第二話
怒り心頭で番屋から帰った朱王は、その日部屋に引きこもり、勢いに任せて酒瓶を一つ空にした。
一体自分が何をした、なぜこんな目に遭わなければならない……。
ふつふつ沸き上がる怒りを酒で流し込むが、酔わないばかりかちっとも美味く感じない。
番屋に置き去りにした妹のことが時おり頭を掠めたが、彼はそう深刻に考えていなかった。
今までも兄妹喧嘩で海華が部屋を飛び出して行ったことは何回かあるし、いつも彼女の方から戻ってきた。
朱王の方から折れ、『頼むから戻ってくれ』なんて頭を下げたことは一度もない。
そんなみっともない真似が出来るか、大体俺は何も悪くない。
むしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、酒を飲み飲み妹を待つが、一向に帰ってくる気配はない。
昼を過ぎ、西の空に茜の夕日が沈みゆく、とうとうとっぷり日が暮れた。
それでも海華は帰ってこない。
竈の脇には朝餉に使った茶碗や箸がそのまま残され、土間には盥に入ったまま山のような洗濯物が置かれている。
空きっ腹を抱え、苛立ちはつのるばかり。
とうの昔に空となった湯飲みと酒瓶を畳に転がして怒りを深い溜め息と共に吐き出して、自らも畳に寝転がる。
ぼんやりと染みだらけの天井を眺める朱王の耳に、どんどんと強めに戸口を叩く音が飛び込んできた。 やっと帰ってきたか、そう思いながらのろのろ身を起こした朱王は『入れ』と、ぶっきらぼうに戸口に向かって声を掛ける。
がらりと戸口を開いたのは妹ではなく、やたらと不機嫌そうに顔を歪めた志狼だった。
意外な人物の登場に拍子抜けした様子の朱王を尻目にズカズカ室内に上がってきた志狼は、どかりと朱王の前に胡座をかいた。
「ど、うしたんだ、志狼さん。何か用……」
「海華の着替え取りにきた」
そう低く吐き捨てる彼に思わず朱王は驚きに目を見開く。
「あいつの着替えってなんでそんな物を?」
「海華がうちに来てるからだ。昼間旦那様が連れてきた。長屋に帰りたくねぇらしいから、一晩うちに泊めるってな。訳はあいつから聞いた」
むったりした表情で睨み付けてくる彼から無意識に目を逸らし、ばつが悪そうに頭を掻く朱王。
じっとこちらを睨む志狼の口から再び低めの声が放たれた。
「あいつな、飯も食わねぇで部屋に籠ってる。酷ぇ落ち込んでるぜ。厄介事に巻き込まれた朱王さんは気の毒だとは思うがよ、少しはあいつの気持ちも考えてやったらどうだ?」
「気持ちって……海華が勝手にむくれているだけだ。大体俺の言うことを信じないあいつが……」
なぜか反論の言葉が尻すぼみになってしまう。
小さくうつ向いてしまった朱王を呆れた様子で見遣る志狼は、がっくり肩を落として軽い溜め息をついた。
「信じねぇんじゃない。ただ混乱してるだけだ。考えてもみろ、知らねぇ女がいきなり押し掛けてきてよ、お兄さんの子供が出来ました、私がここに嫁入りしますなんてな、裏を返せば妹のあんたは出ていけって言われてるようなもんだろ」
「ちょっと待て、なぜ海華が出ていかなきゃならない? 俺はそんな気更々ない」
「あんた、この狭っ苦しい部屋で女房と妹同居させるつもりか? あいつが『それでいい』なんて、言うと思ってんのかよ」
志狼の指摘に言葉が詰まる。
言われみれば、確かにそうだ。
そうなったら、きっと海華は気を使って自分からここを出て行くだろう。
「無駄に面が良いのと人形作るだけしか取り柄の無いあんたの面倒を、嫁にも行かずにずっとみてきたんだぜ? それなのに、いきなりお前は用済みだ、みたいな態度取られたら、誰だって頭にくるだろう? あんたにまで『帰ってくるな』なんて言われてよ、それじゃあ、あいつが可哀想だ」
「人形作るだけしか取り柄の無い、か……。 当人目の前にして、よく言えるな」
彼の台詞に、ぷっ、と小さく吹き出しながら朱王は髪を掻き上げる。
「その通りじゃないか?」
にやりと悪戯っぽく笑う志狼の顔からは、既に訪れた時に見せた不機嫌さは消えていた。
『海華はあんたの所に帰るように、俺が説得しておく。だから、ちゃんと謝れ』
そう言い残し、志狼は海華の着替えを持って帰っていった。
確かに少し言い過ぎた、あの女の所に行く前に海華を迎えに行かなければ。
そんなことを考えつつ、朱王は早々と眠りにつく。
さて、その翌日、身仕度を整えた彼が長屋を出ようと土間へ向かった、その時だった。
「朱王様、お早うございます」
晴れやかな声と共に目の前の戸口が開き、大きなお腹を抱えたあの女が満面の笑みで朱王の前に姿を現したのだ。
「……また、貴女ですか。ええと、名前は……」
「あらいやだ、お牧ですよ。もうすぐ妻になる人の名前を忘れるなんて、寝惚けていらっしゃいますの?」
厚めの唇に手を当て、さもおかしそうにくすくす笑うお牧。
『もうすぐ妻になる』の一言を聞いた途端、朱王は軽い目眩をおぼえて口元を引き攣らせる。
お牧は、洗われもしない汚れた食器と洗濯物の山を交互に見遣り、何度か目を瞬かせた。
「こんなに散らかって……すぐ片付けますわ。朱王様、朝餉はお済みになったのかしら? もしもまだなら、今すぐご用意致します」
ずかずか部屋に上がる彼女の腕を掴み、慌てて引き止める朱王は心底困ったような顔で眉間に皺を寄せる。
身重の女に乱暴はしたくないが、いつまでも図々しい真似をされる訳にもいかないのだ。
「お牧さん、先日言いました。私は貴女を知らないし、お腹の子の父親でもない」
「まだそんな嘘を仰るの? 朱王様、あの時私を嫁に迎えると仰ったではありませんか、その約束を違えるなんて、あんまりです」
頬を軽く膨らませて朱王を見上げるお牧。
結局、『貴女を知らない』『嘘をつくな』の堂々巡り。
噛み合わない話に痺れを切らしたのか、お牧は突然朱王に抱き付き膨れた腹をぐいぐい押し当ててきた。
「この子は朱王様、貴方の子供なのです! もうすぐ産まれる子を父なし子にされるおつもりですか!?男なら、責任を取って下さい!」
「だから何かの間違いです! 私は妹を迎えに……とにかく離れて下さい!」
ぎゅうぎゅう抱き付くお牧に狼狽えながら、 朱王は必死にその身体を引き剥がそうともがく。
狭い部屋で揉み合う二人。
すると、何の前触れもなくがらりと戸口が開け放たれ、今一番来てほしくない人物が現れたのだ。
「兄様ただいま、昨日はごめんなさいね、あたし……」
苦笑いしながら入ってきたのは、風呂敷包みを抱えた海華だった。
彼女は土間に一歩足を踏み入れた途端、目の前の光景に表情を凍り付かせる。
それは、やっとのことでお牧の迷惑な抱擁から 逃れた朱王も同じだった。
「み……は、な」
「──っっ! こ、の……獣 ──ッッ!」
怒りと羞恥に茹でられたように顔を赤く変えた海華の喉から、悲鳴とも怒声ともつかない叫びが迸る。 こめかみに青筋を立て、柳眉をぎりぎり逆立てた彼女は風呂敷包みを思い切り兄へ向かって投げ飛ばし、くるりと踵を返して今来た道を脱兎の如く、ぬかるむ泥を撥ね飛ばしながら走り去る。
「海華待て……! 違うんだ! 誤解なんだ海華 ──っ!」
ぽかんと口を半開きにするお牧を残し、朱王は下駄を履く間も惜しむように慌てて彼女の後を追い掛ける。
泥だらけの下駄の跡が二人分、八丁堀まで点々と続いていった。
その頃、八丁堀の桐野宅では、大きな箒で室内の掃除に精を出す志狼の姿があった。
昨日は夜遅くまで意気消沈した海華を慰め、宥めすかして何とか長屋に戻る事を約束させた彼は、些か寝不足気味なのか、何度も欠伸を噛み殺す。
今頃二人は無事仲直りをしている頃だろう。
そんなことをつらつら思う志狼の耳が外から響く男女の激しい言い争いを拾い上げる。
箒を動かす手を止める志狼。
なぜだかひどく嫌な予感がした。
「だから話を聞いてくれ! あの女とは本当に何も……」
「何も無かった!? よくそんなことが言えるわね! 朝っぱらから抱き合ってたくせにっ! やっぱりあたしはいない方がいいのねっ!?」
「そんなこと言っていないだろう!? お前はいつまで勘違いで腹立ててるつもりだ! ほら、帰る ぞ!」
「嫌よ離してっ! 離してよぉっ! 誰か助けてぇ! 人攫いーーッッ! 殺されるぅーっっ!」
その瞬間、志狼の手から箒が投げ飛ばされた。
素足のまま門まで走り出てみると案の定、真っ赤な顔をした海華が必死な形相の兄に口を塞がれ、猛烈な勢いで手足をばたつかせている。
「人んちの前でなに物騒なこと喚いてやがるっ! さっさと中入れっっ!」
こめかみに青筋を立て、そう一喝すれば、朱王は慌てふためきながら暴れる妹を軽々と抱き上げて門の中に駆け込む。
屋敷へ上がった途端、海華は兄の手を振り払いそのまま奥へ逃げ込んでいった。
「あんたは馬鹿かっ!?」
客間に通した朱王から事の次第を聞いた志狼は、思わずそう怒鳴っていた。
あの孕み女を部屋に上げ、あまつさえ抱き合っている所を海華に見られた……。
昨夜遅くまで彼女を説得した、あの苦労はなんだったのだ。
呆れ果てた様子で腕を組み、こちらを睨む志狼の後ろ、ぴしゃりと閉め切られた襖の向こうからはワンワン泣きじゃくる海華の泣き声が響く。
もう朱王は針の筵状態だ。
「俺が上げた訳じゃないんだ、あの女がいきなり入ってきて、抱き付かれて……」
「追い返せばいいだけの話しだろうが! 大体な、もとから話してわかる相手じゃねぇんだろ? 追い返せなかったら、あんたがさっさと部屋出りゃあ良かったんだ」
「あんた、本当に最低よっ! あたしの前でこれ見よがしに……! 鬼畜っ! 獣! 人でなしぃぃー!」
「だから違うと何度も言っているだろう! なぁ、頼むから帰ってきてくれ。あの女は二度と部屋に上げないから……」
襖越しに会話、と何とも奇妙な光景だが、とうとう朱王は泣き落とし作戦に出たらしい。
やがて静かに襖が開き、中から泣き腫らして真っ赤に目を充血させた海華が、そろそろ顔を出す。
「……兄様、あたしに帰ってほしいの?」
「当たり前だ、帰ってくるな、なんて言って悪かった。言い過ぎたよ。頼むから、この通りだから一緒に帰ってくれ」
畳に手をつき、頭を下げる兄を少々驚いたように見詰め、海華はちらりと志狼へ視線を投げた。
「朱王さんもこう言ってるんだ。いい加減機嫌直せよ。おめぇの有り難みがよくわかったんだろ? 帰ってやったらどうだ?」
「……うん。志狼さんがそう言うなら、わかったわ。兄様本当にあの女とは何もやましい事は無いのね?」
「無い! 何も無い! あの女が勝手に喚いているだけだ、腹の子は俺の子じゃない、それだけは信じてくれ」
真っ直ぐにこちらを見詰める兄に、海華は小さく頷いて見せる。
手間を掛けさせたことを丁重に志狼に詫びた二人は、揃って長屋への帰途につく。
頭上高く登った太陽の穏やかな光を浴びながら長屋へと戻った二人が自室の戸口を開けた途端、そこに広がる光景を目にした海華は驚愕の小さな叫びを上げ、朱王は表情を固まらせたまま呆然とその場に立ち尽くしていた。
「なによ……これ……」
一杯に目を見開き、海華が唇を戦慄かせる。
室内は惨憺たる有り様だった。
置きっぱなしの洗濯物は土間にぶち撒かれ、畳には朱王の仕事道具が散乱している。
引っくり返された長持ちからは二人の着物や襦袢が外に放り出されて色鮮やかな布地の海となり、引き出しが全て開けられた鏡台の前には 海華の商売道具である人形が、蓋の開けられ、横になった木箱から半身をだらりと投げ出していた。
全ての家財が滅茶苦茶に荒らされた部屋は足の踏み場すら無い。
まさにここだけ大嵐が吹き荒れたような惨状を前にし、二人は呆然と立ち竦むしか出来ないで いた。
が、次の瞬間、海華は土間に下駄を脱ぎ散らし、室内に飛び込んだかと思うと逆さまになった長持ちに駆け寄る。
空になったそれの中を必死で探っていた彼女は、やがて泣き出しそうな顔を未だ土間に立つ兄へ向けた。
「兄様……お金が、無い! 蓄えが……みんな無くなってる!」
その台詞に、朱王の顔から一気に血の気が引いていく。
散らばった着物をどかどか踏みつけ、妹の隣に駆け付けた彼は長持ちの中を見て愕然とした。
二人がこの長屋に入ってすぐに古物屋で買い求めたそれには、朱王の手によってある細工が施されている。
それは二重底だ。
そこには今まで二人がこつこつ貯めた金が隠され、このことは誰にも口外したことはない。
蓄えが綺麗に消えた長持ち。
よくよく見れば、その傍らに空っぽになった朱王の財布までが打ち捨てられている。
「しまった……っ! あの女!」
そう一言呻いた瞬間、朱王は下駄を突っ掛け、脱兎の如くに表へ飛び出す。
勿論、そこにあのにこやかな笑みを湛えたお牧の姿は影も形も無い。
井戸端では、斜向かいに住まう大工の女房お君と、この長屋の長老的存在のおさきが談笑しながら茶碗を洗っていた。
「お君さんっ! おさきさん!」
必死の形相で彼女らに駆け寄る朱王。
只ならぬ様子の彼に驚いた二人はきょとんとした表情を見せなから腰を浮かす。
「どうしたんだい朱王さん、そんな青い顔してさ」
前掛けで濡れた手を拭き拭き首を傾げるお君へ身を乗り出す朱王の頬には脂汗で髪が一筋張り付いていた。
「俺の部屋に、誰か訪ねてきませんでしたか!?」
「朱王さんの部屋にかい? いいや、あんたの許嫁とか言ってた腹のでかい人しか入っていかなかったよ。ねぇ、おさきさん?」
「そうだねぇ。朱王さんが海華ちゃん追っ掛けて出て行ってから、暫くしてその人も帰ったけど、それからは誰も来ちゃあいないよぅ」
二人の話を聞き、朱王は確信した。
なぜお牧が自分に狙いを定めたのか、しつこく嫁にしろと言い寄ってきたのか……。
腹の子を『だし』にして自分に近付き部屋に上がり込んで金品を物色するためだ。
いぶかしがる二人に礼を言い、がっくり肩を落として部屋に戻った朱王。
そこでは、海華が半ば放心状態で荒らされた部屋、長持ちの前にへたり込んでいた。




