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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十五章 声を見る少女
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第三話

 『他に知っていることはないか? 』

そんな桐野の問いかけに、お里は軽く首を縦に振る。 目の不自由な彼女からこれだけの情報が得られたのだ、文句を言っては罰が当たるだろう。


 「わかった。よく話してくれたな。それから……お主を怖がらせるつもりは毛頭無い。ただ、心の隅に留めておいて欲しいことがある」


 何やら意味深な台詞を漏らし、桐野は顎の先を指先で擦る。

心の隅に留めておいて欲しいこと、それは下手人がお里の口封じの機会を狙っているかもしれない、ということだった。


 「白昼堂々襲われはしないとは思うがな、夜はわからぬ。みだりに表へ出歩くことのないように。お主はいくら相手が悪い人間ではないと思っていても、既に人を一人殺めている。わかったな?」


 低めの声色で警告を受け、お里の顔に微かな怯えの色が浮かぶ。

赤の他人を頭から信用するな、隙を見せれば命を落とす……。

暗に桐野はそう言いたいのだろうか?


 端から見れば、人を信用するな、と些か寂しい警告。

だが、ここは山奥の寂れた村ではない。

生き馬の目を抜く江戸なのだ。


 「わかり、ました。充分に気を付けます」


 そろそろと頭を下げるお里に桐野は静かに頷き、もう帰ってもいいと許可を出す。

白く小さな、しかし手荒れの目立つ彼女の手をさも当たり前のように朱王が取った、その時だった。


 「あ……! あたしが送って行くわ!」


 ぴょん! と腰を浮かせ、海華は突拍子もなく声を張り上げる。

勿論、その場にいた者の視線は彼女へと集中し、騒ぎの張本人である彼女は気まずげに、その場へそろそろ腰を下ろした。


 「お前がお里さんを? 大丈夫か?」


 「平気よ。手引きくらいあたしだって出来るわ。ちょうどこのまま仕事に戻ろうと思ってたとこだし。……お里さんが、兄様の方がいいってんなら、無理にとは言わないけど?」


 ぎろりと兄を一睨みし、頬を膨らませる海華に朱王は困ったように頭を掻き戸惑いがちに二人へ見えない視線を交互に向けるお里を見下ろす。


 「お里さん、うちの妹がああ言っているのですが……、もし不安なようなら遠慮なく断って頂いても……」


 「いいえ、断るだなんてとんでもない。妹さん……確か海華さんと仰いましたね。こちらこそわざわざ送って頂いて、ご迷惑をお掛けします」


 『よろしくお願いします』そう一言、ぺこりと頭を下げるお里に、海華は精一杯の作り笑いを浮かべてつられるように頭を下げる。

そんな二人を前にする志狼は、微かに顔を引き攣らせ、ごくりと生唾を飲み下していた。




 次の日の昼下がり、柳の大木が濃緑色の葉を揺らす辻道で海華を探す志狼の姿があった。

足早に行き交う人混みの中、右に左に顔を向け人形廻しに精を出しているはずの彼女を探す。


 「……いねぇな。どこ行っちまったんだ?」


 いつもならすぐ見つかる彼女は何処にもいない。

仕方なく志狼は辻を離れ、思い当たる場所を片っ端から探して歩くことにした。

どうしても話しておきたいことがあったのだ。


 色街近くにかかる橋の袂、着飾った若い娘らで賑わう化粧品問屋の角、そして大店の店先に下げられた色とりどりの暖簾が風と戯れる日本橋界隈……。

しかし、彼女の姿はどこにもない。


 走り疲れ、歩き疲れた足を引き摺り、志狼はとぼとぼと大川の河原を八丁堀へ向けて歩く羽目となる。 ここまで探して見付からないのだ、あらためて夜にでも彼女の長屋を訪ねてみるか。

諦めの境地に陥りながら川に沿った細い道を行く志狼。

だが、探し物は諦めた途端に見付かるもの、額に浮かぶ汗を拭おうと懐に手を突っ込んだ彼は、視界の端に映り込む鮮やかな朱に、ぴたりと歩みを止めた。


 河原一面に生い茂る青草、風に吹かれ涼やかな音を奏でる緑色の海の中に、一人の女が寝転がっているのが見える。

その傍らには古びてあちこち変色した大きな木箱、海華に間違いなかった。


 「海華! おいっ! 海華だろ!?」


 「あら、志狼さん!?」


 弾かれるよう身を起こした彼女は、こちらに向かい駆けてくる志狼の姿に目を丸くする。


 「なんでここにいるの!?」


 「そりゃこっちの台詞だ! あちこち探したんだぜ? こんな所でなにしてる?」


 腰の辺りまで伸びる草をがさがさ掻き分け、志狼は唖然とした面持ちの彼女の横に腰を下ろす。

彼と同じく再び地に座り込んだ海華は、『仕事する気分じゃないの』そうぽつりと呟いた。


 「いつも飛び回ってるお前にしちゃあ珍しいな? ……まぁいい。ちょっと話しておきたいことがあったんだ。この間殺された女のことだがよ、ありゃあ吉原の女郎だった女だ。今は肉達磨に手足生えたような女だが、大門の中じゃなかなか売れっ子だったらしい」


 「そう、女郎だったの……。人は見掛けにによらないもんねぇ」


 春風に乱される髪を片手で押さえる海華の瞳は、今目の前にいる志狼ではなく、どこか遠く、草陰から垣間見える青空の遥か彼方を見詰めている。

いつもなら、この手の話にはすぐ食い付いてくる海華の様子は明らかにおかしい。

沈んだような、憂いを帯びた瞳でじっと天空に目を向ける彼女の横顔を眺め、志狼は無意識に小首を傾げ唇を閉じていた。


 「おい、何かあったのかよ? ……もしかして、朱王さんのことか?」


 朱王、その名前を口にした途端海華の眉がひくりと蠢く。


 「兄様? 朝から出掛けてるわよ。お里さんに、新しい杖作る約束してるんだって。前に使っていたのにね、殺された人の血が付いたんだってさ。……いいじゃない、そんなこと。それより、続きを話してよ」


 しんみりした口調の彼女を気に掛けながらも、咳払いを一つ志狼は話しの続きを語り出す。


 「あの女な、男関係が相当派手だったらしい。ちょっと気に入った男は見境なく声掛けて自分のモノにしていたとさ。旦那様方も痴情の縺れで殺られたんだと、その方面から調べているらしいが、どうも相手が多すぎる。……でな、下手人の特徴についてお里さんが言っていたこと、お前覚えてるか?」


 「男の手がすべすべしてた、ってことかしら? あたしも気になってたのよね」


 両手を広げ、じっと手のひらを見詰めながら海華が呟く。

昨日、兄と並び座るお里の姿に苛立ちを覚えつつ、話はしっかり聞いていたようだ。


 「で? どう思うよ?」


 「どうって……大工や百姓じゃないことは確かでしょ? 手がごつごつしてたって言ってたから、力仕事してる男には間違いないわ。でも、すべすべしてるってのが、どうもね」


 力仕事で手を使いながら、荒れてはいない。

下手人は一体何を生業にしているのか?

一晩かけて考えているが、さっぱりわからない。


 「俺もずっと考えているんだがな、皆目見当がつかない。さて、俺の話はここまでだ。次はお前の話しを聞かせてもらおうか?」


 にや、と口角をつりあげ横目で海華を見遣る志狼を面倒臭そうに見返す彼女の口から、深い深い溜め息が漏れる。

日の光を受けきらきら煌めく髪を些か乱暴に掻き回し、海華はかくりと頭を垂れた。


 「そんなに聞きたい? なら聞かせてあげるわよ。あたし……お里さんのこと誤解してた。悔しいけど……本当に良いよ」


 沈み切った声色で、彼女は昨日帰る道々彼女と交わした会話の内容を志狼に話し始める。

川原には二人以外人の姿はなく、時折聞こえる雲雀の囀ずりが、やけに大きく聞こえた。


 「昨日ね、あたしお里さんに聞いてみたの。もしも目が見えたらどんな物を見たいの? って」


 我ながら酷く意地悪な、そして残酷な質問をしてしまったと海華は後悔の念に苛まれていた。

これにはさすがの志狼も眉をひそめて渋い面持ちに変わる。


 「酷いこと聞いたって思ってるわよ……! 馬鹿なこと言ったわ、そうしたらお里さん……もし目が少しの間だけでも見えるなら、おっ母さんの顔が見たい、って」


 次第に震えだす声、溜まりに溜まった涙が次々と青草に落ちる。

 

 「あたしと同じなのよね……一度も、おっ母さんの顔見たことないのよ……。それからね、 お里さん……今のままで充分幸せだってさ。見えないけど、よく聞こえる耳と喋れる口がある。仕事が出来る手足もある、何も文句はありません、って」


 「なかなか言えることじゃねぇな……」


 感心するかのように頷く志狼の隣で、海華は涙に濡れる頬を手の甲で拭った。


 「あたしなら言えない……絶対に言えないわよ。それをね、にこにこ笑いながら言うの…… あれは嘘や強がりじゃない。強い娘よ。あたし……お里さんになら、兄様任せてもいいと思うの」


 ぐすぐす鼻を啜り、海華は泣き腫らした目を何度か瞬かせ、ゆっくり顔を上げる。

泣き笑いの表情を浮かべてこちらを見る彼女にどう声を掛けて良いのかわからず、志狼は無言のまま頬に当たるゆるやかに癖のついた髪を指先で跳ね退けていた。


 「まだ一緒になると決まった訳じゃねぇ。そう気落ちするな」


 未だひくひくしゃくり上げる海華の肩を軽く叩き、志狼は精一杯慰めの言葉を掛け続ける。

河原から彼女の住む中西長屋への道のり、ずっと周囲から浴びせられる視線が痛い。

『お前が泣かせたんだろう』暗にそう責められているかのように自分に突き刺さる人々の厳しい眼差しに志狼は辟易していたが、誤解されても仕方ない状況なのは痛い程わかってもいた。


 「結婚なんて大事な事、どうしてあたしに一言相談してくれないのかしら?」


 「朱王さんにだって心の準備ってもんがあるだろ? 別にお前の事ないがしろにしてるつもりはないんじゃねぇか?」


 頼むから泣き止んでくれ、そう心中必死に叫び、辺りの目を気にしつつ懐から引っ張り出した手拭いをそっと彼女へ差し出せば、海華はすんなりとそれを受け取り、涙で汚れた顔を拭く。

桜の花びらが舞う大通りを抜け、傾きかけた長屋門が目印の中西長屋の近くまで来た二人。


 不意に志狼の背後を歩いていた海華がぴたりと足を止め、力一杯彼の腕を引く。

何が起こったのかむわからぬまま、志狼は黒光りした古い板塀の蔭へ引っ張り込まれた。


 「おい! いきなりなにする……」


 「しぃっ! 静かにして! そこにいるのよ、兄様とお里さんがっ!」


 眉間に深々と皺を刻み、矢鱈怖い顔で唇に一指し指を当てる彼女へそれ以上反論できず、志狼は口を噤んだままそっと板塀から半分顔を覗かせ長屋門の方を窺い見る。

海華の言うとおり、そこには仲睦まじく並び歩く朱王とお里の姿があった。


 彼女の手には真新しい白木の杖が握られている。

朱王が手掛けた物であることは、先刻海華が話していたから間違いないだろう。

息を殺し、じっと二人の姿を盗み見る志狼と海華の耳に、春風に乗って今にも消え失せてしまいそうな小さく微かな会話が聞こえてきた。


 「先日のお話なのですが……考えて頂けましたか?」


 「はい……、でも、本当に私なんかでよろしいのですか?」


 「貴女しかいないのです。ああ、妹の事でしたら心配なさらないで下さい。私からよく話して聞かせます。それに、妹も貴女のことなら気に入るでしょう。ぜひ、お願い致します」


 「わかりました。……引き受けさせて頂きます」


 はにかむ様子で朱王にちょこんと頭を下げるお里。

弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂とはまさにこんな状況を言うのだろう。

あまりの間の悪さに頭を抱える志狼の後ろで、打ちのめされたようにがくりと肩を落とす海華。

しかし、もう彼女の目から涙が零れることはなかった。


 「やっぱり、ね。あたしの知らないところで、話しは進んでたのよ……」


 「いや、まぁそう決めつけるな、別の話しだったかもしれない……」


 「いいのよ、もう。励ましてくれてありがとう。少しは……気が楽になったわ。あたし、もう大丈夫だから。これ、洗って返すわね。じゃ、また……」


 手拭いを握りしめ、弱々しい笑みを投げた海華は、お里を見送った兄が長屋へ帰るのを見届けた後、ふらつく足取りでその場から歩き出す。

陳腐な慰めの言葉など役に立たないだろうことは、暗雲を背負った如くどんよりと重たく沈む雰囲気を醸し出すその背中を見ればすぐにわかることだ。

何もしてやれない、気の利いた言葉も掛けてやれない自分に苛立ちを覚え、志狼薄い唇を噛み締めながら、大きな木箱を揺らして去って行く海華の後ろ姿を見詰めていた。





 「ただいま……」


 どんより静んだ声を引き連れ、海華が戸口を引き開ける。

その目に飛び込んできたのは、仲良く二つ並んだ飲みかけの湯飲みと座布団、それを片付けようとしている兄の姿だった。


 「おかえり。今日は早かったんだな?」


 まだ日の高いうちに帰ってきた妹を些か不思議そうに見遣り、朱王はまだ温かみの残る湯飲みを手にとる。

そんな兄を僅かに充血した目で追い、海華は小さく項垂れた。


 「ちょっとね。気乗りしなかったの。……誰か、お客様でも?」


 「お里さんが来ていたんだ。この前の人形の衣装、わざわざ届けに来てくれたんだよ。俺も杖がちょうど出来上がったところだったからな、助かった」


 「そう……。良かったわね、お里さん来てくれて」


 『お里』その名を口にするだけで涙が滲みそうになる。

彼女が悪い人間ではないのは海華だってよくわかっている、しかし、義理の妹になるかもしれない、兄の嫁になるかもしれないとなれば、話は別なのだ。


 志狼から借りた手拭いを力一杯握り締め、いそいそと室内に上がる海華に何気なく目を遣った朱王は、いつもとはどこか違う妹の様子に怪訝そうな面持ちで小首を傾げる。


 「お前どうした? なんだか元気ないな? ――目、赤いぞ?泣いたのか?」


 足音も静かに自らの背後に近付いてくる兄に、海華はきつくきつく唇を噛み締める。

どうせいてこんな時ばかり気付くのが早いのか、今はただ、静かに放って置いて欲しいのに……。

しかし、自分を案じてくれる兄にそんなことは言えるはずもなく、海華は兄に背を向けたまま、緩く首を振った。


 「目に、ごみが入っちゃったの。大丈夫だから……」


 「そうか? あまり擦るなよ。――ああ、それからな、さっきお里さんから聞いたんだが、明日桐野様の所……奉行所の呼ばれたそうなんだ。一人で行くのは心細いから、俺も一緒についてきて欲しいと頼まれた。お前も来るか?」


 唐突な兄の言葉に、海華は驚きに目を見開きながらガバリと身を翻す。


 「あたしも行っていいの!?」


 「ああ……。除け者にしたらまた癇癪起こすと思って聞いてみたんだ。行きたくないなら、別にいいんだが」


 「行く! 行く行く行くっっ! あたしも一緒に行くっ!」


 赤い瞳を目一杯に見開き、突然大声を張り上げる妹をいよいよおかしいと思ったのだろう、朱王はおもむろに彼女の額に己が手のひらをぴたりと当てた。


 「なんだか今日はおかしいぞ? 熱でもあるんじゃないのか?」


 「ないわよ、そんなもん! それよりさぁ、桐野様はなんだってお里さんのこと呼び出したの?」

 

 兄の手を振り払い、先を急かすように海華はその袖を引く。

これだけ元気ならば大丈夫か、そう思った朱王はその場へどかりと胡坐をかいた。


 「お里さんが言うにはな、桐野様方が下手人らしい男三人に目星をつけたらしい。どの男も殺しのあった夜どこにいたのかはっきりしないそうなんだ」


 「つまり、その三人の中の誰かが殺ったかもしれないのね?」


 「そう、だが簡単に白状する訳はないだろう? そこでだ、お里さんにそいつらの声を聴かせてみようってお考えらしい」


 深く腕を組み、朱王は胸の奥から長く長く息を吐き出す。

彼としては、あまりお里を怖い目に遭わせたくはないのだろう。

しかし、これは下手人をお縄にする良い機会だ。


 些か心配顔の兄を余所目に、海華は好奇心という名の光が宿り始めた瞳を瞬かせ、乾いた唇をぺろりと一舐めした。

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