第四話
涙に声を詰まらせ、ぽつりぽつりとお勝は語り出す。
無断で店を抜け出したこと、海華に無理を言って街中を遊び歩いていたこと、そして日が暮れてから海華に店まで送ってもらったこと……。
彼女は、その帰り道で襲われたのだ。
「店の人に頼んで海華さんを送らせればよかったのに……あたしそのまま帰してしまって……ごめんなさい、全部、全部あたしのせいなの」
流れる涙を手の甲で拭い、彼女は何度もごめんなさいと呟き、朱王へ深々と頭を下げる。
終始無言でその話を聞いていた彼は、小さく頭を振った。
「……お勝様のせいではありません。悪いのは、海華を襲った奴らです。どうか、顔を上げて下さい」
その言葉にそろそろと顔を上げたお勝は、微かな笑みを浮かべる朱王をじっと見詰める。
やがて意を決したように、彼女は小さく唇を開いた。
「朱王さん、こんな時に……海華さんが大変な時に話すことじゃないのだけれど、ごめんなさい、どうしても話しておきたいの。あたしの、人形のことよ」
あたしの人形、そう言われた朱王は、はっとした様子でお勝を見詰め返す。
そう、彼は今、競作と言う名の仕事を受けている。
昨夜からの大騒ぎで失念していたが、人形を納める期日は迫っていた。
しかし、とても人形を作り続ける気力は無い。
何しろ海華が生きるか死ぬかの状態なのだから。
お勝には悪いが、断ろう。そう彼が決めた時だった。
「お願いがあるの。あたしの人形、作って下さい。こんな時になにを、って怒られるかもしれないけれど……どうしても朱王さんに作ってほしいの」
ささくれ立った畳にきちんと手をつき、真剣な眼差しを向けてくる彼女に、朱王は戸惑いを隠し切れないでいた。
「どうして、私に人形を作らせようと……確かに一度引き受けた仕事です。ですが、私以外にも良い人形を作る人形師は沢山……」
「違うわ! 仕事とか、そんなんじゃないの! あたし悔しいのよ!」
泣き腫らした顔を真っ赤に上気させ、彼女は突然大声を張り上げる。
未だ涙の残る瞳は、怒りに燃えていた。
なぜいきなり激昂したのか、訳がわからないといった面持ちの朱王へ、お勝は今朝、羽山が大勢の弟子を引き連れ店を訪れたことを話し出す。
どうやら、仮彫りを終えた人形を見せに来たらしい。
あんな失礼な男とは会いたくないとお勝は席を外したが、羽山が帰る際、玄関先で弟子らと話している内容を聞いてしまったのだ。
「あいつ、笑いながら言ってたわ。朱王ん所は、そのうち弔いの準備で忙しくなる、とても人形なんざ造る余裕なんか無いだろう、っ て……! あたし悔しいのよ! 海華さんはまだ死んじゃいないのに!」
新たな涙をあふれさせ、お勝は握り拳でバンバンと激しく畳を打ち付ける。
舞い上がった埃が射し込む光にきらきら煌めいた。
一瞬、朱王の頭が真っ白になる。
それは、身体中から沸き上がる激しい怒りの為だった。
「海華さん言ってたわ! 兄様は何があってもあたしやお爺様が納得する人形を作るって! だからお願い朱王さん! あたしの人形を作って!」
ほとんど絶叫に近い叫びを迸らせ、彼女はぎらつく瞳を朱王へ向ける。
震えが走るほどの怒りを感じながら彼は思い切り歯を食い縛り、無意識のうちに大きく頷いていた。
翌日から、朱王は昼間は小石川で海華に付き添い、夜は長屋で人形を作る、そんな生活を送ることとなる。
毎日ほとんど徹夜状態、寝食忘れて妹の看病と仕事に没頭する彼は頬が痩け、一回り近く痩せた彼はまさに鬼気迫る、の表現がぴったりだ。
あまり無理をするな、と言う周りの労りも省みない朱王だったがこれは全て自分がいない間、海華の様子を見てくれる志狼や雪乃の協力があるからこそ出来たこと。
競作を辞退しない、そう人形問屋で宣言した彼に他の人形師らは驚愕し、朱王に対する評判は、はっきりと二極化した。
一つは『何があっても仕事を完徹する、職人の鑑』
そしてもう一つは『妹が死にかけているにも関わらず、金になる仕事を優先するとんでもない金の亡者』
だが、今の朱王には他人の評価など構っている余裕はない。
海華の、そしてお勝の気持ちを裏切りたくなかったのだ。
自分は人形師、今やらねばならないのは、お勝の人形を完成させること、死の淵をさ迷う妹の側で泣いていることではない。
そんな彼の元には、懇意にしている人形師仲間が次々と長屋を訪れ、見舞金を置いていったり励ましの言葉を掛けていく。
そんな中で、彼はある人形師から気になる話を耳にした。
あの羽山のことである。
何でも、あちらこちらで聞くに耐えない朱王の悪口を言いふらしていると言うのだ。
『朱王は金の亡者』、『人々の同情をかって、 競作を有利に進めようてしている』等々……。
中でも朱王が気になったのは、『海華は朱王の身代わりになって、ヤクザ者に襲われた』というものだ。
海華が誰に襲われたのかは瓦版にも書かれていなかったし、何より桐野らの調べでもそこまではわかっていない。
なぜ羽山の口から『ヤクザ者』の言葉が出たのか、朱王はずっと気になっていたのだ。
海華が襲われてから四日目、この日も夕方近くに小石川から戻った朱王は、長屋の女房らが用意してくれた夕食を掻き込み、人形作りに没頭していた。
辺りに夜の帳が降りた頃、彼の部屋を突然志狼が訪れる。
もしや、海華の容態が急変したのでは……、彼の姿を目にした途端朱王の心臓が早鐘を打ち出した。
「遅くにすまないな、ちょっと邪魔するぜ」
「あ、ああ。志狼さん、海華に何か……」
顔を強張らせる朱王に、志狼は慌てて首を振る。
「いやいや、違う。悪い報せじゃねぇんだ。実は、さっきお藤さんが重湯を海華の口にちょいとばかり入れたんだ。どうやら飲み込んだらしいぜ。これでしばらくもつみたいだとよ」
つまり、最低限の栄養は与えられる。
それを聞いた朱王は、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「そうか……良かった! 本当に良かった……!」
「ああ。水もな、綿に吸わせたて唇を湿らせてる。あいつ、絶対大丈夫だ。……それと、話は変わるんだがな」
作業机の前に座する朱王、その隣に腰を下ろした志狼は、声を抑えて静かに口を開く。
ゆらゆら揺れる行灯の灯りが、志狼の浅黒い顔に濃い陰影を作り上げた。
「海華が襲われるところを、見ていた奴がいた。二八蕎麦の屋台を引いてる男なんだ。そいつが言うには、下手人は二人、どうも堅気じゃなさそうだ。格好からして破落戸か、ヤクザ者らしい」
ヤクザ者……その言葉を聞いた瞬間、朱王の眉間に深い深い皺が刻まれる。
無意識のうちに、彼は志狼へと身を乗り出していた。
「志狼さん、悪いんだが……少し気になる奴がいるんだ。桐野様に調べて頂きたいと伝えてくれないか?」
真剣な眼差しを向けてくる彼に志狼は、きつく唇を噛み締め無言で頷く。
「すまないな。俺は……奴に顔が知られてる。下手に動けないんだ」
「そういう訳ならお安い御用だぜ。で? その気になる輩ってのはどんな奴だ?」
声を潜め、朱王は羽山のことを詳しく話し出す。
志狼が部屋を後にしたのは、天に浮かぶ月が大きく西に傾き出した頃だった。
決戦の時が来た。
ぎらつく夕日が江戸市中を橙色に染め上げる夕方、競作に参加していた人形師一同が人形問屋、木村屋へ精根込めて作り上げた人形を持参し、ぞくぞくと集まる。
持ち寄られた作品は早速店内へ並べられ、広い土間では、それぞれの健闘を称えあう人形師らの姿があちこちで見られ、さながら行楽地を思わせる賑わいだ。
ずらりと並ぶ華やかな作品の中でも一際異彩を放つのはやはり羽山の作り上げた人形だった。
金銀珊瑚で精巧に作られた簪、高価な錦織の布地にこれでもかと金や銀、艶やかな絹糸で刺さ れた鴛鴦の刺繍は、今にも動き出すかと思うほど生き生きと、それは見事な物だ。
どの作品よりもきらびやかに、見る者の目を引き付けるそれを目にしたある年若い人形師は感嘆の溜め息を漏らし、またある者は悔しげに小さく舌打ちをする。
誰の目から見ても、派手好きな金五郎が選ぶのは羽山の作品だとわかるのだ。
当の羽山は、土間の前方に一人ぽつんと立ち、込み上げる笑いを抑え切れない様子で、依頼主である金五郎が訪れるのを今か今かと待っている。
細められた一重の目は、じっと自らが作り上げた作品へと向けられていた。
「おい、朱王さんはまだ来ねぇのか?」
矢鱈とにやける羽山を忌々しげに見ながら、ある人形師が白髪を後ろで束ねた同僚に耳打ちする。
かさついた肌に数多の皺を刻ませる年老いた人形師は、ちらちらと店の玄関へ視線を投げつつ、小さく首を横に振った。
「まだ、みてぇだな。もうすぐ金五郎の旦那が来るってぇのに……。やっぱり間に合わなかったんじゃ……」
「んなわけあるか! 俺が昨日見に行った時にゃ、粗方終わったと言ってたんだ。まさか、妹に何かあったとか……」
「かもしれねぇ。約束違える人だとは思いたくはねぇが……たった一人の身内が死にかけてんだ。続けるってのが、最初から無理な話しだったのかもな」
溜め息混じりに呟かれた台詞を耳にした途端、がっくりと若い男が肩を落とす。
その背後では、木村屋の主が金五郎を出迎える為いそいそと店の暖簾をくぐり、表へ出て行くところだ。
「結局、羽山の野郎に決まるのかよ……」
「仕方あるめぇ。あの人形に比べりゃあ、俺達のなんざぁ、どこの田舎娘を作ったのかと言われるぜ? 諦めるこったな」
項垂れる男を慰めるように、白髪の男が、ぽんぽん肩を叩いたその時だった。
「藤代屋様、到着なされました!!」
そう一声叫び声が上がったかと思うと、満面の笑みを浮かべた主が、狸っ腹を揺らし、同じくにこにこ笑みを浮かべる金五郎と共に店内へ入ってくる。
その後ろには、以前と同じく頭から足の先まで綺麗に着飾ったお勝が、緊張に顔を強張らせ静々と歩いていた。
「これはこれは、皆さんお揃いですな? どうです、作品は無事出来上がりましたかな?」
身体中の贅肉を揺らして豪快に笑う金五郎へ、その場にいた人形師らが一斉に深々と一礼する。
それを前にしたお勝は忙しなく視線を動かして、い並ぶ者らの中に朱王の姿を探していた。
しかし、そこに彼の姿は無い。
それがわかった途端、彼女は泣きたいのを堪えるように、紅を引いた唇を強く結んでいた。
「じゃあお勝、早速皆様の人形を拝見しようか」
にこにこと破顔した金五郎が表情固くじっと前を見詰めるお勝の肩を軽く叩く。
びくりと一度身震いした彼女は、横真一文字に結んでいた紅い唇を小さく戦慄かせた。
「お爺様……まだ、朱王さんが来ておりません。後少し、少しだけ待って下さい」
「なに? 朱王さんが?」
肉に半分埋もれた目を瞬かせてぐるりとその場にいる人形師一同を見回した金五郎。
そんな彼の横で、木村屋の主が困りきった面持ちで金五郎へ声を掛ける。
「申し訳ありません、朱王さんは、その……。一応は作品を出すと申されていたのですが……」
「妹が大怪我したんですよ」
突然飛んだ冷たい声色。
全員が一斉にその声の出所へ視線を向ける。
その先には、にや、と小さく口角をつり上げた羽山の姿があった。
「夜道で襲われたらしくて、可哀想に。死にかけているらしいですね」
『可哀想』そんなことは更々思っていないのだろう、彼はぺらぺらと饒舌に朱王がなぜ姿を見せないのかを語りだす。
その語りを聞いている一部の者は苦々しい表情で彼を睨み付けていたが、当の本人はそんなもの一向にお構い無しだ。
そのうち、話はまるで海華が既に絶命しており、朱王は弔いのためここには来られない、と言わんばかりの内容に変化した。
にやける羽山とは対照的に、お勝はぎりぎり柳眉を逆立て、白粉を塗った頬は怒りのために、ほんのりと赤く染まり出す。
「そんな訳でございますので、朱王さんをいくら待っても……」
ぺこりと金五郎に頭を下げる彼の背後から、ちっ! と忌々しげな舌打ちの音が飛ぶ。
それは金五郎の耳には入らなかったらしく、痛ましげな表情を浮かべる老人は僅かに身を屈め、宥めるように孫娘の顔を覗き込んだ。
「お勝や、そういう訳だから、もう朱王さんは来ないだろう。あまり皆さんをお待たせしても悪いから、な?」
「でも……! お爺様お願いします、もう少しだけ」
待って下さい、と詰め寄るお勝に、とうとう金五郎は白く変わった眉を寄せた。
「そう我儘を言うものでない。これ以上儂を困らせないで……」
金五郎の言葉が終わるか終わらないかの時だった。
風に靡く暖簾、その遥か彼方からガガガガガッッ! と固い地面を激しく駆け抜ける荒馬の如き響きが、土間に集まる全員の鼓膜を震わせる。
はっ、とお勝が伏せていた顔を跳ね上げた刹那、暖簾を弾き飛ばさんばかりの勢いで、長髪をたなびかせた黒い人影が、店内へと飛び込んできたのだ。
「おっ!? 朱王さんっ!」
誰かが発した驚愕の叫びに、土間全体にどよめきが広がる。
紫色の四角い風呂敷包みをしっかりと抱え、身体全体を使って荒い息をつくスラリと長身の男、それはお勝が待ちに待った人形師、朱王その人だった。
「申し訳、ありません……遅くなりました……」
顔から首筋にかけて滝のように流れる汗が、彼の纏う炭色の着流しを暗く染める。
今にも倒れてしまいそうによろつく彼を、周りにいる人形師らが、しっかりと支えた。
ゆっくり、ゆっくり顔をこちらへ向ける朱王。
その窶れ、疲れ果てた面立ちに垣間見えた小さな笑みに気付いた途端、お勝の丸い瞳にはっきりと歓喜の色が浮かぶ。
しかし、ざわめきに包まれた土間の一角では、ある一人の男だけが驚きと僅かな憎しみを込めた視線を、金五郎へ小さく会釈する朱王へと向けている。
「朱王、さん! 貴方、妹さんは……」
突然疾風の如く駆け込んできた朱王に、木村屋の主が呆気に取られた様子で声を掛ける。
何とか荒い息を整えた朱王は、軽く唇の端を上げたまま、小さく頷いた。
「今は……落ち着いています。承りました人形を、お持ち致しました」
顔に張り付いた髪をばさりと跳ね退け、彼は風呂敷包みを微かに震える手でほどき出す。
上がり框に置かれた包みが音も無くほどかれ、中から白木の木箱が現れる。
彼の手で蓋が開かれ、その中から姿を見せた人形に、その場にいた者の視線が集中した。
「これが、私の作品です」
しんとした静寂へ響く朱王の声。
お勝の濡れたように光る瞳が、小さく揺れた。
箱から出された人形は、きらびやかな簪もさしてはおらず、豪華な振袖も纏ってはいない。
簡素な茜の着物を着た、薄化粧の少女が弾けんばかりの笑みを浮かべ、一匹の猫を胸に抱き締めている。
着物の裾から覗く白く伸びやかな足、綺麗な弓形にしなる背中、薄い桃色に染まるすべらかな頬、華奢な腕に抱かれた茶色の子猫は幸せそうに金色の瞳を細め、今にも甘えて喉を鳴らす低い音まで聞こえてきそうなくらい、緻密に作り込まれている。
それは、この場にあるどの人形よりも地味で、どの人形よりも、生き生きとした躍動感のあるものだった。
誰も一言も言葉を発さない。 じっと、じっとその人形を見詰めるばかり。
耳が痛くなるほどの静けさを破ったのは、ある男の下卑た高笑いだった。
皆の顔が、そして視線が一斉に笑いの出所へ集中する。
腹を抱え、目尻には涙まで浮かべて笑い転げていたのは、誰でもない羽山だった。
「朱王さん! こりゃ何の冗談だい? 一体……一体どこの子守り女の人形だ?」
ひぃひぃと息を切らせ、涙を手の甲で拭う羽山は、赤く上気した顔をじっとこちらを睨む朱王へと向けた。
「冗談なんかじゃない。これが俺が見たお嬢様の一番綺麗な表情だ」
きっぱり言い切る朱王を、羽山はさも馬鹿にするように、ふっ、と鼻で笑う。
「こんな襤褸着た女がお嬢様? 一番綺麗な表情? あんたの目は節穴か? 江戸一番の人形師ってのは、ただの出鱈目か? 大体、こんなみすぼらしい木偶を納めるなんざ、旦那様にもお嬢様にも失礼じゃあ……」
「あたし、これにするわ! 」
甲高い女の歓声が、羽山の憎まれ口を遮る。
唖然とした表情の金五郎と木村屋の主の前で、喜びを爆発させたお勝は朱王の人形に飛び付き、ぎゅうと胸にい抱き締めた。
「これがいいわ! これがあたしよ! やっぱり朱王さんはわかってくれた!」
幼子のようにきゃっきゃはしゃぐ孫娘の肩を、金五郎は戸惑いがちに叩く。
ぱっとこちらを振り向いた彼女の瞳は、星屑を散らしたように輝いていた。
「お、勝や。お前本当に……その人形でいいのかい? 他の人形を見てから決めても……」
「いいえお爺様、あたしこの人形がいいんです。これじゃなきゃ嫌!」
『朱王さん、ありがとう!』そう叫び、彼女は輝く笑みを朱王に向ける。
つられて小さく微笑んだ刹那、朱王の背後から、『ふざけるんじゃねぇやっ!』と鼓膜を打ち破らんばかりの怒号が飛ぶ。
あまりの急な展開にざわつき始めた店内。
赤鬼にも似た凄まじい形相で歯を剥き出す羽山と、真っ直ぐに彼を睨み返す朱王。
彼らの間で、目には見えない火花が激しく散っていた。
「寝惚けたことぬかすんじゃねぇっ! こんなガキの遊び程度の人形のどこが良いってんだっ!?」
突然態度を豹変させ、狂ったように怒鳴り散らす羽山の周囲からじりじり人が引いていく。
人形を抱き締めたお勝は、その顔に僅かな怯えの色を見せ、朱王の背後へ身を隠した。
その後ろでは、金五郎と木村屋の主が唖然とした様子で怒りに顔を紅潮させる羽山をただ凝視するばかり。
己に注がれる視線を跳ね退けんばかりの勢いで、羽山は更に罵声を張り上げた。
「朱王っ! てめぇ、お嬢さんに色目使いやがったなっ!? 俺は認めねぇ! こんな八百長絶対に認めねぇぞっ!」
その一言に、今まで言葉を失い完全なる傍観者になっていた金五郎のこめかみに、くっきりと青筋が浮かぶ。
周りにいた人形師らからも次々と羽山に対する非難の言葉が飛び交い始めた、その時だった。
『ふざけんじゃないわよっ!』
一際よく通る金切り声、喧騒を切り裂く叫びが朱王の背後にいたお勝の口から迸る。
朱王を押し退け羽山と対峙した彼女は、ぎりぎり柳眉を逆立てながら、髪に挿していた銀細工の簪を引きむしり、思い切り足元へと叩き付けた。
「朱王さんがあたしに色目使った!? 冗談じゃないわ! あたしはね、そんなモノにほいほい乗るほど頭も尻も軽くないわ! 目が節穴なのはあんたの方よ!」
鮮やかな着物の袖を振り乱し、ぎゃんぎゃんと叫ぶお勝の姿に、誰もがぽかんと口を半開きにさせる。
唯一顔色を変えないのは、剃刀の如き鋭い目付きで羽山を睨む朱王だけだった。
「あんた、一体誰の人形を作ったつもり!? この人形は誰なのよ!? 大体ね、あんたあたしに何て言った? やれ化粧をしろ、ほら笑え! あんたばバカじゃないの!? 面白くもないのにどうして笑わなきゃいけないの!? 化粧で隠さなきゃならないくらい、あたしの顔は酷いの!?」
癇癪を起こした子供のように激しく地団駄を踏み鳴らす彼女を止める者は誰一人としていない。
先程まで怒り狂っていた羽山までもか、呆然と立ち尽くしたままだった。
「朱王さんだけよ! いつものままでいい、無理に着飾らなくてもいい、自然にしていて下さいって、そう言ってくれたのは朱王さんだけ! 本当のあたしを見ていてくれたのは、朱王さんだけだったわ! だからこの人形を選んだのよっ!」
半ば絶叫に近い彼女の言葉。
気まずそうな面持ちで俯く人形師らで埋まる土間。
無惨に打ち棄てられた飾り簪が、荒い息をつき仁王門立ちになるお勝の足元でキラリと煌めく。
「あたしは……朱王さんの、この人形が、欲しいの」
呻くように呟く彼女の少しだけ大きく見える背中に向かい、朱王は、すっ、と一礼する。
彼がゆっくり顔を上げたと同時、『御免!』 と低めの声色と共に、黒い羽織を纏う侍三人が暖簾を勢いよく押しやり、下駄の音も荒く店内へ駆け込んできた。
『桐野様』そう朱王の唇が侍のうち、一人の名を小さく紡ぐ。
一様に険しい顔付きをした彼ら、桐野、都筑、高橋の三人は、ざわめき、戸惑いながらも慌てて頭を下げる人形師らをじろりと一瞥した。
「ここの主は誰だ?」
たっぷり威圧を含ませた声色で尋ねた桐野へ、顔を引き攣らせた木村屋の主がぺこぺこ頭を下げ、一歩前へ進み出る。
「私めが、ここの主人でこざいます……。お侍様、どのようなご用件で……」
「羽山という人形師がここにいると聞いた。 傀儡廻しの女が殺されかけた件で、話がある」
『羽山はどこだ?』桐野の薄めの唇から漏れる問いには、はっきりと怒りが込められている。
驚いたように彼らを見詰めていた朱王の目の前にいる羽山の顔からは、みるみるうちに血の気が引いていった。




