第二話
奥の騒ぎは一体どうしたことか、と二人が顔を見合わせているところへ、額に冷や汗を滲ませた番頭が慌ただしく戻ってきた。
『申し訳ございません』と何度も頭を下げる彼が言うには、お勝は自室で振袖を脱ぎ散らし、化粧も綺麗さっぱり洗い落としてしまったそうだ。
今すぐ支度を整えます、そう言って出て行こうとした彼を、朱王はやんわり押し止める。
「私としましては、そう着飾って頂かなくても一向に構いません。今日はお勝様のお顔の写生に参りましたもので……。お化粧も、無理してなさらなくても結構です」
一瞬、番頭はぽかんと口を半開きにして朱王を見詰めた。
「本当に……宜しいんでしょうか?」
「ええ、お着物もお化粧も、後からどうにかなりますので……」
未だ半信半疑、といった様子の番頭は、『それでは少々お待ち下さいませ』そう言って彼は部屋から出ていく。
しばらくして、襖の向こうから、ばたばたばたっ! と廊下を駆ける騒がしい足音がしたかと思うと、二人の目の前で、勢い良く襖が開かれた。
がらっ! という音と共に簡素な小花の模様が描かれた茜色の着物を纏った細身の娘が一人仁王立ちとなり、その後ろには顔一面に不安の色を貼り付けた番頭が立っている。
「本当に、着替えもお化粧もしなくていいの?」
いかにも勝ち気な眼差しで二人を見詰める娘は、開口一番そう尋ねる。
白粉も塗らず、結わえられた髪には銀の飾り簪が一本だけ光るその娘。
木村屋で見た時とは余りにかけ離れた質素な出で立ちに、一瞬戸惑った朱王だが、何とか笑顔を作り出し、こくんと一つ頷いた。
「貴方、本当にお爺様に頼まれた人形師? お名前は?」
「朱王と申します」
矢継ぎ早に問い掛けてくる娘、お勝の後ろでは、『そんなこと聞いては失礼ですよ!』とハラハラしながら番頭が囁く。
しかし、そんなことはお構い無しにお勝はさっさと部屋に入り、二人の前に腰を下ろした。
「朱王さん、ね。お騒がせしてごめんなさい。私を写生に来る方はみんな、私が綺麗に飾り立てた所ばかり描こうとするから……そのままでいい、って聞いて、少し驚いていたの。こんな格好でいいなら、好きなだけ描いてくれて構わないわ」
やや早口に喋り立て、お勝は最後ににこりと笑う。
化粧っ気の無い顔に浮かぶ二つの愛らしい笑窪。
これが朱王が最初に見たお勝の人間らしい…… こう言えば大袈裟だが、彼が初めて見た笑顔だった。
その様子を見ていた番頭は、ほっと胸を撫で下ろしながら襖を閉める。
何がなにやらわからないまま、唖然とした表情でお勝を見ていた海華だったが、兄に肘で小突かれ慌てて風呂敷を広げ、持っていた写生道具を並べ始めた。
そんな彼女を面白そうに眺めていたお勝は、唐突にぱちん! と両手を一つ打つ。
「貴女どこかで見たことがあると思ったら、 柳の辻で人形芝居してる人ね! やだ、朱王さんの奥さんだったの!?」
「いえ、私……妹です」
よく間違えられます。そう言いながら苦笑いする海華へ、お勝は瞳を輝かせてにじり寄る。
「そう、妹さん。あたしはお勝よ。貴女名前は? ねぇ、あたし朝からとっても退屈してたの。ちょうどいいから、遊び相手になってよ!」
まるで子供のようにはしゃぎ出す彼女を見て、海華は再び口を半開きにし、唖然としながら兄を見上げていた。
「あたし、上から下まで飾り立てるのなんて大っ嫌いなの」
頬を膨らませ、いかにもうんざりだと言いたげに顔を歪めたお勝の手から、飴色に変色した賽子が放られる。
畳に広げたかなり使い古したであろう双六に転がった賽子は一の面を上に止まり、彼女は悔しげに小さく舌を鳴らした。
お勝の正面に座した海華は、苦笑いしながら傍らで写生に精を出す兄をちらりと見たが、朱王はちょいと眉を動かしただけだ。
二十三と十八のいい年をした女二人が双六遊びに興じる姿は、どこと無く年寄りが囲碁を打つ姿に似て見える。
だが、先日の能面のような無表情ではなく、ころころよく笑い感情豊かなお勝は、写生をする側にしてみれば好都合だ。
海華を連れてきて良かった、と内心思いながら、朱王は黙々と筆を滑らせる。
自分の降った賽子が六の目を出したのを満足気に見遣り、海華は双六に置いた木の駒を手にした。
「朝から大変だったのよ。入れ替わり立ち替わりで人が来てさ。はい、お嬢様こちらを向いて、はい笑って下さいね、そのまま動かないで……って、冗談じゃないっての」
「可笑しくもないのに笑うのも辛いですよねぇ。はい、次どうぞ」
「そうなのよ。いい年した男がお嬢様、お嬢様ってぺこぺこしちゃって。あたしね、じっとしてるのは嫌なの。……あー、また一かぁ ……。だから、街で貴女を見たときね、羨ましいなあって思ったわ」
遊びの間に交わされる会話を何気無く聞きながら、朱王は、お勝は海華とよく似ていると思っていた。 明朗活発、一時もじっとしていられない悪く言えばじゃじゃ馬なのだろう。
ならば、木村屋で見せたあの態度は作られたもの、だと言うことになる。
「お爺様はねぇ、お前は跳ねっ返りだ、少しは女らしく、おしとやかにしろってばかり。花嫁のたしなみだとか言って、毎日毎日お花にお茶にお三味線。もううんざりしてたのよ。…… ねぇ、双六に勝ったら五文あげるわ。貴女が負けたら、今後うちで人形芝居やって見せてよ」
にや、と悪戯っぽく口角を上げるお勝に、海華も小さく頬を緩める。
「お金なんかいりませんよ。その代わり、このお菓子、もう一つ欲しいんですけど……」
『人形芝居ならいくらでも』そう言う彼女に、お勝は意外そうな様子で目を瞬かせた。
「欲の無い人ね。お菓子なんかいくらでもあげるわ。……ねぇ、朱王さん」
不意に声を掛けられ、朱王は筆を置いてお勝に向かい、顔を上げる。
賽子を指先で弄びながら、彼女はねだるような眼差しを朱王に投げ掛けた。
「朱王さん、また写生に来て下さる? あのね、次も妹さん、海華さんよね? 連れてきて欲しいの」
「はぁ、妹を、ですか?」
いささか気の抜けた返事をする彼に、お勝はにっこりと満面の笑みで頷いた。
「そう、なんだかいいお友達になれそうな気がするから。ねぇ、また来てくれるわよね?」
海華へ向き直ったお勝は、幼い子供がするように彼女の袖を引く。
勿論、断る理由なんて無かった。
「はい、私で良ければいつでも。ああ、今度は人形も持って来ますね」
ありがとう! そう小さく叫び、お勝はきゃっきゃっと賑やかにはしゃぎ出す。
どこまでも純粋な、その弾けんばかりの笑みは、朱王の手によってしっかりと和紙に描き止められた。
世間話をし、茶を飲み飲み双六に興じている間に無事写生は終わった。
朱王はいい表情を描けたと大満足し、海華は普段口に出来ない上等な菓子を『お土産に』と箱ごと包んでもらい、大喜びだ。
だが、いざ帰る段階になり、お勝直々に見送ると三人が部屋を出た途端、真っ青な顔をした番頭が慌ててふっ飛んできた。
お勝はここの孫娘、そんな使用人にしか見えない身なりで表に出す訳にはいかない、と言うのだ。
番頭の言うことは最もだが、お勝は行くと言って聞かない。
仕方無く、二人は母屋の裏口から帰ることにした。
「ごめんなさいねぇ、お客様を裏から帰したりして……。どうしてあたしがお店に出ちゃあいけないってのかしら、あの石頭!」
むっつり顔で腕を組み、番頭の悪口を漏らす彼女に、海華は苦笑いしながら小首をちょこんと傾げる。
「番頭さんも色々あるんですよ、きっと。それより、沢山頂いちゃって……ありがとうございました」
「いいのよそのくらい。ねぇ、お二人とも、きっとまた来てね? 約束よ」
きらきら瞳を輝かせ二人を交互に見遣る彼女に、朱王も唇を綻ばせ小さく頷いた。
と、その時、彼が背にしていた黒い板塀の上から、みゃあ、と甘えるような鳴き声が降ってくる。
海華が後ろを振り返り、板塀を見上げると、そこには蒲の穂を固めたようなふわふわの茶色い塊が一つ。
「あら、タマじゃない! あんたどこ行ってたのよ」
お勝はぱっ、と顔を輝かせ、その塊に両手を差し伸べる。
軽やかに地面に飛び降りたのは、大人の手のひらに乗ってしまいそうな小さな子猫だった。
ごろごろ喉を鳴らして彼女の足元にまとわる猫は、抱き上げられるとすぐに黄金色の瞳を細め、彼女の胸に顔を擦り付ける。
まるで宝物を扱うように、しっかり子猫を抱き締めたお勝は、今まで見せた笑顔より柔らかな、そして美しい笑みで子猫の頭を優しく撫でた。
「わぁ、可愛い!」
そう一言叫び、手を伸ばして子猫の喉を撫でる海華へ、お勝は嬉しそうな視線を向ける。
「可愛いいでしょ? タマって言うの。うちに迷いこんできたんだけどね、晴れ着を着るとお爺様がこの子に触らせてくれないの。毛がついて汚れるからって。だからあたし、お洒落なんて嫌い」
にこやかな笑みで猫を撫でる二人を見ながら、改めて朱王は先日木村屋で見たお勝と、今の彼女の変わりように驚いていた。
確かに、木村屋で見たお勝はきらびやかな晴れ着を纏い、化粧に簪と『女』としては綺麗だった。
だが、今の彼女の方が朱王には美しく魅力的に見える。
この時、朱王の頭の中ではどんな人形を作るか、はっきりと構図が決まっていた。
お勝の写生を終えてから七日余りが過ぎ、朱王は人形の仮彫りを終えたところだった。
着物は仕立て屋に、飾り物は幸吉に頼み、後は身体を作るだけ。
なんとか期限までには終わりそうだと胸を撫で下ろしていると、同じ競作に参加した人形師らから、酒の席を設けたので、一度顔を出してはくれないか、との誘いを受けた。
競作という折角の機会を与えられた、より親交を深めようという名目の酒宴だが、なんのことはない、皆互いの作品がどこまで進みどんな出来かを知りたいのだ。
断るのも悪いから、と参加することにした朱王、自分ばかり美味しい物を食べにいくんだ、とむくれる海華を土産はわすれないから、となんとか宥め、夕方近くに指定された料理屋へと向かった。
普段なら到底入ることなどない高級な料理屋、というより料亭の広い玄関に足を踏み入れるとすぐに四十路ほどの端正な顔立ちをした女、多分女将だろう女が愛想のよい笑みを振り撒きながら出迎えてくれた。
他の皆様は既にお待ちになられております、との台詞を受け、黒光りする廊下を通されて、奥にある大広間に案内された朱王。
些か緊張した面持ちで室内にはいれば、女将の言葉通り、そこには二十人ほどの人形師らが集まり、賑やかに酒を酌み交わしている最中だ。
よくいらっしゃいました、さあ此方へ、と上座近くに座らされ、恐縮しきる朱王に猪口を差し出したのは、木村屋で羽山の事をあれこれ教えてくれたあの若い人形師だ。
もうかなり酒が入っているのだろう彼は、髪の生え際まで真っ赤にしながら次々と酒を勧めてくる。
やがて、誰が呼んだのだろう芸者が四人、部屋に通され宴も闌、三味線の音と女の華やかな笑い声、そして鼻の下を伸ばしに伸ばした男が芸者と戯れる。
最初の目的はどこへやら、どんちゃん騒ぎと化した酒宴の席で、女遊びに全く興味の無い朱王は出された料理をつつき、周りの者らと談笑を交えて酒を楽しんでいた。
「そういやぁ先生、羽山さんとこのお坊ちゃん、大失敗やらかしたのご存知ですかぁ?」
ぐでんぐでんに酔っ払い、羽織を肩からずり落とした若い人形師が、へらへらと力の抜けた笑みを朱王に向ける。
「羽山さんが? いや、私は何も聞いてはいませんが……」
「あれ、聞いちゃあいませんかい? それがね先生、もう傑作ですよぅ。あいつね、お勝お嬢さんに写生すらさせて貰えなくてね、そのまま叩き出されたんですよ」
ざまぁみろ、と小さく叫び、畳へ転がる男の横から、他の人形師が徳利片手に現れて事の次第を話し出す。
何でも、仁太郎は弟子を五、六人もずらずら引き連れお勝の写生に出掛けた。
そこで、身に付ける着物から化粧の仕方、首や腕の角度まで細かく注文を付けたらしいのだ。
「首はこうしろ、ほら笑顔が足りないって、ぐちぐち文句付けたらしいやね。とうとうお嬢さん怒っちまった、あんたなんかに人形を作って欲しくない! もう帰れ! ってんでね、追い返さ れたと」
さもおかしそうに笑う彼の後ろで、再び身を起こした若い男は、ぐたりと朱王に凭れ掛かる。
「お嬢さんね、『朱王さんはそんな面倒臭いこと言わなかった!』って、怒鳴ったらしいや。さすが朱王さん、女の扱いが上手い、って、皆で感心してたんですよぉ」
「いや、私はそんな……」
慌てて否定する彼に、返ってきたのは男二人の大笑い。
「謙遜しなさんな、あのお坊ちゃまが駄目となりゃあ、後は先生の独壇場だぁ。いや、悔しいねぇ」
「仕方あんめぇよ。朱王さんにゃあ逆立ちしたって敵わねぇ。羽山の坊ちゃま、余程悔しいのか恥ずかしいのか、暫く店から出てきてねぇらしいぜ!」
げらげら馬鹿笑いする二人を前に、彼が今日顔を見せないのはそういう訳かと納得し、朱王は酒を満たした猪口を唇に運ぶ。
笑いと嬌声、そして掻き鳴らされる賑やかな三味線の音……。
華々しい宴は、とっぷりと夜が更けても終わる気配を見せなかった……。
「あらぁ、そう。お勝さんそんな事言っちゃったの」
鏡台の前で着物の襟を直しながら、海華が苦笑混じりに呟いた。
未だ寝間着のまま布団の上に胡座をかいた朱王は、寝乱れた髪をがしがし掻きながら、うん、と短く返す。
昨夜の酒がまだ残っているのだろうか、いかにも眠たげな表情で大欠伸を連発し、目の下にはうっすら隈まで出来ている。
「おかしなところで引き合いに出されたもんだよ」
「いいじゃない、悪く言われた訳じゃないんだから。お勝さん、よっぽど兄様が気に入ったのね」
「俺じゃなくてお前を気に入ったんだろ? また来いって何度も言われたじゃないか」
「まぁね。でも、仕事の役には立ったでしょ?」
にこりと朗らかな笑みを向け、木箱を背負った海華は、そのまま土間へと降りる。
彼女はこれから仕事に出掛けるようだ。
「じゃ、あたし行ってきます。ご飯置いておくから、ちゃんと食べてね」
「ああ、わかった。気を付けてな」
ふぁぁ、と欠伸しながら、朱王は妹にひらひら手を振る。
行ってきます! と元気良く叫び、彼女は花曇りの空の下、いつもの辻に向かって駆け出していった。
道端で人形を操る海華の周りにはいつも賑やかな人だかりが出来る。
母親に手を引かれた幼子は、くるくるよく動く人形を見てキャッキャとはしゃぎ、大人達はよく通る彼女の唄声に暫し足を止め、義太夫が一曲終われば足元に置いた小さな木箱に次々と小銭が投げ入れられる。
今日はいつもより実入りがいい、にこにこ顔で金と人形を木箱にしまう海華の前に、突然白い手がにゅぅと伸びた。
開いた手のひらには五文銭、ありがとうございます! と顔を上げた彼女は、その手の主を見るなり、あんぐりと口を開いてしまった。
「こんにちは、相変わらず繁盛してるわねぇ」
「あっ、おっ……お嬢さん!? どうしてここに……」
慌てふためく海華の前で、とても大店の孫娘とは思えない山吹色の簡素な絣着物を纏い、 裸足に下駄を突っ掛けたお勝は、不服そうに唇を尖らせる。
「お嬢さんなんて止めて、お勝でいいわよ」
「あ……なら、お勝さん、まさかお一人で?」
嫌な予感が胸をよぎり、きょろきょろ辺りを見回すが、道行く人の中にお付きの者らしい姿はどこにも無い。
顔を引き攣らせる海華とは正反対に、お勝はあっけらかんとした様子でこくんと頷いた。
「そう、あたし一人で来たのよ。今日ね、お店の売り出しの日なの。朝からお爺様も店の人達も大忙しでね、誰もあたしのこと構ってくれないから退屈で。こっそり出てきちゃった」
「そんな……お勝さんがいないってわかったら、大騒ぎになるんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫! ちゃんと書き置きはしてきたから! 一人で街に来てもつまらないじゃない? もしかしたらと思って辻に来たら、思った通り貴女がいたわ。ねぇ、今日一日あたしに付き合って頂戴よ」
一日付き合え、そう言われても一体何を付き合えば良いのやらさっぱりわからない。
困りきった様子で言葉を詰まらせる海華の手を、お勝は急かすように引っ張った。
「ねぇ、いいでしょ? あたし行きたい所があるのよ。ついでに街の中も案内して、貴女なら、街中もよくわかってるでしょ? ……あたしの相手してくれたらね、お兄さんの人形選んであげてもいいのよ? ……さ、早く早く!」
海華の答えも待たず、彼女はずんずん道を進んでいく。
手を引かれ、よたつきながらも海華はその後を追い、木箱を背負ったまま人混みへと紛れていった。
海華の手を引き、お勝がまず向かったのは浅草だった。
寺の前にずらりと並ぶ店、つまりは仲見世を端から端まで見て回りその近くで胴間声を張り上げる蝦蟇の油売りを興味津々に眺め、 猿回しの芸人には興奮気味に拍手喝采を送る。
箱入り深窓で育ったのだろう彼女は、見るもの全てが面白く新鮮に映るのかもしれない。
しかし、それに付き合う海華は、少しでも目を離せば姿が見えなくなってしまうお勝に振り回され、へとへとに疲れ切っていた。
これでは幼い子供のお守りをしているのと同じだ。
風の向くまま気の向くまま、始終はしゃぎっぱなしのお勝について街中を走り回り、ふと気が付けば太陽は西に傾き始めている。
雲間から幾つもの筋となって射し込む杏色の斜陽を受け、漆黒の粒と化した烏が飛んでいくのを眺めながら、海華はお勝の袖を軽く引いた。
「お勝さん、もう夕方ですから帰りましょ? あたし、お店までお送りしますから……」
「まだ、もう少しくらいいいじゃない! お夕飯までに帰れば大丈夫よ」
道端で摘んだ一輪の菫を指先で玩び、お勝がプクリと頬を膨らませる。
しかし、海華とて『はい、そうですか』と引き下がる訳にはいかない。
「駄目ですよ、そんな。お爺様が心配なさいますよ? それに、あんまり遅くまでお勝さんを引き連れてたなんて兄様に知れたら、あたしが怒られます」
「うーん……。仕方無いわね。なら、帰りましょうか」
渋々といった様子で頷くお勝ににこりと微笑み、二人は店を目指して歩みを進める。
道に長く伸びた影法師をお供に、お勝は晴れ晴れとした表情を隣にいる海華に向けた。
「今日はとっても楽しかった。付き合ってくれてありがとう。 お爺様に朱王さんの人形選んで貰えるように、こっそり口利きしてあげるわ」
白い歯を見せて笑うお勝とは正反対に、海華は浮かない顔で首を横に振る。
その途端、お勝は不思議そうな面持ちで、ぴたりと歩みを止めた。
「どうしてよ? せっかくお兄さんの人形選んであげようって言ってるのに……」
「だって、他にも一生懸命人形作ってる人形師さんもいるのに、狡いじゃないですか」
足元に転がる小石を蹴り飛ばし海華は更に言葉を続けた。
「競作は立派な勝負事です。公平にしなくちゃ意味ありません。あたしがお勝さんのご機嫌取って勝たせて貰ったなんて……兄様知ったら、きっと怒るどころの騒ぎじゃないし、他の人形師さんにも失礼です」
「そりゃそうだけどね、大きなお金が入るのよ?」
お勝の口にした台詞に、海華の顔が悲しげに歪む。
「ずるしてまでお金なんか欲しくありませんよ。それに、兄様は何があってもお勝さんやお爺様の気に入る人形作ります。あたし、信じてるから……。口利きなんてしないで下さい」
お願いします、そう言って頭を下げる海華に、お勝はばつの悪そうな表情で目を逸らす。
二人の傍らを行く人々は、皆不思議そうに首を傾げて通りすぎて行った。
「わかった、わかったから顔上げてよ……。 あたし、何だか馬鹿なこと言ったみたい。今の話し、無かったことにしてくれる?」
恥ずかしげに俯き、そう呟く彼女に頭を上げた海華は、にこやかな笑みで小さく頷く。
それに安堵したのか、お勝はつられるように口角を上げた。
「ありがとう。それからね、また、あたしに付き合ってくれないかしら? 貴女といるの、本当に本当にね、楽しかったのよ」
「あたしで良ければいくらでも。どこか行きたいところがあったら、いつでもお供しますよ」
ただし、帰りがあまり遅くならないところ限定でお願いしますね。
海華はそう後付けし、二人は顔を見合わせてころころと笑う。
再び並び歩く二人。
その後ろを、気配を殺してつけていく人影があることなど、まだ、どちらも気付いてはいなかった。




