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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十五章 声を見る少女
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第二話

 天に浮かぶ望月を暗雲が覆う。

辻行灯が朧気な光を放つ夜道を、朱王はひたすらお里の名を呼び暗闇へ目を光らせた。


 荒神長屋から中西長屋へ続く大通りに人の姿はなく、脇へ延びる細い裏路地は漆黒の闇が口を開けている。

焦る気持ちを抑えつつ辻行灯の下で立ち止まり、顔に絡む髪を掻き上げる朱王の横から、はぁはぁと息を切らせ額にじわりと汗を浮かべた海華が、かつかつと小気味良い下駄の音を響かせ駆け寄ってきた。


 「兄様、こっちにはいないわ。裏道まで見たけど、全然駄目」


 「そうか……よし、もっと向こうを探してみよう。まだうちの近くまで来ていないのかもしれない」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、朱王の足は地を蹴っていた。


 「あぁ! ちょっと待ってよ!」


 息を整える暇も与えてくれない兄の背中を睨みながらも慌ててその後を追う海華の汗が夜に散る。

大通りを、そして裏路地をくまなく探し回る朱王の口から出るのはお里の名前だけ。

いつもとどこか違う兄の様子に戸惑いつつも、暗闇に向けられる海華の闇と同じ色をした瞳が、ある小道の脇から突き出たある物をしっかりと捉えた。

土煙を巻き上げ、彼女の足が止まる。


 「兄様っ! 兄様、あれ……」


 大声で兄を呼び止める海華、黒髪をたなびかせ振り向いた朱王の目にも、それははっきり見える。

朧の月明かりに浮かぶ二本の白い足、赤い鼻緒の千切れ掛けた小さな下駄が傍らに転がる。


 「お里さんっ!? お里さん……大丈夫かっ!?」


 転がるようにその足に駆け寄る朱王の顔は、紙の如く真っ白だ。

これはただ事ではない、頬を引き攣らせ兄の元へ駆け付けた海華が暗い小道でみたもの、それは胸を一突きにされ、血塗れで横たわる一人の女の亡骸だった。


 でっぷりと肉の付いた体を覆うよもぎ色の着物はどす黒く変色した血潮で染まり、お多福そっくりのかんばせに申し訳程度についた二つの小さな目は虚ろな眼差しを夜空に向ける。

呆然と立ち尽くす兄の袖口を軽く引き、海華は乾いた唇を震わせた。


 「この、人が……お里さん?」


 「違う……これは、お里さんじゃない」


 そう低く呻き、生唾を飲み下す朱王は、ぎこちない動きで妹を見下ろす。

二人の視線が死臭の漂う空気の中でかち合った、その瞬間だった。


 『── 助けて、下さい ──』


 今にも消え溶けてしまいそうな微かな微かな女の声が、朱王の鼓膜を揺らす。

幽玄の闇からさ迷い出た涙声は肥えた亡骸の向こう、暗く冷たい闇の奥から響いたものだった。

亡骸を飛び越え、朱王は声がした方へと走る。

二、三歩足を進めた時だった。

ぬるりと滑る何かが自分の足に触れたのを感じ、思わずそこへ屈み込む。


 「お里さんっ!? お里さん!」


 「すお、さん……! 助けて下さい、お願いします助けて……!」


 闇に塗り潰された中、半狂乱で抱き付いてくる小さな身体を抱え上げ、妹の元に走る朱王。

闇から現れた兄の姿を目にした途端、海華は、ぐっと小さく息を飲む。

兄に抱えられていたのは小柄な少女、その胸や腹には亡骸と同じどす黒い血潮にべったりとまみれ、生臭い異臭を放っている。


 ばさばさに乱れた髪、張り裂けんばかりに見開かれた瞳からは止めどなく涙が溢れ、唇は真っ青だ。

一向に震えの治まらぬ彼女を抱いたまま、朱王は道に屈み、乾き掛けた血の飛び散る頬を軽く叩いた。


 「お里さん……! 怪我は!? 一体何が……」


 「怪我、していません……私何が何だか…… ああ、よくわからないんです、女の人の悲鳴がして、それから……!」


 わぁぁっ!と声を限りに泣き叫び、血塗れの手で己が胸にすがり付いてくる彼女をきつく抱きしめながら、朱王はなだめる如くに細い背を撫でる。

尋常ではない状況とは言え、女を抱き締めるなんて……今まで見たことがない兄の様子に、海華はぽかんと口を開けたまま地に屈む二人を見詰めていた。


 「お前っ! 何をぼんやり突っ立っているんだ! 早く親分を呼んでこいっ!」


 ぎりぎり柳眉を逆立てた兄にいきなり怒鳴り付けられ、海華の身体が小さく跳ねる。


 「あっ……あたしが!? 一人で行くの!?」


 「お前の他に誰がいる!? つべこべ言わずに早く行けっ! そうだ、桐野様にも報せろ! お駒さんにもだっ! いいな!?……ほら、ぼやっとするな! 早く行け──っ!」


 「わかった! わかったわかりました ──!」


 こうなれば、もうやけくそだ。

兄に負けじと大声を張り上げた海華は、髪の生え際まで真っ赤に上気させながら、くるりと踵を返し番屋へと駆け出す。

土煙を巻き上げ疾走する海華の口からは、荒い息と同時に延々と『なんであたしが!』『使いっぱしりにしないでよ!』等々…兄に対する文句の言葉が、どんよりと重たい闇が広がる夜 空へと放たれていた。


 「なんだ、またお前達が骸を見つけたのか」


  呆れているのか感心しているのかわからぬ声色を出す高橋は、気まずげに顔を伏せる兄妹を交互に見遣る。

静寂が支配していた夜の通りは、今や上へ下への大騒ぎ。

慌しく走り回る黒羽織の侍、そして何事が起きたのかと家から飛び出してきた町人らの群れ、その瞳は蓆を掛けられ道端に転がる骸へ向けられていた。


 わいわいがやがやと喧しく騒ぎ立てる野次馬の前で、げんなりとした表情を見せる海華が盛大な溜息をつく。

血塗れになり朱王に抱き着いて泣きじゃくっていたお里は、海華と共に現場に駆け付けたお駒に連れられ一足先に荒神長屋に帰っていた。

本来ならば彼女は重要な目撃者、証言者として桐野らの調べをうけねばならない身、しかし、この場からすんなりと帰されたのはなぜか?

答えは簡単、彼女は目が見えないからだ。

下手人の顔も風体すらもわからない、混乱して泣き喚く女を長々引き留めておいても仕方がない。


 そんな桐野の一言で、お里は死人のように真っ青な顔色をしたお駒に手を引かれ、狂乱の現場を後にした。

お里から証言が得られないとなれば、矛先は自然と朱王と海華へ向けられる。

「怪しい者は見なかったか?」「悲鳴や争う声は聞かなかったか?」等々質問攻めにされ、海華はすっかりくたびれ果てていた。


 朱王は朱王で、そんな妹の事などお構いなし、ひたすらお里の心配をしている始末、疲れた上に兄がこのざまでは海華とて良い気分はしない。

今宵何度目か、深い深い溜息を肺の奥から吐き出した彼女の肩を、誰かがぽんと叩く。

驚いて横を振り向けば、そこには些か心配そうな眼差しで自分を見つめる志狼の姿があった。


 「大変だったな。大丈夫か?」


 「志狼さん……わざわざ来てくれたの?」


 疲れた微笑みを返す海華へ、志狼は僅かに眉を顰めて小さく頷く。

町中に女の死骸が転がっている、血相を変えた彼女がそう叫びながら、主である桐野の屋敷に飛び込んできた時、彼は丁度台所を片付けている最中だったのだ。

洗い物も何も放り出し、現場に駆け付けた彼の目はすぐさま人混みに紛れ、ぽつねんと立ち尽くす海華の姿を見付けた。


 「あたしは怪我も何もしてないけどね。ただあちこち走り回って疲れただけ。……それにしても何よ、兄様ったらね、口を開けばお里さん、お里さんばっかり」


 ぶつぶつ文句を吐きながら、その場にしゃがみ込む彼女につられ志狼もゆっくり腰を落とす。

じっと前を見て動かない彼女の視線、その先には蓆掛けの骸の傍で桐野と真剣な面持ちで話し込む朱王の姿。

桐野の携えた提灯の明かりに照らし出された彼の手は、乾きかけた血糊でべったりと汚れている。


 「……お里って、あの目の見えないお針子だろう? 確か、ついさっき返されたはずだが」


 「そうよ。下手人の顔なんてわかるはずがないもの。それはそうとしてよ、あたし兄様が女の人本気で抱き締めるの、初めて見たわ」


 苦虫を噛み潰した面持ちで呻く彼女に、志狼はにやりと悪戯っぽい笑みを向ける。

緩やかに流れる春風が、生臭い血の臭いを二人の元へと運んだ。


 「もしかしてよ、朱王さんそのお里って女に惚れたんじゃねぇか?」


 朱王の女嫌いは志狼もよく知っている。

その彼が身を案じ、あまつさえ抱き締める程の女だ、きっと特別な感情を抱いているに違いない。


 「もしかしたらもしかしたらだ。お前もそろそろ年貢の納め時だな?」


 「なにさそれ? どうしてあたしが……」


 むっ、と膨れっ面を向けてくる海華に、志狼はとどめの一言を放つ。


 「こう言っちゃあなんだがな、今度の件がいい切っ掛けになって『一緒になりましょう』なんてことになるかもしれねぇんだぜ?そうなったらお前、あの狭っ苦しい部屋で兄嫁と同居するんだぞ? 耐えられるか」


 志狼としては半ば冗談で放った台詞。

しかし海華はそう取っていなかったやようだ。

しゅん、と悲しげに己のつま先を見詰めた彼女は、『出来るわけないじゃない』そう消え入りそうな声で呟いていた。





 翌日、番屋には朱王とお里、そして海華と志狼、四人の姿があった。

昨日の事件について、桐野が話しを聞きたいと申し出があったのだ。

その桐野はまだここには姿を現しておらず、忠五郎と留吉は朝から出掛けたきり昼を過ぎた今でも戻ってはいない。


 当たり前のようにお里を手引きしここにきた兄を不機嫌そのものの面持ちで見る海華の隣では、志狼が鉄瓶の湯を急須に注ぎ、主の到着を待っている。

光の見えないお里の円らな瞳が不安げに宙をさ迷った時、がらりと戸口を引き開けて細身の 男が室内へ足を踏み入れた。


 「遅くなってすまぬ。皆揃っているか?」


 心地好く響く低めの声に、お里は慌てて畳に額を擦り付ける。

彼女にならい頭を下げた三人の前に黒羽織のあちこちに桜の花弁をまとわせる桐野が、どかりと胡座をかいた。


 「まぁ、そう固くなるな、頭を上げろ。…… どうだお里、少しは気が落ち着いたか?」


 「はい……。昨夜は取り乱しまして、申し訳ございません」


 消え入りそうな声で詫びの言葉を述べる彼女へ、にこやかな笑みを向ける桐野は見えていないとわかっているのに、軽く首を振って見せる。


 「なに、構わぬ。あの状況で取り乱すなと言う方がおかしい。今日は、覚えている範囲でよい、そなたが知っていることを教えて欲しい」


 『はい』はっきりとした返事をした彼女は、伸びやかな睫毛に囲まれた瞳を幾度か瞬かせる。

いかにも心配だ、という表情で横から彼女を見詰める兄の様子に、海華は苛立つ気持ちを飲み込むが如く、志狼から渡された熱い茶を一口飲み下した。


 「……そうおっかねぇ顔するなよ、少しは落ち着け」


 「落ち着いてるわよ。別に怒ってなんかいないんだから」


 「そりゃ嘘だな。鬼みてぇな面だぜ?」


 桐野や朱王には聞こえぬくらいの小声で囁き合う志狼と海華、そんな彼らを背に、お里はそっと紅も塗らない素のままの唇を開く。


 「私が、朱王さんのところへお品を納めに行く途中でした。男の人と女の人が、凄い剣幕で言い争っていて……」


 あの晩の惨事が頭に浮かんだのだろう、お里はぶるりと肩を震わせる。

そこへ朱王の手のひらが軽く添えられ瞬間、海華の眉間にみるみる深い皺が刻まれた。


 「『俺の気持ちがわからねぇのか!』……確か、そんなことを男の人が言っていたと思います。すぐに物凄い悲鳴が聞こえて……私びっくりして杖を落としてしまいました。そうしたら、いきなり誰かに突き飛ばされて、羽交い締めにされて……」


 余程怖かったのだろう、息を詰め、小さな手のひらで口元を押さえるお里の目尻には、うっすらと光るものが見える。


 「強い力でした、とても大きくて、すべすべした手で……何度も何度も助けて下さいと言ったのです。そうしたら口を塞がれて、道を引き摺られて」


 「なるほど、あの裏道に引き摺り込まれたのだな?どうだ、他に気付いたことはないか?」


 顎の下を指先で擦り、桐野は微かに首を傾げる。

一度唇を噛み締めたお里は、言おうか言うまいか迷っているように膝の上で両手を握っていた。


 「……お侍様、おかしな事を言う女だと思われるかもしれません。ですが、正直に申し上げます。あの女の人を殺めた人は、あの男の人は、けして悪い人間ではありません」


 確たる信念を含ませる凜とした声。

呆気に取られた表情で志狼と顔を見合わせる海華と不思議そうな眼差しをお里に向ける朱王。

一瞬の静寂が狭い室内に訪れていた。


 『悪い人間ではありません』


 その台詞に、吹き出してしまいそうなのを必死にこらえて、海華は両手で口を覆う。

彼女には、このお里という娘のことがよくわからなくなっていた。

夜道で女を刺し殺した男を悪人と呼ばず、誰を悪人と言うのだろう?

お里は人を疑う事を知らぬ純真無垢な人間か、または世間知らずの愚か者か……。


 きっと朱王ならば前者を取るだろうが、海華は後者を選ぶに違いない。

これだから田舎者は……そう心中で呟く海華の耳に、僅かな戸惑いを含ませた桐野の問いが届く。


 「なぜ……そなたはそう思うのだ?自分を殺めようとした男だぞ?」


 「でも、私は殺されませんでした」


 「それは、目が……」


 『見えていなかったから』


 お里の声に重なる海華の言葉は、朱王の一睨みによって喉の奥に封じられる。

彼女がなぜ殺されなかったのかそれは簡単、目が見えないからだろう。

自分の顔も見えない、どこの誰かもわからない女をわざわざ手にかける必要はない。


 しかし、お里は緩く首を振り、自分の前にいるだろう桐野をしっかりと見詰める。

漆黒の円らな瞳は勿論彼の姿を映し出すことなく、焦点を結ばぬまま虚ろな光を宿した。


 「仰る通り、私は目が見えません。ですが、耳は聞こえます。相手に触れた感触も、こうして口で伝えることが出来ます。あの男の人は、私をわざと殺さなかったように思えて……。それに、凄く悲しそうな声をした人でしたから」


 「悲しそうな声?」


 ますます意味がわからなくなる海華は、眉間に深い皺を刻んで首を傾げる。

更にお里の言葉は続いた。


 「はい。悲しさと、悔しさと……それに少しの怒りが混ざった、そんな声でした。恨み骨髄で人を殺めた、そのようには感じません。私、声だけでわかるのです。相手がどんな人なのか、肌で感じるのです、相手から漂う雰囲気を……」


 『きっと、目が見えないからでしょうね』


 そう静かに告げ、にこりと笑うお里。

それは、けして己を卑下している訳でもない、盲目であることに絶望している訳でもない、純粋な微笑みだ。

果たしてこの娘は純朴なのか、筋金入りの馬鹿なのか、彼女は一体どんな人間なのだろう?

ぐるりと首を傾げて考えこむ海華からは、ここへ来た時抱いていた嫉妬めいた気持ちは綺麗さっぱり消え失せている。


 代わりに彼女の心で頭をもたげてきたもの、それはお里に対する純粋な『興味』だった。

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