表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十二章 じゃじゃ馬人形
153/205

第五話

 青くなって縮み上がる羽山へ、主はおずおずと戸惑いがちに顔を向ける。

全員の視線を一身に浴びている男の元へ、怒りに眉を逆立てた桐野が大股で歩み寄った。


 「お主が羽山か?」


 「は、い……。左様でござい、ます……」


 今までの威勢はどこに吹き飛んでしまったのか、細面からだらだら冷や汗を流し出す彼を桐野の鋭い眼光が射る。


 「そこにいる朱王の妹が襲われた件は知っているな? そのことでお主に話がある」


 「話し、とは?私は何も……」


 びくつきながら肩を竦める彼に遂に桐野の怒りが爆発した。


 「何も知らぬ!? 言い逃れを申すなっ! 貴様の弟子がみな白状したわっ! 賭場とばにたむろする破落戸ごろつきと、貴様がこそこそ話をしていた、とな!」


 目を血走らせ、そう一喝する桐野の阿修羅の如き迫力に、遠巻きに事の成り行きを凝縮している人形師らまでが、ぶるりと震え上がる。

桐野の後を追うように、じりじり羽山と間を詰める都筑、そして高橋が厳しい眼差しを唇を戦慄かせる羽山へぶつけた。


 「その破落戸、ちょいと締め上げただけで簡単に吐いたぞ? 貴様に十両で頼まれて、傀儡廻しの女を殺そうとした、とな?」


 「そ奴らな、お前がなかなか金を払わんと愚痴をこぼしておったぞ」


 にたぁ、と凶悪にすら感じる暗い笑みを見せた都筑。

ひっ! と間抜け臭い悲鳴が、がたがた膝を震わせる羽山から飛ぶ。

さっさと引き立てっ! そう桐野が叫んだ瞬間だった。

彼のすぐ横から一つの影が羽山に向かい、電光石火の勢いで飛び掛かる。

桐野らも、 他の者達もその影を止める隙は無かった。


 「貴様がっ! 貴様が海華をあんな目に遭わせたのかっ! 畜生っ! 全部貴様の仕業だったのか──っっ! 」


 煮えたぎる怒りと殺意を剥き出しに髪を振り乱した影、朱王は固く握り締めた拳で羽山の顔面に渾身の一撃を叩き付ける。

顔を不自然に歪ませ、もんどりうって土間に倒れた彼へ馬乗りになった朱王は、鬼の形相で何度も彼の顔を殴り付けた。

辺り一面に響き渡る怒号と悲鳴飛び散る血飛沫。

慌てて止めに入った若手の人形師数人と都筑、高橋を撥ね飛ばし、振り払って強かに羽山を叩きのめす朱王の目には最早理性の欠片も残っていない。

 

 目の前で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図に、金五郎は呆然と佇むお勝をひしと抱き締め、土間の端にへたり込む。

絶叫と罵声、怒声の入り交じる混乱の中で、羽山の顔は深紅の血にまみれて腫れ上がり、もう目鼻の区別すらつけるのが困難なくらいだ。

『もう止めろっ!』 『助けてくれぇっ!』 『このまま殺してやる……!』


 もう誰が叫んでいるのか、わからない。

ただ、野獣の如く暴れ狂う朱王を止められる者は誰一人としていなかった。

土煙に混ざるどす黒い血潮。

それが朱王の頬を点々と汚したその時だった。


 『朱王さん!』と、鬼気迫る甲高い叫びと共に一人の男が混乱の舞台に転がり混んでくる。

癖のある髪を振り乱して息を切らせて駆け込んで来たのは、今、小石川で海華に付き添っているはずの志狼だった。


 「志狼!? お前、どうしてここに……」


 「旦那様……! 海華が!」


 荒い息の下、切羽詰まった様子の彼から出た『海華』の名前に、桐野は最早ぐったりと動かない羽山を無我夢中で殴り付ける朱王の襟首をひっ掴み、自分の方へ思い切り引き摺り倒した。


 「いい加減にせぬかっ! お前が今やることは、こ奴を殺めることではないわっっ!」


 轟く雷鳴に似た桐野の叫びに、ぴたりと朱王の動きが止まる。

そんな彼の前にしゃがみ込んだ志狼は、彼の血が滲み乱れた胸ぐらをきつく掴み上げた。


 「朱王さん、早く小石川に行けっ! 海華の息が弱くなってる。直ぐにあんたを呼んでこいと、医者が……!」


 悲痛な響きが混じる志狼の言葉を聞いた途端、朱王は息を飲み、顔からみるみるうちに血の気が引いていく。

血だらけの両手は、引き千切らんばかりに目の前に立つ志狼の着物を握り締めていた。


 「息が、弱く……!?」


 声を震わせ低く呻く朱王の瞳が絶望一色に塗り潰される。

悔しそうに唇を噛み締めた志狼は、『容態が急変したんだ』とだけ、言葉をこぼした。

その途端、愕然とした面持ちで志狼の前に座り込む朱王の背後から、ぎゃははははっ!と狂ったような引き攣り笑いが響き渡る。

耳障りなその嘲笑に、土間に座り込む二人の顔は一瞬で怒りに歪んだ。


 「ざまぁみやがれっ! 全部てめぇのせいなんだ! 大人しく競作から手を引けば……妹は死なずにすんだのになぁ!?」


 その場にいた全員の神経を逆撫でする台詞は、朱王に強か殴られ顔面を血で染め、子供のように手足をばたつかせながら、土間で笑い転げる羽山の口から発せられたものだった。


 「てめぇのせいだ! ざまぁみやがれ! 豪勢に百両の葬式でも挙げて……」


 「やかましいっ! 黙りやがれ!」


 腫れ上がった唇から次々飛び出す罵詈雑言に耐え切れず、朱王が再び羽山へ殴り掛かろうとした瞬間だった。

彼の身体を突き飛ばした志狼が、歪んだ羽山の鼻面へ強烈な一撃を叩き込んだのだ。

ぐぎっ、と嫌な衝撃音と共に、彼の鼻が妙な形にへこむ。

白目を剥き、声にならない悲鳴を上げて鼻を押さえて転げ回る羽山の脇腹を、素早く立ち上がった志狼が骨も折れろとばかりに力一杯蹴り飛ばした。


 「悪りぃなぁ、鼻、折れちまったか? でも、心配するな。人間その程度じゃ、死にゃあしねぇからよ。 ……何やってんだ朱王さん、 いつまでもこんな大馬鹿野郎を構ってねぇで、早く海華んとこ行け」


 射抜くように鋭い目付きを、泣き喚く羽山に投げる志狼の口からぞっとする程に冷たい声色が漏れる。

誰も羽山を助ける者はおらずまた、 志狼を止める者もいなかった。

唖然呆然と志狼 を見上げる朱王へ、『早く行けっ!!』と怒号混じりに志狼が叫ぶ。


 何も言葉を発せぬまま、弾かれるように立ち上がった朱王は脱兎の如く土煙を巻き上げて海華の待つ小石川へと駆け出していった。





 足を縺れさせ、息を切らせて療養所に飛び込んだ朱王を最初に出迎えたのは、真っ赤に泣き腫らした目をした雪乃だった。

修一郎の妻である彼女は、志狼と交代で海華の面倒を見ていてくれたのだ。

大きな瞳から今にも大粒の涙をこぼしそうな彼女は、『先生がお待ちですよ』そう声を詰まらせ呟く。

きっと、朱王も彼女と同じ表情をしているのだろう。

ただ無言で頷いた後、海華が寝かされている部屋へ走る。


 足音も荒く廊下を駆け抜け、勢いよく開いた障子の向こうには、沈痛な面持ちをした清蘭、そして紙のように青白い顔をして布団に横たわる包帯だらけの海華の姿があった。


 「せん、せ、い……?」


 「朱王さん! ……どうぞ、こちらへ。手を、握ってあげて下さい」


 沈痛な表情で静かに腰を上げる清蘭。

飛び付くように妹の側に駆け寄った朱王は、布団の中から痣と瘡蓋かさぶただらけの小さな手を引き出し、 しっかり両手に包み込む。

反射的な反応なのだろう、海華の手が弱々しく兄の手を握り返した。

いくら名前を呼んでも、閉じられた青白い瞼は開かない。

握り締めた手は氷のように冷たく、聞こえる呼吸は途切れ途切れ……。

べったりと紫色の痣を張り付かせた頬を震える手のひらで撫でた瞬間、朱王の目尻から透明な雫が一つ、音も無く滑り落ちた……。


 「海華……仕事、今終わったよ」


 頬に流れる涙を乱暴に拭い、朱王は死の淵に佇む妹へ静かに語りかける。

彼の後ろに座する 清蘭は取り乱すことも泣き叫ぶこともしない朱王の姿を、ただただ悲痛な表情のまま見詰めていた。


 「お勝さんな、俺の人形選んでくれた。今まで放っておいて、悪かったよ……。迎えにきたんだ、今から一緒に帰ろう」


 引き攣ったぎこちない笑みを浮かべる朱王の瞳からは止めどなく暖かい雫が転がり、海華の青白い頬を濡らす。

開け放された障子、中庭に面する廊下には、いつの間にか両手で顔を覆い小刻みに肩を震わす雪乃と真っ赤に充血した目を瞬かせるお藤が、並び座っていた。

やがて、玄関の辺りからばたばたと騒がしい下駄の音が響く。

それは一人ではなく、かなりの人数だ。

しかし、今の朱王はそんなことすら気付かない。

今、彼の世界には、彼の目には妹一人だけが映っているのだ。


 「仕事が済んだら、着物買ってやるって約束したよな? ……俺は、お前の気に入る柄はわからないから……だから、お前が好きな物を選んでくれ、古着じゃなくて新しいやつ、うんと上等なやつ、買ってやるから、ッッ……!」


 涙に咽び、強く強く手を握り、包帯に包まれた額に、痣の浮かぶ顔に頬擦りする。

それでも海華は薄い瞼を開かない。

徐々に弱くなる息、 血の気の失せる唇……。

どたどたと廊下を震わせ走り込んで来たのは、木村屋から直接駆け付けたのだろう桐野と都筑、高橋、そして志狼の四人。

血相を変えて廊下を走る彼らは、障子の向こう、妹に覆い被さるように泣きじゃくる朱王の姿を一目見るなり全てを覚ったのか、愕然とした様子でお藤の横に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。


 「海華……約束守らせてくれ、頼むから、目を開けて……俺だけ残してくなんて、そんな意地悪しないでくれ……!」


 痩せてしまった身体を抱き起こし、きつく胸に抱いて号泣する朱王。

彼の慟哭だけが響く部屋、 海華の乾いた唇から、ふっ、と微かな吐息が漏れる。

朱王がそれを感じた瞬間、離さないとばかりに握り締めていた手から、ふわりと力が抜けていく。

涙を一杯に溜めた彼の目が、張り裂けんばかりに見開かれた。


 「み、は……な? そん、な……嫌だ……」


 無意識に呟かれた台詞。

戦慄く腕の中で静かに眠る妹を凝視する朱王の背中を、誰一人として直視出来ない。

真っ青な顔色の高橋は、腰を抜かしたように、力無く廊下へへたり込んでいた。


 『駄目だったのか……』そう苦々しげに低く呻く志狼は、目頭を押さえ完全に朱王へ背を向けてしまう。

ここに充満している悲しみと悔しさは、それはこの場にいる全員を押し潰すのに充分たるものだった。


 「……海華さんは、頑張りました。お力になれず、申し訳ありません」


 声を詰まらせる清蘭は、そう静かに呟いて朱王の背中へ深々と一礼する。

しかし、朱王は泣くことも放棄してしまったのか、放心状態のまま、掠れ声で妹の名を幾度も幾度も呼びながら、彼女の冷たい頬を撫で続けた。


 啜り泣きだけが広がる室内。

骨も砕けよとばかりに、朱王が妹の身体をきつくきつく抱き締める。

その白く痩せた首筋へ新たな涙が数滴の水玉となり、皺の寄る寝間着の襟へ吸い込まれていった。

ぼろぼろ大粒の涙を流す朱王が妹の首筋に顔を埋めた、その時だった。

力無く垂れていた彼女の手が、ぴくっ! と小さく痙攣を起こす。


 『ごほっ』と湿った咳が青く変わり始めた妹の唇から飛び出す。

途端、朱王は信じられないといった面持ちで、涙で汚れた顔を勢い良く跳ね上げた。

彼の腕の中で海華は眉根を寄せ、顔を歪ませて苦しそうに激しく咳き込む。

時が止まっていた室内、そして廊下は一斉に歓喜と驚愕の入り交じる叫びで埋め尽くされた。


 「海華……っ! 先生っ! 先生、海華が!」


 「早くそこへ寝かせてっ! お藤! 朱王さんを外へ……」


 一気に慌ただしくなる室内から朱王はお藤の手で、あれよあれよという間に廊下へ押し出される。

海華と清蘭、そしてお藤だけが中へ、ぴしゃりと閉め切られた障子の前で朱王はへなへ なとへたり込んだ。

最早悲しいのか嬉しいのかわからない。

ただただ号泣する彼の周りで、『よかったな!』 『きっと助かる!』そう激励の言葉を浴びせかける桐野や高橋達も、目を真っ赤に充血させながら、泣き笑いの表情を浮かべている。


 嬉し涙に咽ぶ男達、その中に混じり、いち速く行動を起こしたのは、泣き濡れた顔を歓喜に染めた雪乃だった。

『主人に伝えて参ります』そう一言残し、彼女は足早にその場を去り、残された者らは清蘭が出てくるのを今か今かと首を長くして待ちわびている。

やがて純白の障子が音も無く開き、中から出て来た清蘭の顔を見た瞬間、朱王は目尻から新たな涙をこぼした。


 清蘭の顔は、今まで見たことも無いくらい柔和な笑みを湛えていたのだ。


 「申し訳ない、どうやら私の早とちりでした。海華さん、『頑張った』のではなく、『頑張って』いてくれました」


 照れ臭そうに白く変わり始めた頭を掻く清蘭。

やっと、朱王の顔に悲しみではなく、喜びに歪む。


 「せん、せい……それじゃあ、海華は……」


 「目を覚ましましたよ。もう大丈夫です。中で、声を掛けてあげて下さい」


 『ありがとうございます!』一際大きな、未だ涙声で叫んだ朱王は冷たい廊下へ額を擦り付ける。

そして、そのまま転がるように室内へと飛び込んで行った。


 「海華……海華っ! ああ……良かった! 生きてたんだな! 本当に、本当に良かった、っ! お前……心配したんだぞっ!」


 室内から響くのは、朱王らしからぬ感情を剥き出しにした、嬉しさを爆発させた叫び。

良かった、良かったと何度も繰り返す彼の声を聞いていた高橋と都筑は、思わず貰い泣き。

その傍らで、ほっと胸を撫で下ろす志狼の耳許に、低い桐野の声が届く。


 「じきにお奉行も駆け付けてくるだろう。それまで、あの二人を頼む」


 「承知致しました。これから、旦那様は……?」


 このまま奉行所へ帰るのか、そう思っていた志狼へ、桐野はにやりと意味深な笑みを投げる。


 「羽山の馬鹿息子を締め上げてやらねばなるまい。そうだ、朱王に落ち着いたら奉行所へ来るよう伝えてくれ」


 朱王を奉行所へ? 主が何をしたいのかさっぱりわからぬまま、志狼は『はい』と小さく頭を下げ、未だ喜びの叫びが止まない室内へちらりと視線を投げていた。




 桐野の言葉通り、その後しばらくして、赤鬼のように真っ赤な顔をした修一郎が、今にも泣き出さんばかりの面持ちで療養所へ飛び込んできた。

その頃には、意識朦朧としていた海華も一言二言話せるまでになっていたが、それからが大騒ぎだ。


 少し朱王と二人だけに、と言う雪乃の言葉を完璧なまでに無視した彼は、海華のいる部屋に駆け込むなり、彼女を抱き上げ、涙に咽びながら『良かった、良かった』と絶叫する始末。

力一杯抱き締められ、海華の傷付いた身体は痛みという悲鳴を上げる。

清蘭と朱王、そして志狼の三人がかりで慌てて二人を引き剥がし、修一郎は部屋の片隅で雪乃にたっぷり説教を喰らうはめとなったのだ。


 仕事を放り出してくるとは何事だ、柳眉を逆立てる雪乃の言葉は最もだが、それでも海華の身を案じて駆け付けてくれたことを朱王は心から嬉しく、また感謝もしていた。

それは、再び布団へ寝かされた海華も同じだろう。


 しゅんと肩を落として妻に説教される修一郎をすまなそうな眼差しで見詰める朱王へ、志狼は桐野からの言伝てを、小さく耳打ちする。

しばし不思議そうな表情をしていた朱王だが、その日の晩、早速桐野を訪ねて奉行所へと足を向けた。




 さて、翌日。

夜遅く奉行所から戻った朱王は、日が昇ると共に小石川へと向かう。

穏やかな春の日差しを全身に浴びる彼の顔は、とても晴れ晴れとしたものだ。

海華は頭の傷が良くなるまで、念のため療養所に置いてもらうことにしたのだが、見舞いに出向く度に『早く帰りたい』と駄々をこねる。

元より活発な性格の彼女にとって、日がな一日横になっているのは、死ぬほど退屈で仕方無いのだろう。


 今日は何と言って宥めよう、そんな事を考えながら療養所の奥、妹の部屋へ来た朱王。

がらりと障子を開け放つと、そこには布団から身を起こし、まだ痣の消えない顔に柔らかな笑みを浮かべる海華の姿があった。


 「兄様、おはよう」


 「おはよう……お前、もう起きても平気なのか?」


 微かに眉根をひそめ、案じるような眼差しを投げてくる兄へ海華は、こくりと頷く。


 「大丈夫よ。先生がいい、って仰ってくれたの。頭もね、そんなに痛くないのよ。それとお藤さんがね、後からお風呂にいれてくれるって」


 朗らかに笑い、ぺらぺらよく喋る彼女を前にする朱王の表情は、ここ何日かのうちで一番柔いだものだった。

何気無い会話が、日常が、こんなにもいとおしく尊いものだと改めて気付かされる。

きっと、今妹が生きているのは、楽しそうに喋っているのは、奇跡に近いものなのだろう。


 「……しばらく風呂はいってないから、さっぱりするぞ。傷が良くなれば、すぐに長屋へ帰れる。好きなだけ湯屋にも連れて行ってやる。 ……着物も、買いに行くんだろう?」


 傍らに座る兄の言葉に、海華は右側に張り付く暗い紫色の痣へ手を当てる。

そろそろとその忌まわしい痕を撫でながら、彼女は小さく苦笑した。


 「着物はね、これが消えてからにするわ。頭の怪我も早く治すから。兄様、約束忘れないでね?」


 『忘れるか、馬鹿……』聞こえるか聞こえないかの声量で呟く朱王は、まるで照れ隠しのように、妹の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。

くすぐったそうに笑う海華。

そんな彼女の目の前で、閉め切られていた障子に黒い影が一つ写り込む。


 『邪魔するぜ!』と、やたら威勢の良い声と共に、白い光を透かす障子がガラリと開かれ、春の香りを纏った風が、朱王の髪を優しく揺らした。


 「おい死に損ない! まだ生きてるか?」


 いささか不謹慎な台詞と共に障子の向こうから現れた志狼へ、海華はパンパンに頬を膨らませて、じろりと睨むような視線を投げ付けた。


 「なによ、悪態つきにきたの? それともお見舞い?」


 「両方だな。ほら、腹は平気なんだろ?」


 にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべた彼の手から、竹皮の小さな包みがぽんと放られる。

それを受け取り、早速開けば、中からは艶々と光る串団子が五本。

その瞬間海華の膨れっ面はどこかへ吹き飛んだ。


 『ありがとう!』と一声叫んだかと思えば、もうその口は団子を一杯に頬張っている。

つい先日まで死の淵をさ迷っていた怪我人とは思えぬ勢いで団子を平らげていく妹を苦笑しながら眺める朱王の隣に腰を下ろした志狼は、指先でちょんちょんちょん、と彼の腕をつついた。


 「朱王さん、手、大丈夫か? 旦那様から聞いたが、昨夜は派手にやらかしたみたいじゃないか」


 「ん!? あ、あぁ、何ともない。大丈夫だ」


 志狼の視線が向けられる右手をそそくさと左手で隠す朱王の視線が宙を泳ぐ。

昨夜、奉行所に呼ばれた彼は桐野に罪人を一時的に放り込んでいる場所、つまり牢へ連れて行かれたのだ。

『この中に海華を痛めつけた輩がいる』そう言って、桐野は牢番から借りた鍵で牢の扉を開けてくれた。『修一郎に話はつけている。ただし、殺すなよ』その一言で、朱王には全てがわかった。

桐野に礼を述べた次の瞬間に、彼は牢へ飛び込んで妹の仇をその拳で討ったのだ。


 「海華には言わないでくれ」


 志狼の耳許で小さく小さく呟けば、彼は白い歯を見せたまま、にやりと笑って頷く。

そんな 二人の隣では、早くも残り一串となった団子に海華がかぶりついている最中だった。


 「おい、少し食い過ぎじゃないのか?」


 「大丈夫よ。ずっと食べてなかったかしらね、もうお腹空いて空いて仕方無いの」


 兄の言葉も意に返さない海華に志狼も少々呆れ顔。

その時、『失礼します』という声と共に、障子に小柄な女の影が二つ映る。

その一つ は声からしてお藤だとわかったが、もう一つは 誰なのか、三人にはわからなかった。


 「お客様がいらしてますよ」


 「お勝です! 今、よろしいでしょうか?」


 微かに上擦った声に、朱王と海華は思わず顔を見合せた。


 「お勝、さん……!? どうぞ! どうぞ、お入りになって……」


 食べ終わった団子の串を放り投げ、慌てて寝間着の襟元を直す彼女の目の前で、どん! と障子が跳ね返らんばかりの勢いで開け放たれ、萌木色の着物が飛び込んできた。


 「海華さんっっ! 良かった助かって! もう大丈夫なのねっっ!? ちょっと貴方、退いてちょうだい!」


 「あ!? ちょ……うおぉ!?」


 喜びを爆発させ、ばたばた駆け寄ってきた彼女に身体でぶつかられた志狼がよろける。

唖然とした表情を浮かべる男二人の前で、お勝は海華の手を力一杯握りながら、興奮気味に『助かって良かった、本当に心配した』と目を潤ませ喋り立て続けた。


 「競作なんか頼んだばっかりに……こんな大怪我させちゃって、ごめんなさい……」


 しゅんと項垂れ、涙声で呟くお勝の手を、傷だらけになった海華の手が力強く握り返す。

痣 の付いた顔に微かな笑みを浮かべた彼女は、ふるふると首を横に振った。


 「お勝さんのせいなんかじゃありません。みんな、あの羽山が悪いんです。だから気にしないで下さい」


 「ありがとう……本当に、生きていてくれて良かった。でも、破落戸ごろつきに頼んで海華さんに酷いことすれば、朱王さんが競作から手を引くと思ったのかしらね、あの男……」


 許せないわ。そう憎々しげに呻くお勝の眉間に深い皺が寄せられる。

既に事件は瓦版によって公にされ、羽山の店は硬く門を閉ざしたままのようだ。

それは朱王の耳にも届いてはいたが、最早彼には羽山の家がどうなろうが、羽山自身がどうなろうが関係なかった。

海華が無事でいるだけで、それだけで充分だったのだ。


 にこやかに語り合う彼女らを前にする朱王の二の腕を、先ほどお勝に跳ね飛ばされた志狼が、ちょんちょんとつつく。

くるりと横を振り向いた彼へ顔を近付けた志狼はその耳許で小さく小さく囁いた。


 「おい、あの女が人形頼んだ奴なのか?」


 「ああ、そうだが……」


 「あれのどこがお嬢様なんだ、じゃじゃ馬じゃねぇか」


 彼の言葉に思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、朱王は無言で頷く。

苦笑いして顔を見合わせる二人の前では、ぺちゃくちゃと賑やかなお喋りに夢中になるじゃじゃ馬が二人。


 『怪我が治ったら、また二人で遊びに行きましょ』


 『今度は皆でお花見が……』


 『うちの店にも遊びに来てね』


 先日まで暗く冷たい死の影に覆われていた部屋に、ぱっと明るい花が咲く。

海華がここを出られるのは、まだまだ先のことだろう。

けらけら楽しそうに笑い転げる二人を見る朱王と志狼の顔にも知らず知らずに笑みが浮かぶ。


 競作から始まった一大事は、小石川の一室で無事に幕を下ろす。

障子から差し込む白い日の光が、朱王の黒髪と海華の包帯を目映いばかりに輝かせた。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ