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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十二章 じゃじゃ馬人形
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第三話

 二人が店に着いた時、茜と紫が混ざりあう空には宵の明星が輝いていた。

この頃には通りを行く人の姿もまばらになり、店も暖簾を下ろし、ひっそりと静かなものだ。

お勝が姿を消したことで大騒ぎになっていないのは、彼女が残した書き置きのお陰だろうか。

一先ずほっと安堵の溜め息を漏らした海華は、 母屋の勝手口まで彼女を見送った。


 「それじゃあ、またね」


 「はい、お爺様によろしくお伝え下さいね」


 にこやかな笑みを浮かべてひらひら手を振るお勝にぺこりと頭を下げ、海華は踵を返す。

いつもより帰りが遅くなってしまった。

今頃兄は空きっ腹を抱えて自分の帰りを待っているだろう。

そんなことを考え、足早に帰路につく海華。

その彼女を追うように、二つの不気味な影は足音を忍ばせて間合いを詰めていく。


 早く帰らなければ、そんな気持ちとは裏腹、この日海華が兄の待つ長屋に戻ることはなかった……。





 朱王の住まう部屋、戸口上部の障子越しに、ぽっと小さな明かりが透ける。

室内では、行灯に明かりを灯した朱王が不機嫌そうな眼差しを戸口へ向けていた。

日が落ちてだいぶたつと言うのに海華が帰ってくる気配はない。

夕方から悲鳴を上げる胃袋は、きりきりと痛み出す始末だ。

一体どこまで行っているのだろうと小首を傾げながら、朱王は部屋の隅に置いていた古い提灯を手にした。


 海華が自分の食事も用意せず、夜の御神籤売りに行くなど考えられないし、今日は遅くなるとも聞いていない。

もしや、何かあったのでは、と嫌な事を考え始めると、もう居ても立ってもいられない。

妹の立ち回り先を探しに行くつもりで提灯に火を灯し、土間に降りた彼は静かに戸口を引き開ける。

濃紺にも濃い紫にも見える夜空には金の砂粒に似た星が瞬き、穏やかな春の風が髪を揺らす。


 まずは、いつも海華が立っている辻辺りに行ってみるか。

そう思いながら足を踏み出した朱王は、道の向こう、闇の帳が降りた通りを上下左右に激しく揺れながら瞬く、小さな光に気が付いた。

橙色に見えるその光は、間違いなく提灯の灯り。

次第に闇に慣れた目が捉えた物、それはふらふらになりながらも、こちらへ向かって突進してくる一人の小男の姿だった。


 ひぃひぃ、はぁはぁと荒い息遣いが聞こえるくらいになり、初めてそれが岡っ引きの留吉だとわかり、朱王は驚いたように目を見開いた。


 「留吉さん!」


 「お!? お、おぉぅ! 朱王さん! いや、丁度良かった! いや、てぃへんだ!」


 何やらよくわからない事を叫びながら、留吉は真っ赤に上気した顔からだらだら汗を垂れ流す。

ひどく慌てた様子の彼は、朱王の前で、つんのめるように足を止めた。


 「どうしたんですか、そんなに慌てて……。 私に何か……」


 「どうしたもこうしたもねぇよ! 海華ちゃんが……」


 背中を丸めごほごほ咳き込む彼の口から妹の名前が飛び出た途端、朱王の中にあった不安が猛烈な勢いで膨らんでいく。


 「妹は、まだ帰っていませんが…… 海華に何か、何かあったんですか?」


 「夜道で男に襲われて……大怪我だ! とにかく、早く小石川に行けっ!」


 唾を飛ばし、悲痛な面持ちで留吉がダミ声を張り上げる。

朱王の手から提灯が滑り落ち、乾いた冷たい地面で明るい炎を上げた。

ぱちぱち小さな音を立て燃え行くそれには目もくれず、朱王は無意識のうちに留吉を突飛ばし、土煙を巻き上げ脱兎の如くに走り出していた。


 息を切らし、足を縺れさせながら小石川に駆け付けた朱王。

転がるように玄関に飛び込んだ彼を最初に迎えたのは、眉間に深い皺を刻み、顔面を蒼白にさせた桐野だった。


 「きり……桐野、様……」


 冷や汗をだらだら垂れ流し唇を戦慄かせる朱王に、桐野はひどく難しい面持ちを向ける。


 「桐野様、海華……海華はどこですか? 夜道で襲われたと聞きました、海華はどこなんですか!?」


 何の言葉も発しない彼に掴み掛らんばかりの勢いですがり付き、朱王は渇いた喉から悲痛な叫びを迸らせる。

次の瞬間、桐野の口から出た台詞を耳にした彼は目の前が一気に暗くなるのを感じた。


 「よいか朱王、海華は、奥で手当てを受けている。……道で暴漢二人に殴られて、川に叩き落とされた。まだ目は醒まさんが、かなりの大怪我だ」


 「殴られて……川、に!? どうして……なぜ海華が、そんな目に」


 がくがく震える膝は、ともすれば崩れてしまいそうだ。

なぜ妹がそんな目に遇わなければならないのか、疑問ばかりが混乱した頭を駆け巡る。

桐野に支えられて上がり框に腰を下ろした刹那、どかっ! と凄まじい響きと共に玄関の引き戸が撥ね飛ばされ、鉄砲玉のような勢いで巨体が飛び込んできた。


 「修一郎様……!」


 「朱王っ! 海華はどこだっ! 桐野! お前も来ていたのか! 海華は!? 海華はどこにいるっ!?」


 張り裂けんばかりに目を見開き赤鬼の如くに顔を上気させた修一郎は、肩から黒い羽織をずり下げて、海華はどこだと半ば半狂乱で問い質す。

とにかく彼を落ち着かせ、無理矢理朱王の隣に座らせた桐野は、ひしゃげたかと思うほどに激しく叩き付けられた戸をぴたりと閉めた。


 「中に怪我人がいるのだ、少しは落ち着け!」


 「海華が大怪我をしたと聞いて落ち着いていられるかっ! 大体、なぜここで引き留められねばならんのだっ!? 」


 岩の如き拳でかまちを叩き、大声を上げる修一郎の隣では、朱王が不安そのものの眼差しで桐野 を見上げる。


 「桐野様、海華の容態は……」


 「まだわからぬ。今、清蘭殿が手を尽くしているようだが、儂もまだ、何も知らされてはおらんのだ」


 焦りを隠しきれない彼の様子を見ているだけで胸の不安が増大する。

ここに駆け付けてから、まだそれほど時はたっていない。

しかし、朱王には永遠にも思える程の長い時間に感じた。


 やがて療養所の奥から数人の足音が聞こえ、白衣にすっぽり身を包んだ清蘭とお藤が三人の前に姿を表す。

彼の纏う白にべったり付いた生々しい血痕を目の当たりにし、朱王の心臓は爆発せんばかりに激しい鼓動を刻み出した。


 「清蘭先生! 妹は、海華は? もう、もう会っても大丈夫なのですか?」


 今にも泣き出しそうな声色の朱王と、じっと自分を見詰める侍二人を交互に見ながら、清蘭は深刻な顔で緩く首を振る。

傍らのお藤は、全身の血が抜けてしまったかのように、真っ青になっていた。


 「今はまだ、会わせることは出来ません。 …… 落ち着いて聞いて頂きたいのですが、かなり深刻な状態です」


 皺の多い顔により多くの皺を刻み付け、清蘭は僅かに肩を落とす。


 「頭を強か殴られたうえに、かなりの量、水を飲んでいます。……出来ることは全てやりました、ですが……。申し訳ありません、今夜が山だと思って下さい」


 その場の空気が一瞬で凍り付く。

清蘭の言っている意味が上手く頭に入らない。

呆然と自分を見詰める朱王へ、清蘭はとどめとも取れる一言を発した。


 「一命は取り止めても、目を醒ますかどうか……。そうなれば、もう打つ手がありません。……申し訳ございません」


 深々と頭を下げる清蘭とお藤。

朱王はひどい目眩を覚えながら、ふらふらと立ち上がっていた。


 「先生…… 海華に、会わせて下さい……」


 暗い地の底から這い出るような低い低い声が、朱王の口からこぼれる。

ふらつきながら立ち上がる、そんな弱々しい様子とは反対に、朱王は清蘭の胸ぐらを力一杯掴み上げた。


 「お願いします先生っ! 海華に、妹に会わせて下さいっっ! 一目だけ、ほんの少しでいいんです、海華に会わせて下さいっ!」


 半ば半狂乱で髪を振り乱し絶叫を放つ彼の鬼を思わせる形相に、清蘭は思わず息を飲む。

修一郎と桐野が慌て朱王に飛び掛かり、二人掛かりで清蘭から引き離すも、朱王はまるで獣のように暴れ叫ぶばかりだ。


 「先生…… 、少しだけ、本当に少しだけ、会わせてあげて下さいませ……」


 呆然と立ち尽くす清蘭の隣で、目に涙を一杯に溜めたお藤が震えた声で呟く。

暫し思案していた清蘭だが、最後にはその首を縦に振った。


 「わかりました。では、中へどうぞ。その代わり約束して下さい絶対に、絶対に妹さんには触れないこと、今は安静が必要です」


 その台詞に、修一郎に半ば羽交い締め状態にされていた朱王は、がくがく頷く。

三人揃って中に通され、海華が寝かされている療養所の奥へ通される。

ぎしぎし廊下が軋む音だけが聞こえる他に音は無く、不気味なほどの静けさが建物内を支配していた。


 「どうぞ、こちらでございます」


 先に立つお藤が、廊下に面した一室の障子を静かに開ける。

六畳ほどしかない、調度品も何も無い殺風景なそこに寝かされている妹の姿を目にした途端、朱王は障子の前にへなへなと座り込んでしまった。


 生まれて初めて、腰が抜けたのだ。

口元を戦慄かせ、小刻みに震えだす朱王の背後に立つ修一郎と桐野も、海華のあまりにも酷い有り様に顔を強張らせ、声一つ出せなかった。


 布団から覗く彼女の額には、鮮血が滲む包帯が幾重にも巻かれていた。

右のこめかみから頬に掛けて紫色の大きな痣が張り付き顔は一回り近く腫れている。

手酷く殴られたのだろう口の端は切れ、首には絞められたと思われるどす黒い五指の跡がくっきり浮かぶ。

腫れた目蓋はぴくりとも動かず、死んでいる、と言われても納得してしまう、そんな状態だった。


 「きっと、棒か何か硬いもので殴られたのかと……身体中が痣だらけでした。 皆様を前にこんなことは言いたくないのですが……もう、生きているのが不思議なくらいです」


 沈痛な面持ちでぽつりとこぼす清蘭の言葉を耳にするなり、朱王の目尻から一筋の涙がこぼれ、頬を伝う。

こめかみに青筋を浮かべ、震える拳を握り締める修一郎は、乾いた唇を一舐めした。


 「下手人は……、海華をこんな目に遇わせた奴は……」


 「今、都筑達が血眼になって探している……」


 桐野には、それだけ答えるのが精一杯だった。

三人の胸に去来する思いは一つだけ、『なぜ海華がこんな目に遇わなければならないのか』だ。


 「助けて、下さい……」


 消え入りそうな涙声を紡ぎ、朱王は畳に前のめりに崩れ落ちる。

小さく震える背中は悲痛そのものであり、その場にいる誰もが胸を詰まらせるほど、朱王の姿を見るのが忍びない。


 「先生、お願いします……海華を助けて下さい……死なせないで、何でもします、私に出来ることなら……だからお願いです……海華を助けて下さい……っ!」


 声を圧し殺し、涙に咽ぶ彼に掛ける言葉などあるだろうか? 今にも消えてしまいそうな、風前の灯とも言える海華の前で、朱王はひたすら『助けて下さい』と懇願の言葉を呟き、畳に悲しみの雫をこぼし続けていた。


 身を震わせ泣きじゃくる朱王を修一郎と桐野二人掛かりで抱え上げ、隣室へ運んだ時から、重苦しい残酷な夜は幕を開ける。

静まり返った室内、夜がこれほど長く感じたことなど今まであっただろうか。

墨を流したような夜空に浮かぶ十六夜は、のろのろと蛞蝓なめくじの如き遅さで西へ傾く。

分厚い闇に閉ざされた世界、黎明はまだか、輝く朝日はどこへ消えてしまったのか。

胡座をかいた足を苛立たしげに揺する修一郎の隣には、静かに目を閉じ、まるで僧侶が瞑想しているかのような佇まいの桐野が深く腕を組み直す。


 だらしなく、いや、力無く襖に凭れ掛かる朱王は魂が抜けてしまったように、光の消えた虚 な眼差しを死神の鎌から逃れるため、沈黙の戦いをしているであろう海華が眠る隣室へと向けていた。

誰も口を開こうとはしない。

固く閉じた唇を少しでも開けば、深い悲しみにまみれた絶叫が、慟哭が飛び出してしまう。

そんな恐れが三人の胸に渦巻いているのだ。


 永遠と思えるほどの長い長い夜を超え、庭に面した障子を透かして待ちに待った朝日が、白く輝く美しき光の帯となり三人を照らす。

それを 待っていたかのように、誰かが廊下を抜けて隣室の障子を開く気配がした。

閉じられていた桐野の瞼がゆっくりと開く。


 カタコトと微かに人が動く気配がした後、閉じられていた部屋を隔てる襖が静かに開く。

そこには、皺が刻まれた浅黒い顔に僅かな疲れを滲ませた清蘭が正座していた。


 「海華さん、頑張りました」


 はっきりと彼の口から出た台詞に、朱王は顔を跳ね上げ、おお!と一声叫んだ修一郎は腰を浮かせる。 二人の耳に届いた深い安堵の溜め息は、桐野の口からこぼれたものだった。


 「先生……! 海華は、海華はもう大丈夫なんですか!? 目を覚まして……もう大丈夫なんですよね!?」


 四つん這いで清蘭に詰め寄る朱王の顔は、目の下にくっきりと隈が浮かび、その瞳は狂気の光にぎらついている。 そんな彼に清蘭は、ふっと哀しげな表情を見せた。


 「海華さんは、一先ず山は越えました。ですが、まだ眠ったままなのです。いつ目を覚ますかは、私にもわかりません」


 やっと訪れた希望が、無惨に打ち砕かれる音がした。


 「そん、な……なら、このままずっと……」


 「このまま眠り続けると言うのか!? 一度も目を覚まさぬままずっと海華は……」


 怒声とも慟哭とも取れる大声を張り上げ畳を蹴り上げ仁王立ちになる修一郎を、桐野は慌てて引き留める。

脂汗で汚れた修一郎の顔はみるみるうちに上気し、両手は関節が白く変わるほど強く握り締められていた。


 「申し訳ございません……私も出来ることなら助けたいのです。元通りの姿で、海華を朱王さんに返したい。ですが……医者は、医者は神ではございません。万能では、ないのです」


 悔しげに、本当に悔しげに言葉を詰まらせる清蘭を、これ以上誰が責められるだろう。

ぎりぎり唇を噛む修一郎にも、泣き出しそうな面持ちの朱王にもそれは痛いほどにわかっていた。

眩しい光が射し込む室内、待ちわびた朝は冷酷な現実を突き付け燃える太陽は地平線を紅色に染めていく。

がっくり頭を垂れた朱王の黒髪が畳に不規則な流線模様を作り出していった。


 一番鶏が鳴き始め、あちこちで飯を炊いているであろう微かに甘い匂いが鼻をくすぐる。

修一郎がここにいられる時間もあと僅か、彼には奉行としての勤めが待っているのだ。

早くしなければ遅れる、そう急かす桐野に背中を押され、渋々玄関に降りた彼の顔は疲労一色、ほつれた髪をこめかみに一筋貼り付け見送りに出た朱王へ力無く項垂れた。


 「すまぬ、このような時に……俺もずっと海華の側に付いていてやりたいのだが……」


 「いえ……修一郎様は責任あるお立場、海華のことは、私がしっかりと」


 弱々しく頭を振る朱王へ、修一郎は再び小さく一礼し、よたつきながら小石川を後にする。

そんな彼の後を行く桐野は、別れ際、気を強く持てと言わんばかりに朱王の背を一度強く叩いて出ていった。


 一晩中付き添ってくれた二人には、ただ感謝しかない。

修一郎とて、後ろ髪を引かれる思いなのだろう。

それは朱王も充分すぎるくらいわかっていた。

二人の姿が見えなくなるまで玄関に立ち続けた彼は、憔悴しきった様子でのろのろと海華が眠る部屋に戻っていく。


 清蘭の許可を得て、彼女の側に付き添うつもりなのだ。

修一郎にも桐野にも、下手人は誰なのか、海華はどんな状況で襲われたのかは尋ねなかった。

今はそんなことなど、どうでもいい。

とにかく海華が目を覚ましてさえくれれば、朱王にはそれだけで充分だったのだ。

沈みきった気持ちとは裏腹、日本晴れに晴れ渡る空には千切れ雲が浮かび、麗らかな日差しが眠る海華の腫れた頬を白く染める。

静かな、弱々しい寝息を耳にしながら、朱王はただ横たわる彼女の手を握り、頭を撫で続ける。


 一瞬が永遠に感じる無慈悲な時間、それがどのくらい過ぎただろう。

悲痛な面持ちのままの朱王の耳にぎしぎしと廊下の軋む音に混じって、人が複数、こちらへと歩く足音が届く。

音もなく開いた障子、そこには若草色の着物を纏ったお藤と、紺色の着物に黒い股引き姿の志狼が座していた。


 「朱王さん、お客様です」


 小さく二人に会釈し、そう一言残した彼女は、すぐにその場を後にした。

残された志狼は、静かに部屋に足を踏み入れる。

横たわる海華を目にした途端彼は苦し気に顔を歪ませ、『酷ぇ』と呻くように呟いた。


 「さっきな、旦那様が戻ってらした。お前に付いていてやれ、とな。……遅くなってすまねぇ」


 「いや……いいんだ。こっちこそ、手間掛けさせて悪かった……」


 隣り合い座る彼らの会話は、どこかぎくしゃくしたものだ。

『大変だったな』『可哀想に』そんな台詞は、かえって相手を傷付ける。

それを知っている志狼には、どう朱王に声を掛けて良いのかわからないのだ。

気まずい沈黙の中、膝の上できつく手を握り締めた志狼が、恐る恐るといった様子で朱王の横顔を見遣る。


 「海華の容態、どうなんだ?」


 「一先ず山は越えたと先生が……。ただ、いつ目を覚ますのかはわからないと。……もしかしたら、眠ったまま……」


 『死ぬかもしれない』その台詞は、喉の奥に絡み付き声とはならない。

思い詰めたような朱王の様子に、志狼の目が一杯に見開かれる。


 「何を……何を気弱なこと言ってんだ! こいつは死なねぇよ、絶対に起きる。朱王さん、あんたが信じなくてどうするんだ!?」


 無意識に大きくなる声。

じっとこちらを見詰める彼へ、朱王は憔悴しきった顔を向ける。

その瞳には、絶望という暗い光が宿っていた。


 「志狼さん……。人間ってのはさ、飲まず食わずで、何日生きていられるもんだろうか……」


 「え?」


 「このまま眠ったままじゃ、海華は何も食えないんだ。水だって、どうなるか……。そんな状態が続いたら、どうなると思う?」


 衰弱して命を落とすことは間違いない。

だが、それを言えるほど志狼は冷酷な男ではなかった。

何より、朱王はすでにその答えをわかっているのだから……。


 「こいつはな、何時までもぐうすか寝てる奴じゃねぇ。──すぐに起きるさ。『お腹空いた』ってな、必ずだ」


 一語一噛み締めるように、噛んで含めるように言う彼を、僅かな驚きを含ませた表情で朱王が見詰め返す。


 「……本当に、そう思うか?」


 「当たり前だ! あんた、こいつの兄貴だろ? 身内が信じなくて誰が信じる? 大丈夫だ。朱王さん、海華こいつなら、きっと大丈夫」


 力強く頷き、志狼は白い歯を覗かせる。

そんな彼につられてだろうか、朱王はここに来て初めて微かに口角をつり上げていた。


 「朱王さん、あんた一度長屋に帰れ」


 じっとこちらを見詰める志狼の口から出た言葉に朱王は驚愕の表情を浮かべ、慌て首を横に振った。


 「帰るだなんて……俺はここにいる。海華を置いて、一人だけ帰るなんて……」


 「少し休んでこいと言ってるんだ。あんた、ろくろく寝てないんだろ?でっかい隈なんざこしらえてよ。海華が起きた途端に次はあんたが倒れるのか?」


 軽く眉を寄せる彼の台詞に思わず朱王は口ごもってしまう。

ふぅ、と小さな溜め息が志狼の口から漏れた。


 「海華は俺が見てるから、少し寝てこい。何かあればすぐに報せる。あんたより足は速えぇからな、心配すんな。長屋にゃすぐに行けらぁ」


 ぶっきらぼうだが、彼なりに朱王を案じているのだろう。

妹を置いていくのは気が引ける。

しかし今、自分までが倒れたら、余計周りに迷惑を掛けるだけなのだ。

志狼の言葉に甘えよう。

そう決めた朱王は、素直に頷き、ゆっくり重い腰を上げたのだった。





 ふらつく足取りで長屋に戻った彼を出迎えたのは、長屋の住人らの慰めと励ましだった。

海華の一件は既に瓦版で知れ渡っていたらしく、隣近所の女房らが入れ代わり立ち代わり部屋を訪れる。

ある者は少しだけど、と前置きし見舞金を置いて帰り、またある者は、握り飯と少量のおかずを持ってきてくれた。

皆が寄せてくれる善意と、何気無い励ましが心にじわりと染み渡る。

素直に、嬉しかった。

それと同時に、昨夜までもう駄目かもしれないなどと考えていた自分が、酷く恥ずかしく思える。


 兄である自分が妹の生還を願わずに、ただただ悲しみにうちひしがれていてどうする。

泣いていても怪我は治らない。

今はただ、彼女が早く目を覚ますのを祈るばかりだ。


 来客も一段落し、朱王は壁際に崩れ落ちるよう凭れ掛かり膝を抱えた。

障子から射し込む日差しと、外で子供らがはしゃぐ歓声。

子守唄のようにも聞こえるそれに自然と瞼が下がり出す。 身体と精神は極限状態、へとへとに疲れ切っていた。


 忍び寄る睡魔に身を任せようと静かに瞼を閉じた時、彼の耳がどこかで聞いた女の甲高い叫びを拾い上げる。

それは、部屋のすぐ近くで響いたものだった。


 「ここはあたしが一人で行くから! 貴女は待ってて!」


 「でもお嬢様……」


 「大丈夫だったら! いい、お爺様にこの事は黙っててね、もし告げ口なんかしたら、ただじゃおかないわよ!」


 おろおろした掠れ声をぴしゃりと征した若い女の声。

突然、がらりと戸口が開き、目も覚める鮮やかな紅い振袖が、部屋に飛び込んでくる。

一瞬それが海華に見え、彼は裂けんばかりに目を見開き、顔を跳ね上げていた。


 「朱王さん、っ!」


 「お、勝様……?」


 土間に下駄を脱ぎ散らし、遠慮なく室内に上がる女、それは他所行きの豪奢な振袖を纏ったお勝だった。

薄化粧の施された顔は身形のきらびやかさとは反対に、ひどく青白い。

呆然と自分を見遣る朱王の正面に腰を下ろし、彼女は泣きそうに顔を歪めた。


 「瓦版で読んだの、海華ちゃんが……海華ちゃんが襲われたって本当? 小石川にも行ったんだけど、会わせてくれなくて……だから……」


 ここを訪れたのだろう。

膝の上できつく手を握る彼女へ、朱王は静かに海華の容態を告げる。

その時だった。 彼女の澄んだ瞳から、ぽろぽろぽろぽろと涙が転がり出したのだ。


 「あたしのせいなの、あたしが、海華ちゃんを付き合わせたりしたから、日のあるうちに帰っていれば……朱王さんごめんなさい! 本当に、本当にごめんなさい、っ!」


 声を詰まらせ泣きじゃくるお勝に朱王は戸惑い、とにかく泣き止むように促す。

やがて、彼女は震える声で、あの日海華と何があったのかを朱王に語り始めた。

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