表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十一章 流浪の胎児
148/205

第四話

「女の住処すみかがわかったぞっ!」


 戸口を開け放つと同時にそう叫び、志狼が部屋に飛び込んでくる。

顔を跳ね上げた兄妹の表情が、その瞬間、ぱっと明るいものに変わった。


 「すまなかったな志狼さん、助かった!」


 「本当にありがとう! 志狼さんが来るのずっと待ってたのよ!」

 

 軽く腰を浮かせる朱王の隣では、海華が鉄瓶で沸かしていた湯をどぼどぼと急須に注いでいる。

畳にどかりと胡座をかき、海華から渡された若干ぬるめの茶を一口飲み下した志狼は、手の甲で口元を拭い、早速尾行の成果を話し始めた。


 「あの女、裏道裏道選んで歩きやがるから尾行つけるのに苦労したぜ。辻からかなり離れた所にある長屋……確か福座長屋ってところ に入っていった。隣近所で色々話を聞いたんだがな、どうやら男と一緒に住んでるらしい」


 「男と一緒にぃ!?」


 上擦った声で叫ぶ海華は、一瞬苦々しい表情を浮かべる。

しかし、すぐに何かに気付いたように、はっ、と目を見開いた。


 「もしかして、お腹の子ってその引っ張りこんだ男の子供なんじゃない!?」


 「引っ張りこんだ、んじゃないんだ。お牧の方が男の部屋に転がり込んだみたいだぞ」


 ぐっ、と茶を一気に飲み干しながらの志狼の言葉に、朱王は眉を潜めながら深く腕を組む。

そんな彼をちらりと横目で見遣り志狼は話しを続けた。


 「その男、船大工の太一って名なんだが、お牧の奴、周りにゃ幼馴染みだと言ってるらしい。普段からよく太一の所に来ているのを皆見てた。それでな、その太一がふた月前に足場から落ちて三途の川渡り掛けたんだと」


 「あらまぁ……そりゃあ気の毒な話しねぇ。 でも、取り敢えずは生きていたんでしょ?」


 湯飲みを手にしたまま目を瞬かせる海華へ、志狼は小さく頷いた。


 「まあな。だが、頭の打ち所が悪くて、ふた月たった今でも寝た切りだと。話しも出来なきゃ身体も動かない、ほとんど廃人だな。医者からも匙投げられて、いつ死んでもおかしくないって、近所の人間は噂してる。……でな、俺も少し考えたんだ」


 そこで一度言葉を切り、小さく咳払いした彼は、苦虫を噛み潰したような顔の朱王と、こちらに身を乗り出す海華を交互に見遣った。


 「お牧の腹にいる子は太一の子で、父親になる太一を元通りに治したいから医者にかかる金が必要だったんじゃないか? 寝た切りの亭主かかえた上に赤ん坊なんざ産まれちまったら、生活出来ないだろう」


 「まあ、そう考えるのが妥当だろうな。うちに金があるのを誰かから聞いて、腹の子をダシにしてうちに上がる機会を狙っていたんだろう」


 ばりばり頭を掻きながら呟く朱王の隣では、海華が腹立たし気に眉をつり上げる。


 「……赤ちゃんがあんまり可哀想よ。産まれる前から泥棒の片棒担がされるなんてさ」


 「余程切羽詰まってたんだろうぜ。汗水垂らして稼いだ金も、ぱらった金も同じ金だ。形振り構っていられるかっ!、てな」


 志狼の台詞にますます海華の眉が寄せられる。

だが、彼の言い分は正しいのだろう。

朱王も特に反論はせず、ただ黙って畳に置いた手付かずの湯飲み、その茶の中に映る自らの顔をじっと見詰めていた。


 翌日、お牧が住処すみかとしている福座長屋ふくざながやの前には兄妹と志狼、桐野と都筑、高橋、そしてなぜかお石とおさきの姿があった。


 朱王の後ろに隠れるように立ちきょろきょろと忙しなく辺りを見回す中西長屋の住人二人は、海華が頭を下げて、ここまで同行してもらったのだ。


 『お牧が中西長屋を訪れたという証人が必要だ』との桐野の言葉を受けてのことだが、長屋のほぼ全ての人間がお牧を目撃しているにも関わらず、いざ証人になってくれと頼むと皆尻込みし、結局は断られてしまう。

面倒事に巻き込まれたくない、そんな思いからだろう。

これを責める訳にもいかず、ほとほと困り果てていたところ、お石とおさきが『助けになれるなら』と、手を挙げてくれたのだ。


 早速二人を伴って長屋を訪れ、近所の者にお牧がいることを確認した桐野は、いささか強めにがたついた戸口を叩く。

直ぐに中から『はーい』と明るい女の声が返り、皆の前でがらりと戸が開かれた。

中から顔を出したお牧は、粗末な茜色の絣着物を纏い、ふっくらと膨らんだ腹に紺色の前掛けを締めている。

にこやかな笑みで現れた彼女は、朱王と海華、そしてい並ぶ三人の侍らの顔を見るなり、一瞬でその表情を凍り付かせた。


 「早くからすまぬな。ここは船大工の太一の部屋で間違いないか?」


 じろりと睨みを効かせる桐野にお牧は縮み上がりながらも、こくんと小さく頷いた。


 「は、い……太一さんは、今、臥せっております。その……どのようなご用、でございましょう?」


 「どのようなも何もないわよ! あんた、兄様の顔見てよく平然としていられるわねっ! もう言い逃れはさせないんだからっ!」


 噛み付かんばかりの勢いでお牧を一喝した海華。

しかし彼女は顔を伏せ、微かに震えた声を出す。


 「この方は、どなたですか? 私は言い逃れなんて……大体こんな人、知りません……」


 「知りませんって、あんた、そりゃないんじゃないかい?」


 鋭い目付きでお牧を睨む海華の背後にいたお石が、すっとんきょうな声を上げる。

それにつられたのか、おさきも兄妹の間から皺だらけの顔をにゅうっ、と突き出した。


 「あんた、朱王さんの許嫁だって言って、うちの長屋に来たじゃないか。腹の子も、朱王さんの子なんだろ?」


 「散々大騒ぎさせておいて、知りませんは無いんじゃないのかねぇ? あたしゃあね、こんな婆ぁだが、頭と目はまだまだしっかりしてるんだよねぇ。お侍様ぁ、長屋に来たのはこの人で間違いありませんよ」


 証人二人に問い詰められもう逃げられないとわかったのだろう。

お牧はがたがた震えながら戸口に身を凭れさせ、今にも消え失せそうにか弱い声で『申し訳ありません』と何度も何度も繰り返す。

彼女の充血した瞳はみるみるうちに涙で濡れ、ぽろぽろこぼれた透明な雫は、大きく突き出た腹、前掛けに次々と暗い染みを作り出していた。


 戸口に寄り掛かりさめざめと泣き出すお牧の泣き声に気付いた長屋の住人達が、次々と表に顔を出し始める。

このままではいらぬ混乱を招くだけだと判断した桐野は、しゃくりあげるお牧の耳許で『中に入れてくれ』と、小声で囁いた。

こくりと頷いた彼女は、先に室内へと姿を消す。

それを確かめた後、桐野は未だにむっつりと顔をしかめるお石とおさきへ振り向き、にこりと微笑んだ。


 「ご苦労だったな、そなたらはもう帰ってもよいぞ」


 「左様でございますか? なら……おさきさん、失礼しようかね」


 「そうだねぇ。じゃあ朱王さん、海華ちゃんも、あたし達ゃあ帰るよ」


 「どうもありがとうございました」


 「お石さんもおさきさんも、お手数掛けてすみません」


 ぺこぺこ頭を下げる兄妹に『気にするんじゃないよぉ』と黄ばんだ歯を見せて笑いながら、二人は長屋を後にする。


 「さて……あぁ、志狼、悪いがお前はここで人払いをしてくれぬか? 余計な客が押し掛けてくると面倒だ」


 「承知致しました」


 軽く会釈し、戸口の横に立つ彼と擦れ違った時、朱王の耳に『きっちり金取り返せよ』と、微かな囁きが届く。

ちらりと彼を見遣り、視線が合った瞬間、にやりと志狼は口角を吊り上げた。

 

 小綺麗に整頓され、掃除も行き届いた狭い室内には強い汗の臭いが籠っていた。

鴨居に掛けられた紺色の半纏、部屋の角に積まれたかんなや金槌などが収められた木箱、家財道具と大工道具に囲まれるように室内の真ん中で、煎餅布団に横たわった男の姿があった。


 二十歳前半だろうその男は、桐野や朱王らが部屋に入っても身動ぎ一つせず、まるで腐った魚のように虚ろな目を天井に向けたままだ。

額には真っ白な包帯が巻かれ、痩けた頬にはうっすらと無精髭が伸びている。


 「この者が、太一か?」


 ぽかんとした表情で横たわる男を見る高橋の唇からこぼれた問いに、お牧は項垂れながらも小さく頷いた。


 「ふた月前から、ずっとこんな状態です……。動けないし喋れない、食事はなんとか摂れるまでにはなりましたが……」


 頬を流れる涙を袖口で拭い、布団の足元に彼女は腰を下ろす。

何分狭い部屋だ、桐野ら侍三人が座ってしまえば後は立つ場所すらない。

仕方無く土間に突っ立ったままの兄妹。

と、仏頂面を隠さない海華は深く腕を組み、じろりと小さく縮こまるお牧を一瞥した。


 「ところで……お金はどうしたの? まさか、全部使っちゃったわけじゃあないわよね?」


 海華の言葉に涙を拭き拭き立ち上がったお牧は、太一の仕事道具を収めている木箱の蓋を開け、大小ののみやら金槌やらを引っ張り出す。

やがて、空っぽになった箱の中から重そうに取り出されたのは、紫色の布に包まれた小さな包みだった。


 「……太一さんの診療代とお薬代で、三両程使ってしまいました……本当に、本当に申し訳ございません……っ!」


 包みを桐野へ差し出した刹那、彼女は深々と頭を下げる。

鼻先から滴る涙と潰れかける大きな腹を見ながら、桐野は無言で包みを土間の方へと押しやった。


 「額を確かめろ」


 そう彼に言われ、兄妹は早速上がり框の上で包みを開く。

山吹色に鈍く輝く小判の山を目にするなり、海華の口から無意識に安堵の溜め息がこぼれ落ちていく。


 「六十五、六十六、六十七、六十七両、ぴったりね」


 「うん、そうだな。桐野様、間違いなく六十七両あります」


 真剣な眼差しで小判を数えていた朱王は、桐野へ顔を向けて小さく頷く。

『うむ』と小さく答えたは、再び顔をお牧へと向けた。

じゃらじゃらと金属がぶつかる音を立てながら金を集める海華が、小さく鼻を啜るお牧にちらりと視線を投げる。 


 「今更聞くまでもないが……金を盗んだのは、太一の治療代欲しさか?」


 こめかみ辺りを指先で掻き、そう尋ねる桐野。

こくんと首を縦に振るお牧の口から涙声で盗みの動機が語られ始めた。


 「太一さんとは、随分前から夫婦の約束を交わしておりました……。半年前に子供も授かって、太一さん、『お前と生まれてくる子供には不自由させない』って、寝る間も惜しんで仕事して……それが足場から落ちてこんな身体に……」


 ほとんど廃人状態になってしまった太一、悲しみにくれている間にも腹の子は日に日に大きくなる。

自らの家財道具全てを売り払い治療代と薬代、生活費に当てたのだが、そんな物は焼け石に水。

とうとう近所から借りなければならなくなった。


 「もう、どうしていいかわからなくて……。 時期に子供も生まれてきます。私の稼ぎだけで親子三人はとても食べていけません。だから……」


 「朱王の金を狙ったのか」


 気の毒そうな面持ちで溜め息をつく都筑に、お牧は無言で頷いた。


 「それで、どうしてうちに大金があるって知ってたの? あたし達そんな事誰にも話してなんかいないわよ?」


 上がり框に腰掛けた海華が不思議そうに呟く。

すると、ばつが悪そうに彼女を見遣ったお牧は、蚊の鳴くような声を出した。


 「私の勤めているお茶屋で、いつもいらっしゃるお客さん達が話しているのを聞いたんです。……確か、人形問屋に勤めている人でした」


 『中西長屋にいる朱王って人形師、十両二十両は軽く越えるいい人形作るんだが、未だに崩れ掛けた長屋住まいなんだ』


 『身なりにも食い物にも金かけねぇとなりゃあ、後はがっぽり貯め込んでんだろうよ。もしかしたら、家ん中に大判小判が山に積まれてるかもしれねぇぜ?』


 無意識に小耳に挟んだ単なる噂話。

普段なら気にも止めない話しだろうが、喉から手が出るほど金が欲しかった彼女には、正に神の助けに思えたのだ。


 「何とかして朱王様に近付こうと……それで、お腹の子が朱王様の子供だなんて嘘をついて……」


 部屋に入り込み、金を物色する。

その目的は、意外に早く達成出来た。

二人が抱き合っていたのを運悪く目撃し、逆上して飛び出した妹を朱王が慌てて追い掛ける。

絶好の機会とばかりに、彼女は室内を必死で探し、荒らして、遂に長持ちの中から七十両もの大金を見付けたのだ。


 「これだけあれば、太一さんの薬も買えるし、満足な治療も受けさせてあげられる……。 あの時はそれしか考えていませんでした。でも……私、何てことを……! 本当に、本当に申し訳ありません! このとおりです! 許して下さいっっ!」


 激しく泣きじゃくり、腹が潰れんばかりに頭を下げ続けるお牧を見詰める朱王の口から、ふぅっ、と細い、そして悲しげな溜め息が漏れていた。


 「金を盗んだことは、もういいです。これ以上は責めません」


 朱王の口から静かに漏れた台詞に、太一以外のその場にいた全員が驚きの表情を浮かべて彼に視線を集中させる。

長めの前髪を掻き上げながら、朱王はお牧に顔を向けた。


 「済んでしまったことは仕方無い。私は金さえ戻ればそれでいいのです。使ってしまった分も、今すぐ耳を揃えて返せとは言いません。少しずつ返してもらえれば結構です」


 寛大なる彼の言葉に固まっていたお牧の表情が、少しだが和らいだ。

しかし、兄の隣に座する海華は釈然としない様子で彼を見上げている。

と、急に朱王のお牧へ向ける視線が厳しくなった。


 「金のことは別にして、私はお腹の子をダシに使った貴女がどうしても貴女を許せない」


 研ぎ澄まされた刃のような鋭さを含んだ台詞に、しん、とその場が静まり返る。

唇をきつく噛み締め、お牧はふくよかな腹にそっと手を当てた。


 「貴女はお腹の子は私の子だと言いました。 間違いないと断言までしましたよね? もし、産まれた子供がそれを誰かから聞かされたら、『お前の父親は太一さんじゃない』なんて言われたら、貴女子供にどう言い訳するつもりなのですか?」


 徐々に目付きが厳しくなる兄を横目に、海華はごくりと生唾を飲み込んだ。

都筑も高橋も気が気ではないようで、忙しなく視線が朱王とお牧の間を移動する。

ただ、桐野だけが静かに目を閉じて朱王の言葉に耳を傾けていた。


 「子供を物取りの道具のように使った貴女が、私はどうしても許せない。子供は親の所有物ではない。これから産まれてくる子供が、将来母親のしたことを知ったらどう思うか……それを考られなかったのが、本当に残念です」


 諭すような彼の言葉に反論出来ず、お牧はただただ涙をぽろぽろぽろぽろこぼして、腹を撫で続ける。 今更ながら、自分がしたことの重大さに気が付いたようだ。

上がり框に置かれた金の包みを妹に渡し、朱王はこちらに背を向ける桐野へ視線を移す。


 「桐野様、お騒がせして本当に申し訳ありません。わざわざご足労頂いて、こう申しますのは心苦しいのですが……今回の件は、どうか穏便に。私は、特に訴える気はありませんので……」


 「そうか、お前がそう言うのならば、な。どうだ海華殿、それでよいか?」


 「は、い……兄様が決めたことですから……」


 一度決めたら自分が反対しようが暴れようが無駄だ。

兄の性格がよくわかっている彼女は、渋々ながらも首を縦に降る。

とにかく、金が戻ればそれでいいのだ。

もし、お牧がお縄にでもなれば、牢屋で子供を産むはめになるだろうし、何より寝た切りの太一を世話する者がいなくなる。

諸々を考えて兄が出した結論を、真っ向から否定する気はなかったのだ。


 そんな朱王の言葉を聞いたお牧は、くしゃくしゃに顔を歪め、ひたすら『ありがとうございます』と繰り返し、頭を下げ続ける。

涙に咽ぶ彼女の横では、ぼんやりと天井を眺めていた太一が、ほんの少しだけ、乾いた唇を戦慄かせていた。


 お牧から金を返してもらった翌日、海華はいつものように辻に立ち、仕事に精を出していた。

盗まれた金は無事に戻ったが、長持ちの中に大金が隠してあると他所の人間に知られてしまった以上、もうその中に金は置いておけない。

またいつ盗まれるかとびくびくしながら暮らすなんて真っ平、二人は考えに考えて、別の隠し場所を用意することにした。


 しかし、何分狭い長屋の部屋、隠せる所はそう多くない。

最終的に二人が見つけた隠し場所は、海華の古い鏡台だった。

引き出しと鏡を全て外し、がらんどうになった台の中に朱王が三重底をこしらえる。

二重底は見破られてしまった為、念には念を、との朱王の考えからだった。


 お陰で引き出しは一つ使えなくなり、不便にはなったが、それもこれも必死に貯めた金のためだ。

我慢ならいくらでも出来る。

取り敢えずは一安心、仕事にも集中することが出来ると、二人は一安心だ。

朝から何ヵ所かの辻を廻った海華は、昼前に一度一休みしよう、と人形を木箱にしまう。

ずしりと重たい木箱を背負ったその時、道を行く人波の向こうから兄が歩いてくるのが見えた。


 仕事で出掛けていたのだろうかとも思ったのだが、兄は手ぶらである。

出不精の兄が珍しい、と小首を傾げながらも海華は彼に向かって駆け出した。


 「兄様ー! 兄様!」


 「あぁ、お前か。ご苦労さん」


 突然駆けてきた妹にいささか驚いたような彼だが、すぐ口元に小さな微笑みを浮かべる。

道の端に寄った二人の頭上では、やっと蕾を綻ばせ始めた桜が、そよ風に小枝を揺らせた。


 「どこか用事でもあったの?」


 「うん……。ちょっとな、小石川に……」


 僅かに視線を妹から逸らせ、彼はぽりぽりと頬を掻く。

小石川、そう聞いた海華の片眉がぴくりと跳ねた。


 「小石川ねぇ……。もしかしてさ、太一さんのこと頼みに行った訳?」


 にやぁ、と意味ありげな笑みを見せる妹に、朱王はばつが悪そうに視線をさ迷わせる。


 「仕方無いだろ、あのままじゃお牧さん、寝た切りの亭主と腹の子抱えて路頭に迷う。時々でいいから様子を見てやってくれ、と清蘭先生に頼みに行ったんだが、な……」


 「頼みに行ったけど? どうしたのよ、先生に断られた?」


 兄を見上げる海華の顔に、不安の色が過る。

いや、と小さく答え、彼はおもむろに天を見上げた。


 「どうやら遅かったらしい。もう、先客がいたよ。俺と同じ事を頼みに来ていた人がいた。 ……誰だと思う?」


 「さあ……? 兄様みたいなお人好し、他に誰かいるかしらね?」


 頬に手を当てて考え込む妹に、朱王はちらりと白い歯を覗かせる。


 「桐野様がいらしていた」


 「あ……桐野様が、ね。……お金盗られた挙げ句に医者の口利きする兄様も、馬鹿が付くほどのお人好しだけど……桐野様もなかなかね」


 『あたしの周りには、お人好しばっかり』


 そう言って、海華はころころと笑う。

それを見る朱王も、朗らかな笑みを浮かべて風に戯れる長髪を手で押さえた。

風薫る季節、もうじき春も盛りを向かえる街角に、兄妹の笑顔が溢れていた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ