第九話
お仙と浅黄の再会から七日が過ぎた。
鬼熊こと、鬼熊の平八一味が錦屋を襲うのは今宵、お仙が店の裏木戸を開くのは丑の刻ぴったりである。
草木も眠る丑三つ時とは、まさにこの事だろう。
昼間は多くの人でごった返す通りも人はおろか猫一匹、野良犬一匹の姿も見えない。
月も星も、全てが深い眠りについたかと思われるこの世界の片隅で、二つの人影が音もなく蠢いた。
ちょうど錦屋をぐるりと巡る木塀の陰、裏口がよく見える角の部分からひょこりと顔を覗かせた一人の女は、裏木戸の方へ目を遣ると瞬時に木塀の陰へ隠れてしまう。
「まだ来ていないみたいね。静かなものだわ」
そう言いながら仕切りに着物の袂を弄る女、海華の隣では木塀に凭れかかるように立つ長髪の男、朱王が天に輝く白銀の満月を見上げている。
「鳴り物入りで押し込み働く盗賊なんかいないだろう? もう少しで丑の刻だ。こっちも大人しく待っていようぜ」
満月を仰ぎ見る彼の腰元には闇と同じ色の鞘に納められた一振りの太刀が下げられていた。
柔らかく降り注ぐ白い月光、長い影が道に伸びないよう木塀にへばりつくように身を隠す海華。
すると、彼女は背後で何かの気配を感じたのか、ふと塀から身を離し、そっと裏口の方を覗き見る。
『来たわ』と蚊の鳴くような声で言った彼女の背後で、朱王はゆっくりと冷たい塀から背中を離した。
海華の背後から道の無垢を覗き込めば、なるほど、いつの間にか錦屋の裏木戸の前に数人の人影が集まり、その中の頭一つ分大きな影がしきりに戸口を叩いているのが見える。
月明かりに照らされてもなお、漆黒の人型となって映るのは彼らが頭の天辺から爪先までを黒装束で固めているためだろう。
トントン、トントンと規則正しく戸を打ち付ける音を耳にしながら、二人は塀の陰から通りへと飛び出した。
気配を殺す事無く現れた二人に、木戸の前に群がっていた影たちは一瞬たじろぎ、すぐに各々が懐から脇差やドスを引き抜き身構える。
離れていても感じる肌を刺すような殺気に、海華の肌が軽く粟立った。
「誰だッ!?」
大柄な男の背後に立つ細身の影がガラガラ声で小さく怒鳴る。
その手に握られたドスが朱王と海華へ向かい突き出された刹那、彼の喉はグシャリと派手な破裂音を立てて勢いよく弾けた。
黒い頭巾と装束の間から僅かにのぞく日に焼けた喉に、どす黒い拳大の穴が開く。
飛び散った血肉は周囲にいた者らの装束へ生臭い飛沫となって襲い掛かり、男は自身の身に何が起こったのかもわからないまま、血反吐を吐いてその場に崩れ落ちる。
『ヒィ』と掠れた悲鳴を上げ、己の方へ倒れる同僚の骸を勢いよく突き放した影は、激昂が染める白い世界にのたうつ一匹の『蛇』の姿をはっきりと認めた。
風を切って飛ぶ深紅の蛇、それは今し方姿を現した二人組、小柄な女の手へと吸い込まれていく。
「なんだ……なんだ、テメェらッ!!」
仲間の血肉を正面からまともに受け、肉片を頬に張り付かせた影が裏返った声で叫ぶ。
それに答えず黙々と歩みを進めた二人は、影の数が十人余り、そして飛び道具は誰も手にしていない事を
瞬時に確かめていた。
次第に狭まっていく合間、大柄な男はお仙の名前を何度も呼びながら必死に木戸を叩く。
しかし、中からは返事はおろか物音一つ聞こえてこなかった。
「鬼熊の平八はどいつだ?」
淡々とした様子で男らに問う朱王。
月光が浮かばせる人形の如き美しい顔に、男らは一瞬ポカンと口を半開きにしたまま動きを止める。
その中で、頭一つ大きな影がユラリと揺れるような動きで朱王達の方を振り向いた。
「平八は俺だ」
立ち尽くす男らを押し退け正面に立った平八と名乗る男は、まさに熊の如き大柄な体躯をした男だ。
黒頭巾から唯一のぞく充血した二つの眼は射抜かんばかりに二人を凝視する。
敵意剥き出しの視線を浴びてなお、朱王は涼しい表情を崩さぬまま胸の前で腕を組んだ。
「そうか。お前自体に恨みはないが、訳があってな。ここで消えてもらうぞ」
「そこのお店に押し込まれちゃ、こっちが迷惑しちゃうのよね」
この場にそぐわぬニコニコ顔で言った海華の手には、黒い血潮を滴らす紅色の組み紐がしっかりと握られている。
先端に括り付けられた鋭い槍先は、天から降り注ぐ冷たい光を受けて煌びやかに輝いた。
「消えろ。だと? てめぇら正気か?」
「あぁ、正気だ。薄汚い盗賊相手に冗談を言う趣味はない」
抑揚のない声で放たれた朱王の台詞が、その場にいた黒装束全員に怒りの火を付けた。
「ざけんじゃねぇッッ!!」
「このクソ……ッ!! ぶち殺してやらぁっっ!!」
腹の底から罵声を張り上げ、手に手に凶刃を握り締めた男たちが一斉に兄妹へ躍りかかる。
朱王の手が太刀を引き抜くのと、海華の手が大きく横へ降られるのとはほぼ同時だった。
闇夜を切り裂く二つの閃光、思い切り地面を蹴り上げ前方へと飛んだ太刀は、脇差を振り翳した男の身体を袈裟懸けに切り裂き、海華の手から飛んだ槍先は後方にいた男の額に唸りを上げて突き刺さり、血肉骨片、そして灰色がかった脳味噌を飛沫に変えて夜気に散らす。
悲鳴すら上げる暇も与えない、代わりに胸が悪くなるような死臭と多量の血飛沫が兄妹を、盗賊一味へ襲い掛かった。
「畜生……ちく、しょうッ!!」
仲間二人が無残に殺されていくのを目の当たりにした小太りの男は、両手にそれぞれ短刀を握り締め、海華へ身体ごとぶつかるように襲い掛かる。
しかし、彼女は住んでのところで男の突進をかわして、朱王の元へと脱兎のごとくに駆け寄った。
「兄様、アレをお願いね。あたしはあっちを片付けるから」
「あぁ、わかった。背中は任せたからな」
短い会話を交わす二人に狙いを定め、一度地面に転がった男は短刀の一本を朱王へ向かって投げ付けた。
空を切り飛ぶ刃、海華は槍先を持つ右手を真横へ振り捌き、蠅を叩き落とすように楽々と短刀を弾き飛ばす。
金属同士が激しくぶつかる甲高い響きと闇に散る火花、呆気に取られた様子で動きを止めた男の首を足音も軽く駆け寄った朱王の太刀が一刀のもとに跳ね飛ばす。
ビュウビュウと音を立てんばかりに噴き出す鮮血に足元を汚し、刃を払って血潮を飛ばした朱王が顔を上げた刹那、頬を掠めて眩く光る『何か』が顔の横を飛び去った。
「ギャァッ!! ぐぉぉぉ~ッッ!!」
背後で上がる獣じみた彷徨、驚いて振り向けば首の右側を半円形に抉られた男が血溜まりの中でのた打ち回っている。
「危なかったわね」
自分の正面から聞こえた陽気な声に顔を戻せば、組み紐をクルクル回す海華が白い歯を覗かせる。
ふと周囲をみれば、十人余りいた黒装束は平八を残し粗方姿が見えなくなっている。
二人が骸に変えたのは六人、残りは……怖気付いて逃げ出したのだろう。
さぁ、雑魚はあらかた片付いた、残りは鬼熊の平八、ただ一人だ。
「てめぇらよくも、ッッ!! どこのどいつに頼まれた? まさか、お仙かっ!?」
口角から泡を吹き出し、平吉はジリジリ後ずさる。
しかし背後は錦屋の木塀、朱王と海華、そして塀に挟まれた平吉は震える手で鈍色に光る脇差を手の甲に筋が浮かぶほど強く握り締める。
「畜生……あのアマッ!! 裏切りやがったなッッ!!」
血走った目をカッと見開き、黒頭巾をかなぐり捨てた平八は、それを力いっぱい地面に投げ付け、裏木戸をぶち割らんばかりの勢いで一度、殴る付ける。
ドガッッ!! と鈍い悲鳴を上げて軋む木戸、肩で息をし、こちらを振り向いた平八は、無精髭もそのままのむさ苦しい顔を引き攣らせ、奇妙な笑みを浮かべる。
「てめぇら、あの阿婆擦れからいくらで頼まれた? 俺はその倍……いや、もっと出してやらぁな。だから……」
「悪いけど、お金の問題じゃないのよね」
平吉の台詞を遮り、組み紐をクルリと回した海華が言う。
「このまま、お仙さんから手を引いてちょうだいよ。そうしたら、命くらいは助けてあげてもいいわ」
「そりゃあ出来ねぇ相談だ」
平八は額に浮かぶ脂汗を手の甲で拭い、一歩、また一歩と二人へ向かい歩き出す。
猫背気味に歩く大柄な体躯は月光を浴びて闇に浮かび、一回り大きな影が錦屋の塀に張り付いた。
「あのアマは、俺を裏切った。このまま生かしておいちゃぁ俺の名前が廃るんだよ。地獄の果てまで追い掛け回して、必ずぶち殺す。勿論てめぇらと一緒にだ」
乱杭歯を剥き出しにニタニタと気味の悪笑みを見せる平吉は。凶刃の切っ先を二人に向けて僅かに身を屈める。
そんな彼の台詞に、二人は互いに顔を見合わせた。
「そうなんだって、兄様どうする?」
「どうするも何も、話してわかる相手じゃないと言っただろう?」
諦め半分に朱王が言った、その刹那、『うおおぉぉぉ――――ッ!!』と狂い牛の咆哮に似た雄たけびが空気を震わせる。
腹の底から張り上げた怒声と共に、平八の巨体は朱王へと襲い掛かった。
彼の足が地響きを立てて地面を蹴りあげる。
もうもうと舞う土煙に一瞬海華がたじろいだ、その横で朱王は表情一つ変えることなく右手に太刀を持ち、態勢を低く身構える。
平八の振るう白刃が朱王の頭上高く振り上げられる。
しかし、下から空を切り裂いた朱王の太刀は瞬きをする間も与えないうちに、平八の喉笛を深く真一文字に切り裂いた。
『ぐぇ』と蛙の如き声を漏らした平八の首は弧を描いて軽々と宙を飛び、冷たい大地にグチャリと落ちる。
派手な痙攣を起こし、赤い命を噴き上げて、どうと倒れる巨体をすんでのところでかわした朱王は、頬や首筋に散る返り血に顔を顰め、手早く着流しの袖で拭い取る。
平八の血を滴らす白刃を一振りし鞘に納めた朱王の隣へ、組み紐を袂にしまった海華が駆け寄った。
「危なかったわねぇ、大丈夫?」
「あぁ、なんともない。図体がでかい割には、たいした事がなかったな。……もう少し聞き分けがよければ、死なずに済んだものを」
『馬鹿な奴だ』地面に転がる平八の生首、量の眼を張り裂けんばかりに見開き、唇を捲り上げた壮絶そのものの死に顔を晒すそれに視線を投げた朱王が小さく吐き捨てる。
が、すぐに彼は我に返り、海華へ顔を向けた。
「こんな所で油を売っていられない。お前、お仙さんに店の人を起こすように伝えてくれ」
「わかりました。早く帰って顔でも洗いたいわ」
『気持ち悪いッたらありゃしない』そうポツリと呟いて、海華は赤い血のシミが点々と散る己の頬をいささか乱暴に指先で擦った。