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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十三章 黄泉返りの法
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第四話

 留吉が墓場の中に姿を消し、しばし沈黙の時が流れた。

彼が墓守りと接触出来たのか、そしてどんな会話をしているのかは全くわからず、ただ悪戯に時は過ぎてゆく。

偽物の香を渡しに行っただけにしては帰りが遅い、もしや彼の身に何かあったのでは……誰しもが最悪の事態を考え、冷静そのものだった桐野の顔にも焦りの色が見え始めた、その時だった。


 墓地の遥か彼方、建ち並ぶ墓石を縫い、よろめきながら駆けてくる留吉の姿が全員の目に飛び込んできたのだ。


 『留吉さんだわ!』と、海華が小さいながらも歓喜の叫びを上げる。

だらだら冷や汗を垂れ流し、必死の形相で塀の裏に走り込んできた留吉の背を、こちらも額に玉の汗を浮かべた忠五郎が、思い切りひっぱたいた。


 「遅かったじゃねぇかこの野郎っ! 心臓止まるかと思ったぜ!」


 「へ、へ、へいっ! すいやせん……で、でも、墓守りに香、ちゃんと渡してきやした!」


 泣き笑いの表情、くしゃくしゃに顔を歪めてそう告げる留吉に、よくやった、と言いたげに微笑む桐野。

しかし次の瞬間、その顔は真剣そのものに変化した。


 「ご苦労だった。それで、その墓守りとやらは、どんな男だった?」


 「へぇ、伽南先生が仰ってた通りの爺でやした。でも、腰の曲がったよぼよぼじゃあありやせん、もう筋骨隆々の、熊みてぇな爺でいや、食われちまうかと……」


 「なに、筋骨隆々の熊? それならば女を切り刻むのも難なく出来るな!」


 柳の影から忍び足でやってきた都筑が、やたらと興奮し真っ赤に上気させた顔で言う。

がくがく首を縦に振り、留吉は身振り手振りを交えて話を続けた。


 「反魂香を持ってきたって言ったら、野郎飛び上がって喜んでやした。で、金は後で必ず払う、急いでやらなきゃなんねぇことがあるって、墓場から出ていきやした。おいら、そのあとをつけて……」


 「え!? 留吉さん、そんなことしたの?」


 すっとんきょうな叫びを上げた海華は、慌てて自らの口を手で塞ぐ。

けして勇猛果敢とは言い難い留吉だ、香を渡してすぐ蜻蛉返とんぼかえりしてくるだろう。

彼女だけでなく、皆がそう思っていたのだ。


 「海華ちゃん、おいらも男だ、あの野郎がどこに行くか見届けねぇまま帰ってこれねぇよ」


 引き攣り笑いを見せる留吉、そんな彼に、次々と『よくやった』『たいしたものだ』そんな称賛の言葉が浴びせられた。


 「おめぇも度胸が付いたもんだなぁ、で? 墓守りはどこ行ったんでぇ?」


 「へい、墓場を抜けて、この近くにある裏山に……どうも水が湧いてるようなんですがね、ちょうど人が一人が入れる洞穴があったんでさ。 そこに入っていきやした。あの場所じゃあ、多分誰にも見つからねぇと」


 「なるほど……人目につかぬ場所なら、心置き無く死骸を切り刻めるな」


 感心したような声色で呟く高橋へ横にいた朱王も同調し、小さく頷いて見せる。

とにかく、その洞穴へ押し込んでみるしかない。

せっかく留吉が危険をおかして立てた手柄なのだ。


言葉に出さずとも、皆の意見は一致している。

八人が墓場を抜け、件の洞穴へ向かって行ったのは、それからすぐのことだった。

その洞窟は、墓地を抜けてしばらく歩いた場所、切り立った崖の端にぽっかりと闇の口を開いていた。


崖の上は鬱蒼と木々が生い茂る深い森、洞窟の入り口を覆い隠すかのように茂る笹の葉、一体どのくらいの人間が、ここに洞窟があると知っているだろう?

それだけの辺鄙な場所で笹の葉に身を隠し、息を殺してじっと洞窟を窺う八人。

ちくちく頬を刺す笹を鬱陶しげに払い除ける海華の鼻へ、そよ風が緊迫するこの場に相応しくない、ほの甘い香りを運んだ。


 「……何だかいい匂いがしますね?」


 小首を傾げて鼻を擦る彼女に、隣に立つ伽南が洞窟の方を指差しながら、小声で囁く。


 「香の匂いですよ。姉がいつも使っている物を少々拝借してきました。間違いありません。 早速中で焚いているのでしょう」


 「なら、今踏み込めば証拠を押さえられる訳だな?」


 鼻息も荒く身を乗り出す都筑を一瞥し、桐野はザクリと笹を踏み付け洞窟を睨む。


 時は満ちた。


 後は切り刻まれた女の死骸を見付け、墓守りをお縄にすればいい。

はやる気持ちを抑えつつ、 桐野は小さく身を屈める忠五郎の耳許でそっと呟いた。


 「留吉を奉行所へ向かわせ、人を呼んでこさせろ。お前はここで先生を頼む。もし、いくら待っても我らが戻らない時は構わん、すぐに先生を連れて逃げろ。よいな?」


 「承知いたしやした。桐野様、朱王さん達は……」


 「今更帰れと言っても聞くまいよ。なぁ、海華?」


 唇の端をつり上げ、そう彼がこぼした一言に海華はにんまりと意味ありげな笑みを浮かべ、首を縦に振る。

それを見ていた朱王は、申し訳なさそうに桐野へ向かって、小さく一礼した。


 「では行くか。相手がどう出るかはわからん。それぞれ充分気を付けろ」


 それだけ残し、桐野は笹を踏み締め洞窟へ向かう。 なるべく音を立てず、足音を忍ばせ後を行く朱王は、じっとり汗ばむ手を力一杯握り締めていた。

洞窟へ一歩足を踏み入れた瞬間、海華はぶるりと一度身を震わせ、ぷつぷつ鳥肌の立つ首筋を無意識のうちに一撫でする。

そこは、真冬に逆戻りしたかと思われる程に寒く、前を行く朱王が吐く息が白く煙るのすら、はっきりわかるくらいだ。


 光源は入口から帯状に射し込む薄く白い日の光だけ。

岩肌から染み出す水は辺り一面をじっとりと濡らし、滴るそれは着物に点々と丸い染みを作り出していた。


 岩が露出した固い固い地面を音を立てずに進むのは一苦労、何しろ濡れて滑りやすく、通路の幅は人が並び歩くのがやっとの広さしかない。

寒さに身を縮め歩く五人の鼻は、奥に進むたび強くなる甘ったるい香の匂いに顔をしかめ、ただただ無言のままに歩く。


 その時、先頭を行く桐野の足がぴたりと止まり、彼の指が、すっと洞窟の深奥を差した。

そこには、日の光とは違う灯り、何本かの蝋燭と思われる暖かみを帯びた光が、ぼんやりと眠たげに濡れた岩肌を照らしている。


 「北町奉行所の者だ! そこにいるのは誰だっ!?」


 洞窟一杯に轟く桐野の凛とした叫び。

延々と反響を繰り返し、やがて消えていくその呼び掛けは、寒さに凍り付いていた洞窟内の空気を激しく揺り動かす。

がたんっ! と奥から何かが倒れる重たい響きが返り、『来るなぁっ!』と嗄れた怒号が五人を襲った。


 「来るなっ! 頼む、頼むから来るんじゃねぇっ! 早く出ていけ……出て行ってくれっ!」


 「出て来るのは貴様の方だっ! もう逃げ隠れは出来ぬぞっ! 大人しくそこから出てこいっ!」


 眉間に深い皺を刻ませ、都筑は雷の如き叫びを放つ。

反響し、何度も鼓膜を揺らすそれに思わず耳を塞いだ海華。

と、彼女の瞳が仄か闇の奥で蠢く人影を捉える。


 ぺた、ぺた、ぺた……濡れた地をゆっくり歩 く足音、やがて、闇の奥から五人の前に姿を現した一人の老人……。


 澱んだ光を宿す瞳でこちらを見る、留吉曰く『熊』のようなその老人の右手には、べっとりと赤黒く粘ついた血糊に彩られた大鉈が握られていた。

鉈の刃先から糸を引き、紅い粘りが滴り落ちる。

熊……いや、戦に敗れた野武士と言った方がいいだろう、所々に白の混じる油っ気の無いばさばさの頭髪を振り乱し、男は桐野らへ向かい鉈を構える。


 咄嗟に腰の物に手を掛けた都筑と高橋、しかしそこは刀を引き抜くことも、ましてや振りかざせる余裕すらも無い狭い空間だった。


 「あと少しなんだ……あと少しで、お嬢さんは生き返る……だから、邪魔しないで下せぇ……」


 生気を完全に失った声、濁った魚によく似た瞳がギロリと五人を睨み付ける。

濡れそぼる地を一歩踏み締め、桐野は胸一杯に冷えた空気を吸い込んだ。


 「いつまで戯けたことをほざいているかっ! 一度死んだ人間は何をしても生き返りなどせぬわっ! いい加減目を覚ませっ!」


 まなじりをぎりぎりつり上げ、阿修羅の如き形相で怒鳴る桐野の後を追うように、刀の柄に手を掛けたままの都筑が怒号を張り上げた。


 「貴様が焚いているのはただの香だ!反魂香などではないっ! いくら焚いても骸は骸だ!」


 「反魂香じゃ、ない……だとぉ!?」


 都筑の言葉を耳にした瞬間、虚ろだった男の瞳がみるみるうちに怒りで燃え上がる。

血走った目を張り裂けんばかりに見開き、煮え立つ怒りに全身を震わせる男には、最早理性など一欠片も残されてはいなかった。


 「畜生……畜生騙しやがったなっ! 騙しやがったな──っ!!」


 洞窟全体を激しく揺さぶらんばかりの咆哮、半狂乱に陥った男は訳のわからぬ叫びを迸らせ、血塗れの鉈を振りかざす。

刃先が天井にぶち当たるのも構わず、ぎゅんぎゅん空を切り裂く鋭い音を響かせて、男の土に汚れた足が地を蹴った。


 壁に、天井に食い込み砕ける刃先、猪突猛進の言葉通り猛烈な勢いでこちらに向かってくる男に、さすがの都筑も顔色を変える。

刀は抜けぬ、しかし鉈をかわす余裕も無い岩の空間、獣の咆哮を上げる男が鉈を桐野目掛けて降り下ろさんとした、その刹那だった。


 都筑と桐野の耳許を、ぎゅん、と低い唸りを上げて掠める何か。

それは鉈を握り締める男の右手首を強かに打ちのめす、赤ん坊の握り拳ほどもある黒ずんだ石の塊。


 『ぎゃっ!』と短い悲鳴を上げ、鉈を取り落とした男は僅かに体勢を崩し、地に膝を付く。

生と死を分けた紙一重、瞬時の間に石を放った張本人、海華はその右手に新たな石ころを握り、手首を反らせて再び渾身の一撃を放つ。


 その場の誰もが叫びも呼吸すらも出来ぬ間に、放たれた石の矢は濡れた地に踞る男のこめかみを的確に捉え、見事な鮮血の花を咲かせた。


 「やった……!」


 兄の背後で海華が歓喜の叫びを上げると同時、桐野は地に転がる鉈を力一杯遠方に蹴り飛ばす。

続いて高橋と都筑が傷口を押さえ低い呻きを漏らす男に飛び掛かりその体躯を渾身の力で組伏せた。


 「海華殿か……。助かった。恩に着る」


 ふぅ、と小さく息を吐き、桐野は後ろを振り返る。

そこには、兄の背後に身を隠し、どこか照れ臭そうに微笑む海華と顔面を真っ赤に染め、苦痛に呻く男を感情の見えない瞳で見据える朱王の姿があった。


 口角から泡を吹き、聞くに耐えない罵詈雑言を喚き散らす男は、都筑と高橋によって洞窟の外へと引き摺り出されていく。

がんがんと反響する悪態に顔をしかめる海華は左手に握っていた小石を足元に放り投げた。


 「お前、そんな石ころどこで拾ってきた?」


 ぱんぱん、と手を払う海華を横目で見ながら朱王が問う。

にんまりと唇の端をつり上げ、彼女は洞窟の入り口を指差した。


 「あそこでよ。万が一、と思って幾つか拾ったけど、大正解だったわ。それより……桐野様、早く証拠を探しに行きません?」


 小首を傾げて見上げてくる海華に、桐野はもう苦笑するしかない。

『いやに乗り気だな』と一言こぼしながらも、彼は二人を連れ立って洞窟の深奥へと歩を進めた。

奥へ進むにつれ、寒さは一段と厳しくなり海華などは鼻の頭を赤くする始末、肩を竦めて歩く彼女の肩に、凍えんばかりに冷たい水滴が滴り落ちる。


 三人分の下駄の音を響かせ、三人は蝋燭が数本灯る洞窟の奥、目の前にごつごつと歪な岩肌を露にする場へ辿り着いた。

そこは十畳ほどあるやや広い空間、勿論先には進めぬ行き止まりだ。


 岩の窪みに溜まる澄んだ冷水、その地面のあちこちに蝋燭が立ち、それらに囲まれるようにボサボサとささくれた筵に包まれた物体が一つ、静まり返る空間に置かれている。

筵の端からは、蝋細工の如く真っ白な足が二本突き出していた。


 腐臭も、生臭い血の臭いすら感じられない、香の匂いしかしないこの場所で、その透き通る位に白い華奢な足は美しくさえ見える。

まるで人形だ、朱王はそう心の片隅で感じていた。


 三人の誰も口を開かない。

蝋燭の明かりに仄かな光を浮かばせる足へ、最初に近付いたのはやはり桐野であった。

ぐっ、と一度息を詰め、彼は勢い良く掛けられた筵を剥ぎ取る。

そこに寝かされているのは、薄い桃色をした襦袢を着せられた若い女……五人の女を寄せ集めて造られた、凍てつく死美人だった。


 まるで眠っているかのように、夢見るような安らかさで閉じられた長い睫毛に縁取られた目。

薄く紅が塗られた唇、滑らかに艶めく頬、骸とは思えぬ程に美しい女の首には、純白の肌と同化する包帯が幾重にも巻かれている。

それは、襦袢から僅かに覗く肩も同じだった。


 「……包帯で繋ぎ合わせているのだな。しかし……こう腐りもせずに残っているとは」


 感嘆の溜め息を漏らし、桐野は再び骸を筵で覆う。

未だ甘い香りが籠る空間、朱王も海華も今見た女が死人を集めて造られた物だとは信じられない、といった様子だ。


 死んでから幾日も過ぎた骸が、なぜ腐りもせず形を保っているのだろう。

三人が同様に持つこの疑問が解明されるのは、これから三日程後のことになるのだ。





 さて、女を切り刻んだ下手人がお縄になって、早くも三日が過ぎようとしていた。

八丁堀の桐野の屋敷、小綺麗に手入れされた庭の片隅で、晴れやかな空に向かい枝を伸ばす桜の大木は、淡い紅色をした花弁を重たそうに風に揺らせている。


 穏やかな昼下がり、色とりどりの花々が今を盛りと咲き誇る庭を縁側に腰掛け眺める朱王は、瑞々しい香りが鼻をくすぐる茶を一口含み、傍らにいる海華は茶菓として出された干菓子を美味そうに頬張っている最中。


 二人がなぜ桐野の屋敷にいるのか、その理由は簡単、昼前に彼の遣いとして長屋にやってきた志狼に連れてこられたのだ。

今日、桐野は勤めが休み、例の事件に関して二人に話がしたいと言う。

勿論二つ返事で駆け付け、今、主である桐野を待ちながらこうして持て成しを受けている。


 やがて、屋敷奥にある自室から志狼を伴って濃茶色の着流しに身を包んだ桐野が姿を現すと、二人は静かに腰を上げ、彼に向かって小さく一礼した。


 「突然呼びつけてすまなかったな。まぁ、楽にしてくれ」


 あの洞窟で鬼も震えがらんばかりの形相で下手人を一喝した同人物とは思えぬ柔和な笑みを浮かべる桐野は、再び縁側に腰掛けた朱王の横にどかりと胡座をかく。

志狼はそのまま新たな茶を運ぶために奥へ消え、それを見計らったのか、桐野は静かに唇を開いた。


 「志狼からも聞いているとは思うが、今日お主らを呼んだのは、例の件についてだ。……さて、どこらか話そうか……」


 顎の下を指先で擦り、小首を傾げる彼に、兄の横から身を乗り出した海華がニコリと微笑む。


 「どうして骸が腐らなかったのか、それからお聞きしたいです」


 麗らかな風景とはあまりにも合わない彼女の台詞に、『やはりそこからか』と桐野は一人ごつ。


 「あの骸が腐らなかった訳は……簡単なことだ。海華殿、お主あの洞窟に入って、一番最初に何を思った?」


 まるで謎かけだ。

うぅん、と小さく唸り、考え込むように宙へ視線をさ迷わせる海華は、『寒かったです』と一言こぼす。


 「そうだな、まるで真冬のように寒かった。 だから骸の痛みが遅かったのだ。だが、それ以外にも理由はあった。骸のはらわたは綺麗さっぱり抜き取られていて、その中に塩が塗り込まれていたのだ」


 『水に浸して血抜きもされていた』


 平然とした顔で言いのける彼に朱王と海華は思わず顔を見合わせる。

その時、湯気の立つ湯飲みを一つ盆に乗せた志狼が、奥の部屋から足音も無く姿を見せた。


 「桐野様……一つ伺ってもよろしいでしょうか?」


 ちらりと一度志狼に視線を投げた朱王は、 風に靡く髪をさらりと後ろへ掻き退けた。


 「ああ、どうかしたのか?」


 「はい、あの骸……長く寒い場所に置かれていたわりにはその……まだ肌が柔らかそうに見えました。普通なら、硬く固まってしまうのではないか、と」


 何気無い朱王の問いに、桐野の傍らに控えた志狼が『さすがだな』と小声で呟く。

桐野も同じことを思っていたのだろう、感心するように何度か頷いた後、志狼が運んできた茶を啜った。


 「お主の言う通り、骸の肌は柔らかいままだった。まるで生きているようにな。骸全体に、油を浸した薄絹が巻かれていた。化粧油というやつだな。あの男の話によれば、何度も何度も塗り直したらしい」


 『骸の扱いは丁重そのものだ』妙に哀愁を含ませた声色で呟き、桐野は美しい緑色の水面に映る自らの顔に視線を落とした。


 「どうして死人を甦らせようなんて考えたんでしょうねぇ?」


 うぅん、と小さく唸り、海華が腕を組む。

それは朱王も疑問に思っていた。

紙問屋の箱入り娘と寺の墓守り、一体二人に何があったと言うのだろう。

そんな兄妹の疑問を解決したのはまたしても桐野、その人だった。


 「あの寺は水瀬屋の菩提寺だと忠五郎が申していただろう? あの墓守りは、墓参りに来ていた娘に一目惚れしたそうだ。老いらくの恋、と言うやつだろうな」


 『老いらくの恋』どこか悲しくも儚げに響くその言葉。

更に桐野は先を続ける。


 「娘の方は墓守りのことを気にも留めなかったようだが……まぁ当たり前だな。その想い人が骸となって自分の元にきた。千載一遇の好機だと思ったと言っていた。以前、和尚から聞いた反魂香の話を思い出して、街中の香屋や薬屋を訪ね歩いたそうだ」


 「そんな眉唾物の話を鵜呑みにする程、死んだ娘に惚れていたわけですね……。しかし、どうして他の女を殺めて遺骸の手足を寄せ集める真似をしたのか……」


 娘を甦らせたいのなら、もとからある身体を使えば簡単なこと。

最大の疑問を抱えたまま眉を潜める朱王に、桐 野は、にやりと口角をつり上げる。


 「誰しもがそう思うだろうな。儂も最初はさっぱりわからなかった。……あの墓守りが言 には、『最高に美しい身体で生き返らせたかった』からだそうだ」


 何やら意味深な彼の台詞に、隣に正座していた志狼までもが、微かに小首を傾げる。


 「あの娘、長く労咳ろうがいを患っていた。それが元で死んだようだが……長患いのせいか、身体は痩せ衰えて、羽をむしられた鶏のような有り様だったと。だからあの墓守りは他の女を殺め、その『一番美しい部分』を寄せ集めたらしい」


 あまりにも異様、かつ常識からかけ離れた話しに、一瞬その場が静まり返る。

暖かな風に散らされた淡い紅色の桜、その花弁が海華の頬を掠め、足元へと舞った。


 「最高の身体を造りたいかぁ……。でも、骸はすぐに腐り爛れちゃうんですよねぇ。生きてる人間だって、いつまでも綺麗なままじゃいられないのに」


 「一度彼岸に渡った人間を、無理矢理呼び戻そうなんて考えるから……死ななくていい人間が死ぬ羽目になるんだ」


 兄妹が、ぽつりとこぼした言葉に同調するよう、志狼が深く頷く。

だが、次に彼から放たれた一言が、海華の眉間にくっきり深い皺を刻ませることとなった。


 「海華も、今はガキみてぇなナリだが、いつかは皺くちゃに干からびた婆ぁになるんだからなぁ……時の流れは残酷だぜ」


 「……ガキみたいで悪かったわね?あたしが干からびた婆ぁになる頃はさ、あんたも腰の曲がった歯抜け爺になってるわよ。男も萎びちゃおしまいよねぇ?」


 凶悪にも感じられる笑みを浮かべて睨み合う二人の間に白い火花が飛ぶ。

『その頃、儂らは墓の下だな』そう苦笑いしながらこぼす桐野に、朱王は思わず吹き出した。


 ぎゃんぎゃんと賑やかに、他愛ない言い争いを始める海華と志狼を他所に、二人は無言のまま茶を啜る。

色とりどりの花弁を風に遊ばせ、生を謳歌する花々の間を、純白の蝶々が二匹、戯れながら舞っていく。


 江戸の春は、まだ始まりを告げたばかりだった。









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