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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十五章 声を見る少女
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第四話

 翌朝、朱王と海華、そしてお里の姿は高い木塀に囲まれた奉行所の裏庭にあった。


 普段は奉行所に勤める者らしか立ち入らない場所、そこは以前無実の罪を着せられて投獄されていた海華が解放された時に通った、あまりいい思い出のない場所でもある。


 綺麗に整地されたそれなりに広い裏庭、手前に植えられた松の大木が麗らかな陽光に濃緑色の細い葉を気持ちよさげに揺らすのを、お里の手を引く兄の後ろを歩きながら眺める海華は、その松の木の下に佇む男の姿にぱちぱちと目を瞬かせた。


 「なんだ、志狼さんじゃないか」


 朱王の呼び掛けに軽く片手を上げて答える志狼は、ぽかんとした表情で己を見る海華にニヤリと白い歯を覗かせる。


 「やっと来たか、その人がお里さんだな? 旦那様が奥でお待ちだぜ」


 親指で裏庭の更に奥を指し、彼は早く行けとばかりに朱王に目配せする。

朱王手作りの杖で軽く地面を突き、ゆっくりゆっくり自分の隣を行くお里と朱王を見送った彼は、その後を追う海華の袖を素早く握り、その場に引き留めた。


 「ちょっと何よ? どうして志狼さんがここにいるの?」


 「そう邪険にするな。俺も気になってな、旦那様に頼んで立ち会わせてもらうことになった。それより、あれ見てみろよ」


 松の蔭から顔を半分だけ覗かせ、志狼は海華を手招きする。

ぷくりと頬を引き攣らせたまま、海華は志狼の横から顔を出し、兄とお里の消えた方を覗き見た。


 裏庭の奥の奥、外からは見えないだろう場所には、黒羽織を纏った三人の侍達の姿が見える。

二人はこちらを背に立っているため顔はわからないが、その後ろ姿から都築と高橋であろうことは容易にわかる。

もう一人は自分達をここに呼び出した張本人である桐野、精悍な横顔を見せる彼の視線の先には、明らかに侍ではない三人の男達が立っていた。


 「……あの中に下手人がいるわけ? 大体さ、どうしてこんな辺鄙な場所でやんなきゃいけないの?」


 怪訝そうに首を傾げる海華に、志狼は一番奥にいる男、多分三人の中で一番若いと思われる男を指差した。


 「人目に触れちゃあちょいと不味い奴らがいるんだ。ほら、あのなよなよした奴の顔、お前知らないか?歌舞伎役者の市川左之助だ」


 歌舞伎役者、そう聞いた海華は驚きに目を見開きながら、彼が指差す男の顔を身を乗り出しまじまじ見詰める。

ほっそりとした撫で肩、遠目でも上等とわかる海老茶色の着物を粋に着こなすその男は、瓜実顔の色白、雰囲気までもがどこか女のようだ。


 「市川左之助……浮世絵では見たことあるけど、実物は初めて見たわ。今凄く人気らしいけど。化粧落とせばあんな感じなのね。――あら? その隣にいる人って、藤野屋の若旦那じゃないの!」


 素っ頓狂な叫びを上げた途端、その声の大きさに顔をしかめた志狼に軽く小突かれ。

慌てて両手で口を押える。

歌舞伎役者の隣にいる三十路を過ぎたばかりであろう、丸顔の福助人形にそっくりな小男は確かに見覚えがあった。

江戸でも老舗の部類に入る生糸問屋藤野屋の跡取り息子だ。


 「なんで若旦那がここにいるのよ? ……まさか、殺された人と好からぬ仲だった、とか言うんじゃないでしょうね?」


 「そのまさかなんだよ、あの二人、そろってあの女の情夫いろだったんだと。正確にいえば、女のほうがあいつらに首ったけだったんだな。えらい金貢いでたらしい」


 にやりと意味ありげな笑みを浮かべて癖のある髪を掻き揚げる志狼の言葉に、呆れ果てたような溜息を漏らし、海華はその場で頭を抱えてしまう。


 「信じられない、若旦那、この間祝言挙げたばっかりだって聞いたわよ? 本当男って馬鹿みたい。あの歌舞伎者だって、女に貢がせてたなんて知れたらどうなるか……」


 「だろう? だから外からわからねぇ所に呼び出したんだ。旦那様の計らいでな。ま、男なんて女ぁモノにするのが仕事みてぇなもんだからな」


 「ほんと、どいつもこいつも最低よね」


 苦虫を噛み潰したような面持ちでそう吐き捨てた海華は、早くも若旦那の隣に立つ体格の良い男へ視線を移していた。

三人の中では誰よりも屈強な、男らしいとも言えるその男は、年の頃四十路半ばだろうか。

がっしりと熊を思わせる身体つきに太い首、しかしはだの色は抜けるように白い。

百姓とも商人ともわからない男は、濃紺の羽織に木綿の着物と三人の中では一番粗末な出で立ちだ。


 「ねぇ、一番手前の人は誰?あの人も貢いでもらってたの? 他の二人と感じが全然違うじゃない」


 「ありゃ『貢がされてた』男だ。品川にある酒蔵知ってるか? 神香って、なかなか美味い酒造ってる造り酒屋だ」


 「うん、知ってる。高いお酒だから滅多に買わないけど」


 「そこの杜氏だ。貢いでた男が二人、貢がされてた男が一人、こりゃあ先がどうなるかわからねぇな」


 じっと遠くを見詰め、ぽつりと呟く志狼に同調するように無言で頷く海華、そんな二人に、松の枝葉から零れる木漏れ日が優しく降り注いでいた。


 「さて、全員揃ったな?」


 目の前に並ぶ三人の男をじろりと一瞥し、桐野が一言放つ。

と、そわそわと矢鱈落ち着かない様子の歌舞伎役者が懇願の眼差しを桐野へと向けた。


 「お侍様、確かに私は女将とそのぅ……深い仲ではございました、ですがね、殺すなんてことは神に誓って……いつも目を掛けていてくれたお人を、どうして殺す必要がありましょう?」


 「そうですよ! 女将と良い仲になっていた男 は私達の他にも山程いるじゃあありませんか! なぜ私達だけがこんな……。女房や親父に知れたら身の破滅でございます! どうかご勘弁下さ い!」


 「えぇい黙れっ! 他の者に知られては困る、だからこうして人目に付かぬ場所にお主らを呼び出したのだろうが! この期に及んでぐだぐだ文句をぬかすでないっ!」


 歌舞伎役者と若旦那、二人の泣き言をいっそ気持ち良い程に一刀両断し黙らせた桐野。

しゅんと頭を垂れてしまう二人を呆れた眼差しで見遣る彼は、自らの背後に控えていた朱王とお里を振り返る。


 「さて、これからはお里、そなたの力を借りなければならん。……大丈夫か?」


 先程の怒号は何処に行ったのか、案じるような声色の彼に焦点の合わぬ瞳を向ける彼女は、無言のまま力強く頷き、ずっと握りっぱなしっだった朱王の手を、そっと離す。

彼女の杖は微かに震えながら地面を突き、たどたどしい足取りでゆっくり男達の方へ歩みを進めた。


 「お里さん、一人で大丈夫かしらね?」


 「平気だろ、万が一何かされそうになったら、旦那様が黙っちゃいねぇさ。都築様や高橋様もいらっしゃるんだ。最悪ばっさりやられるだけだ」


 そわそわ落ち着きない様子でお里を見守る海華の問いに志狼はじっと前を見詰めながらも静かに答える。

怪訝そうな眼差しを送る歌舞伎役者の前で足を止めたお里は、小さな笑みを浮かべながら、ちょこんと小首を傾げた。


 「申し訳ありません、手を……手を触らせて頂けますか?」


 「手を? ――お侍様、こりゃ一体何の……」


 「いいから言われた通りにしろ! ほら、ぐずぐずいたすなっ!」


 苛立ちを露わにする桐野に再び怒鳴られ、歌舞伎役者は首を竦めてお里に両手を差し出す。

杖を左手に、空いた右手でその手を隅々まで触り、肌触りや感触を確かめていくお里の瞳は忙しなく宙を彷徨った。


 「――この方では、ございません」


 はっきり言い切った彼女は、そっと男の手を離す。

そら見ろ、と言いたげに目を細めた歌舞伎役者はさっさとその女のように白く柔らかな手を着物の袖口へと引っ込めた。


 「よし、次! お前だ、早く手を出さぬか!」


 桐野の一喝にしぶしぶ手を差し出した若旦那、そんな彼の前に移り、先程と全く同じ手付きでその手をまさぐるお里。

次こそは当たりか、そう期待半分緊張半分、固唾を飲んで見守る皆の目の前で、またしても彼女は首を横に振る。

朱王の口から、ふっ、と詰めていた息が溜息となって吐き出された。


 最後の最後、熊の如き体で仁王立ちになる杜氏の男は、桐野に急かされることもなくお里へ自らの手を差し出す。

その体格に似合わず、と言っては語弊があるだろうか、彼の手は歌舞伎役者に負けず劣らず白く柔らかな艶を放っていた。


 そっと、本当にそっと、お里の指先が男の手のひらに触れる。

大きな手の上を滑る彼女の手を、男は些か緊張気味に眺めて、固く唇を結んだまま。

他の二人と違い無駄口一つ叩かない、どちらかと言えば寡黙な男の手を軽く握ったお里の像を結ばぬ瞳が、まっすぐ男に向けられた。


 『この方です。間違いありません』


 花弁によく似た可憐な唇から零れたその台詞。

一瞬、男の体がびくりと強張り、やがて全ての力を失ったかのように大きな体躯がお里の前に崩れ落ちる。

手を握ったまま、男に引き摺られて地に膝を付いた彼女の瞳には、なぜか慈愛にも似た色が浮かんでいた。

小刻み身を震わせ、地面に伏す男に桐野が静かに近付く。

お里の手をしっかりと握り締めたまま、男は青ざめた顔をゆっくりと上げた。


 「……お前が女将を殺した、間違いはないな?」


 「へい……間違いございやせん、あっしが、女将を刺しやした……っ!」


 知らぬ存ぜぬと大暴れすることもなくすんなり罪を認めた男に、木陰に隠れていた志狼と海華は些か拍子抜けだ。

歌舞伎役者と若旦那が呆然と見詰める中、男は都築と高橋に両脇を抱えられよろめきながら地から立ち上がる。


 

 『連れて行け』そう桐野が都築らに命じた時だった。

杖を頼りに腰を上げたお里に、男が深々と頭を垂れたのだ。


 「申し訳なかった……何の関係もないあんたにまで怖い思いをさせて……本当に、すまなかった!」


 涙で声を詰まらせ、大きな体躯を縮めて幾度も頭を下げる男に、お里は静かな笑みを湛えたまま軽く首を横に振った。


 「いいんです、もういいんです。それよりも……私を殺さないでくれて、――助けてくれて、ありがとうございました」


 静かすぎる幕引ききを迎えた現場に、穏やかな声色が放たれる。

それを聞いた刹那、男の小さな目から止めどなく大粒の涙が溢れた。

嗚咽を漏らし、都築と高橋に半ば引き摺られるようにその場を去っていく男をじっと見詰めるお里。


 『下手人は決して悪い人ではない』先日番屋で聞いた彼女の言葉が、海華の頭の中で繰り返し木霊していた。


 「なんだか妙にあっさり終わっちまったな」


 お里をお駒の元に送り届けた帰り道、志狼がポツリと呟く。

前を行く兄の背中を眺める海華は無言のままに頷き、すっきり晴れ渡る青空に視線を移した。


 「それでよかったじゃないか。あそこで一騒ぎあってみろ、せっかく内密に事を進めていた桐野様の努力が水の泡になっていただろうに。 それに誰も怪我などせずに済んだんだ。あれで、良かったんだよ」


 事件も無事に解決した、それは喜ばしい事に違いはない。

しかし海華は素直に喜ぶ気持ちにはなれない。

なぜなら、この一件の犯人捜しよりずっと重要な問題が残ったままなのだ。


 「ああ、そうだ。海華、お前に少し話しておきたいことがあるんだ。ちょっとこっちに来てくれ」


 今思い出したとでも言うように、朱王はくると背後にいる妹を振り返る。

来るべき時が来た、海華は一瞬顔を強張らせながらも素直に頷き、兄に着いて通りから少し脇に入った小道へ足を向けた。


 何もこんな道端で話すことはないだろうに、と些か朱王の無神経さに呆れつつも志狼は口を挟むことなく小道の入り口で足を止める。

自分の出る幕ではない、兄妹二人だけで話し合うべきだ。

そう考えた彼は、人払い役に徹することを決めたのだ。


 「海華、実はお里さんのことなんだがな」


 「うん……。わかってる。あたしもね、そのことは兄様としっかり話さなきゃって思ってたの」


 じっと自らの爪先に視線を落とし、沈んだ声で返してきた妹を意外そうな面持ちで見下ろした朱王は、微風に黒髪を揺らせ、切れ長の瞳を何度か瞬かせる。


 「そうか、なら話は早いな。実はお里さんに……」


 「あたし反対はしないわ! お里さんは凄くいい人だし、目が見えないなんて関係ないもの!」


 甲高い声で半ば叫ぶように言い放った海華は、指の関節が白く変わるまで強く両手を握り締める。

その叫びを鎮痛な面持ちで聞きながら、志狼は間に割って入りたいのをぐっと堪えた。

そんなことを知るはずもない朱王は、形の良い唇から白い歯を覗かせ、安心したと言わんばかりににっこりと笑った。


 「やっぱりお前もそう思っていたか、それなら良いんだ。お前が賛成してくれるかどうか不安だったんだが……」


 「いいのよ、お里さんになら安心して兄様の事任せられるわ。ああ、私のことは心配しないで! 出来るだけ早く部屋見付けて出て行くから」


 「え、っ!?」


 目元を引き攣らせる妹の叫びを耳にした途端、朱王は驚愕の表情を浮かべ食い入るように彼女を見遣る。


 「どうして、お前が出て行く必要があるん、だ?」


 「ここまできて誤魔化さないでよ! お里さんと一緒になりたいんでしょ!? あたしみんな知ってるの! 兄様とお里さんが長屋の前で話してた事も、みんな聞いちゃったんだから! 兄様が幸せになるんだったら、あたし……!」


 「一体何を勘違いしてるんだ!」


 うるうる両目を潤ませる海華の台詞を遮った朱王が狭い小道の空気を目一杯震わせそう叫ぶ。

『お里さんに世話になるのはお前の方だ!』そんな朱王の言葉に海華は訳がわからずただただ顔を真っ赤にして自分を見下ろす兄を凝視し、志狼までもが顔を覗かせ驚きの眼差しを小道に立ち尽くす兄妹へ注いでいた。






 「あんたも本っ当、人が悪いな」


 女殺しの下手人が判明してから三日後、朱王が住まう中西長屋の一室で志狼が意味ありげな笑みを覗かせ、薄い茶を啜る。

そんな彼を前にして、朱王は心外だとでも言いたげに、ふん、と小さく鼻を鳴らした。


 「勝手な思い違いをしたあいつが悪いんだ。大体、お里さんとの話を聞かれているなんて思わなかったしな」


 「あんな勿体ぶった言い方されちゃ誰だって思い違いするさ。でもよ、いくらなんでも最初は雑巾ってのはねぇんじゃないか?」


 少々気の毒そうに朱王の背後に目を向ける志狼、そこには背中を丸めて懸命にくたびれた布地に針を走らせる海華と、彼女が縫った雑巾の縫い目を指先で丁寧になぞり確かめていくお里の姿がある。


 そう、朱王がお里に頼んだのは、海華に縫い物を教えて欲しい、というものだった。


 「いきなり巾着だの着物だのは縫えんだろ? 雑巾で充分だ。……それより、早くさっきの話しの続きをしてくれ」


 些か急かすような口ぶりの朱王を横目に飲みかけの湯飲みを畳へ置いた志狼は、ぼりぼりと頭を掻き掻き視線を宙に彷徨わす。

見ているのが耐えられなくなるくらい危なっかしくもどかしい海華の手付きを見ているうちに、どこまで話を進めていたかわからなくなったようだ。


 「さっきの話しさっきの話し、と……。ああ、思い出した! どうしてあの杜氏が女ぁ殺したかってところだな。理由なんざ簡単だ。痴情の縺れってやつよ」


 ぽん! と一つ手を打ち志狼が言ったと同時、『できたぁっ!』と甲高い歓声が朱王の後ろから上がる。

四苦八苦しながら雑巾を縫い上げた海華は、完成したそれを嬉々としてお里に手渡した。


 「やっと出来たか。……あ、いやすまん。続けてくれ」


 背後から響く大袈裟な歓声に苦笑いし、朱王は志狼へ続きを促す。


 「そうか? なら……あの杜氏、女将にぞっこん惚れてたらしくてな、蓼食う虫も好き好きってなよく言ったもんだ。かなりの金を貢いでたとさ。で、募りに募った思いが爆発よ。俺と一緒になってくれと、あの夜女将に迫ったらしいんだ」


 「そうか……で? 見事に袖にされたって訳だな?」


 「その通りよ。お前みたいにくたびれた男を本気で相手にしていたとでも思ってたのかときたもんだ。一回二回は刺したくなる気持ちもわからねぇでもないぜ」


 『あの女も悪いんだ』そう吐き捨てるように呟き、志狼は残っていた茶を一気に飲み干す。

鉄瓶の中でぐらぐら煮える湯を急須に注ぐ朱王は、ちらと自らの後ろに視線を投げ静かに唇を開いた。


 「可愛さ余って憎さ百倍ってやつだろう? 奉行所であの男を見た限り、そんな気がするよ。ただ憎くて殺めただけじゃないんだろうな……」


 「根っからの悪人って訳でもなさそうだと旦那様も仰られてた。女将にもいくらか非はあるようだからな、死罪だけは免れるとは思うぜ」


 もぞもぞ胡坐を組んだ足を蠢かす志狼の前に置かれた湯飲みに、朱王は無言で茶を注ぐ。

白い湯気を立てる薄緑色のそれからは、香りもなにもしてこない。

限りなく出涸らしに近い茶に苦笑する志狼の耳に、突然先程とは打って変わった悲鳴に近い海華の叫びが飛び込んできた。


 「え!? またやり直し!? これで二回目ですよ!」


 「残念ですけれど……端の部分がひどく引き攣れてますし、真ん中は糸が弛んでます。このままじゃ使っているうちに解けてしまいますよ?」


 申し訳なさそうに縫い目の乱雑な雑巾を差し出すお里。

がっくり肩を落とす海華は素直にそれを受け取り糸切鋏でぷつぷつ縫い目を断ち切っていく。


 「お手数お掛けしてすみませんお里さん。手加減なしにしごいてやって下さい」


 容赦ない兄の言葉に恨みがましい目付きでこちらを睨み付けてくる海華。

いつになく意気消沈した様子の彼女を見る志狼の唇は、つい言ってはならぬ余計な一言を紡ぎ出してしまった。


 「朱王さんの言うとおりだぜ? またお前の襦袢やら朱王さんの下やら縫わされるのはごめんだからな?」


 一瞬でその場の空気が凍りつく。

慌てて両手で口を押えた志狼だが、時既に遅し、みるみるうちに朱王の柳眉がつり上がり、針のように鋭い眼差しが頬を引き攣らせる海華を貫いた。


 「やっぱり……っ! やたらに綺麗な縫い目だと思っていたが、お前、志狼に襦袢だの下帯の繕いやらせていたのかっっ! お前に恥じらいってもんはないのか――っ!?」


 「なっ……何が恥じらいよっ! 縫えばやり直し縫えばやり直しって、しつこいのは兄様じゃないの! ああもうっ! 志狼さんどうして喋っちゃうのよ信じてたのに――っ!」


 糸をほどきかけた雑巾を放り出し、顔を真っ赤にして兄に負けじと叫ぶ海華。

『すまん! 悪かった!』とひたすら謝る志狼は、早々と腰を上げて逃げる準備に入る。

俄かに賑やかになった狭い部屋の中で、お里だけが呆気にとられた面持ちのままキャンキャンワアワアと騒ぎ立てる兄妹に見えぬ目を交互に向けている。


 海華が裁縫を完璧にこなせるまでには、途方もない時間が掛かるのは間違いないだろう。

そしてこの日から、二人の繕い物は余計な一言の代償として志狼が引き受ける事になったのは言うまでもない。








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