもしれないのだ。
「……さ、そろそろ持ってきた酒が無くなる頃だ。急ぐか!」
「そうね、痺れ切らして探しに出られたら困るもの!」
お互いに困ったような笑みを浮かべて顔を見合せ、歩みを速める二人。
軽やかな足取りで向かう場所には二人を待っていてくれる人達がいる。
翌日、二日酔いに足元をふらつかせる修一郎らが長屋を後にするまで、賑やかな酒宴は夜通し続いたのだった。
終




