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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十四章 囚われた分身
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第四話

 広田屋に騙された。

そう桐野から聞かされた朱王の顔が、みるみるうちに怒りで歪む。

悪鬼羅刹の如きその表情に、すぐ傍でへたり込んでいた海華はビクリと肩をすくませた。


 「桐野様……正吉と広田屋は、結託してこんな真似を?」


 「だろうな。二人がどう繋がっているかは、まだわからぬ。が、大方正吉に弱味の一つも握られているのだろう」


 「わからないなら、今から聞き出しに行きましょうよっ!」


 突如、悲鳴じみた叫びを張り上げて海華は弾かれたように畳から飛び上がる。

萎れきった花よろしく意気消沈していた彼女の急変に、朱王、そして桐野までもが驚きに目を見開き、その怒りに燃える顔へ視線を集中させた。


 「行きましょう! すぐ! 今すぐっ! あの金貸しとっちめて、全部吐かせてきましょうよっ!」


 だんだんと地団駄踏み鳴らし、半ば半狂乱で怒鳴り出す妹の手を慌てて掴み取った朱王は、無理矢理彼女を畳へ座らせる。

そんな兄を思い切り睨み付け、海華は尚も口から唾を飛ばし、金切り声を上げた。


 「なんで止めるの!? 兄様悔しくないの!? あいつら、あたし達を騙したのよっ!?」


 「悔しいに決まってるだろうがっ! いいから落ち着け! 桐野からの前でみっともない!」


 自分に負けず劣らずの怒声で一喝され、やっと海華は口を閉じた。

気を落ち着けるためだろう、ふぅっ、と一度大きく息を吐いた朱王が、唖然とした表情で自分達を見詰める桐野へ向かい小さく一礼する。


 「申し訳ありません……。いいか海華! ここでお前が馬鹿みたいに怒鳴り散らしていても、何の解決にもならないんだ! 今から正吉のところに行く? 知らぬ存ぜぬで通されるだけだろうが!」


 確かに朱王の言う通り。

私も広田屋に騙されていました、と言われてしまえばそれで終わりだ。

突き付けられた正論にきつく唇を噛み締め、項垂れてしまう海華。

そんな彼女と朱王を交互に見遣り桐野は小さく咳払いした。


 「海華殿が怒るのも無理はないだが、朱王の言い分も最もだ」


 「兄様の言うことが正しいのはわかります。でも、あたし……あの金貸しも料理屋も、一発ぶん殴ってやらなきゃ気が……」


 「ぶん殴るって……あのな、お前が考えているほど物事は簡単に進まん。大体、お前は気が短すぎる!」


 朱王の吐き捨てた台詞に、海華の眉がぎりぎりつり上がる。

一触即発、嵐の如き兄妹喧嘩勃発寸前の狭い室内で、ただ一人冷静さを保っていたのは桐野だけだった。


 「もうよい! お主らが喧嘩をしても仕方無かろうが! よいか、今都筑達があ奴ら二人がどんな関係なのかを調べている。動くのは、全てがわかってからだ!」


 『うぅ……』と小さく呻きながら、海華は膝の上に置いた手を関節が白くなるまで、強く強く握り締める。

とにかく今は待つしかない。

それがどれだけ辛く苦しい時間なのか、二人は痛いくらいにわかっている。


 『次は、もっと良い報せを持ってこよう』


 そう言い残し、桐野は部屋を去っていく。

後に残された二人の間には、暗く重苦しい空気だけが悶々と渦巻いていた。





 茜色した格子模様の着流し、道を吹き抜ける風にその袖をはためかせ、一人の男が鼻唄混じりに中西長屋の門をくぐる。

鼠によく似た細面を盛大に緩め上機嫌で歩くその男は、真っ直ぐに兄妹が住まう部屋の前へと歩みを進めた。

長屋に住まう子供らの無邪気な笑い声を背に、どんどん!と戸口を叩く男を気にとめる者は誰もいない。

『正吉です、お邪魔ぁしますよ』そう一言、戸口に向かって声を張り上げると同時、男は勢いよく軋む木戸を開け放った。


 真っ直ぐな白い光の帯を描き、陽光が薄暗い室内へ射し込む。

無言のまま、正吉に向かい顔を向けたこの部屋の住人である朱王と海華。

だが、そこにいたのは兄妹だけではなかった。


 「お主が正吉か? 待っておったぞ?」


 どかりと畳に胡座をかき、鋭い眼差しで睨み付けてくる見知らぬ侍に、正吉は思わず数歩後退りする。 死角となる土間の左右から、若い侍が二人、ぬっと姿を現した瞬間正吉はあからさまに狼狽し朱王へと怯えた眼差しを投げ掛けた。


 「すっ……朱王さん! こりゃあ一体どういう訳です!? わたしゃ、あんたが人形を渡すと言ったからここに……このお侍様方は!?」


 「儂か? 北町奉行所の者だ。今回の件で朱王から相談を受けた。高橋! 戸を閉めろ。ゆっくり話しがしたいからな」


 「はっ! おい、そこに突っ立っていては閉められぬ。さぁ、中へ入れ!」


 高橋に肩を小突かれ、よろめく正吉の後ろで、戸口は乾いた音を立てて閉め切られる。

最早正吉に逃げ場はなかった。


 「すお……朱王さん、こりゃあんまりだ。いいか? 皿を割ったのはあんたの妹なんだ、こっちは親切で金を……」


 「何が親切だたわけがっ! 棄ててあった割れ皿一枚三百両などとぬかしおって!」


 雷の如き怒号を張り上げる都筑は、こめかみに青筋を浮かべて正吉の胸ぐらを掴み、がくがく前後に揺さぶる。

微かな悲鳴を上げ、腕をばたつかせて逃げをうつ彼を、海華は射殺さんばかりに睨み付け、胸に抱いた人形をしっかり抱き締めた。


 「もうとぼけても無駄だ。広田屋が全て喋ったぞ。貴様が中村の工房裏から割れ皿を盗んできた。それをあたかも海華が割ったかのように仕向けろと言われた、とな。貴様が広田屋に金を貸し付けているのも、全部わかっておる」


 呆れ果てた様子で言葉を紡ぐ桐野。

あの皿は元から割れていたばかりか、値打ちなど無い、謂わばただのごみだった。


 「広田屋はなぁ、お前に借金帳消しにしてやると言われてやったと申しておるのだ! 卑劣な真似をしおって!」


 「ちく……畜生っ! あの役立たずがぁっ!」


 高橋の一喝に正吉は口から泡を吹き、顔面を紅潮させて甲高い叫びを放つ。

『あとの話しは番屋で聞く』そう言いながら、胸ぐらを掴んでいた都筑が暴れる正吉を表へ引き摺り出そうとした、その刹那、今まで無言を貫いていた海華が突然その場に立ち上がり、側にあった空の湯飲みをひっ掴む。


 『この……馬鹿野郎──っ!』


 空気を切り裂く鋭い叫びを上げた彼女の手が、思い切り宙へと振り上げられる。

割れんばかりに湯飲みを握り締め、ぐっとしなる腕。

その細い手首を、電光石火の勢いで立ち上がった桐野の手が、がしりと掴み上げた。


 「離して下さいっっ! これくらいしなきゃ気が済まないんですっ! お願いですから離して下さいっ!」


 口角泡を飛ばし、狂ったように怒鳴り散らす海華の肩を強く押さえながら、桐野は彼女にそっと耳打ちする。

何を話したのかは、傍にいる朱王にも聞こえない。

しかし、怒り一色に染まっていた海華の顔は一瞬で驚きの表情に変わり、微かに潤んだ瞳を瞬かせ桐野を凝視した。


 「桐野様……本当に、よろしいんですか?」


 「構わぬ。そうする権利がそなたにはあるのだ」


 にっ、と唇の端をつり上げ、彼は指の痕が付くほど強く掴んでいた海華の手を離す。

彼女の手から湯飲みが落ち、朱王の膝先に転がった。


 「都筑! 高橋! そ奴が暴れぬよう、しっかり押さえておけ!」


 桐野の一言に、都筑と高橋は左右から力を込めて正吉の身体を押さえ付ける。

これから何をされるのか、彼は忙しなく自らを拘束する侍を交互に見遣り、恐怖に顔を歪めた。

軽く桐野に背を押され、海華は土間に飛び降りる。

素足のまま、つかつかと正吉に近寄った刹那、その右手は固く固く握られた。


 ぎゅん、と空を切り裂く鈍い音を立て、小さな拳が正吉の顔面に力一杯めり込む。

肉が打ち付けられる重い衝撃音、ぎゃあっ! そんな甲高い悲鳴を上げる正吉の鼻から、おびただしい量の鮮血が飛び散り、それは海華の拳を朱に染めた。


 「なっ……なにしやがるんだこのアマぁっ!」


 「あたしと兄様騙した罰よっ! これくらいで済ませてあげるわ! ありがたく思いなさいっっ!」


 息を切らせ、鬼の形相で怒鳴り付ける海華。

ぎゃんぎゃんと悪態をつき、血塗れの顔を怒りに歪めて暴れまくる正吉を半ば引き摺りながら、都筑と高橋は表へと消えていく。


 『大人しくせぬかっ! この馬鹿者が ──っ!』


 戸口越しにまで響く都筑の罵声を聞きながら、海華は赤く染まり鈍い痛みを放つ拳を見詰めた。


 「桐野様……あのようなことを、大丈夫なのですか?」


 些か不安げな面持ちで桐野を見上げる朱王、そんな彼に桐野はこの場にそぐわぬ微笑みを返した。


 「なに、構わん。修一郎の許可はとってあるからな。……海華どの、どうだ、気は済んだか?」


 背中に掛けられた桐野の問いに、海華は暫し無言で土間に突っ立っている。

やがて、ゆっくりゆっくり振り向いた彼女は、くしゃりと泣き笑いの表情を浮かべ、こくんと小さく頷く。

震えながら開かれた彼女の右手から、赤い雫が一滴、細い糸を引きながら土間へと滴り落ちていった……。


 『今夜、修一郎の屋敷へ行ってみろ。良い話しが聞ける筈だ』


 何やら意味深な台詞と笑みを残し、桐野は長屋を去っていく。

『良い話し』とは一体なんなのだろう? 不安と緊張にどきどき胸を鳴らしながら、その晩二人は桐野に言われた通り、修一郎宅の門を潜る。

二人を出迎えた雪乃は朗らかな笑みを浮かべ、早速修一郎の自室へ案内してくれた。


 「あなた、朱王さん方がいらっしゃいましたよ」


 「うむ。……入れ」


 「失礼、致します……」


 そろそろ障子を開き、二人は深々と一礼する。

自らに向かい頭を下げる二人を、胡座をかき猪口を傾けていた修一郎は、どこか複雑な表情で見詰めていた。


 「いきなり呼び出して悪かったな。雪乃、酒の用意を」


 妻を下がらせ、兄妹を室内に招き入れる修一郎。

そんな彼の顔を真っ直ぐには見れず、うつ向いたままの二人。

猪口を漆塗りの膳に置いた修一郎の唇が静かに動き出す。


 「先程、桐野から知らせがあった。正吉の奴が全て喋った、お前達を欺き人形を手に入れようとした、とな」


 「左様でございますか……」


 恐る恐るといった様子で返す朱王の横で、海華はじっと己ね膝先を見詰める。

部屋の片隅に置かれた行灯の光が揺れ、白壁に映る三人の影が音もなく揺らいだ。


 「奴め、朱王の処女作を買わぬかとあちこちに声を掛けていたようだ。全く、抜け目ない奴よ」


 「修一郎様にも、桐野様にもご迷惑を……本当に申し訳ございません!」


 「申し訳ございませんっ!」


 そう一言叫び、揃って額を畳に擦り付ける兄妹を前に、修一郎の厚い唇から深い深い溜め息が漏れる。 次に来るのは怒鳴り声か、そう覚悟を決めた海華は、ぎゅっと強く瞳を閉じた。


 「迷惑を掛けられるだけならば『貴方の力はいりません』と言われるより、ずっとましだ」


 力無く響く、どこか哀しげな修一郎の声色。

思いもよらぬ彼の台詞に、二人は驚いたように顔を跳ね上げた。


 「前々から何度も申しておるだろう? 朱王、海華、俺はお前達の兄なのだ。半分しか血は繋がっておらぬ。だがな、正真正銘お前達の兄だ。だから、困った時はいつでも頼れ。……水臭いのだお前らは!」


 膨れっ面で子供のようにぷいと横を向いてしまう彼に、海華は勿論朱王までもが呆気に取られた眼差しを送る。

が、次の瞬間には海華の頬が盛大に緩み、にっこりと華やぐ笑みを修一郎へ投げた。


 「ありがとうございます……修一郎様、いえ、兄上様……」


 久方ぶりに聞いた『兄上様』という呼び掛け。

照れ臭そうに頬を掻く修一郎は、無言のままに膳の上にあった猪口と徳利を朱王に差し出す。

『飲め』 些かぶっきらぼうな勧めに、固かった朱王の顔にも、やっと柔らかな笑みが生まれていった。


 「まぁ、皿の話しはこれで終わりだ。これからが本題なのだがな……」


 朱王の猪口に酒を注ぎつつ、修一郎はぼりぼりと頭を掻く。

皿以外に大切な話しがあっただろうか、海華はちょこんと小首を傾げた。


 「本題……と申しますと?」


 朱王も不思議に感じたのだろう、猪口を手に幾度か目を瞬かせた。


 「その……海華の、仕事の話しだ。勿論、夜のな」


 言葉を選びつつそう言った修一郎は、ちらりと海華に視線を投げる。

その件が残っていたか……。

心中そう呟きながら、海華の肩がかくりと落ちた。


 「わかっております、もう……夜に出歩いたりしません。ですから……」


 「そう早まるな。俺はまだ何も言ってはおらぬ」


 苦笑いを交え、彼の口から出た言葉は海華も、そして朱王も予想だにしないものだ。

てっきり『夜に仕事をすることは許さぬ』そう言われるとばかり思っていた。


 「修一郎、様?」


 「海華、仕事に行くのを許す。許す代わりに、条件がある」


 向けられる真っ直ぐな眼差し、どう返したらいいのか些か混乱する海華は、おずおずと首を縦に振る。 傍らの朱王は、信じられないといった面持ちで修一郎をただただ凝視した。


 「仕事場は、お前がよく夜鷹らといる色街近くの橋、そこだけにしろ。もし、またお前に万が一のことがあれど、居場所がはっきりしていたならば俺も朱王もすぐに助けに走れる」


 「よろしいの、ですか? 本当にあたし……」


 「約束出来るか? 出来るならば許す。出来ぬのならば、金輪際夜の仕事はするな」


 有無を言わさぬ強い口調で言い放つ修一郎へ、首が落ちるかという程にがくがく頷き、海華は目尻に薄く涙を浮かべる。

それは悲しさから出た物ではなく純粋な嬉しさから滲む涙だった。


 「約束します! 必ず……必ず守ります! 修一郎様……ありがとうございますっ!」


 喜びを爆発させ、思わず腰を浮かせる妹を横目に、なぜか朱王は少しばかり困り顔で修一郎を見る。


 「よろしいのですか? もしや桐野様に?」


 「桐野もそうだがな、今度は雪乃もだ!『空を飛ぶ鳥を鳥籠に閉じ込めるのはあまりにも酷だ』とな。……全く揃いも揃って海華に甘い!」


 頭を抱え、はぁぁ、と深い溜め息をつく彼を前に朱王は笑いを堪えるのに必死だ。

確かに彼の言う通りなのだろう。

しかし、桐野や雪乃の言葉を、渋々でも聞き入れてしまう修一郎も充分海華には甘い。


 「あたし、雪乃様にお礼言ってきます!」


 ぴょん! と畳から跳ね上がり、そう一言残した海華は、障子を勢いよく開き脱兎の如く雪乃の元へと駆け出していく。

ばたばたと廊下に響く足音を耳にしながら、修一郎と朱王は顔を見合せ苦笑する。


 やがて、酒と肴を山ほど手にし、満面の笑みを見せる海華とにこやかな微笑みを浮かべる雪乃が部屋へ来ると、本格的な酒盛りの始まりだ。

夜遅くまで灯りの漏れる屋敷の上には、ヒビ一つ無い皿のような望月が、春霞の衣を纏い朧気な光を地上へと降らせていた。





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