第二話
『今日、刺青屋を訪ねてみようと思う』
朝餉の最中、朱王がぽつりとこぼした言葉に海華は賛成も反対もせず、ただ黙って頷いた。
目の下にうっすら隈を作り、いつもより顔色の優れない兄を前に賛成も反対もしなかった、と言うより出来なかった、と言う方が正しいのかもしれない。
きっと兄は満足に眠らず夜通し考え抜いたのだろう。
悩み苦しんだ末に下した決断なら全て受け入れる。 そう心に決めていた海華は、あえて深く問い詰めはせず、気を付けて行ってね、とだけ残して仕事へ向かった。
花曇りの空はどんより暗く、埃を巻き上げ道を吹く風は生温く肌を撫でる。
いざ辻に立ったはいいが、海華は全く仕事に身が入らずにいた。
人形を操り、義太夫を唄い上げる中でも、頭の中で常に兄の顔がちらつく。
もう長屋を出たのだろうか?
きちんと話しは出来ているだろうか?
一時足りとも集中出来ず、どこか不完全な芝居の代価として与えられる金は微々たるもの。 道に置いた木箱には、いつもの半分以下の銭しか投げ入れられない。
次々と自分から離れていく現物客らの背中を恨めしいそうに見詰めながら、海華は小さく舌を打った。
「あー、もうっ! 今日は止めた止めたっ!」
苛立たしげに髪を掻きむしり、海華は些か乱暴に金と人形を木箱に押し込む。
元より自分が納得いかない芝居を披露するのが大嫌いな彼女は、早々と仕事を切り上げることにした。
もしかしたら、兄はもう長屋に戻っているやもしれぬ。
木箱を背負い、いそいそとその場を後にしようとした海華。
そんな彼女は、突然背中に感じた『こつん!』と小さな衝撃に歩みをぴたりと止め、怪訝そうな面持ちで背後を振り向いた。
「なんだぁ、志狼さんか」
些か拍子抜けした声が、柳の葉が擦れ遭う乾いた音に溶ける。
柳から少し離れた場所には、右手に握った小石を曇り空へ放り上げ悪戯っぽく笑う志狼の姿があった。
「なんだとはなんだ。せっかく声掛けたってぇのによ。耳でも悪くなったのか?」
「気付かなかっただけよ! それにしたって、石投げることはないんじゃないの?」
頬を膨らませ眉をひそめる彼女に駆け寄る志狼の手には、小さな紙包みが一つ。
どうやら街で用事達しをした帰りらしい。
「なんだ、もう店仕舞いか? お前にしちゃ珍しいな?」
「ちょっと、ね……。早く長屋に帰りたくて」
「へぇ、そりゃ益々珍しい。朱王さん、具合でも悪くしたか?」
興味津々、といった眼差しを向けてくる志狼に苦笑いを返して首を横に振った海華は、彼の顔と紙包みを交互に見やり、ちょこんと小首を傾げた。
「兄様は元気よ。変わりないんだけど……」
「そうか、なんだか矢鱈しょげてるみたいに見えたんでな。……実はお前に用事があったんだ。ちょうどいいから、これからうちに来ないか?」
うち、つまりは八丁堀の桐野宅だ。
ここからさほど遠くはないが、どうも海華は気乗りしない。
「ごめんなさい、今は……」
「ふぅん……残念だなぁせっかく長門屋の桜餅買ってきたってのになぁ」
『長門屋の桜餅』その部分を殊更強調し、志狼は大袈裟に残念がって見せる。
海華の肩が、ぴくっ! と跳ねた。
「長門屋さんの、桜餅……!? 並ばなきゃ買えないって有名な、あれ!?」
「ああそうだ。運良く買えたから、お前にも食わせてやるかと思ってたんだが、嫌なら仕方ねぇなぁ、帰って旦那様と二人で……」
「行くっ! 行く行く! 嫌だなんて言ってない じゃない! ご馳走になるわ!」
きらきら目を輝かせ、身を乗り出して叫ぶ海華は、『兄様の分もある?』そう聞くのを忘れない。
にっ、と口角をつり上げた志狼は『勿論』と一言だけ返して踵を返す。
そんな彼を慌て追い掛ける海華は、まるで餌付けされた猫そのもの、背中の木箱までが嬉しさを現すようにかたかたと小さな背で揺れていた。
「傷痕消すなんて、刺青でそんなことが出来るのか?」
渋めに煎れた茶を啜りつつ、志狼が驚きと疑心を含ませた声色で尋ねる。
花々が咲き誇る庭が一望できる縁側に彼と並んで座り、桜餅をぱくつく海華は、戸惑いがちに小さく頷いた。
「その刺青師は、出来るって言うのよ。傷痕消した後で刺青入れるらしいんだけど……」
「なんだか胡散臭せぇ話しだな。大体、医者でもねぇ奴がそんな真似出来るとは思えないが……」
小首を捻り、小皿に盛られた桜餅を摘まむ志狼。 そんな彼を横目で見ながら、海華は側に置かれた湯飲みを手のひらで包み込む。
じんわり伝わる熱が、指先を仄かな桜色に染めていく。
「やっぱりおかしいかしら? でもね……どんな方々であれ、兄様が傷痕を消したいと思うなら、それで喜んでくれるなら、あたしはいいと思うの。……兄様が斬られたのは、あたしのせいなんだから……」
悲しげに揺れる声。
じっと湯飲みに映る自らの顔を見詰める海華の髪を、降り注ぐ陽光が美しく飾る。
朱王の背中になぜ刀傷があるのか、その理由を既に彼女から聞いていた志狼は、どんな言葉を返してよいのか一瞬考え、口をつむぐ。
「……気持ちもわかるがよ、朱王さんはお前のせいだなんて思っちゃいねえよ。そこまでうじうじした男じゃねぇだろ?」
言葉を選びつつ、こぼれた彼の台詞に海華は無意識に首を縦に振っていた。
確かに、兄は器の小さな人間ではない。
だが、海華にも負い目はあるのだ。
「あたしがいつまでも自分を責めているから、兄様は傷を消したいなんて考えたのかしら? あたし、そこまで兄様を苦しめていたのかしら……?」
「ほら、また自分責めてる。何回も言うがよ、お前のせいじゃねぇんだ。決めるのは朱王さんなんだよ。今日、刺青屋行くんだってな? ならよ、もし刺青入れるのが嫌になったならきっぱり断って帰ってくるさ」
『いつも通りに出迎えてやればいい』
そんな彼の言葉に、海華ははっと息を飲み、顔を跳ね 上げて彼を凝視する。
いつも通りでいい、その一言で、胸に抱えていた重荷が取り去られたような気がした。
「そう、よね。あたしがうじうじしていたら駄目、なのよね。ありがとう……なんだか気が楽になったわ」
朗らかな笑みを向けてくる彼女につられるように笑みを作る志狼は、残っていた茶を一息に飲み干す。 そして、皿に残っていた桜餅を再び包んでいた紙へと戻した。
「これ、朱王さんに持っていってやれ。いいな、いつも通りだからな?」
「わかった、志狼さん、いつもありがとう。 お礼は……また改めてするわね」
にこにこ微笑み美味そうに茶を飲む海華へ、『出来れば酒にしてくれ』と付け加え、小さな包みを渡す。 嬉しそうにそれを受け取った海華の唇から、ちらりと白い歯がこぼれた。
さて、その頃。
刺青屋『彫龍』の前に立つ朱王は、些か遠慮がちにその戸口を叩いていた。
江戸で看板を上げて間もないそこは、それなり立派な平屋造りの店であり、日にも焼けない木製看板が春風に揺れている。
二度、三度と戸を叩いているうちに、『はぁ い』とどこか舌足らずな返事と共に、海華と同じ位か、二十歳前半の若い女が中から顔を覗かせた。
「あの、私朱王と申します。又蔵さんは……」
「あ、はいはい朱王さんですね。うちの人から聞いていますよ。さぁ、どうぞ」
艶やかな頬を持つ丸顔の女は、やたら愛想の良い笑顔を振り撒いて朱王を中へと招き入れる。
ふくよかな体躯、たっぷり肉のついた尻、括れた腰をくねくねしならせ前を行く女は、身体中から色気を放つ朱王が一番苦手とする女だ。
「よくおいで下さいましたねぇ。うちの人から色々聞いちゃいましたが、本当に……溜め息が出ちゃうくらい素敵なお方だわ」
くすくす含み笑いを漏らす女……きっと又蔵の女房か、情婦なのだろう、彼女から放たれた色と艶をたっぷり含んだ一言に、朱王は早くもここへ出向いたことを後悔し始めていた。
「お前さん! 朱王さんがお見えになりました よ」
朱王を引き連れ、中へ向かう女が奥へと声を掛ける。
『おう』と短い返事が返ったと同時に、やたらにこやかな笑みを浮かべた又蔵が、ひょこりと顔を覗かせた。
「おう、朱王さん! 早速来てくれたのかい」
弾むような声色とは裏腹、浮かない表情で軽く会釈する朱王は又蔵に手招かれるまま、室内へと足を踏み入れた。
そこは薄っぺらい煎餅布団が一枚と、壁一面に貼り付けられた仏やら竜神やらの錦絵がある ばかりの殺風景な場所、どうやら彼の仕事場であるらしい。
もっとごちゃごちゃした、どこか血の臭いを感じさせる場所を想像していた朱王は、どこか拍子抜けした面持ちで、女が奥から引っ張り出してきた継ぎ接ぎだらけの座布団に腰を下ろした。
『今、お茶をお持ちします』そんな言葉と色っぽい笑みを残し、その場を後にする女の尻を目で追いながら、又蔵は渇いてひび割れた唇 をぺろりと一舐めめ、意味ありげな眼差しを自らの正面に座する朱王へと投げた。
「どうだ、ちょっといい女だろう? 元は八王子宿の飯盛り女だったんだ。あいつの背中にも……俺の墨が入ってる。特別色っぽい弁財天がよ。着物の一枚でも剥いで拝ませてやろうか?」
「いや! いや、いい、遠慮しておく……そこまでさせるのは申し訳ないからな……」
又蔵の言葉に狼狽を隠し切れない朱王は、僅かに頬を引き攣らせ慌てて首を横に振る。
げらげら下卑た笑い声を上げ、膝を叩く又蔵を前に肩を落とす朱王は、ここを訪れたことを再び後悔し始めた。
「又蔵さん、その、墨を入れると決めた訳じゃないんだ。ただ、今日はたまたま近くに来たから寄ってみただけで……」
口からこぼれる子供じみた嘘。
高鳴る胸の鼓 動がうるさいくらいに頭に響く。
膝の上に置いた手を力一杯握り締め、そこに視線を落とす朱王をじっと見詰める又蔵の唇が、小さな弧を描く。
「まぁなぁ、そうそう簡単に決められるモンじゃねぇだろうよ。だが、せっかくこうして足を運んでもらったんだ、もしあんたが良ければの話しだが、背中を少し拝ましちゃくれねぇか? 傷の具合、近くで良く見てぇのよ」
「背中を……あぁ。見るくらいなら……」
戸惑いつつも素直に頷く朱王は又蔵へくるりと背を向け、帯に手を掛ける。
するする乾いた衣擦れの音が静かな部屋を走り、着流しと襦袢の上だけが脱げ落ちた刹那、輝くように白い背中と、それに似合わぬ痛々しい刀傷があわらとなる。
ほぅ、と又蔵の口から感嘆とも好奇ともとれる溜め息がこぼれ落ちたのを、朱王の鼓膜はしっかり拾い上げていた。
「遠目で見てもかなりなもんだが、近くで拝めばこりゃ……惚れ惚れするくれぇ綺麗だぜ」
ぽつりぽつりと感嘆の台詞をこぼす又蔵の些か冷たい指先が、純白の背中を上から下へと滑り降りる。 斜めに走る薄桃色をした刀傷を、つぅ、と撫でられた刹那、朱王は無意識に唇を噛み締めた。
一番見られたくない場所を人目に晒し、あまつさえ触られることに対する嫌悪感と苛立ち。
胸に沸き上がるそれらに耐える朱王の気持ちを知らぬまま、又蔵はやたらと明るい、ともすれば不躾ともとれるだろう質問を次々と投げ掛け始めた。
「ものの見事にばっさりやられたもんだな。 生きてる方が不思議なくれぇだ。斬られて何年経ったんだ?」
「まだ、子供の頃だ……十かそこらだ」
「十かぁ……。かなりな古傷だから、消すにゃ半年……いや、一年くれぇはかかるかもな。でよ、誰に斬られたんだい? 辻斬りか? それとも山賊あたりか?」
「……傷を消すには、そこまで話さなきゃならないのか?」
怒り、そして僅かな哀しみを含ませた朱王の押し殺した呻きが、静かな室内に溶けて消える。
これにはさすがの又蔵も、なめらかに動かしていた唇をぴたりと閉じるしかなかった。
「いやいや、すまねぇな! 余計な事聞いちまったみてぇだ。人に言えねぇ訳なんざ、誰にだってあらぁな。一言多いのが俺の悪い所でな、悪かった気にしねぇでくれよ」
悪気かあるのかないのかわからぬ謝罪の言葉を浴びせられ、呆れ果てたように小さな溜め息をつく朱王は、ふと背後の襖が静かに開かれ誰かが部屋に入る気配を敏感に感じとる。
この店には又蔵の他に、あの無駄に色気を振り撒く女しかいないはずだ。
「お前さん、お茶、ここに置いときますよ」
「ああ、そうだお要、お前ぇちょいと使いを 頼まれてくれ」
「はいな、いつもの所でいいのかい?」
「おうよ。準備が整いました、ってな。くれぐれもよろしく伝えてくれよ」
背中越しで交わされる二人の会話の意味は、勿論朱王にわかる訳がない。
そんな彼の背中に手を当てた又蔵の口角が、にやりと嫌な笑みを形作った事も、朱王は知るはずもなかった……。
彫龍からの帰り道、春風に長い黒髪をたなびかせる朱王の眼差しは、ずっと地面に向けられたままだ。 傷を消すか消さないか……、又蔵の店を訪れてもなお、はっきりとした答えは出せず仕舞い。
決めるのは自分だ、いつまでも迷っていてどうする。
いくら気持ちを奮い立たせようとしてみても、心の中に生まれた微かな後ろめたさはいつまでも消えることはなかった。
人混みの喧騒も、わずかに傾きかけた陽光の眩しさも、今の朱王にはわずわらしい物としか感じられないのだ。
どんな顔をして長屋に帰ればいいのだろう?
海華になんと報告すればいいのだろう?
千々に乱れる心を抱えたまま歩みを進める朱王の前に、ふっ、と一つの影が立ちはだかる。
すんでの所でぶつかりそうになり、慌てて足を止めた朱王が顔を上げた先には、軽く片手を上げてこちらを見詰める一人の男、志狼の姿があった。
自分を真っ直ぐに見詰めてくる漆黒の澄んだ瞳と視線がかち合った瞬間、憂鬱が支配していた心に一陣の稲妻が走る。
知らず知らずのうちに表情を強張らせた朱王へ小走りに駆け寄ってきた志狼は、にや、と薄い唇から白い歯を覗かせこちらを見上げた。
「やっと帰ってきたか。ちょっと話しがしたいんだがよ」
「なんの、話しだ?」
渇き始めた口内で粘る舌を懸命に動かし紡ぎ出した一言は、自分でも驚く程にか弱く掠れたもの。
狼狽を隠しきれない朱王の袖を軽く引いた志狼は、そのまま通りの脇に伸びる小道、人の目につかぬそこへと朱王を引っ張り込む。
「あんまり他人にゃ聞かれたくないからな。本来ならこんな場所で話すことじゃないんだが……。朱王さん、背中の傷痕消すんだってな?」
唐突に放たれた台詞に朱王の口から呆れ果てたような深い溜め息が放たれる。
誰から聞いたのか、そんなこと尋ねるまでもない。 この件を知っているのは又蔵と自分、そして海華だけなのだ。
「あのお喋りが……いらぬ事をぺらぺらと」
「まぁそう言うなよ。俺が無理矢理聞き出したようなもんなんだから」
癖の付いた前髪をぐしゃりと掻き上げつつ、志狼は悪戯を咎められた子供のように照れ臭そうな笑みをこぼす。
「まだ消すと決めた訳じゃないからな。このことは内密に……」
「そんなことはわかってる。だがな、一つだけ聞きたいことがあるんだ」
瞬時に表情を引き締めた志狼はぐっと一度息を飲み、真剣な眼差しを朱王へ向けた。
「今回の話し、あの方はご存知なのか?」
「あの方……? 誰だ?」
「馬鹿、お奉行様に決まってんじゃねぇか」
『お奉行様』その言葉が胸に深く突き刺さる。
朱王は頭を強か殴られたような、強い目眩を覚えた。
何も答えぬまま、射らんばかりの眼差しで自分を見る朱王の様子が、志狼にとって一番の答えになったようだ。
「やっぱりな、まだ伝えていないのか? どうするんだ? このまま隠し通せるとでも思ってたのかよ?」
「それは……それはいずれきちんと……」
「いずれ? まさか墨入れた後の事後報告か よ?」
矢継ぎ早に問い掛けてくる志狼に苛立ちを露に舌打ちする朱王からは既に余裕の二文字は跡形もなく消し飛んでいる。
視線を宙にさ迷わせ、朱王は、ふいと顔を背けた。
「俺には俺の考えがあるんだ。余計な口出しはしないでくれ。大体これは……」
「余計な口出しついでに言わせてもらうがな、あんた何を迷ってんだ? お奉行様にご報告出来ねぇようなやましいことでもしてるのか?」
刺々しい台詞が茜に染まりゆく空に飛ぶ。
柳眉を逆立て志狼をぎりぎり睨み付け始めた朱王の両手は、関節が白く変わる程に強く握り締められていた。




