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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十四章 囚われた分身
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第三話

 細かく震える体を捻り、恐る恐る後ろを振り 返った海華。

一杯に見開かれたその瞳は、ぽつんぽつんと二つ灯る提灯の微かな灯りと二人の侍の姿を映し出す。

がっしりと大柄な体躯の侍と、その横に立つすらりと細身のもう一人。

それは間違いなく修一郎と桐野の姿だった。


 「しゅ……いちろ、さま?」


 「やはり海華か!こんな所で何をしておるのだ!?」


 足音も荒くこちらに駆け寄る修一郎、手にした提灯が光の帯を引いて激しく揺れる。

蛇に睨まれた蛙よろしく固まる海華の前で足を止めた彼は頬を赤く染め、微かな酒精の匂いを漂わせていた。


 太い眉をつり上げ、威嚇するように胸の前で逞しい腕を組んだ彼は、立ち竦む海華を鋭い目付きで見下ろした。


 「夜に出歩くなと、何度言ったらわかる!? なぜ俺の言うことが聞けぬのだ!?」


 闇夜に響く怒声。

小さく身を縮ませ、反論すら出来ない海華を不憫に思ったのだろう桐野は小走りに修一郎へ近付き、その肩を叩く。


 「そう頭ごなしに怒鳴るな、海華殿にだって言い分が……」


 「お主は黙っていろ! 俺は海華と話している!全く朱王は何をしているのだ、こんな夜中に仕事へ出すなぞ……」


 苛立たしげに呟いた修一郎の一言に、やっと 海華が顔を上げる。

その表情は打たれた犬そのものに怯えきっていた。


 「兄様は、悪くありません……あたし、仕事に来たんじゃ……」


 「仕事でないなら、なぜ人形を持っている? 朱王を庇いたい気持ちはわかる、わかるが、下手な嘘をつくでない!」


 再び頭上から降り注ぐ怒りを含ませた低い声。

『人形』その言葉を耳にした瞬間海華の心の中で、張り詰めに張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


 漆黒の瞳から、みるみるうちに暖かい雫が溢れ出す。

声も上げずに突然泣き出した海華を前に、百戦錬磨の二人の顔に焦りの色が浮かんだ。


 「海華殿……それ見たことか!お主が怒鳴り散らすからだっ!」


 「怒鳴ってなどおらぬわ!いや、海華そう泣くな……俺はお前が憎くて言っているのではない、お前の身を案じて……」


 きつく人形を抱き締め、ひくひくしゃくり上げる彼女に狼狽えながら、修一郎は懐から手拭いを引っ張り出す。

身を屈めた桐野が、何やかんやと慰めの言葉を掛けた、その時だった。


 『助けて下さい』

 

 涙に溺れ、消え入りそうな声が、海華の喉から生まれ、闇に溶けた。


 「お願い、します……助けて下さい……修一郎様、お願いします、お願いです……助けて下さい……っ!」


 『助けて下さい』そう何度も何度も繰り返し、嗚咽を漏らす海華は唖然とした表情で自分を凝視してくる二人の前で、へなへなとその場に崩れ落ちる。

尽きることのない悲しみの雫は乾いた地面に滴り落ち、黒ずんだシミを作り出していった。


 突然地面に泣き伏してしまった海華を前に、もう修一郎は上へ下への大騒ぎだ。

訳がわからないまま『助けて下さい』と泣き付かれれば無理もないだろう。

桐野と二人懸命に宥めすかし、そのまま彼女を抱き抱えて屋敷に飛んで帰ってきた彼を見て、妻の雪乃も目を丸くした。


 少し前、桐野と連れ立ち上機嫌で飲みに繰り出した夫が、いきなり泣きじゃくる海華を抱えて青い顔をして帰ってきたのだ、驚かない筈がない。

とにもかくにも海華を自室へ運び、何とか訳を聞き出した修一郎は、直ぐさま中西長屋へ使いを走らせる。

矢鱈と騒がしくなった屋敷、髪を振り乱した朱王が修一郎の部屋に転がり込んだのは、海華が運ばれて一刻と経たない頃だった。


 すぱーん! と乾いた音を立て弾き飛ぶ襖。

息を切らせ、表情を凍り付かせた兄の姿を目にした瞬間、海華は涙に汚れた顔を両手で覆い、 がくりと頭を垂れていた。


 「海華……!」


 「兄様……ごめんなさい、話しちゃった…… みんな、話しちゃった……」


 小刻みに肩を震わす妹を前に、なぜ喋ったのかと責め立てることなど出来ない。

無言で妹の傍らに屈み込んだ朱王は、その細い肩へ静かに手を置いた。


 「いい、もういいんだ。お前は悪くない」


 慰めるように呟き、改めて畳へ正座した朱王は、きつく眉根を寄せて自分を睨む修一郎と、その横で痛ましいそうな視線を送る桐野に一礼する。

『ご迷惑をお掛け致しました』そう告げるより早く、修一郎の厚い唇から雷の如き一喝が轟いた。


 「なぜ俺に一言相談しなかったっ!? お前達はいつもそうだ! 何でも二人で抱え込みおってっ!」

 

 赤鬼よろしく顔を紅潮させ、ばんばん畳を叩き怒鳴る彼に、海華は勿論朱王も返す言葉がない。

ただただ『申し訳ありません』と小さく身を縮め、頭を下げ続ける二人。

海華の横に横たえられた人形は作り物の瞳で、じっと天井を見詰める。


 その時、見るに見兼ねた桐野が、控えめな声で二人に助け船を出してくれた。


 「だからそう怒鳴るな。朱王達だって、お主にいらぬ迷惑を掛けたくなかっただけだ。その気持ちはくんでやれ」


 「そうは言うがな、三百両だ。大金だぞ!? この二人にどうやって都合がつけられる!?」


 未だに怒りが治まらぬ様子の修一郎は、苛立たしげにこめかみを掻く。

気まずい空気が流れる室内に、桐野の小さな溜め息が溶けた。


 「今二人を責め立てても仕方あるまいよ。割れてしまった皿は元に戻らん。しかし……将軍家にご献上された名匠の皿を割ったか……運が悪いとはまさにこのことだな」


 「運が悪いで済まされるか! 六代目中村義衛門の皿だぞ!? 滅多にお目にかかれる品ではない! 世間に知れたら大事だ!」


 怒りに任せ、思わず本心を吐き捨てた修一郎、それと同時に、海華の横にある障子の向こうに一つの黒い影が映る。

『失礼致します』そんな涼やかな声と共に障子が開かれ、湯飲みを幾つか乗せた盆を傍らに置いた雪乃が姿を現す。

 

 開かれた障子から吹き込む夜風が、涙に濡れる海華の頬を冷たく撫でていった。

 

 「あなた、外まで聞こえておりますよ。少しは声をお控えなさって下さい」


 それぞれの前に湯飲みを置きながら、雪乃は微かに眉をひそめて夫を一瞥する。

妻の忠告に叱られた子供よろしく膨れっ面でそっぽを向く修一郎、これは駄目だと言いたげに溜め息をついた雪乃は、しょんぼりとうつ向く海華の背中を柔らかな手のひらで優しく擦った。


 「怖がらせてごめんなさいね。私も何か力になりたいのだけれど……」


 「ありがとうございます、でも私が悪いから……高価なお皿割っちゃった、私がみんな…」


 今までにないくらい意気消沈した海華に、雪乃は掛ける言葉すら見付からない。

海華の膝に揃えて置かれた冷たい手をそっと握り、彼女は無意識だろう、その桜色の唇を動かした。


 「でも、彩音先生のお父上が陶芸を出来るまでに回復されていたなんて……」


 何気無くこぼれた一言に、凍り付いていた空気がクラリと揺れた。


 「おい雪乃、その綾音先生とやらは誰だ?」


 「いつもお世話になっているお茶の先生でございます。中村様のお嬢さんで……。先一昨年でしたかしら、お父上が大病を患われて指が上手く動かせなくなったと、大層心配なされておりました」


 「大病で指が……奥方様、病にかかられたのはいつ頃の事かおわかりに?」


 ぴくりと眉を上げ、そう尋ねる桐野へ、雪乃は小首を傾げてしばし考えた後、『もう八年も前かと思います』そう呟く。

朧気な記憶を辿っているのだろう彼女の目は、じっと宙を見詰めたままだった。


 「八年前……とすると、割れた皿はそれ以前に造られた物ということになりますな……。朱王、皿の持ち主は誰だ?その事を何か言っていなかったか?」


 「持ち主は広田屋という料理屋です。いつ皿を頼んだのかは……申し訳ありません、それは聞かずじまいでした」


 真っ直ぐに桐野に視線を向ける朱王。

顎の下を擦り、己の膝先を見る桐野と、腕組みしながら未だ難しい面持ちのままの修一郎。

再び静かな時が流れる室内で、灯された行灯が壁に人数分の大きな影を写し出す。


 「……桐野、手間を掛けさせて悪いが……」


 「広田屋を調べる。ついでに皿がいつ造られたのかも。」


 淡々と交わされる会話に、朱王と海華は思わず顔を見合せる。

最早これが借金云々の話しだけではすまない、そう朱王は確信していた。


 「修一郎、様……これから、一体……」


 「私達、どうなるのでしょう?人形、やっぱり人形は売らなくちゃ……」


 不安の塊といった兄妹二人へ、修一郎は今日初めての微笑みを浮かべる。 言葉にしなくてもわかる。 『安心しろ』そう語る瞳をしっかり見詰めたまま、二人深い漆黒と優しさが宿る瞳に、微かな希望の光を見い出していた。


 『桐野の調べが終わるまで、お前達は大人しくしていろ』


 そう修一郎にきつく言い渡された翌日から、 二人は日がな一日部屋に引き隠り、息を殺しての生活を送ることとなった。

鋭い爪と牙を持つ猫に怯え、巣穴に隠れ潜む鼠と何ら変わらない。

外から聞こえる微かな物音、足音にもびくつく日々。

いつまた正吉が現れ、人形を取り上げられはしないかと怯える海華は片時も人形を離そうとはせず、部屋の隅に縮こまったまま。

彼女の顔から笑顔は消えた。


 そんな妹と共にいる朱王も仕事など手に付くはずもない。

いつもは吸わぬ煙草に自然と手が伸び、鈍色に光る銀の雁首から絶えず紫煙を立ち上らせる煙管を固い表情で唇にくわえる彼は、いつも以上に口数少なくなっていた。


 苦い煙の立ち込める狭い部屋。

澱む空気に細く細く新たな白い煙を吐き出した朱王は、顔にかかる前髪を鬱陶しげに掻き上げ、傍らに座り人形の髪を撫でる妹をちらりと見遣った。


 「……お前、どうしてその人形がいいって言うんだ?」


 「何回も同じこと聞かないで……」


 ぽつんと一言こぼし、海華は哀しみを湛えた瞳を兄へ向ける。


 「きちんとした答えをきいていない。俺にわかるように、もう一度話してくれ」


 煙管を煙草盆に置き、朱王は妹と向かい合う。

戸惑いがちに瞳を揺らせた海華は諦めたかのように小さな溜め息をつき、肩を落とした。


 「あたし、知ってるの……。兄様が寝る間も惜しんでこの子を作ってくれたこと。手、傷だらけにして……この子作ってくれたこと、みんな知ってる……」


 思いがけない妹の台詞に、朱王はハッと息を飲む。

まさに、その通りだった。

朱王の師匠である実虎は、手取り足取り教えてくれるお優しい男では無かった。

弟子入りして三年目、初めて彫刻刀を握るのを許してくれたのだが、朱王の彫った頭はことごとく、鼻で笑われ棄てられた。


 『誰が木偶を作れと言った』


 『てめぇは三年、俺の何を見ていた』


 それが口癖、必死に師の技を盗み見て、毎日毎日人形と格闘した。

寝ている暇なんて無い、彫刻刀で傷だらけの両手は腫れ上がり、瘡蓋かさぶたで指が動かせない程。

『海華が使う人形を作れ』そう言われた時、 叫び出したいくらい嬉しかったあの時の気持ち……。

朱王はすっかり忘れていた。


 自分は一緒にいられないから、自分の代わりにいつも傍にいてくれる人形を。

妹を守ってくれる人形を……。

初めて作った作品は、朱王が初めて『強い思い』を込めて作り上げた人形だった。


 「兄様言ったよね。これを俺の代わりと思え、って。あたしの髪と、兄様の髪を使った……この世に一つしかない、お前だけのために作った人形だ、って。だから、この子は兄様と同じ。そんな大事な人形を、手離すなんて出来ないよ……」


 震える声で呟きながら、海華は強く目を擦る。

どうして気付かなかったのか、こんな大事なことを、なぜ忘れていたのだろうか……。

握り潰されたように痛む胸。

人形を抱き締め、しゃくり上げる妹の肩を引き寄せれば、小さな体は素直に胸へと収まった。


 謝ればいいのか、慰めればいいのかわからない。

震える体を強く抱きすくめ、柔らかな髪に頬を寄せる。

刹那の間時は止まり、ただ感じるのは、胸元を濡らす熱い涙だけだ。


 放られたままの煙管から天井に向かい一筋の煙が立ち上ぼり、ゆっくり宙に溶けていった。

その時、戸口の上段、障子紙の張られた部分に薄い人影が映り込む。

どんどん、といささか強めに戸が叩かれたと同時、海華は泣き顔を強張らせ力一杯兄の胸にすがり付いた。


 自分達からかけがえの無い物を奪う輩がやって来た。

鋭い眼差しで小刻みに震える戸口と人影を睨み付ける朱王。

やがて、戸を叩く音はぴたりと止まる。


 「── 朱王、いるか? 儂だ。桐野だ」


 「桐野、様……! 申し訳ありません、 今……」


 よく聞き慣れた低めの声色。

妹の身体を離し、慌て土間へ駆け降りた朱王が手早くつっかい棒を外し、戸を引き開ける。

白く射し込む陽光と共に室内へと入った桐野は、着物の袖口で目元を拭う海華を一目見るなり、小さく眉をひそめ、朱王へ顔を向けた。


 「……金貸しが来たのか?」


 「いいえ、まだ……」


 緩く首を振り、つっかい棒を掛け直す朱王の後ろでは、海華が抱いていた人形を壁際に置き、茶の用意をしようと腰を上げる。

そんな彼女を、畳に胡座をかいた桐野が静かに止めた。


 「いや、構わないでくれ。早速だが、あの皿のことを色々と調べたぞ。結論から言えば……」


 『人形は売らずとも良い』


 その一言に兄妹は一杯に目を見開き、その場に固まってしまう。

一瞬間を置き、朱王は下駄を跳ね飛ばして桐野の傍に駆け寄った。


 「売らなくてもいい……!? それは、本当ですか!?」


 「ああ。本当だ。もっと言えば、お主らは借金もしていない。五百両の皿など元から存在などしていないからな」


 顎の下を指先で擦り、桐野は海華に向かってにやりと口角をつり上げる。

未だ信じられないといった面持ちで彼を見詰める海華は、へなへなとその場に座り込んでしまった。


 「驚かせてしまったようだな? まぁ、話しの続きをしよう。つい昨日だ、留吉の奴を広田屋へ遣いに出した。それとなく使用人に皿の事を聞き出せとな。あ奴、上手くやってくれたぞ」


 一度言葉を区切り、彼は食い入るように自分を凝視してくる朱王に視線を投げる。


 「皿の話しを持ち出した途端に使用人は腹を抱えて大笑いしたとさ。うちの店にそんなお宝あるはずが無い。先代の頃から店は閑古鳥が鳴きっぱなしで、いつ店を閉めてもおかしくない、とな」


 「閑古鳥……じゃあ、あのお皿は……」


 唇を戦慄かせ、震える声で問い掛ける海華に、桐野は大きく頷いて見せた。


 「真っ赤な偽物だ。広田屋に五百両など出せる筈はない。第一、中村義衛門は広田屋に皿など頼まれてはいないと申していた、本人も焼き物など出来る身体ではない。箸を持つのもやっとの有り様だったぞ」


 ふぅっ、と嘆息し、桐野は深く腕を組む。

彼の隣で呆気に取られた様子で話しに聞き入っていた朱王の唇から無意識に、『騙された』と消え入りそうな呟きがこぼれていた。

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