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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十二章 じゃじゃ馬人形
149/205

第一話

 朱王は悩んでいた。


 真剣に、悩んでいた。


 丸一日机の前に腰を下ろしたまま溜め息をつき、頬杖をつき、ひびの走る壁をぼんやりと眺めて、ただただ悩んでいた。


 「ちょっと兄様、まだ迷ってるの?」


 夕餉の片付けを終え、前掛けで濡れた手を拭きつつ部屋へと戻った海華は、昼前からなんら変わらぬ様子で悩み続ける兄を見るなり呆れたような声を出す。

ばりばり頭を掻きながらこちらを向いた朱王は、心底困った、といった様子で、今日何度目かの深い深い溜め息を吐いた。


 「そんなに悩むくらいなら、いっそのこと受けちゃえばいいじゃない。案ずるより産むが易しって言うでしょうよ」


 「そう簡単に言ってくれるなよ……」


 他人事にすら感じる妹の台詞に朱王はがっくりと頭を垂れる。

彼をここまで悩ませる原因、それは昼前にここを訪れた人形問屋の主人にあった。


 いつも朱王を贔屓にしてくれる『木村屋』の主は、部屋に入るなり人形の競作に参加してみないかと話を切り出してきたのだ。

事の始まりは三日前、江戸でも五本の指に入る呉服屋の主、金五郎きんごろうが孫娘を伴って木村屋の暖簾を潜った。

何でも、齢十八になるその孫娘の生き人形を頼みたいと言うのだ。

しかも、その依頼の仕方が変わっていた。


 江戸中の人形師を集め、それぞれに孫の人形を作らせて、一番似ている、かつ孫が気に入った物を買い取りたい、と言う。

江戸中の人形師と一口に言えど十や二十ではきかないし、何より莫大な金が掛かる。

しかし、金五郎は可愛い孫娘の為なら金に厭目はつけない、出来るだけ多くの人形師に作品を作らせ競わせてくれ、と言い張ったらしい。


 問屋にとっては損する話しではないし、各人形師にも材料代は払ってくれるようだ。

是非とも朱王さんにも参加してもらいたい、と頭を下げる主人に、二、三日答えは待って欲しいと朱王は告げた。

それには、ある理由があった。


 「もしかして、木村屋さんに言われたこと、まだ気にしてるの?」


 自らの前に座り、ちょこんと小首を傾げる妹へ、朱王は顔をしかめて小さく頷いた。

実は、木村屋は他の人形師に声を掛け、参加の承諾を得てから最後に朱王の元に来たという。

それは別に構わないのだが、木村屋が笑顔で言い残していった一言が、ずっと朱王の胸に引っ掛かっているのだ。


 『朱王さんが参加するなんて言えば、他の方々は尻込みして、誰も引き受けて下さいませんからなぁ』


 「俺、そこまで嫌われているのか? どうして俺が人形を出すと言ったら、他の人形師が参加したがらないんだ?」


 自分は知らない間にそこまで嫌われていたのかと、いささか衝撃を受けた朱王。

そんな兄を見ながら、海華はゆるゆると首を振った。


 「違うわよ、嫌われてんじゃなくてね、兄様の人形と自分達の人形は比べ物にならないって思われるのよ。兄様と競作なんかしたら絶対負けると思ってるから、皆出したがらないの」


 兄は江戸一番の人形師、海華はそう思っているし、世間の見方もきっと同じだ。

稀代の人形師、最早天才の域を越えている、などと絶えず称賛の言葉を浴びる彼に敵う者などいやしない。

しかし、朱王は釈然とせず、仏頂面を崩さなかった。


 「俺はそんな大層な人間じゃない」


 「だったら人形出せばいいじゃない。ここでうじうじ悩んでたって仕方無い話しでしょ? 全く……兄様は妙な所に神経質になるんだから」


 苦笑混じりにそう言った妹を前に、朱王は『うむ……』と微かな唸り声を出したまま、再び机へ頬杖をついていた。

妹に背中を押され、朱王は競作に参加することに決めた。

早速それを木村屋に伝えると主人は大喜びで、四日後金五郎が孫娘を連れ店に来るのだと教えてくれた。 その時、他の人形師達も顔合わせをするらしい。


 そして四日後、みっともない格好はさせられない、と朝から張り切る妹に、持っている中で一番上等な着流しと羽織を着せられ、朱王は木村屋の暖簾を潜った。

若草色の暖簾がはためき、店内にはところ狭しときらびやかな衣装を纏う木目込み人形や稚児人形が並ぶ。

にこやかな笑みで迎えてくれた女将に通された奥の座敷では、主人が声を掛け、競作に参加する人形師三十人程が既に集まり、わいわいがやがやと大層な賑わいだ。


 女将に連れられ襖から姿を表した朱王の姿に、その場にいる者全ての視線が集中する。

ある者は残念そうに顔をしかめ、またある者は驚きに目を瞬かす。

皆に向かって軽く会釈し、 一番後ろ、襖の近くに腰を下ろした彼へ最初に声を掛けたのは、黒い羽織を纏った六十程だろうか、白髪頭の老人だった。


 「いやいや、朱王さんが参加されるとは驚きましたなぁ、でも、ここの旦那が貴方を誘わないなんて有り得ませんからねぇ」


 顔中に皺を寄せてにこにこ人懐っこい笑顔を見せるこの老人は、朱王が人形師として江戸で仕事を始めた時からの顔見知りだ。

同じ職に携わる者として、集まった人形師の中にも朱王と交流のある者は何人かいる。

朱王が返答に困っているところに、彼の横から二人の話を聞いていただろう、まだ二十歳程の若い男が、にゅう、と真ん丸い顔を突き出した。


 「そりゃあそうでしょう、江戸どころか上方まで名を轟かす天下の朱王先生だからね。でも、先生が出るなら勝負ははなっから決まっているようなもんですよ。俺、出るなんて言わなきゃあよかったなぁ」


 「儂も同じ気持ちだよ。朱王さんに勝てるだなんて、誰も思いやしないからねぇ」


 顔を見合せ、困ったように笑う二人へ、朱王は慌てて首を振る。


 「いや、そんなことは……私はまだまだ未熟者、先生なんて呼んで頂ける程の人間ではありません」


 「嫌だなぁ先生、そんなに謙遜なさっちゃあ。先生が未熟者なら俺なんざ丸っきり素人だ」


 「そうですよ、朱王さん。ところで、羽山さんのとこは来ないのかねぇ? 出るとは聞いているんだが……」

 

 くるりと襖へ振り返り、老人は僅かに顔を歪ませる。


 「羽山さん……確かご子息が跡を継がれたと聞きましたが、今回は……」


 ぽつりとこぼした朱王の耳許で若い男が周りには聞こえぬ程の小声でそっと囁いた。


 「その息子が来るんですよ。先生、余計なお世話かもしれませんが、あそこの息子にゃ気を付けた方が……何しろ根性ひね曲がってると有名ですからね」


 「え……?」


 彼の言葉に思わず目を剥いた朱王。

男は更に耳許近くに唇を寄せた。


 「だから、性悪なんですよ。自分以外の人形師は屑扱いだ。父親がちょいと腕が良いのを鼻に掛けて……。自分は大したことないんですがね」


 つまりは親の七光り、そう彼が呟いたと同時に、背後の襖が勢いよく開かれる音が耳に飛び込み、朱王は反射的に後ろを振り返っていた。

がらりと襖を開けたのは、まだ二十歳そこそこの青年だった。

細身の体に縦縞模様の薄縹うすはなだ色をした着流しを小粋に纏う男は、会釈をするでもなく、挨拶をするでもなく狐のようにつり上がった細い目で、自分を見詰める人形師らをじろりと一瞥し、そのまま朱王の左隣に腰を下ろした。


 すると、今まで耳打ちをしていた男は気まずそうな表情を浮かべてこそこそともといた場所に身体を引っ込めてしまう。

そんな彼の様子に、今来たこの男こそが羽山なのだとわかった。


 無言で自らの隣に座り、忙しなく襟元や袖口を直す彼をちらりと横目にした朱王。

と、廊下側に面した襖が小さく開き、そこから満面の笑みを見せる木村屋の主がぺこぺこ頭を下げながら入ってくる。

そんな主に続いて室内に入ってきた二人の人物を前にした途端、部屋にいた人形師一同は 揃って深々と頭を下げた。

皆にならって一礼した朱王が頭を上げると、前に座る人形師らの間から、主と白髪頭の老人、そして豪奢に手足が生えたような若い娘が座っていた。


 白髪頭の老人は、年の頃六十半ばだろうか、渋い海老茶色の着流しと同色の羽織を纏い、その着流しをたっぷりついた腹の肉が押し上げ、まさに狸にそっくりだ。

満月のように真ん丸な顔には数多の皺が刻まれて、肉に埋もれた瞳は柔和な笑みを含んでいる。

その隣に座る娘、きっとこの老人の孫娘は、い並ぶ人間に圧倒されているのか、表情は固く紅を塗った肉厚の唇も真一文字に結ばれたままだった。


 涼しげな浅葱色をした友禅の振袖と帯には、これでもかと言うくらい金糸銀糸で小花と鳥の刺繍が施され、一見してとんでもなく高価な物だとわかる。

乱れなく結い上げられた黒髪には金と珊瑚の簪に艶やかな柘植の櫛、その下にある瓜実顔には入念な化粧、さすがは江戸でも名高い呉服屋の孫娘だ。

一体何十両の金を着物に変え、装飾品に変えて身に付けているのかわからぬ娘を誇らしげに見遣る老人。


 そんな彼の第一声は、見た目よりずっと若々しく、張りのある声だった。


 「皆様にはご足労頂きまして、ありがとうございます。もう木村屋さんから聞いているとは思いますがな、今回は儂の孫娘、お勝の人形を作って頂きたい」


 「お勝様には婚約のお話が整っておりまして、選ばれた人形は花嫁道具、ということですな」


 にこにこしながら揉み手する主の言葉に、老人は喜色満面に頷いた。

『それはおめでとうございます』と、次々に人形師達の間から声が上がる。


 「いやいや、ありがとうございます。まぁ、そんな訳でしてな、儂としては江戸一番の人形を持たせてやりたい。なので今回競作という形を取った次第です。儂とお勝の目に叶った作品には、百両お支払い致しましょう」


 百両、老人の分厚い唇から飛び出た額に、その場がざわめく。

これには朱王も驚いたが、隣にいる男は顔色一つ変えてはいなかった。


 「いやいや、可愛い孫娘の為ですからな、金に厭目は付けませんよ。他の方にも材料代はお支払い致しますので、ご安心下さい。お勝や、お前によく似た美しい人形を作って頂こうなぁ」


 「はい、お爺様」


 にこにこと笑う老人の隣で、娘は表情一つ変えずに即答する。

赤い唇から漏れた返事は抑揚も、感情すらも見えない声色だった。

金五郎とその孫娘、お勝は四半時余りで店を後にした。

その間も金五郎は始終笑顔を崩さず、口から出るのは孫娘のことばかり。

なんでも、お勝は早くに亡くした娘の忘れ形見、死んだ娘に生き写しだそうだ。

可愛くて仕方無いのだろう。


 写生が必要な方はいつでも自分の店に来て欲しい、そう言い残して帰っていく彼の隣では、相変わらず唇を固く結んだのままのお勝が小さく頭を下げる。

口を開けば『はい、お爺様』ばかりのお勝は、始終無表情を貫き通し、にこりともしない。

なんだか無愛想だが、なかなか器量の良い娘、これはいい人形に仕上がるだろうと囁き合う人形師らと共に帰路につこうとしていた朱王の目が、店内に飾られた人形を写し出した。


 静かに正座し三味線を弾く妙齢の女の人形、それは紛れも無く先日店に納めた朱王の作品だ。

その隣には絢爛豪華な衣装を纏う花魁の人形が飾られている。

人形の下に添えられた木札に書かれた作者名は『羽山 仁太郎』、先程まで自分の横に座っていた若い人形師の作品だった。


 先代、つまり仁太郎の父親の作品ならば何度か目にしたことはある、清楚で気品のある作品を生み出していた先代は人形師としての腕は元より人望も厚く、皆から慕われていた。

まだ駆け出しだった朱王も何かと良くしてもらった思い出がある。

父親の作風とは全く違う華々しく豪勢な人形を作る、同じ親子、そして師弟関係にありながらここまで作風が違ってくるものか、そんなことを思いながら人形を眺める朱王の背後に、 ふっ、と小柄な人影が現れた。


 「私の作品、お気に召して頂けましたか?」


 唐突に声を掛けられ、慌てて後ろを振り返ると、そこにはこの花魁人形の作者、羽山仁太郎が立っていた。


 「朱王先生、初めまして、羽山と申します」


 「あ……あぁ、初めまして。羽山さん、お父上には随分とお世話になりました……」


 突然のことに戸惑い、なんとか小さな笑みを作って会釈する朱王を、仁太郎は冷ややかな眼差しで見遣る。


 「こちらこそ……いつも父から先生のお話しは耳にしておりました。大層素晴らしい人形を作られる方だと。そんな方と作品を競えるなんて、本当に光栄です」


 光栄……そんなこと露ほども思っていないのだろう事は表情を見れば容易にわかる。

細く鋭い目で半ば睨むようにこちらを見詰める仁太郎から漂うのは明らかに敵意、と呼ばれるものだった。

なぜそこまでの感情を持って見られねばならないのか、内心不思議に思う朱王に向かい、仁太郎はニィッ、と粘りつくような笑みを投げ掛けた。


 「本当に光栄ですよ……他の人らでは話になりません。競う価値すらない」


 「え?」


 この男は何を言い出すのか、周りにはまだ他の人形師達がいるのだ。

ぽかんとした面持ちで自分を凝視する朱王と、いかにも憎々しげな眼差しを投げる周りの人形師達もお構い無しに、仁太郎は更に神経を逆撫でするような台詞を平然と吐いた。


 「先生なら、私の人形を引き立てて下さる作品をお作りになられるでしょう。その貧乏臭い人形のようなね…… 」


 貧乏臭い人形、その言葉と同時に彼は朱王の後ろにある三味線を弾く人形に視線を向ける。

唖然呆然とする朱王に一礼し、仁太郎は蔑みの眼差しを彼に投げ付けながら、悠然と店の暖簾を潜り抜け姿を消してしまった。





 「貧乏臭い!? 兄様の人形が貧乏臭いですって!? 」


 飯をかき混ぜていた杓文字しゃもじを握り締め、海華は柳眉を逆立て大声で叫んだ。

木村屋から帰ったその日のうち、朱王は早速仁太郎との一件を妹に話したのだ。

当然海華は激怒した。


 「何よその言い方! その人本当に人形師なの?『俺の作品を引き立てる物を作れ』だなんて……馬鹿にするにも程があるわ!」


 「他の人が作る作品は話にならんとさ……。 ああまで高飛車たかびしゃな言い方を面と向かってされたのは初めてだからな。驚いたよ」


 呆れ果て、苦笑いしか出来ない朱王は、酒の肴にと海華が出してくれた厚揚げの煮付けを口に放り込む。

怒りが治まらない様子の海華は真ん丸に頬を膨らませ、おひつに炊きたての飯を乱暴に叩き付けた。


 「そこまで言われて怒らなかったの?」


 「店先で怒鳴り散らしても仕方あるまい。大体、木村屋さんに迷惑だ。俺は人形師だからな、勝負は人形でしてやる」


 ふん、と鼻で笑い箸を皿に放った朱王。

前掛けで手を拭きつつ畳に上がった海華は、ぺたりと兄の横へ座り込んだ。


 「その人って、どんな人形作るのよ? 先代さんの人形ならあたしも何度か見たことあるけど、なかなか綺麗な物作る人だったわよね? 息子もそんな感じ?」


 「いや、逆だよ逆。どちらかと言えば豪華絢爛……いや、けばけばしいんだよ、くどいんだ」


 「くどい?」


 ぱちぱち目を瞬かせ小首を傾げる妹へ、朱王は小さく頷いた。


 「ああ。その人形……花魁の人形だったんだが、確かに並べれて飾れば俺のは見劣りする。 地味に見えるんだ。だがな……」


 と、一度言葉を切った彼は、顔にかかる髪をばさりと後ろに押しやる。


 「最初に目に留まるのは着物と髪飾りなんだ。そこだけがやけに豪勢に派手派手しく見えて、肝心の顔は印象に残らない。これは致命的だと思わないか?」


 「うん、人形は顔が命だって兄様いつも言ってるものね。例えて言うなら……小さな海老にゴテゴテ衣付けて、大きな海老天に見せ掛けてるようなものよ」


 「……海老天、か……。まぁ、お前らしい例えだな」


 花魁人形が海老天に化けた、なんだかひどくおかしく感じ、思わず頬を緩める兄の肩を海華は突然バシリと勢い良く叩く。


 「それなら、余計そんな奴に負けてなんかいられないわ! 向こうの人形がこけしに見える人形、兄様が作らなきゃ! 大丈夫よ、兄様ならきっと誰より上等な人形作れるから!」


 にこりと白い歯を見せ、妹の口から飛び出す嘘偽りのない言葉に妙に照れ臭い気分になりながら、朱王はごそごそと胡座をかいていた足を組み直す。


 「本当に、そう思うか?」


 「当たり前じゃない! 兄様は江戸一番の人形師よ、手伝えることがあるなら何でも言ってよね、一緒に頑張って羽山とか言う思い上がり、叩きのめしてやりましょ!」


 ここまで言われたらやるしかない。

必ず金五郎、お勝両名を納得させる作品を作り上げる。

改めて心に誓い、『景気付けだ』と呟いた朱王は、作業机の下から酒瓶を引っ張り出していた。





 翌日の昼下がり、朱王はお勝を写生しに呉服屋『藤代屋』へ出掛けた。

写生道具を包んだ風呂敷を持つのは、なぜか海華。

どうしてもついて行きたいと聞かないので、仕方無く荷物持ちとして同行させることにしたのだ。

本人はお勝の顔を一度見てみたい、とのことだが、それは建前に過ぎず、本心は仁太郎と鉢合わせしたら嫌味の一つも言ってやる、といったところだろう。

くれぐれも無用な騒ぎは起こすなと、念を押し同行を許した訳だ。


 藤代屋は二人の長屋から少し離れた日本橋に店を構え、噂に聞く通り立派な店構えをした大店だった。 店名が白抜きされた小豆色の暖簾が風に遊び、それをくぐると広い土間と色とりどりの呉服や振袖、着流しが山のように置かれた店内が広がる。


 売り物の品定めをする老若男女で賑わうそこは活気に溢れ、五、六人以上はいるだろう使用人が忙しく動き回っていた。

その中の一人、若い女の使用人にお勝の写生に来た旨を伝えると、すぐさまここの番頭らしき中年の男が現れ、にこやかな笑顔で二人を奥へと招き入れてくれた。

磨きあげられ黒光りする廊下を渡り、見事に枝を伸ばした松が天にそびえる中庭が見渡せる渡り廊下を歩く。

贅を尽くした作りの母屋を行く海華は、兄の後ろできょろきょろ周りを見回しながら、やはり金持ちは凄い、と妙に感心していた。


 「只今旦那様はお出掛けになられております。お嬢様のお支度が整うまでこちらでお待ち下さいませ」


 母屋にある客間に通された二人にぺこぺこ頭を下げ、番頭はそう言い残してその場を後にする。

すぐに小間使いと思われる、まだ八つほどの少女が些か緊張した面持ちで茶菓を運んできた。

写生道具を脇に置き、熱そうに茶を啜る海華は退屈しのぎだろう、隣に座る兄へ小さく囁き掛ける。


 「大きなお屋敷ねぇ。さすが競作持ち掛けるだけあるじゃない? あそこの掛軸もきっと高いわよ、いくらすると思う?」


 「馬鹿、人様の持ち物を品定めするな、みっともない。あの旦那様が客間に安物飾るわけないだろう」


 「そうよね、きっとお勝さんも目の玉飛び出るような振袖来て来るわよ。あぁ、あたしも綺麗な着物来て、お芝居でも見に行きたいわぁ」


 ねだるような眼差しを向けてくる妹から目を逸らし、ごほん、と咳払いを一つ。

朱王は『金が入れば買ってやる』と、ぶっきらぼうに言い放つ。

やった!と小さく海華が叫んだ、その時だった。


 「あたしもう嫌よ! 嫌! ぜーったいに嫌ー!」


 遠くの方から、癇癪を起こしたと思われる女のキィキィ声が鼓膜を震わせる。

思わず聞き耳を立てる二人。

甲高い叫びは更に続いた。


 「朝から何人目なのよ!? もう振袖なんか着ないしお化粧だってしないわ! あんな退屈なこと、金輪際ごめんよっ!」


 「お嬢様! あまり我儘を仰らないで下さい、また旦那様に叱られますよ!」


 金切り声に続いて聞こえてきたのは、あの番頭と思われる男の必死な叫び。

急に騒がしくなった部屋の外に目を向け、次に互いの顔を見合わせた二人は、揃って小首を傾げていた。

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