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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十六章 刺青の陰謀
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第四話

 「お要、大事なお客の妹だ。丁重にお見送りしろよ」


 皮肉をたっぷり含ませた台詞を残し、又造は襖をぴしゃりと閉めてしまう。


 悲痛な面持ちの兄が襖の向こうへ消えていくのをなすすべなく見詰める海華は、羽交い絞めにされたまま、男の手によって店の裏手へと引き摺り出されていった。


 薄い闇が世界を包み込む店の裏、にたり、と妖艶に、それでいて凶悪な笑みを見せた女は、紅を塗った艶やかな唇を怯え竦む海華の耳許にそっと近付ける。


 海華の肩が、びくりと引き攣った。


 「さっきあの人が言った事ねぇ、全部嘘なの。ごめんねぇ、可哀想だけど……ここで死んでもらうよ」


 一番聞きたくなかった台詞が、薄い鼓膜を揺する。

女が海華を拘束する男にちらりと目配せすると同時、丸太のように太い腕が、ぐるりと細い首に巻き付いた。


 ごわつく体毛が肌を刺す。

力一杯首を締め上げられ、視界が赤く点滅した。

首の皮は今にも千切れそうに深い皺を刻み、肌の色は漆黒の闇の中で蒼白く、怪火の如くに浮かび上がった。


 みしみしと骨が軋む。

痛い、苦しい、助け て……! ただ、その言葉と兄の面影だけが、 酸欠に喘ぐ脳内を駆け巡り、新たな苦しさの中に掻き消えていく。

息が詰まり、ばたつく足は虚しく夜の空気を掻き乱すばかりだった。


 ごぼ、と手のひらで覆われた海華の唇から淀んだ空気が吐き出され、じたばたともがいていた華奢な両足、男の腕を引き剥がそうと、筋が浮かぶ程渾身の力が込められていた両腕が、だらりと垂下がる。


 裂けんばかりに見開かれた海華の瞳は、ただ虚ろな光を宿し、見世物を眺めるような眼差しを向ける女の歪み切った顔を映すだけ。

男が腕の力を緩めると同時、海華の身体はどしゃりと乾いた音を立て、ごみのように冷たい地面に転がり落ちる。


 力の無い、着物を着ただけの肉の塊と化した海華の身体を、女は石ころを蹴るのと同じように爪先で蹴り飛ばした。


 「うん……確かに死んでるね? 骸の始末は日が明ける前にやっちまおう。さぁ、厄介者の始末も終わった事だし、あの人の手伝いに戻るかねぇ」


 やけに楽しそうな女の発する台詞に、海華の身体を足で庭先に押しやっていた男は無表情のままに小さく頷く。

淡い月の光を浴び、土埃に塗れた海華の黒髪が、庭の隅で鈍い輝きを放っていた。





 虚無だけが支配する寂しい裏庭を、一陣の風が吹き抜ける。

闇を彩る白く淡い月明かりに包まれ、荒れた地面に打ち棄てられた海華の身体。

命無き肉の塊と化してしまったはずの彼女の指先がピクリと痙攣するかのように小さく跳ね、乾いた地に爪形が刻まれる。


 げほっ、と低く微かな咳き込みの後、見えぬ糸に操られるが如くゆっくりと、土埃にまみれた身体が起き上がった。


 「息が……長くて助かった、わね……」


 そう小さく呻きながら、海華は些か乱暴に両目を固く握った拳で擦る。

長く開きっぱなしだった瞳は水分を奪われて赤く充血し、ぴりぴりと刺すような痛みが海華を襲った。


 渾身の力で締め上げられた首には薄く赤紫色の痣が浮かぶ。

鈍い痛みを生み出すそこを撫でつつ、海華は黒く浮かび上がる影と化した彫龍を忌々しげに睨み付けた。


 あの状況で無事に逃げられるなど、いくら楽天家の彼女でもはなから思っていなかった。


 しかし、捕らわれた兄を救うためには、どんな形であれ店の外へ脱出するしか方法はなかったのだ。

きっと兄もそう考え、あえて派手な抵抗はしなかったのだろう。

一か八かの『死んだふり』、見破られはしまいかと気が気ではなかったが、なんとか誤魔化せたようだ。


 さて、問題はこれからどうするかだ。

親指の爪を噛みつつ海華は闇を睨み据える。

今、自分一人で中へ乗り込んだところで勝ち目はない。


 組紐は長屋へ置いてきてしまい謂わば丸腰だ。

誰か助けを呼ぶにしても、兄がどんな状況下にあるのかを説明しなくてはならない。


 「取り敢えず……中を確かめないきゃならないわ」


 そう一人ごつ海華の足が、乾いた地面を蹴り上げる。

足音を忍ばせ向かったのは、ついさっき自分が引きずり出された裏口。


 地面に伏している間もしっかり聞き耳を立て ていたが、閂やつっかい棒を掛ける音は聞こえ てこなかった。


 不用心さもこれ幸い、乾いた唇を一舐めした海華は、戸に耳を付け、中の様子を窺った後、そろそろと静かに戸口を引き開ける。


 気味悪いくらい静かな室内には、先程いた破落戸の姿も見えない。

一歩足を踏み出す度に、廊下が軋みやしないかと冷や汗をかきつつ海華は、兄が消えた部屋へと向かった。


 店内の奥にある薄暗い小部屋。

あちこち剥がれかけた襖に、そっと耳を近付けたと同時、憎むべき男の声が海華の鼓膜を揺らしたのだ。


 「さぁて、じゃあ始めるとするか。お前らしっかり押さえてろ。暴れられちゃ手元が狂うからな」


 その瞬間、海華の思考が白く爆ぜる。噴き上がる怒りと、兄を助けなければ、との焦り。

土に汚れた両手が咄嗟に襖へ掛かる。


 思考より早く身体が動き、海華は襖を跳ね飛ばさんばかりの勢いで左右に叩き開けていた。


 どんっ! と重たい物がぶつかる鈍い衝撃音と共に、海華の目に飛び込んできたもの、それは驚愕に目を見開き顔を跳ね上げる又蔵一味と、上半身を裸に剥かれ、手足を縛り上げられて布団に転がる兄の姿。


 蝋燭の灯りに浮かぶ雪の如く白い背、そこに刻まれた古傷が、ぬらりと怪しく蠢いた。


 しまったと思った時にはもう遅い。

呆然と目を見開いたまま、その場に立ち尽くす海華の鼓膜をつんざくように、『どうしてあんたが!?』と、女は悲鳴にも似た叫びを迸らせた。


 今この時、朱王の背中に冷たく光る長い針を打ち込もうとしていた又蔵は、狼狽を隠しきれない様子で、針を手から取り落とす。


 「どうなってんだ!? おい! 殺ったはずじゃなかったのかっっ!?」


「殺ったさ!首を締めて……!確かに殺した はずなのにっ!」


 ぎりぎり柳眉を逆立てた女は、畳に転がる長針をひったくり、海華に鋭利な尖端を向ける。

全身の毛を逆立て、怒りを露に威嚇する猫の雰囲気を醸し出す女に負けてなるものかと、傍らに控えていた破落戸共が、雪崩れ込むように海華へ飛び掛かった。


 しかし海華も黙ってやられる訳にはいかない。

飛び付く男の脛を蹴り飛ばし、無精髭に埋まる頬に渾身の一撃を炸裂させた。


 狭い部屋は上へ下への大騒ぎ、狂乱の舞台と化したそこは、男の罵声と怒号、そして女の金切り声が、もうもうと立ち込める埃に混ざる。


 「兄様! 兄様──っっ! 早く来て……起き て──っ!」


 喉も破れよとばかりに声を張り上げる海華の腕を、目を血走らせた一人の破落戸が力一杯ねじり上げる。

掠れた悲鳴を上げつつもがく海華を見上げる朱王は、体をのたうたせながら、男の足首へ思い切り噛み付いた。


 ぎゃっ! と短い悲鳴を上げる男が、堪らず海華の腕を放す。

どさりと畳に尻餅をついた彼女の目の前では、四つん這いになった又蔵に乱れる黒髪を鷲掴みにされ、苦痛に顔を歪める朱王がいた。


 「に……さま、っ!」


 「早く、逃げろ、っ! 行け……早く行け ──っ!」


 鬼の如く、髪の生え際まで赤くした朱王の叫び。 空気を切り裂くその叫びに、ますます気が動転したのか、又蔵は訳のわからぬ事をわめきながら、朱王の顔を踏み荒らされた布団へと思い切り押し付ける。


 手足を縛られたまま、滅茶苦茶に暴れ狂う身体、埃の舞う空気に散る艶やかな黒髪。

現実とは思えない光景を目の当たりにした海華の瞳から、次々と熱い雫が零れ散る。


 「あ……あぁ……わぁああぁああぁ ─────っっ!」


  気が触れたかと思われる程の絶叫。

弾かれたように畳を蹴り飛ばした海華は、そのまま脱兎の如く部屋を飛び出して行く。


 廊下で転び、壁にぶつかり闇夜が広がる外へ駆け出す彼女を追い掛け、土煙を上げて疾走する二人の破落戸……。


 夜気に涙を散らせ、助けを求めて墨をぶちまけたような闇の中を必死に走る海華の鼓膜には、あの部屋で聞いた兄の叫びがこびりつき、何度も何度も反響していた。







 「火の元用心火の用心、っと……よし、みんな消したな」


 火の消えたかまどを覗き込み、志狼が一言呟く。

今日一日の家事も全てやり終えた後はゆっくり湯に浸かり、疲れを洗い流してしまうだけ。


 ひんやりと冷たい空気が満ちる台所、蝋燭の灯りだけが闇を照らす空間で、ぐぅっ、と一つ大きな伸びをする志狼の唇から、微かな溜め息が零れた。


 夕暮れの裏路地で朱王と暫し話し込み、あわや桐野の帰宅に間に合わないのでは、と気を揉んだのは取り越し苦労だった。


 朱王の事は気になるが、自分が口を挟むべき問題ではないし、今頃は海華とも話し合えているだろう。

後日、それとなく海華にでも聞いてみるか。

そんな事を考えつつ、台所を後にしかけた志狼は、不意に勝手口辺りから響く、ばたばたと慌ただしく響く下駄の音に、ぴたりとその歩みを止める。


 「なんだ、今時分……騒がしいな」


 音からして一人ではない、複数だと思えるその音に志狼が眉を潜めた、まさにその時だった。

勝手口が激しい振動と共にがたがたと揺れ、そのあまりにけたたましい物音に、思わず志狼は表へと飛び出す。


 白く射し込む月明かりに浮かぶ勝手口は、今にもぶち破られそうに激しく揺れ、その激しく乾いた打撃音の合間に、『助けて……』と掠れた叫びが鼓膜を打つ。

その声の持ち主が誰かを覚った瞬間、志狼の足は地を蹴り飛ばし、力一杯勝手口を引き開けていた。


 「助けて……お願……助けて、っ!」


 そんな小さな悲鳴と共に、細い身体が開け放たれた戸口から倒れ込む。

傾ぐその身を間一髪胸に抱き留めた志狼は、一体何が起こったのかさっぱりわからぬといった面持ちで、目を白黒させた。


 「み……海華!? どうした、お前何が……!?」


 「閉めて……戸、閉めてっ! 追われてる…… 兄様! 兄様、助けてっ!」


 半ば半狂乱で叫ぶ海華の髪は、噴き出す汗で艶やかに光り、涙で濡れる瞳は裂けんばかりに見開かれたまま。

追われている、彼女の唇から飛び出た台詞に、志狼は海華を抱き留めたまま、半ば反射的に勝手口の戸を閉め戻し、しっかりとつっかい棒をかけた。


 海華の引き攣るような激しい息遣いの他は何も聞こえない。

きっと追っ手は海華がここに飛び込んだのを見て追跡を諦めたのだろう。


 「……もう大丈夫だ、表にゃ誰もいないぜ。一体何があった?」


 戦慄くその身を抱き締め、小刻みに震える海華を宥めるが如く、志狼は薄い背中を軽く叩く。


 「にぃ、さまがぁ……捕まったの、あの刺青屋に、捕まって……お願い志狼さん、っ! 兄様助けて……! このままじゃ殺されるっ! お願いだから、兄様助けてぇっ!」


 苦しい息の下、そう早口で告げた海華は、わぁっ! と激しく泣きじゃくりながら、冷たい 地面に崩れ落ちる。

涙に咽び、戦慄く背中を呆然と見詰める志狼の足を、海華の澄んだ瞳から止めどなく零れ落ちる涙が、静かに濡らしていった。


 夜間、突然桐野宅へ転がり込んだ海華。

彼女の慟哭に近い叫び声が、この屋敷の主、桐野に聞こえないはずがない。

何事が起きたのかと勝手口に駆け付けた彼に、海華は泣きじゃくり声を詰まらせながらも、志狼に話した兄の窮地を、そっくりそのまま話して聞かせた。


 さあ、そこからは天地をひっくり返したような大騒ぎだ。

自室で寛いでいたのだろう桐野は着流し姿のまま、邸宅に帰っているはずの修一郎や番屋の忠五郎に報せると室内へ駆け戻る。


 残された志狼と海華も、ただぼんやりとここで待つ訳にはいかない。

事は一刻を争う状況、二人は固く閉ざしていた勝手口を勢いを付けて叩き開け、静寂と月光が支配する街へと躍り出た。


 早く、一刻も早く兄の元へ駆け付けなければ。 そう気持ちだけは急くものの、海華の足は幾度 も縺れ、ひび割れた唇から吐き出す息はぜぃ ぜぃと荒い。


 いつもとは明らかに違う海華の様子に、先を走る志狼の眉間に深い皺が寄った。


 「お前、本当に大丈夫なのか? 朱王さんの事は俺と旦那様に任せて……」


 『長屋で待ってろ』その台詞は海華の悲鳴にも似た拒絶の言葉に遮られる。


 「兄様放って帰れる訳ないじゃないっ! 絶対帰るもんですかっ!」


 「あぁそうかい、それなら死ぬ気で走るんだな。途中でぶっ倒れたら、そのまま置いてくぜ?」


 悪戯に労りの言葉をかけても、今の彼女には逆効果、そう考え、あえて厳しい言葉を投げ付けながらも、志狼はちらりと自分の後ろを走る小柄な影に視線を向ける。

今にも零れ落ちそうな涙を乱暴に袖で拭った海華は、ただ無言のままできつく唇を噛み締めた。


 今にも止まってしまいそうな足を必死で動かし、走りに走って辿り着いた彫龍は、古びた建物事態が死んでいるかと思う程に静かで、肌を刺す冷たい空気に満ち満ちている。


 『ごめん下さい』と戸口を叩く程馬鹿ではない二人、そのまま裏口に直行し、志狼が渾身の力で蹴破った裏口から、二人は店内へと押し入った。

凍える空気が充満した店内は物音一つ、人の気配も全くしない。

だが、いつ物陰からあの破落戸が襲い掛かってこないかとびくつく海華は、無意識のうちに志狼の袖口をしっかり握り締めていた。


 「気を付けて、熊みたいなのが三人くらいいるわ」


 「熊、ね……にしちゃあ静かだな」


 薄暗い廊下に志狼の鋭い視線が走る。

その目が、朱王が囚われている部屋、その襖に向いた時だった。

どん! と土壁に何かがぶち当たる重い音と共に、シミのついた襖が震える。


 「兄様っ! 兄様──っっ!」


 もうあの破落戸や、又蔵に見付かる事など頭から消え去ってしまったのだろう、金切り声を張り上げた海華が、自分の前にたつ志狼を押し退けた襖に飛び付きそれを引き開けようと力一杯横へ引く。


 しかしどうした事だろう、襖はがたがたと、まるで文句を言うように鈍い音を立てて揺れるだけ、何かに押さえ付けられているかのように一向に開く気配がない。


 「おい待て……待て! 俺が開ける! ちょっと 退いてろ!」


 必死に襖を抉じ開けようとする海華を見兼ねた志狼は、彼女を横に押しやり、再びそこへ手を掛ける。 ぐっ、と息を詰める志狼の手の甲に筋が浮かんだ、その瞬間だった。


 みしみしみしっ! っと乾いた木が軋む音が、冷えた闇に響き、半ば外れるように、固い襖が開き出す。

半分程、それが開いた頃だろうか、黒い影と化した体が、力を無くした男の巨体が、志狼と海華目掛け、音もなく倒れ込んできたのだ。

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