第三話
魂が抜けてしまったかのようにへたり込む妹を半ば引き摺りながら番屋へ駆け込んだ朱王。
忠五郎や、ちょうどそこに居合わせた都筑、高橋は、またもや兄妹喧嘩が勃発したか、と一瞬身構える。
しかし、青ざめた顔をした朱王から事の次第を聞いた途端、番屋の中は別の意味で大騒ぎだ。
都筑、高橋の両名は朱王がお牧から聞いていた彼女の勤め先である両国の茶店に走り、忠五郎と留吉は、同じく朱王が聞き出していたお牧の住まう茶店近くの長屋へ飛んで行った。
しかし茶店では、お牧はここ数日無断で店を休んでいると言われ、長屋はとうの昔に引き払われていたのだ。
手掛かりは完全に失われ、彼女はどろんと雲隠れ。
何も掴めず番屋に戻ってきた四人を見て朱王はがっくりと肩を落とし、海華は最早涙目だ。
必ずお牧を捕まえる。 そんな都筑の言葉を受け、二人はとぼとぼと荒れに荒れた部屋に帰るしかなかった。
さて、その日の夜、二人の姿は行き付けの店である蕎麦屋『おふく』にあった。
二人の前には湯気の立つ鴨南蛮、そしてにこやかな笑みを浮かべる修一郎。
二人の部屋に泥棒が入り、有り金全部盗まれたと桐野から聞いてさっさと仕事を片付けて飛んで来たのだ。
彼が長屋へ駆け付けた時、粗方片付いた室内には空きっ腹を抱えてしょんぼり座り込んでいる兄妹の姿があった。
何しろ金を全て盗まれ、食い物も買えない。
海華は昼から、朱王はと言えば昨日からろくに食事をしていない。
そんな二人を見兼ねた修一郎が『飯を食わせてやる』と蕎麦屋に連れ出したのだ。
「そら、遠慮せずに食え。早くしないとのびてしまうぞ」
「は、い……ありがとうございます」
「い、いただきますっ!」
ぺこりと一つ頭を下げた海華は、箸を掴むやいなや夢中になって蕎麦を啜る。
よほど腹が減っていたようだ。
そんな妹を横目で見ながら、朱王も早速熱々の蕎麦に箸をつける。
幾日ぶりかに食すまともな 食事は腹が喜びの悲鳴を上げるかと思うくらいに美味かった。
黙々と蕎麦を平らげていく二人を些か不憫そうに見遣りながら、修一郎は一人茶を啜る。
半分程丼を空にしたところで、朱王は唐突に箸を置いた。
「修一郎様には、本当にご迷惑をお掛けしてしまって……申し訳ありません」
「何が迷惑なものか。大変な目にあったのはお前達だ。……ところで朱王、その蓄えとやらはどの程度の金だったのだ?」
彼の問いに、海華の箸がぴたりと止まる。
言いにくそうに唇を噛んだ朱王は蚊の鳴くような声でぽつりと呟いた。
「その……七十両程、です」
朱王の口から出た額に、思わず修一郎は茶を吹き出しそうになった。
七十両と言えばかなりの大金だ。
「そんな大金が、あの部屋にあったのか……」
吹けば飛ぶようなぼろ長屋に住まう彼らが七十両も持っていたとは……。
よくそれだけ貯めたものだ、と変に感心していた修一郎へ、海華は沈んだ眼差しを向ける。
「私と兄様が……一生懸命働いて、うんと節約して貯めたお金なんです……それ、全部盗られてしまって……」
ぐすん、と鼻を啜る彼女に、修一郎は掛ける言葉が見つからなかった。
それは朱王も同じらしく、ただ『元気を出せ』と言うように無言で妹の肩を叩く。
酔客で賑わう蕎麦屋の一角、三人の周囲にだけ、酷く沈んだ空気が立ち込めていた。
修一郎に蕎麦を馳走になり、当座の生活資金まで用立てて貰った二人。
自分達のことをここまで気に掛けてくれる彼には感謝以外ないが、いつまでも好意に甘えているわけにはいかない。
幸いなことに、二人共に商売道具は無傷だった。
このまま嘆き悲しんでいても、お牧の行方がわからぬ限り金は戻ってこないのだ。
『金が欲しければ働け』それが朱王の持論である。
蕎麦屋から帰った翌日、早速海華は人形を背負って辻に走り、朱王は何でもいいから仕事は無いか、といつも贔屓にしてくれている人形問屋へ走った。
どんよりと厚い雲に覆われた花曇りの空。
生暖かい風そよ風が、膨らみ始めた桜の蕾を優しく撫でていく。
人の往来が激しい辻に立つ海華は空きっ腹に思い切り力を入れ、大声で唄いながら華麗に人形を操った。
乱暴に畳に放られていた人形だが、傷も無く壊れた箇所も見つからない。
いつも通り、海華の手によって命を吹き込まれた人形は、くるくると軽やかに、そして妖艶に見る者を魅了していった。
道に置いた小さな木箱に次々と銭が投げ入れられる。
金属がぶつかり合う甲高い、しかし心地好い音を耳にしながら、海華は内心安堵していた。
今日一日働けば、なんとか二、三日分の食費は賄える。
空腹に耐えることもない。
芝居が終わり、集まった金を背負っていた木箱に収める海華。
と、道行く人波の向こうから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、彼女はきょろきょろと辺りを見回した。
「よう! 早速稼ぎに出ていたか」
「あ、志狼さん!」
人の間を縫いながらこちらに向かって来たのは、大きな風呂敷包みを携えた志狼だった。
彼が大事そうに抱えている四角い包み、きっと重箱か何かが入っているのだろう。
「旦那様から聞いたぜ。あの女、はなっから金取り目的で朱王さんに近付いたらしいな?」
長めの前髪を風に揺らし、彼は僅かに眉を潜める。
それにつられるように、海華もくしゃりと顔を歪めて頷いた。
「そうなのよ……有り金全部盗られちゃったわ。忌々しいったらありゃしない」
「災難は重なるもんだな。でもよ、どうしてあの部屋に大金があることをあの女が知っていたんだ? 言っちゃ悪いが、あんな崩れかけのボロ長屋に住んでる奴が、大金隠し持ってるなんざ誰も思わねぇぜ?」
如何にも不思議だと言わんばかりに小首を傾げる志狼。
それは海華も、勿論朱王もずっと疑問に思っていたことだった。
いくら朱王が引く手あまたの人形師でも、七十両はあまりにも大金、まずそんな額を長持ちの中に隠しているなど思わないだろう。
「おめぇ、どこかでぺらぺら喋ったんじゃねぇのか?」
にや、と笑う彼へ、海華は下から睨むような視線を送る。
「あのね、いくらあたしだってそこまで口は軽くないわよ。『お金があります、盗みに来て下さい』って言ってるようなもんじゃない」
自分はそれほど馬鹿ではない。
すっかり臍を曲げてしまった彼女に、志狼は苦笑しながら持っていた包みを差し出した。
「悪かったよ、そうむくれるなって。これな、今夜の夕餉にでもしてくれ」
「え? いいの? わざわざありがとう。気を使わせちゃって、ごめんなさいね」
膨れっ面はどこへやら、ぱっと顔を輝かせた海華は、嬉しそうにその包みを受け取る。
「また腹が減った、ひもじいって泣いてるんじゃねぇかと思ってな。金が無いんじゃ米も買えねぇだろ」
「うん、足りない分は周りから借りようと思ってたの。本当助かるわ、志狼さんありが、 と……」
急に海華の言葉が途切れ、じっとある一点を見詰め出す。
彼女の視線は志狼ではなく、その後ろ、ある町医者の診療所から出てきた一人の人物に釘付けとなっていた。
海華がある一点を凍り付いたように見詰めているのに気付いた志狼は、くるりと後ろを振り返る。
そこにいたのは、薄い若草色の着物を纏った一人の女、大きく膨れた腹を大事そうに撫でながら、人気の無い脇道へ入っていくところだった。
「あ、の女、っ!」
海華の口から激しい怒りを圧し殺した呻きがこぼれる。
慌てて彼女を見れば、顔を真っ赤に上気させ、柳眉はぎりぎりと逆立っていた。
『あの女は誰だ?』志狼がそう尋ねるより早く、彼女は風呂敷包みを抱えたまま勢いよく地を蹴った。 疾風のように自分の横を駆け抜け脇道へ姿を消していく彼女の名を叫びながら、その後を追って走る志狼へ、不審そうな眼差しが次々と突き刺さる。
そんなものを気にする余裕も無く、脇道に飛び込んだ彼が見たものは、烈火の如くに怒りを爆発させ、女に向かって怒鳴り散らす海華の姿だった。
「あんたお牧さんでしょ!? あたしのこと知らないなんて言わせないわよっ!」
「私はお牧なんて名前じゃありません! いきなりなんですか、失礼な!」
「失礼!? それはこっちの台詞よっ! お腹の子の父親がうちの兄様だなんて大嘘ついて! お金返して! あんたがうちから盗んだお金返しなさいよっ!」
声をかけるのも躊躇われるほど怒り狂う海華、 一方女は顔を青ざめさせながらも、『貴女なんか知らない』、『お金なんか盗んでいない』と繰り返す。
「私は貴女も貴女のお兄さんも知りませんっ! お金を盗んだなんて……酷い言い掛かりは止して下さいな! 人を呼びますよっ!」
「呼べばいいじゃないっ! ついでに番屋にも行きましょうか!? そうなって困るのはあんたでしょう! とにかく、今すぐお金返してっ!」
「止めろ! もういいから! 少し落ち着けっ!」
風呂敷包みを放り出し、今にも女に殴り掛かりそうな彼女を見兼ねた志狼は、半ば羽交い締めするように海華を後ろから抱え込む。
その隙をついて、女は小走りに道の向こうに消えてしまった。
「離して! 志狼さん離してよっ! あの女なの、あたしと兄様のお金盗んだの、あの女なんだからぁっ! 逃げるんじゃないわよ! 待ちなさいよ──っ!」
「止めろって言ってんのがわかんねぇのかっ!?」
背後から響いた志狼の怒号に、一瞬海華の抵抗が止む。
そんな彼女の前に回り込み、志狼は僅かに身を屈めて彼女のまだ怒りに燃える目をじっと見詰めた。
「ここで騒ぎ起こしてどうするんだっ!? 少し冷静になれ!」
両肩を掴んで前後にがくがく揺さぶれば、彼女はいかにも悔しそうにきつく唇を噛み締めて、女が消えた道の向こうを睨み付ける。
「あの女なのよ……今捕まえたら、絶対にお金……」
「わかった、わかったから……あれの後は俺がつける。どこに住んでいるか、必ず突き止めてみせる。だからおめぇは先に帰ってろ」
真剣な眼差しでこちらを見詰める志狼に、海華の表情に微かな不安の色が浮かぶ。
「でも……大丈夫? 志狼さん本当に……」
「大丈夫だ、約束する。これでも忍の端くれなんだぜ?」
にっ、と白い歯を見せた彼は、素早く踵を返して女の消えた方向へ駆け出していく。
彼の後ろ姿は海華の見ている前で道の彼方にあっという間に消えていった。
志狼に言われるがまま、長屋へと海華が帰ると、そこには文楽人形の頭を前に腕捲りしている兄の姿があった。
朝、人形問屋へ仕事を探しに自ら赴いた朱王。
普段はこちらから仕事を頼みに行くのに…… と、目を丸くする主人に、恥ずかしながら、と朱王は泥棒に入られ有り金全て盗まれたことを話して仕事をくれるよう頭を下げた。
主人はひどく同情し、いつもいい仕事をしてくれるから、と他の人形師に頼もうとしていた文楽人形の修繕の仕事を二つもくれたのだ。
この仕事を終えれば暫く食べるに不自由しないだけの金が入る、と朱王は上機嫌。
さぁ、始めようとしていたところへ、がっくり肩を落とした海華が帰ってきた、という訳だ。
大きな風呂敷包みを抱えて盛大な溜め息をつく彼女を見て、にこにこと顔を綻ばせる朱王は小さく首を傾げた。
「なんだ、やけにしょげてるじゃないか? 客の入りが悪かったのか?」
「違うわ。お客はそこそこ入ってた……」
「そうか、なら良かったじゃないか、俺もいい仕事貰えたよ。暫く金には……」
「あの女、見付けたわ」
兄の言葉を遮り、ぽつりとこぼした海華。
その呟きを耳にした途端、朱王の顔から今まで浮かべていた笑顔が消えた。
「あの女、って……お牧か!? どこにいた!? どこで見たんだ!?」
四つん這いになり、妹に飛び付かんばかりの勢いで彼女の前に来た朱王は、矢継ぎ早にそう問い掛ける。
膝の上に乗せていた包みを傍らに置き、海華はさっき辻であったこと全てを兄に話して聞かせた。
「……でね、今志狼さんがお牧の後を追い掛けてるの。必ず住処は突き止めるから、お前は先に帰ってろ、って」
「そうか、そんなことが……。なら、このまま志狼さんが来るのを待とう。下手に俺達が動けば、またお牧に逃げられる」
「そうね。あ…… っと、これ志狼さんから。また腹減らしてるんじゃないか、って」
彼から渡された包みを兄へ差し出せば、朱王は苦笑いしながら頭を掻く。
「志狼さんにはいつもいつも面倒掛けるな。 今度埋め合わせしないとな」
「うん。二人で飲みにでも行ったらいいわ。 ……その為にも、盗まれたお金は絶対取り返してやるんだから!」
ばしん! と勢いよく自らの腿を叩き、海華が呻く。
脳裏に浮かぶお牧の嘲るような笑顔が、ひどく癪に障るのだ。
きっと今頃、馬鹿な男からくすね大金をくすねた、と高笑いしているのか……。
そう思うと、悔しくて悔しくて夜も寝られない。
志狼の尾行が上手くいくこと、そして彼が早くここへ現れるのを今か今かと待っていた二 人。
息を切らせた志狼がこの部屋の戸を叩いたのは、西の空が杏色に染まり、それを背景に胡麻粒にも似た烏の群れが次々とねぐらへ向かう頃だった。




