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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十四章 囚われた分身
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第一話

 雲一つ無い晴れ渡った春空に、子供達の歓声が響く。

朝餉の時間も過ぎた長屋では、きりりと襷を懸けた女らが食器荒いに洗濯にと、忙しく動き回っていた。


 それは朱王と海華兄妹も同じ、手早く朝餉の後片付けを済ませた海華は、鏡台の前で身支度を整え商売道具である人形が収められた木箱を背負う。


 「それじゃぁ兄様、いってきます!」


 「気を付けてな。暗くなる前には帰ってくるんだぞ」


 仕事机の前に胡座をかき、そう念を押してくる朱王に海華はこっくりと頷いた。

そう、彼女は未だ修一郎と朱王、二人の兄から夜の仕事に出掛けることを禁じられているのだ。


 「夕方までには帰ってくるわ。兄様も、ちゃんとお昼食べてね。あたしがいないといつも抜かすんだから……」


 「わかってる、大丈夫だから。早く行ってこい」


 面倒臭そうにそっぽを向く兄に唇を尖らせながらも、海華は勢いよく引き戸を跳ね開け、麗らかな春の陽射しが降り注ぐ表へと飛び出していく。


 妹の背中を見送った後、早速頼まれていた仕事に取り掛かろうと机の端から彫刻刀の入った小箱を手に取る朱王、招かれざる客が彼を訪ねて長屋を訪れたのは、それからすぐ後のことだった。


 「ごめんください」


 些か甲高い呼び掛けと共に、閉められていた戸がガラリと開かれる。

人形のかしら彫りに没頭していた朱王は、戸口に向かってゆっくりと顔を上げた。

そこには、年の頃四十くらいと思われる細身の男が一人立っている。

山吹に茜の縦縞模様という、些か派手な着物を纏った男は顎の細い、どこか鼠を思わせる顔立ちをしている。


 「こちらは人形師の朱王先生のお宅で間違いございますか?」


 「はい……。私が朱王ですが。どちら様でしょうか?」


 顔にかかる黒髪を掻き上げ、小首を傾げる朱王を前に男はへらへら笑いながら何度も何度も頭を下げる。

どこか嫌味ったらしくも感じるその笑み。

男は招かれもせぬうちから、室内へ勝手に上がり込んでいた。


 「失礼致しました、私、両国で貸金をしております正吉まさきちと申します」


 一重瞼の細い目を更に細くし、男は乱杭歯を剥き出しにする。

貸金業と言えば聞こえはいい、しかし男の醸し出す雰囲気からして所謂いわゆる高利貸しの類いなのだろう、そう朱王は頭の隅で考えていた。


 朱王は勿論海華も金貸しの世話になったことは無いし、これから世話になろうとは思っていない。


 「正吉、さんですか。今日はどういったご用件で……。人形のご依頼でしたら申し訳ない、今仕事が立て込んでおりまして、すぐには……」


 「いやいやいや! 人形を作って欲しいのではありません、まぁ、人形の話には変わりないのですがね」


 そう言いながら、正吉は下から舐めるような視線を送る。

勿体振った言い方をするな、と心の中で毒づく朱王は、無意識に正吉を睨み付けるよう眉間に薄い皺を寄せていた。


 「お忙しいところ押し掛けまして、どうかご容赦下さい。実は先生、私は先生の作りになられた人形にぞっこん惚れ込んでしまいましてね、あちこちの人形屋を渡り歩いて、色々買い集めてまいりました。ですが、どうしても手に入らない作品が一つだけありまして……」


 「手に入らない作品……?」


 怪訝な面持ちで聞き返す朱王に、正吉は大きく頷いて見せた。


 「はい、先生が作られた最初の人形……つまり処女作が、どうしても見付からぬのです。私はそれが喉から手が出る程欲しい……。長い間探しに探し、先日やっと見付けましたもので」


 にやあ、と薄気味悪い笑みを浮かべる正吉を前に、思わず朱王は頬を引き攣らせる。

自分の処女作がどこにあるのか、そしてなぜ世間に出回らないのか、それは朱王自身が充分過ぎるくらいわかっていることだった。


 「妹さんが今お使いの人形、あれを売って頂きたい」


 正吉の放った一言に、いよいよ朱王は焦り出す。


 「待って下さい、あれは妹の大切にしている……第一、処女作と言っても師匠から独立する遥か以前に作った物です。とても売り物になる人形では……」


 「そうだから欲しいのですよ。失礼な言い方だが、先生が人形師として作り出された作品は、既にかなりの数が世に出回っている。『独り立ちする以前の作品』は、あの人形しかありません」


 ぐっ、と身を乗り出して力説する正吉に、朱王は言葉を詰まらせる。

そんな彼に畳み掛けるが如く、正吉は口角から唾を飛ばした。


 「勿論、こちらとしても十両二十両の端金はしたがねで売って頂こうとは考えておりませんよ。そちらの言い値で買い取ります。……先生にも、妹さんにも良い話しだとは思いますがねぇ?」


 みるみるうちにつり上がる唇から黄ばんだ歯が覗く。

良い話しとは、一体どういう意味なのか? 朱王のそんな気持ちを読んだかのように、正吉の弁は続いた。


 「先生の懐には、それなりの金子きんすが入りますし、何より妹さんは先生から新しい、より美し い人形を作って貰えます。どうですか?こんな良い取引は、そうは無いかと……」


 にやにや卑しい笑みを浮かべて肩を揺らせる正吉に、朱王はすっかり呆れ返った。

自分の人形に惚れ込んだと言っても、この男にとってそれは金を生む道具として惚れた、それだけなのだろう。


 「……とにかく、今すぐ返事は出来かねます。妹にも相談しなければならない。申し訳ないが、出直してきて下さい」


 「そうですか、承知致しました。また近いうちに寄らせて頂きますので……良いお返事が頂けることを、 楽しみにしていますよ、先生」


 ぺこぺこと頭を下げ、正吉は部屋を後にする。

妙な輩が面倒な話を持ち込んだものだ、海華にどう説明すればいいのか……。

腹の底から深々とした溜め息を吐き出しながら、朱王は再び作業机へ向き直り、がっくり肩を落としていた。


 その日の夜、夕餉の片付けが終わったのを見計らい、朱王は昼間の来客、正吉が持ち込んだ話しを海華へ聞かせた。

一日の大半を供に過ごした人形を木箱から取り出し、いざ手入れを始めようとしていた海華は、兄の口から語られる話しを信じられない、といった面持ちで聞いていたが、やがて人形を抱えたまま、ケラケラとさもおかしそうな笑い声を上げ始めた。


 腹を抱えて笑い転げる妹を横目で見ながら、 朱王は苛立たしげに髪を掻きむしる。


 「いつまで笑ってるつもりなんだ?」


 「だって……!おかしいじゃないの、この人形売れなんて。あたしが『はい、良いですよ』とでも言うと思ってんのかしら?」


 ひぃひぃ息を弾ませ、目尻に溜まる涙を指先で拭う彼女は、乱れた人形の髪を愛おしげに手のひらで撫でる。


 「あたしはずっと、この人形と一緒に傀儡廻しをやって来たの。今更手離すなんて、絶対に嫌 よ。売ったりなんかしないわ」


 「そうか……だがな海華、その人形ももう古い、お前さえ良ければ新しい物を……」


 大体、今の作品とは比べ物にならないくらい稚拙な人形、まさに練習用に作りましたと言ってもいいくらいの人形だ。

この際、もっと完成された人形を持たせてやりたい。


 そんな思いも含ませ、妹に提言した朱王。

しかし海華は、いかにも不機嫌な様子でむっつりと顔をしかめて首を横に振った。


 「しつこいわよ兄様。あたしはこの子がいいの。古いのなんて気にしないわ。兄様が、その正吉とか言う人に断れないってんなら、あたしが直に……」


 「いい!俺の客だったんだ、断れない理由もないからな。俺の方から、きっちり話をつけるさ」


 苦笑いし、机の下から酒瓶を引っ張り出す兄へ近くにあった湯飲みを差し出しながら、海華はニコリと朗らかな笑みを見せる。

彼女が大切に抱いていた人形の瞳が、部屋に灯された蝋燭の灯りに仄かな煌めきを放っていた。


 「ねぇ兄様、さっきの話しなんだけどね」


 灯りも消え、静かな暗闇だけが支配する狭い室内に海華の声が溶ける。

二人は既にそれぞれ布団の中、朱王は隣に寝ている妹の方へゴロリと身を返した。


 「さっきの話し?……どうかしたのか?」


 「うん、その人形を売ってくれって言ってきた人ね、もしかしてやたら派手な着物着て……なんか鼠みたいな顔した男じゃなかった?」


 「ああ、そうだ。でもお前、どうしてわかるんだ?」


 驚きを隠し切れない朱王へ海華は顔だけをこちらへ向ける。

夜に隠れ、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。


 「やっぱり……。今思い出したんだけど、今日ね、その人あたしの所に来たのよ。辻に立ってる時だったわ。妙に人形のこと、根掘り葉掘り聞いてきたの。誰が作ったのか、とか、何年前から使ってるんだ、とか……」


 見物料も多めに出してくれたその男に、海華はつい兄のことを話してしまったのだ。


 「こんなことになるんなら、余計な話ししなけりゃ良かったわ。兄様、面倒事になってごめんなさい」


 微かな後悔を含ませた声色に、自然と朱王の頬が緩む。


 「お前は何も知らなかったんだろ? 別に気にすることはない」


 「ありがとう……。お休みなさい」


 「お休み」


 兄の一言に安心したのか、海華は顎の下まで布団を引き上げる。

あまり有難くはない来客、正吉が再び長屋を訪れたのは、それから三日後のことだった。


 『妹は人形をお譲り出来ないと申しています』そんな朱王の言葉に、正吉はあからさまに不機嫌そうな面持ちを見せる。

しかし、その仏頂面は瞬く間にあの嫌味ったらしい笑みへと変化した。


 「左様でございますか。いやぁ残念無念、いいお返事が頂けるとばかり思っていたのですがねぇ」


 「ご期待に添えず申し訳ありません。ですが、私も妹から無理矢理人形を取り上げることは出来ませんので」


 有無を言わせず、といった様子の朱王へ、正吉はかくかくと首を縦に振る。


 「それはそうでしょうなぁ、いや、こればかりは仕方ありませんや。いきなり無理なお願いをしたこちらも悪い。いや、ご面倒をお掛けしました」


 へらへら笑いながら頭を下げる彼を前に、朱王は、ほっと胸を撫で下ろす。

金貸し、と言う職業でこの男を色眼鏡で見ていたのだろう。

なかなか物わかりの良い相手で助かった。


 『お邪魔致しました』そう丁寧な挨拶を残して去っていく正吉。

これで海華も安心するだろう、心の片隅でそんなことを思いながら彼は中断していた仕事を片付けるべく、作業机へと向かった。





 人通りが絶えることのない辻に今日も海華の詩声うたごえが響く。

数日前、人形を売らなくてもよいと兄に告げられてから、彼女は上機嫌、唄う声も心無しはずみ、彼女に操られ華麗な舞を披露する人形も全身で喜びを表すかのようだ。


 一曲唄い終えるたび、周りを囲む観客から次々と小銭が海華の前に置かれた木箱へ投げ入れられる。

金属がぶつかり合う、ちゃりん、ちゃりん!と甲高い音を耳にしながら、彼女は満面の笑みで数多の客に頭を下げた。


 徐々に解散していく見物客、胸を踊らせ箱の中身を覗き込めば、そこにはいつもより多めの金が、降り注ぐ陽光にきらりと輝く。

これは朝から大漁だ、きっといい一日が始まる前触れに違いない。

盛大に頬を緩め、人形と金を手早く木箱にしまった海華は、早速次の辻へ向かうべく、それを背負い込む。

いざ出陣とばかりに、彼女の足が地を蹴ったと同時だった。


 辻の向こう、彼女の横から人混みを縫い、一人の若い娘が突然目の前に姿を現したのだ。

一瞬の出来事、視界の端から踊り出てきた娘を避けることなど出来はしない。

だんっ!と鈍い衝撃音に引き続き海華と娘、二人の悲鳴が迸った。


跳ね飛ばされ、思い切り尻餅をついた海華、 背中の木箱が跳ね上がり、強かに後頭部をうつ。

その痛みに顔をしかめながらも、彼女はすぐに起き上がり、ぺたりと地に座り込んでいる娘へと駆け寄った。


 「ごめんなさい! 大丈夫?」


 「すみません……あ!?お、皿っ!お皿は……!」


 皿、皿と口走り、娘は膝立ちになって辺りを見渡す。

顔は真っ青、今にも泣き出してしまいそうな娘を横に、海華はただ立ち尽くすしかなかった。


 ふと視線を上げれば、娘の背後ちょうど死角にあたる場所に紫色の風呂敷に包まれた、四角い荷物が転がっている。

無意識に足が動き、その包みへ駆け寄った海華は、それを娘へ差し出した。

一体何事かと二人の周りにぞくぞくと人が集まり出す。

そんな野次馬連中あら浴びせられる視線もお構い無しに、娘は必死の形相で海華から包みを引ったくり、引き千切らんばかりの勢いで風呂敷をほどき始めた。


 道に投げ捨てられた紫、中から出てきた白木の箱、その蓋を勢い良く開いた刹那、娘の喉から周りにいる人間全ての鼓膜をつんざく悲鳴じみた絶叫が迸っていた。





 その日の夕方、長屋の一室で、真っ赤に泣き腫らした目をした娘と苦虫を噛み潰したような面持ちの中年男、その二人を前に額を畳に擦り付ける兄妹の姿があった。


 「本当に申し訳ありませんでした……っ!」


 深々と頭を下げ、半ば叫ぶように今日何度目かの謝罪の言葉を述べる朱王の横には、今にもこぼれ落ちんばかり、目に涙を溜めた海華が身を縮こませ座している。


 向かい合う四人に挟まれ白っ茶けた畳に置かれているのはものの見事に真っ二つに割れた一枚の皿、艶々と光る釉薬の下には眩い金で縁取りされ、中には目にも鮮やかな赤と青の顔料で描かれた、群れ飛ぶ千鳥にの周りに蔦の模様があしらわれている。


 地に落ちた白木の箱に収められていたこの皿、最早陶器の残骸と化したそれを携え、娘と男が長屋を訪れてから、まだそう時間は経っていなかった。


 「妹がとんでもないことを……どうぞお許し下さい!」


 「ごめんなさい! すみませんっ!」


 がばりとひれ伏す海華の鼻先から、数滴の雫が滴り、それは畳に黒いシミをつくる。

懸命に謝り続ける二人だが、男の口から放たれたのは、あまりに冷淡な台詞だった。


 「ごめんなさいで済む問題ですか!貴方達は、この皿がどれほど価値がある物かを、全くおわかりになっていない!これは……六代目中村義衛門なかむらぎえもんの作ですぞ!しかも、私共の主人が頼みに頼んでやっと焼いて頂いた品だ、この世に二つと無い皿だ!」


 こめかみに青筋を浮かべ、唾を飛ばして怒鳴り散らす男の言葉に朱王は全身の血の気が引いていくのを感じた。

六代目、中村義衛門。

その名を知らぬ者は江戸に住んでいるとは言えないだろう、焼き物を造るが為に生れてきた、神の手を持つとまで言われる名匠だ。


 おまけに彼は極度の頑固者としても知られ、少しでも気に入らない作品は惜し気もなく叩き棄ててしまう。

百ほど皿を焼いたとする、作品として世に出回るのはそのうち一つか二つ。

自ずと値も跳ね上がり、大名ですら手に入れるのが難しいとまで言われているのだ。


 大変な物を壊してしまった、そう内心で感じながらも、朱王は恐る恐る顔を上げて怒りに湯気を立てそうな男へ視線を向けた。


 「私共には、お皿の代金を弁償することしか……失礼ですがいかほど……」


 「五百両です!この皿は五百両で買い求めたもの、弁償すると仰られるなら耳を揃えて同額をお返し願いたい!」


 五百両、想像を絶する額を耳にし、兄妹はその場へ石のように固まってしまう。

今、目の前にある割れ皿が黄金色に輝く大判小判の山に見えてしまいそう、今更ながら海華は自分がしでかした事の重大さを思い知る。


 彼女の目尻から、透明な涙が一筋、音も無くなめらかな頬を滑り落ちていった……。

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