第二話
「とにかく、暗くなる前には帰ってこいよ」
そう言いながら空になった茶碗を差し出す兄に、すかさず海華が酒瓶を傾ける。
しかし、酒瓶の口からは酒の滴が一滴二滴、こぼれ落ちただけだった。
「あらら、もう無いの?」
すっとんきょうな声を上げ、海華は慌てて酒瓶を上下に振る。
しかし中からは、ぴちゃりともぽちゃりとも音がしない。
そんな妹へがっくりと肩を落として見せながら、朱王は空茶碗を畳へと置いた。
「この程度じゃ口汚しにもならん……。いい、買ってくるから金出せ。まだ店は閉まっていないだろう」
「え? 今から行くの? 大丈夫? 兄様襲われでもしたら……」
懐から財布を引っ張り出しながらも、どこか不安そうな海華に朱王は苦笑いを返す。
「心配するな。俺は男なんだ。襲われたって返り討ちにしてやるさ」
妹から酒代の小銭を受け取り、朱王は土間へと降りる。
『気を付けてね』の言葉に見送られながら彼は夜の街へと消えていった。
暖簾を下ろす寸前の酒屋に飛び込み、酒を買い求めた朱王は、ずしりと重く変わった酒瓶を片手に長屋へと急ぐ。
天には半分暗雲に覆われた月が朧の光を放つだけ、星の瞬きも見えない静かな夜だ。
一膳飯屋の提灯が仄かに光る人気の無い道を行く朱王の髪を、柔らかな春風が撫でていく。
春の夜の散歩を楽しむ彼の目が、ふと横路から姿を表した一人の侍へと吸い寄せられる。
すらりとした細身の侍は朱王に全く気付いていない。
彼の手にした提灯は、彼の歩みに合わせて橙色の光を左右に揺らしていた。
「桐野、様?」
朱王の口からぽつりとこぼれたのは、彼のよく知る男の名前。
前を行く侍の足がぴたりと止まる。
漆黒の羽織を翻し、こちらを振り向いた男は朱王を見た瞬間驚いたように細い目を見開いた。
「やはり……桐野様でしたか」
「朱王か! いや、こんなところで会うとは……」
精悍な顔を笑みの形に歪める彼につられ、自然と朱王も微笑みを返す。
小走りに彼へと近付いた朱王へ暖かな向かい風が吹き抜けた時、無意識に彼の鼻がひくりと動いた。
すぐそばにいる桐野からわずかに香る甘い香り、それは普段の彼からは感じたことのない女の香りだった。
部屋に焚き染める香か、はたまた女の持つ香り袋の匂いなのかはわからない。
もしや想い人の所へ寄った帰りなのではないか、不味いところに鉢合わせしてしまったのか、一瞬気まずい思いが胸を過り、朱王は無意 識に鼻の下を手で擦る。
そんな彼の小さな仕草を見逃さなかった桐野は、苦笑いしながら自らの羽織の袖口を鼻へと当てた。
「まいったな、やはり染み付いていたか。お前はあまり好かぬ匂いだろう?」
「あ……いえ、そんなことは」
慌てて取り繕う朱王へにこにこと笑いかけ、桐野はバサリと羽織を脱ぎ、小脇に抱えた。
「そう気を使うな、今しがたまで香屋にいたのだ。随分長く店へいたからな、すっかり匂いが染みてしまった」
『香屋にいた』その台詞に、朱王は小首を傾げる。
彼に香を焚く趣味があるとは思わなかったし、志狼からもそんな話は聞いたことがない。
「桐野様が、お香を焚かれるとは存じませんでした」
「儂が? いやいや、そんな趣味は無い。 ちょっとした用事があってな、まあ、仕事だ」
己の纏う甘ったるい香りに僅かに眉を寄せ、桐野は香屋へ寄っていた経緯を朱王へ語り出す。
闇夜を引き裂く女の金切り声、いや絶叫が二人の鼓膜を一撃したのは、桐野の話が終盤に差し掛かった頃だった。
『誰か来て──っ! お願い助けてぇぇ ──っ!』夜の静寂を引き裂く女の絶叫に、朱王と桐野の顔色が変わる。
無意識に地を蹴り飛ばし、悲鳴の出所へと脱兎の如く駆ける二人の前には、ただ漆黒の闇が広がるばかり。
大通りを抜け、裏道へと続く角を幾つか曲がった時、二人の視界に黒く変色した板塀に背中をへばり付かせ、わなわな震える一人の女の姿が飛び込んできた。
「どうしたっ!? 何事だ!」
息を切らせ、大声で女に怒鳴る桐野。
風呂屋帰りだろう薄い浴衣に身を包む三十路程の女は、膝を戦慄かせながら震える指先で薄暗い道の向こうを指差した。
「あそこ……あそこに血が……血が、たくさん、っ!」
恐怖に表情を凍り付かせ、やっとのことでそう呟く彼女の指差した先には、黒い影となった何かが道の真ん中に転がっている。
今にも消えそうな提灯の灯りを頼りに恐る恐るそれに近付く二人の鼻が、ふっ、と生臭い血の臭いを広い上げた。
臭いの出所は火を見るより明らか、地面に転がる筵の包みだ。
きっちりと麻縄縄で縛られているそれは、あちこちにどす黒い塊がこびりつき、端からはじくじく染み出るように粘っこい深紅の液体が地へ広がっている。
「桐野様……これは」
「うむ。……まさかとは思ったが、どうやら間違いないようだ」
鼻をつく異臭に顔をしかめ、桐野は手にしていた提灯を唐突に朱王へ手渡す。
そして包みの 側に屈み込むやいなや、手が汚れるのも構わず麻縄をほどき始めたのだ。
血をたっぷり吸い込んだ麻縄はぎしぎし、ごりごりと鈍い音を立て次第に緩んでいく。
全てをほどき終わり、道端にそれを投げ捨てたと同時、桐野は勢いよく筵を剥ぎ取った。
瞬間、辺りに立ち込める濃厚な血と脂、吐き気をもよおす死臭。
思わず桐野は生唾を飲み下し、背後に控える朱王は着流しの袖口で鼻を覆い、二、三歩後退る。
筵から転がり出たのは、乾きかけた血にべっとりとまみれた若い女の全裸死骸だった。
張り裂けんばかりに見開いた目は、永遠に光を失った瞳で夜空を睨み付け、元はふくよかな膨らみがあったであろう胸は生々しい赤肉をさらけ出し無惨に切り取られている。
括れた胴体、それに続くはずの腰や尻は跡形もなく消え失せ、臍の下からべろりと蛇の如くにはみ出た腸は降り注ぐ月明かりと朱王が持つ提灯の灯りを受け、ぬらぬら妖 しい艶を放った。
大根のように転がる足は泥と血にまみれ、すっかり血の抜けた真っ白なそれは、凄惨かつ酸鼻な状況の中で不思議と美しく感じる。
腰を切り取られた哀れな『元、女』だった者の残骸。
目を背けたくなる程の惨たらしい光景に桐野と朱王は一言も言葉を発することが出来ない。
顔を強張らせ、ただただ肉の塊と化した女を見詰める二人の背後で、『ひ───っ!』と掠れた悲鳴を上げた発見者である三十路女が、小脇に風呂道具を抱えたまま板塀を背にし、ずるずる地面へ崩れ落ちていった。
静寂が支配していた夜道は一転狂乱の舞台と化した。
ぞくぞくと集まる野次馬、慌ただしく動き回る同心達、その中には桐野の部下である都筑、高橋の姿もある。
第一発見者である女はあのまま気絶し、医者の元へと運ばれていった。
黒羽織の侍らに混じり、筵を掛けられた骸の傍らに佇む朱王は酒瓶を抱えたまま、漆黒の夜空を仰いで深い溜め息をつく。
「すまぬな朱王。とんだ騒ぎに巻き込んでしまった」
検死の医者を見送った桐野はさもすまなそうな面持ちで立ち尽くす朱王へ小さく声を掛ける。
慌て首を横に振る彼は、未だ辺りに漂う血生臭さを堪え、なんとか微かな笑みを作った。
「桐野様に非はございません。全て偶然に過ぎませんので。ただ長屋で海華が私の帰りを待っておりまして……」
すぐに帰ると伝えたのに、もうかなりの時が過ぎてしまった。
きっと気を揉んでいるだろう。
そんなことを頭の隅で思っていた朱王に、桐野はそっと耳打ちする。
「それは心配無い。留吉に海華殿へ報せるよう、さっき申し付けておいた。時期に二人でここに来るはず……」
彼の言葉が終わるか終わらないかの時だった。
遠くから、がつがつと固い地面を走る下駄の小気味良い響きが二人の耳に届く。
やがて、『ちょっと退いてっ!』と甲高い叫びと共に野次馬の壁を押し退け掻き分けて、深紅に蝶の模様が描かれた着物が、疾風の如く現場に飛び込んで来た。
「兄様っっ! 兄様、大丈夫!? 怪我は? 怪我はしてないのね?」
紅潮した頬にうっすらと汗を浮かべ、必死の形相で兄の元へ駆け付けた海華は兄の無事な姿を見るなり、はぁぁぁっ、と大きく息を吐ききった。
「俺はなんともないよ。ただ骸を見付けただけだ。心配かけて悪かった」
「本当よ! 留吉さんから聞いた時は、心臓止まるかと思ったんだからっ!」
はぁはぁ息を切らせ、一気に小言を言い捨てる海華に苦笑しながら桐野は何かを探すよう、きょろきょろと辺りを見回す。
「海華殿、留吉はどうした? 一緒ではなかったのか?」
「あ、留吉さんですか? えぇとその……途中で置いてきました。息切れして、道の端にへたり込んでしまって……」
ばつが悪そうに小声で呟く彼女の肩を、桐野は気にするなと言いたげにポンポンと軽く叩く。
それと同時、骸の側に屈み込んで海華には見えぬよう軽く筵を捲っていた高橋が、血の染み付いた懐紙を片手に桐野へ顔を上げた。
「桐野様、女の首にこんな物が……」
そう言いつつ彼が差し出した懐紙に、桐野、朱王、そして海華と三人の視線が集中する。
彼方ではわいわいがやがや大騒ぎする野次馬を一喝する都筑の大声が響いていた。
「これ、なんでしょう? 草の燃えかす、かしら?」
大きな瞳で懐紙を見詰める海華が、ちょこんと小首を傾げる。
彼女の言う通り、それは草か小枝が燃えたあとの黒く焦げた残りかすのように見えた。
「お灸の残りのようにも見えるが……なぜこんな物が?」
眉を寄せ、顎の下を指先で擦る桐野。
その横にいる朱王の鼻が、懐紙から匂う生臭さと死臭とは別の奇妙な匂いを感じ取った。
「これは……薬草が何かではないでしょうか? もしかしたらお香の類いかも知れません。どうも妙な匂いが……」
真剣な眼差しで懐紙を見詰める兄の言葉に、海華はひくひく鼻を蠢かす。
しかし彼女の鼻が広い上げたのは、胸がむかつく血と鼻腔に粘りつくような脂の臭いだけだった。
『また香か……』苦虫を噛み潰した表情の桐野が小さく呻いた台詞を、海華の耳は聞き逃していなかった。
「また? またって、どういう意味ですか? 前に棄てられていた死骸にも、お香が付いていたのですか?」
くるくると大きな瞳を動かし、興味津々と言ったように尋ねてくる海華へ、桐野はいささか困ったような眼差しを向ける。
指に付いた血糊を懐から出した懐紙で拭う高橋も、今日は矢鱈と口が重い。
そんな二人の様子を見て、朱王はふぅ、と小さな溜め息をついた。
彼らは案じているのだろう。
余計なことを話してしまっては、また海華が首を突っ込みたがると思っているに違いない。
また大怪我でも、最悪死ぬような目に彼女を遇わせたくない、そんな二人の心使いが痛いほど伝わってくる。
だが、海華はその程度で引き下がる女ではない。
桐野と高橋二人を交互に見比べ、ぷくりと頬を膨らませる。
「酷いわ、あたしだけ除け者なんて。これでも少しは桐野様のお役に立ちたいと思っているんですよ? 辻に立っていれば、色々情報は耳に入るんですから」
「あまり我儘を言うな。桐野様がお困りになるだろう」
見兼ねた朱王が妹の頭を軽く小突く。
ますます臍を曲げた海華はそんな兄の手を振り払い、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「わかった、わかった海華殿、そう膨れるな」
最早誤魔化しは通用しない、そう思ったのか桐野は軽く腕組みし、細身の体を軽く屈めて海華の顔を覗き込む。
「確かに海華殿の情報はいつも役に立つ。だがな、何かあった時は、けして一人だけで無茶をするな。それだけは約束しろ」
「わかりました! 絶対危ない真似はしません!」
先程までの膨れっ面は、どこに飛んでしまったのか。
海華は、にこやかな笑みを浮かべて何度も頷く。
その隣でひどく恐縮しきった様子でぺこぺこ頭を下げる朱王に、気の毒そうにこちらを見る高橋が苦笑いを見せた。
「海華殿の推測通りだ。以前棄てられていた死骸にも、これと似たような香か、草の燃えかすがついていた。……朱王には先程申したが、儂らは今まで香屋と薬屋をしらみ潰しに調べていたところだ」
そこまで言った桐野は、こめかみを指先で掻く。
あまり浮かない表情をする彼の髷を、煌めく月光が掠めて消えた。
「あちこち聞き回ったのだが、この頃妙な品物を買いたいとやってくる男がいた、と数件の香屋が申していた。どうも南蛮渡来の珍しい香で……名前は確か……」
「はんごん……確か『反魂香』でございます」
横から高橋が口を出す、その聞いたことも無い香の名前に朱王は小首を傾げた。
だが、海華はぱちぱちと目を瞬かせた後、『それ、知っています』と言い放ったのだ。
これには三人共驚きの色を隠せない。
「海華……どうしてお前がそんな物……」
「だって、文楽の題材にあるんだもの。『反魂香』って。死んだ人の魂をあの世から呼び戻せるお香よ。……勿論、そんな物実際には無いけど」
さも当たり前、と言ったように言葉を紡ぐ海華は男三人の視線を一身に集めながら、反魂香について、もう一つの謂れを得意げに語り始めたのだ。
「反魂香って、もう一つ不気味なお話があるんですよ」
血塗れの骸が足元に転がっているとは思えぬくらい、にこやかな笑みを見せて海華がぺらぺらと喋り出す。
彼方からは、大騒ぎする野次馬らを追い返した都筑が汗だくになりこちらへ駈けてくるのが見えた。
「名前は忘れちゃいましたけど、何とかって言うお偉いお坊様が、修行で人里離れた山奥に籠ったんです。勿論周りは深い森、人なんか来やしません」
『何とかって言う坊さん』それだけで眉唾物の話しだと朱王は心中で呟く。
しかし、海華の巧妙な語り口に高橋や荒い息をつく都筑、そして桐野までもが彼女の話しに聞き入っていた。
「しばらくは真面目に修行していたんですが、日が経つうちに、その坊さん寂しくなってきたんです。姿見せるのは猪やら兎やらばかり、ずっと人とも話さないで日がな一日お経よんで座禅組んでりゃ当たり前ですね」
「うむ、まぁ確かにな。徳のある坊主も所詮は人間だ」
汗を拭き拭き納得したように頷く都筑。
海華はことさら嬉しそうに微笑んだ。
「そうですよね、あたしなら耐えられませんもの。で、ある時、その坊さん思い出したんです。遥か昔に聞いた『反魂の術』を。簡単に言ってしまえば、小枝を骨に泥を肉に見立てた人形に、魂を宿らせるって法術です」
つまりは淫祀邪教の法術だ。
「どうにも寂しくて堪らなくなったんでしょう、坊さんは早速泥人形を作って、魂を誘い出す香を……何で作ったのかはわかりませんけど、それを焚いたんです。見事に泥人形は生きた人間になりました。でも、それで終わりじゃないんです」
意味ありげに笑い、じっと自分を見詰める男らを見回した海華は乾いた唇をぺろりと一舐めした。
「出来上がったその人間、感情が全く無かったんです。笑いもしなけりゃ泣きもしない、ただ無表情のまま、ぼんやり座っているだけの木偶が出来上がりました。これには坊さん困ってしまって、それを置き去りにしたまま山から逃げちゃったんです」
「なんだ。結局棄てて来たのか、随分酷い坊主だな」
眉毛を八の字に歪める高橋が、深く腕組みをする。
その隣では、未だ顔を赤く染めた都筑が、ばりばりと頭を掻いていた。
「大体な、泥だの木だのから生きた人間が作れる訳がない。その坊主は詰めが甘いのだ」
「そうですよねぇ。泥人形じゃなくて、本物の死骸だったら上手くいっていたかも知れません」
ぽろりと、本当に何気無くこぼれた海華の台詞。
それを耳にした途端、朱王は全身に鳥肌が立つのをはっきりと感じた。
恐る恐る隣に立つ桐野へ目を向ければ彼は張り裂けんばかりに目を見開き、道に転がる骸を凝視している。
「桐野様……もしや、これは」
「……お主も同じことを考えていたようだな? ──なぁ朱王、最初に棄てられた死骸、身体のどこを持ち去られていた?」
「胴体、です」
生唾を飲み下し、朱王が掠れ声で答える。
桐野は更に問いを続けた。
「そうだ、胴体だ。次は?」
「両足と、その次は両腕……そして今回は、腰……」
持ち去られた部分を繋ぎ合わせれば何が出来上がるのか、それは言うまでも無い。
頬を引き攣らせる朱王の目の前では、海華に高橋、都筑の三人が反魂香について延々と話し込んでいる最中だった。




