第一話
低い柘榴口の奥にある浴槽では人の顔すらよく見えない。
湯の汚れをわかりにくくするためだろう、一尺四寸の小さな明り取り窓があるだけのそこは肺を潤す湿気と雑談に花を咲かせる男達の声が反響する、江戸の人々にとって欠かせない社交の場だ。
『風紀良俗を乱す』
そんな理由で混浴が禁止されてから随分とたった。 しかし男湯と女湯の脱衣場と柘榴口を隔てる壁は申し訳程度の高さしかなく、お互いにほぼ丸見えと言っても過言ではない。
日がな一日仕事机の前で縮こまり、凝り固まった筋肉をたっぷりの湯に浸かりほぐした朱王は、満足げな溜息をつきつき彼の背丈では潜 るのに些か苦労する柘榴口を抜け出た。
薄暗い浴室から一歩足を踏み出した途端、煌めく汗の玉を滑らせる初雪の如き白い肌に、脱衣場で着物を脱ぎ着していた男達の視線が集中する。
普段外仕事をするわけではない、一度仕事を受けたとなればひと月は部屋に籠り切りになる朱王は、太陽の光とは縁遠いためだろうか、男にしては滑らかで抜けるように白い肌を持っていた。
肥満体でも脆弱でもない、適度な筋肉の付く引き締まった裸体は、男にしておくにはあまりにも勿体無いとさえ言われる程。
無遠慮に、そしてどこか好色じみた視線を浴びせられる事は日常茶飯事、彼には慣れっこになっている。
じろじろと舐めるように浴びせられる視線もお構いなしに、背へ流した漆黒の洗い髪を無造作に掻き上げる。
そこに刻まれる痛々しい刀傷に、脱衣場の隅辺りから小さく息を飲む音が聞こえた。
白雪の背中に斜めに走るそれは、朱王が決して髪を切らず、結いもしない理由を如実に物語る。 悪夢の夜から十年以上経つ今でさえ、彼は湯屋でこの傷を晒すのが嫌で堪らないのだ。
生きている限り消えはしない、忘れたくても忘れられない過去の記憶。
好奇、時には嫌悪を含ませた眼差しで傷を見られるたびに、心のどこかが鈍く疼く。
かと言って風呂に入らないわけにはいかず、朱王にとって湯屋は決して心安らぐ場所ではない、そうなりえない場所である。
湿り気を帯びる艶髪を背中に垂らし、無意識に傷を覆い隠しながら、朱王は肌を滑る汗と水滴を手拭いで拭い、そっと申し訳程度の仕切りで隔てられた女湯の方に意識を集中させた。
男湯より遥かに賑やかな、そこからは世間話に興じる女らの笑い声が絶え間無く響いてくる。
悪く言えば姦しいくらいだ。
その中には、一緒にここを訪れた妹、海華の笑い声も混じっている。
烏の行水だとの自覚がある朱王に対し、海華は信じられないくらいの長湯である。
全身の皮をふやかせるつもりか、はたまたそこまで入念に洗う場所があるのかと、よくからかってみるのだが、彼女に言わせれば風呂くらいゆっくり浸かりたい、兄様の方が忙しないのだ、とのこと。
つまり、ほぼ同時に湯上りするなど滅多にはないのだ。
今日は待たされずに帰ることができるだろうか、そう 内心で思いながら手早く紺の着流しを纏う朱王の肩を、突如背後からぽんぽんと軽く叩く者がいた。
顔見知り……きっと親分か留吉辺りだろう。
そう思いながら振り向いた朱王は、目の前に立っていた男に幾度か目を瞬かせる。
そこには、見ず知らずの男が矢鱈と愛想の良い笑みを自分へ向けていたのだ。
『どちら様ですか?』
そう問い掛ける前に、男は、にっこりと白い歯を覗かせる。
『兄さん、綺麗な肌してるねぇ』
男の口からそんな台詞が飛び出たと同時、朱王は驚き半分呆れ半分といった眼差しで、にこやかな笑みを振りまく男を眺めた。
「少し前にここで見掛けた時からずっと思ってたんだがね、いやこりゃ見事な肌だよ。男でここまで綺麗な肌してる奴ぁ、なかなかいねぇぜ」
朱王の事などお構いなしにべらべら喋り立て、自分の肌をねめつけてくる男に朱王は冷ややかな眼差しを向けて、手早く肌着を身に着ける。
こうして声を掛けられるのは今日が初めてではない。
時々いるのだ、妙な勘違いをする輩が。
「申し訳ないが……私はそちらの趣味は持ち合わせていませんので」
どうせ色子か何かと間違えているのだろう。
迷惑な話だと嘆息する朱王に、男はげらげら笑って顔を横に振って見せた。
「俺も男色にゃぁ興味ねぇんだ。いや、間違われてもしかたねぇか」
『俺は刺青師なんだ』
男の口から飛び出た台詞に、手早く着付けをしていた朱王の手がぴたりと止まる。
「刺青、師?」
「そうそう。一昨年上方から出てきた……、と言うより修行先から戻ってきてな、今は神田の外れで『彫龍』って看板掲げてる。商売柄よ、人の肌にゃ自然と目が行っちまうのさ」
上方から戻ったばかりと言うには言葉に訛りがない。
農家の小倅と言われた方がしっくりくる、小柄だが骨太、頑丈な身体つきをした男は自らを又造と名乗った。
「気ぃ悪くさせちまったんなら謝るよ。悪かった。だがな、冷やかしで声掛けたってぇわけじゃないんだぜ? ところで兄さん、あんた名前は?」
「朱王、です」
慣れ慣れしい又造の態度に乗せられた形となり、つい名を名乗る朱王。
そんな彼に、又造はにんまり口角をつり上げる。
「そうか、朱王さんってのか。ここで逢ったのも何かの縁だと思ってさ、少しばかり俺の話に付き合っちゃくれねぇかい? なに、獲って食おうなんて思ってねぇ。さっきも言ったが、男色なんざにゃ興味はねぇんでな」
親指を突出し、ちょいちょいと湯屋の外を指す又造を、朱王は未だ疑いの目で見たままだ。
唐突に声を掛けられ、話があるから来いなどと言われれば疑うのは当たり前だろう。
しかし自分は女子供ではないのだから、このまま拐われれる事などありはしない。
第一共に来ている海華をどうするべきか……。
眉間に皺を寄せ、そっと視線を女湯に移った朱王の視線を又造は見逃していなかった。
「どうした? ああ、女房とでも一緒に来てんのか?」
「女房ではないが、妹が一緒に来ている」
「なんだ妹か。それなら先に帰れと一言言えば良いだけだ。そう時間は掛からねぇし、あんたにも良い話なんだぜ?」
含みを持たせた言い草に朱王は思わず小首を傾げる。
自分にとって良い話しとは……? 疑問が渦巻く頭の中で朱王は考える。
彫師が一体何をしてくれるというのだろう。
刺青を施す者などそう珍しくはない。
大工や火消ならば刺青の無い者を探すのが難しいくらいだ。
朱王は直に目にした事はないが、忠五郎も背中に竜だか蛇だかの刺青を入れていると聞いた。
だが、自分はそんな物になど興味は無いし、彫りたいなどと一度も思った事はない。
人形師を生業とする自分に刺青は必要ない。
大体、醜い傷の走る背中に刺青など彫れるものか……。
じっとこちらを見詰めたまま無言を貫く朱王の心の内を見透かしたかのように、又造はエラの張った顔をにゅっと突出し、朱王の耳許で思いも寄らぬ言葉を呟いた。
「朱王さんよ、刺青ってのはな、ただ単に絵柄を彫り込んでいくだけじゃねぇんだ。あんたさえ良かったら……背中の傷、綺麗さっぱり消してやるよ」
その瞬間、胸の奥に潜む熱い塊が、ばくん! と一つ跳ね上がる。
驚きに目を見開いたまま、きつく唇を噛み締める朱王の目の前でまたしても意味深な笑みを浮かべた又造は、『良い話しだろう?』そう頭の芯に低く浸みる台詞をこぼして、真っ直ぐな視線をこちらに向けた。
『知り合いと会った、すこし話しがしたいからお前は先に帰っていろ』
そんな誤魔化しで海華を先に帰らせた朱王は、又造と共に湯屋を出る。
茶店に入るまでもない話だ、そう言いながら前を行く又造は湯屋から少し離れた小路へと朱王を誘った。
人目を避けて小路に入った二人、小間物屋と古着屋に挟まれた狭い小道。
煤けた白壁に凭れる又造は早速話しの本題へと入る。
『背中の傷を消してやる。その代り、背中に刺青を彫らせろ』
にやにや含み笑いを浮かべる彼の言葉に、朱王は返す言葉を失った。
「俺の背中に、刺青を?」
「そうだ。あんたに刺青を彫りたい。最初からそれが目的で声を掛けたんだよ。傷を消すのは……まぁ、下準備ってぇところかな」
胸の前で腕組みし、朱王をねめつける又造は、呆然とこちらを見詰める朱王からふっと視線を逸らして細長く切り取られた空を見上げる。
夕暮れ迫る空は橙と紫が混じり合い、胡麻粒によく似た烏が群れを成して飛び去って行った。
「傷の入った背中にそのまま刺青彫っても中途半端な物が出来上がるだけだ。だからまず、その傷の上から肌の色に合わせた色で墨を入れる。だがな、それだけではい、元通りってぇ訳にゃいかねえのよ。傷の所だけが浮いて見えるからな」
「だから……その上から刺青を入れて目立たなくさせる。そう言う訳だな?」
やっと又造の目的がわかった朱王は、静かに唇を蠢かす。
パチン!と一つ指を鳴らす又造が凭れていた白壁から身を離した。
「その通りよ。あんた話の飲みこみが早ぇえわ。どうだい? あんたの肌質は極上だ。きっと見事な物が仕上がるぜ。自分で言うのもなんだが、俺にゃあその自信があるんだ。あんたは背中の傷を消せるし、あんたの刺青で俺の名前は世間に広がる。一石二鳥だ。……気にしてるんだろう? その刀傷をよ」
頭の芯にジワリと浸み込むその台詞を、朱王は否定することが出来なかった。
全く気にしていないとなれば嘘になる。
幼い時分に刻み込まれた憎悪の証は、何年経っても消えることなどなく、また消せるなど思ってもみなかった。
過去に起きた出来事は変えられない、しかし、もしこの傷が消せたなら少しは過去から逃れることが出来るだろうか?
奇異、好奇、そして嫌悪の入り混じる眼差しを浴びることもない。
悪夢から目を逸らし、何事も無かったかのように新しい一歩を踏み出せるのではないか……?
激しく揺れ動く心、高鳴る鼓動と染み出る汗の冷たさを感じて朱王の手が強く強く握り締められる
返事もせぬままにじっと立ち尽くす彼の肩を、又造は湯屋での時と同じくぽんぽん、と軽く叩いた。
「まぁ、今すぐ返事をしろなんて言わねえよ。一度墨入れりゃ二度とは消せねぇからな。じっくり考えてくれ。 それと……この事は他言無用だぜ? 同業者があんたに手ぇ出すなんてこともあるからな?」
『心決めたら店まできてくれよ』
そう一言残し、又造は小路を抜けて人混みに紛れてしまう。
あっという間に見えなくなった彼の姿をいつまでも目で追いながら、朱王は細く細く、息を吐き出した。
背中の傷が鈍い痛みを生む。
まるで自己主張するように突然疼き出した傷の痛みに僅かに顔をしかめ、朱王は逃げるように小路を飛び出し、先に帰らせた妹が待つ長屋へと足を向けていた。
ただいまも言わず帰ってきた兄を見て、酒の肴を用意していた海華は怪訝そうに小首を傾げる。
いやに浮かない顔付きの朱王は黙りを決め込み、自身の指定席である作業机の前にどかりと腰を下ろした。
「やけに遅かったわね? 話し、長引いたの?」
醤油を絡ませた炒めた蒟蒻を皿に盛り付ける海華の言葉に、無言のまま頷いた朱王の手は、机の下にある酒瓶ではなく壁際に押しやっていた煙草盆へと伸ばされる。
鈍色に光る雁首の先に煙草を詰め、火種に翳す兄の姿を横目で見る海華は僅かに眉根を寄せ、香ばしい匂いを放つ肴と湯飲み一つを手に、兄の横へ座った。
「『知り合い』が誰なのかは知らないけど、余り会いたくない相手だったみたいね?」
含みを持たせた言い方をする妹を気まずげに見遣り、ゆらゆら紫煙を立ち上らせる煙管の吸い口をくわえる朱王。
肺に吸い込んだ苦い煙が、頭の芯をくらりと揺らす。
朱王が煙草を吸うのは、気持ちが落ち着かない時か、または機嫌が悪い時のみ。
一体何があったのか、尋ねたいのをぐっと堪える海華は、机の下から酒瓶を引っ張り出し中身を並々と茶碗に注ぐ。
「まぁ一杯どうぞ。今は何も聞かないでいてあげる」
にこりと微笑む海華の目が、不規則に揺蕩い消えていく紫煙を無意識に追う。
薄い唇から吸い口を離し、朱王は妹へ向かい苦笑いをこぼした。
「いや……そう気を使わなくてもいい。話すよ。実はな……」
煙管を煙草盆に置き、妹から受け取った酒で一度唇を湿らせて、朱王は湯屋で逢った男の話を、そしてその男から持ち掛けられた提案を、ぽつりぽつりと話し出す。
『背中の傷を消してやる。その代わり、背中に刺青を彫らせろ』
兄の口からは放たれた思いもよらぬ台詞に、海華の顔が一瞬強張る。
膝に揃え置かれた彼女の両手が、力一杯握り締められた。
「傷を消す、って……本当に出来るの? 第一、刺青なんて……兄様なんて返事したのよ?」
「まだ、返事はしていない。お前ともよく話し合いたかったからな……。なぁ、どう思う?」
酒をちびちび含みつつの問い掛けに言葉を詰まらせる海華の肩が微かに揺れる。
どう思うかと言われても……今ここで即答できる訳はない。
「あたし……今はなんとも言えない……刺青って、凄く痛いんでしょ?」
「そりゃあ……肌に針刺すんだから、痛いだろう、な」
「時間も掛かるの?」
「…… 一日や二日では終わらないさ」
茶碗の中に映る己の顔をじっと見詰める朱王からは、矢鱈と静かな声色が返る。
酷い痛みを長期間味わなければならない、そう考えただけでも海華は胸が締め付けられる思いだ。
出来るなら止めて欲しい、しかし声高に反対することなど出来はしない……。
なぜなら、背中に刻まれた刀傷で兄がどれだけ苦しんできたのかを、自分が一番良く知っているからだ。
賛成か、反対か。
相反する二つの気持ちに揺れる心に戸惑い、海華は静かに瞳を閉じた。
晩酌も煙草も早々に切り上げ、二人は布団に潜り込む。
しん、と静まり返る室内、闇の幕が降りたそこで聞こえるのは、暗い天井をじっと見詰める朱王の微かな吐息と、幾度も寝返りをうつ海華の髪が枕に擦れる乾いた音だけだ。
又蔵の申し出を受け入れるか否か……。
考えれば考える程に答えは遠ざかり、頭は冴えていく一方。
眠れもせず、しかし今更起きる気もない朱王は、顔に絡まる黒髪を無造作に掻き上げ、今日何度目かの深い溜め息をつく。
と、それと合わせるように隣で寝ていた海華がごろりと寝返りをうち、真っ直ぐに射し込む白い月光にこちらを向いた彼女の顔が浮かび上がった。
「ねぇ、兄様……」
「どうした? お前も、眠れないのか?」
「うん……。あのね、さっきの話しなんだけど、あたし……」
『兄様に、後悔だけはして欲しくないの』
唐突に告げられたその台詞に、顔だけを彼女の方に向けた朱王が小さな驚きの表情を見せる。
そんな兄に、海華はぎこちない微笑みを投げ掛けた。
「無責任な言い草かもしれないわ、でも、傷を消すにしろ消さないにしろ、兄様が一度決めたことなら、あたしは反対しない」
どうして傷を消さなかったのか……。
なぜ刺青なんか入れてしましたのか……。
海華は、どちらの後悔もして欲しくはない。
一度決断したのなら、それなりの覚悟を決めて挑んで欲しかった。
それが出来るのなら、自分は兄を全力で支えよう。 例え誰になんと言われようと、自分だけは最後まで兄の味方でいよう。
それが、彼女が下した答えだった。
「兄様が痛い目に遭うのは悲しいけど、それで楽になるならあたしは反対しない……。背中の傷で兄様が辛い思いしてきたの、あたしずっと見てきたから」
妹が見せた泣き笑いの表情に、なぜだか胸が締め付けられるように痛む。
朱王はわかっているのだ。
『兄が斬られたのは自分を守るためだった』
そう海華が自責の念をずっと抱いていることに。
きっと彼女は、今自分より悩み苦しんでいるのだろう。
「……わかった。約束するよ。どちらを選んでも、絶対に後悔だけはしない。これ以上、お前に悲しい思いはさせたくないからな」
微かな笑みを唇に浮かべてそう告げると、海華はにっこりと朗らかに微笑む。
この笑顔を失わずに済むのなら、刺青の痛みなどいくらでも耐えてみせる。
新たな決意を胸に、朱王はそっと瞼を閉じた。
そして翌日、彼は神田の外れに、『彫龍』と墨字で殴り書きされた木の看板が下がる一軒家の前に立ったのだ。




