第十話
平八一味を命なき肉塊に化した二人。海華は朱王に言われた通り、急いで裏木戸を叩き、お仙の名を呼ぶ。ギィィ、と戸口を鈍く軋ませ顔を覗かせたお仙は両目に溢れんばかりの涙を溜め、木戸を掴む手は小刻みに震えていた。
平八は片付けた、後は店の者らを起こして上に届け出ろ。そう彼女へ伝えた後、足早にその場から立ち去った二人は人目を避けて裏道小道を通り抜け、住まいである中西長屋へ戻っていく。
刀、組紐の手入れを行います、血の飛び散った着物を長持ちの奥へ押し込んでから、二人は寝るに寝られずマンジリと一夜を明かした。
身体は指一本動かすのが億劫なほど疲れきっている。しかし、思考は怖いくらいに澄みわたり、全身を流れる血潮は埋み火を孕んだように熱く、神経を昂らせた。
二人とも無言を貫いたまま、朱王は壁に凭れて酒を舐め、海華は茶を啜ったり畳に寝転ぶなどしながら時を消費していった。
そうこうしているうちに、あっという間に夜も明け、白々とした朝の光が狭い部屋に射し込む頃、朱王は空となった湯飲みを作業机の上に起き緩慢な動作でその場から腰を上げる。彼につられて立ち上がった海華は、顎が外れんばかりの大きな大きな欠伸を清廉な朝の空気の中に一度放った。
「さて、最後の仕上げに掛かるか……。お前、『例の物』を頼んだぞ」
「わかりました。昨日逃げてった連中が戻ってなきゃいいけど……」
出掛ける支度を始める朱王の言葉に、大きく伸びをした海華が答える。二人は長屋で別れ別れとなり、朱王は照月へ、そして海華は錦屋へと向かう。
生きた心地もしていないだろう浅黄に平八が死んだ事を伝えなければならなかったし、昨日の一件で未動揺しているだろうお仙の様子も確かめなければならない。
朱王の口から事が無事にすんだ、もうお仙は大丈夫だと聞いた浅黄は畳に額を擦り付け何度も何度も感謝の言葉を繰り返し薄化粧が流れるのもお構い無しに涙にくれた。そしてお仙は、騒動の発見者として長く番屋に留め置かれていたのだが、昼過ぎには解放され、野次馬が店先を埋める錦屋へと戻る。
勿論、今日は店を開けられる状態ではない。主人や女将は元より使用人たちも蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。自身の店に盗賊が押し込もうとしていたのだから当たり前だろう。店の者が右往左往している中、海華は女将を上手いこと言いくるめ、お仙を店の外に連れ出した。朱王に頼まれた『ある物』を取りに行くためだ。
最初、お仙は海華の申し出を頑なに拒否した。しかし『それ』が自身の、そして浅黄のためにもなると言われた途端、一転して海華の言葉に頷いた。
目当ての物を手に入れた二人は一旦錦屋へ戻り、女将に了解を得て海華の住まいである中西長屋へ向かう。頭上から照り付ける真夏の太陽。傍らの木々からは命の限りに羽を震わせる蝉の大合唱が鼓膜を震わせる。長屋へ向かう道々、お仙は無言を貫いていた。
「ねぇ、海華さん」
長屋まであと少し、というところで、お仙が初めて言葉を発する。思わずその場に足を止め、背後を振り返った海華に、お仙は不安の色をたっぷり含ませた視線を向け、右手で左の袖口をきつく握り締めた。
「これから、兄さんはどうなるの? あなたに言われた通りにしてきたわ。でも、結局兄さんはこのまま……」
尻すぼみに消えていく台詞。じっと己の爪先に視線を落とす彼女に優しく微笑みながら、海華はトンと自分の胸を叩いた。
「大丈夫よ、兄様は浅黄さんの事も、ちゃぁんと考えてるんだから。それに、お仙さんが持ってきてくれた『コレ』があれば、全て丸く収まるの。だから、そんなに心配しないで」
そう言って白い歯を見せる海華だが、それでもお仙は不安を拭いきれないようだ。
「でも海華さん、あなたと、あなたと朱王さんは……一体何者なの? どうしてあたしを助けてくれたの?」
黒目がちな目でじっとこちらを見詰めてくるお仙の質問に、海華は暫し考えるように頬へ片手を当て、考え込む素振りを見せる。彼女の問いは最もだろう、何しろ自分たちと浅黄、お仙兄妹は赤の他人。
以前からの知り合いでもなければ特別親しい間柄でもないのだ。
「そうねぇ、どうしてかって聞かれたら……あたし達と似ているからとしか言えないわ。あ、ちょっとこっちに来てくれる?」
そう言って海華はお仙を大通りから一本離れた小道へ連れて行く。小道と言っても商家の塀と塀の間、猫の通り道に毛の生えた程度の狭い小道だ。
ここならば人目に付かないし誰かに話を聞かれる心配もない。通りの喧騒は消え、蝉時雨も遠くに聞こえる薄暗い道、その真ん中で立ち止まった海華は踵を返してお仙と向かい合った。
「浅黄さんとお仙さんを見てるとね、昔のあたし達を見てるみたいなの。あたしも兄様も、子供の頃に親が死んでね。事情があってしばらく離れ離れで暮らした事もあったけど、江戸に来てからは、ずっと二人で生きてきた。いろんな事があったけど、兄様と二人で何でも乗り越えてきたの」
何物にも変え難い大切な肉親。互いに思い合い労わり合って生きてきた、大切な家族。きっと朱王も、浅黄とお仙に自分達の姿を重ね合わせたのだろう。
「特別な理由はないの、ただ……二人を助けたかった。何とかしてあげたかったの。たぶん、兄様も同じ。それに、浅黄さんはあたしを助けてくれたから、その恩返しかな」
「兄さんが、海華さんを助けた?」
きょとんとした面持ちでお仙は小首を傾げる。事の経緯を知らない彼女が不思議に思うのも、また当然だ。
「詳しい事は、浅黄さんから直接聞いて、あたしから話すの、何だか恥ずかしいわ。さ、兄様が待っているから早く行きましょ。こっちが近道なの」
照れ臭そうに鼻の下を指先で擦り、海華はすたすた足早にその場を離れてしまう。慌てて彼女の後を追ったお仙、中西長屋に着いた彼女が再び海華に見送られて錦屋へと戻ったのは、太陽が頭上高くまで上がった頃だった。




