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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十一章 流浪の胎児
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第一話

 厚い雪に閉ざされていた江戸の街に、どこからかぎこちない鶯の囀りが響く。

紅梅の固い蕾も綻びかける春の始まり。

雪解けでぬかるむ水捌けの悪い地に身を寄せ合うように軒を連ねる中西長屋にも、麗らかな春の陽射しが降り注いだ。


 「おい海華! 俺の帯どこにやった!?」


 「長持ちの中にあるじゃない! それくらい自分で探してよね、ああ! その寝間着と肌着は洗うから早く脱いで!」


 キャンキャン、ワーワーと朝から騒がしい朱王の部屋から、盥に山盛りの洗濯物を抱えた海華が土間に飛び降りる。

ここ数日、ずっと空は厚い灰色の雲が立ち込め、時折冷たい雨が地を濡らしていた。

久し振りに顔を出した太陽。

絶好の洗濯日和に、海華は元より長屋の女房ほぼ全員が、朝早くから子供や亭主の寝間着、肌着をひん剥き、山と溜まった汚れ物と井戸端で格闘しているのだ。


 朱王も例外ではなく、布団から起きたと同時に妹の手によって身ぐるみ剥がされ、下帯一枚の裸同然の状態で『俺の着物はどに置いた!』 『帯が無い!』などと大慌てで長持ちの中を引っ掻き回している。

とても人様には見せられない、あまりにも情けない兄の様子に額に手を当てながら、海華は盛大な溜め息をつく。


 「自分の着る物くらい自分で用意しておいてね! あたし兄様の女房じゃないんだから!」


 『大体ねぇ……』と、海華の唇から更に辛辣な小言が飛び出ようとしたその時だった。

彼女が背を向けている戸口が軽く叩かれ、『ごめん下さいませ』とやけに明るい女の声が聞こえた。

文句の言葉をぐっと飲み込み、盥を抱えたままの海華は兄の姿が見えないように、細く細く戸を開けた。


 そこには、一人の若い女がにこにこと満面の笑みを湛えて立っている。

年の頃十八くらいか、艶のある真ん丸な頬にはぽつりと出来た可愛らしい笑窪、ころんと丸い鼻に肉に埋もれかかった小さな目、どこか垢抜けない田舎臭い女の腹は大きく前にせり出し、茶色の帯を押し上げている。


 それが、贅肉のせいで出来た膨らみではないことは一目瞭然だった。


 「こちら、人形師の朱王様のお住まいでしょうか?」


 「あ、はい! 兄様にご用でしょうか? すみません、少々お待ち下さい」


 ぎこちない笑みを返す海華は一度戸を閉め、『早く早く!』と兄を急かす。

大急ぎで着物を纏い、帯を締めた朱王はぐちゃぐちゃに絡まった髪のまま、土間に飛び出た。


 「お待たせしました」


 額に浮かぶ汗を拭き拭き戸口を開け、外にいる女を中へ招き入れた朱王。

彼の姿を一目みるなり一度小さく会釈し、弾けんばかりの笑顔を振り撒く女は円らな瞳で真っ直ぐに朱王を見詰めた。


 「朱王様、ご無沙汰しておりました! いつぞやは本当に良くして頂いて……」


 その言葉を聞き、笑みを浮かべたまま朱王は小首を傾げる。

自分は、この女と初対面のはずだった。

だが、女は戸惑う彼にはお構い無いに、膨らんだ腹を擦りながら兄妹が耳を疑う一言を放ったのだ。


 「朱王様、朱王様の赤ちゃん、こんなに大きく育ちましたの」


 室内の空気が一瞬で凍り付く。

女の声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。


 『朱王様の赤ちゃん』


 その言葉に、海華は盥を抱えたまま顎が外れんばかりにあんぐりと口を開け、朱王はと言えば、唖然呆然とにこやかに微笑む女を穴の開くほど凝視する。

何が何やらさっぱりわからず、ただ混乱して固まり尽くす二人の前で女は饒舌に、そしてどこか得意気に朱王との馴れ初めをぺらぺら喋り始めた。


 今から半年程前、道端で気分が悪くなり屈み込んでいた所を朱王に声を掛けられた。

そのまま意気投合し、彼に言われるがまま出会い茶屋に入って褥を共にした。

そして子を孕み、それを告げると朱王は『すぐに一緒になろう』と言った、云々……と。


 勿論朱王には身に覚えのない話しだ。

貴女とは初対面、人違いだと必死になって説明したが、女は頑として引き下がらない。

あろうことか、『あの時の事を忘れたのか』『あの言葉は嘘だったのか』と涙声になる始末。


 突然降り注いだ災難、まさに青天の霹靂に朱王の方が泣きたい気持ちだ。

とにかくなんとか言いくるめ、今日のところは帰ってもらったが、最悪の惨事、そして悪夢は彼女が帰ってから幕を開ける。


 ぴたりと戸が閉め切られた兄妹の部屋から、 激しく言い争う罵声が長屋中に響き渡る。

井戸端で洗濯を、そして部屋の中でそれぞれ家事に内職に精を出していた住人らが、ぞくぞくと兄妹の部屋の前に集まりだした。

大方、また海華が余所の男と連れ立って歩き、それを朱王が怒っているのだろう。

そう考えていた住人達だが、今日は何かが違う。


 金切り声を張り上げて怒鳴り散らしているのは海華、それを必死で宥めているのは朱王の声だ。

一体何があったのか? と、しきりに首を傾げている彼らに向かい、戸口の障子部をバリバリと突き破り、茶碗やら酒瓶やらが次々と飛んでくる。

放物線を描いて宙を飛ぶ哀れな日用品は、そのままぬかるむ地面へとめり込んだ。


 「何が誤解よ! この大馬鹿っ! ろくでなし ──っっ!」


 「だから違うんだ! 落ち着け! 止めろ……うわぁ──!?」


 鼓膜を揺るがす絶叫。

乾いた木が砕け散るけたたましい響きと共に戸口が吹き飛び、裸足のままの朱王が表へ転がり出てくる。 表情を引き攣らせる住人らの前に鬼の形相をした海華が片手に包丁を握り締めて飛び出してきた。


 「あたしが男と歩きゃグダグダ文句言うくせに! 自分は何なのよっ!? あんな女と乳繰り合ってっ!」


 ギャンギャン怒鳴り散らし、兄に向かって包丁を振りかざす彼女を、この長屋の大家と部屋から走り出してきたお多喜が真っ青な顔で羽交い締めにし、強引に押さえ付ける。

雪解け水をたっぷり吸った道に尻餅をつく朱王の周りでは、お君やお石、他の住人らが今にも卒倒しそうな様子で立ち尽くしていた。


 「海華ちゃん落ち着け! そんな物振り回すんじゃねぇ!」


 「あんた兄さんになんてことすんだよ!」


 暴れ狂う海華を宥める叫びがあちこちから飛ぶが、それは火に油を注ぐようなものだ。

髪の生え際まで真っ赤にし、ぎりぎりまなじりをつり上げる海華の唇からは、怒りに任せた罵詈雑言 が次々と飛び出す。


 「何が子供よっ! 一緒になるよっ! あたしにゃ一言も言わないで……馬鹿にするんじゃないわっ! この色気違いっ! 女姦すけこましっ! 人非人──っっ!」


 素足で泥を踏み散らし鈍色に光る包丁が空を切る。

烈火の如くに怒り狂い暴れまくる妹を、朱王は今にも泣き出しそうな面持ちで見詰めていた。

怒りを爆発させる海華は、もう長屋の住人らだけでは手が付けられなかった。

かと言って、朱王は未だに腰を抜かしたまま妹を宥める訳でもなく半ば放心状態だ。


 見るに見兼ねたお石が番屋に走り、すぐに報せを受けた忠五郎と留吉が青い顔をしてすっ飛んでくる。 忠五郎に包丁をもぎ取られ、兄と二人番屋に引き摺られて行った海華は土間に足を踏み入れるなり、わぁわぁと声を上げて号泣し始めた。


 そんな彼女をとにかく室内へ上がらせ、留吉が宥めすかして慰めの言葉を浴びせているが、彼女は畳に伏したまま一向に泣き止む気配はない。

口を開けば『人でなし』『裏切り者』と兄を罵倒する台詞が飛び出る有り様だ。

 

 妹となるべく距離を置くように離れて座り、ひたすら忠五郎に謝りに謝り倒す朱王は、もう穴があったら入りたいくらいだった。

彼から事の経緯を聞いた忠五郎は『弱ったなぁ』を連発し、困りきった様子でぷかぷか煙管をふかしてばかりだ。


 「親分、海華ちゃん暫く駄目ですぜ。こっちが何を言っても無駄でさぁ」


 眉間に深い皺を寄せ、こちらへ来る留吉はお手上げだと言わんばかりに首を横に振る。


 「泣くだけ泣いたら気がすむだろうよ。少しそっとしておけ。しかしなぁ……こりゃ兄妹喧嘩なんだか夫婦喧嘩なんだかわからねぇなぁ」


 溜め息混じりに忠五郎の口から漏れた台詞に、朱王は耳朶まで赤くして何度目かわからぬ『申し訳ありません』を低く呟く。

まさか包丁まで振り回されるとは思わなかった。


 「でもよ、朱王さん。その女、本当に見覚えのない女なのかよ? 半年も前のことなんだろ? 忘れてんじゃあねぇのかい?」


 「初対面です。間違いありません。床を共にした女を忘れる程、私もそこまで耄碌もうろくしていませんよ」


 憮然とした表情で留吉の問い掛けに答える朱王。

すると、忠五郎は煙管をくわえたまま、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。


 「朱王さんよぉ、最後に女ぁ抱いたのはいつでぇ?」


 「……かれこれ十年以上前ですね。確か、十六、七頃です」


 「それから一度もナシかい?」


 信じられない、と言いたげに眉を上げ、鼻から紫煙を吹き出す忠五郎に、朱王はただ黙って頷く。

もとから女は好きではないし、殊更抱きたいなどとも思っていないのだ。


 「じゃあよ、女に迫られたこともねぇのか?」


 「いいえ。それは数えきれないくらい。全て断りましたから、顔なんていちいち覚えていません」


 「……何だか妙に腹立つねぇ」


 顔色一つ変えずにさらりと答える朱王に、忠五郎ばかりか留吉までもが恨みがましい視線を送る。

『羨ましいねぇ』と染々呟く留吉の背後からは、わんわんぴぃぴぃと甲高い海華の泣き声が響いた。

とにかく海華が落ち着くのを待とう、そう決めた朱王の目の前で、がらりと勢い良く戸口が開かれ、三人の人影が現れる。

悪いことは重なるものだと、この日彼は染々思い知ることとなった。


 運悪く、本当に運悪く長屋を訪れたのは桐野、都筑、高橋の侍三人組。

土間に足を踏み入れた途端目に飛び込んできた泣きじゃくる海華と下半身泥まみれでバツの悪そうな顔を向ける朱王に、三人の目は点になる。


 『何があった』『どうして海華が泣いている?』そう矢継ぎ早に問われ、朱王は忠五郎に話した事を再び彼らに説明するはめになった。

さぁ、番屋の中は今まで以上の大騒ぎだ。


 呆気に取られて言葉も出ない桐野と高橋の横では、『やはりお前も男だな』と妙に納得した様子で都筑が呟く。

恥ずかしいやら情けないやら、もう海華を担いでこの場から逃げ去りたい心境の朱王。

その背後では、やっと泣き止んだ海華が小さく鼻を啜り、恨みがましい目付きで兄の背中を睨み付けている。


 「なあ、朱王。お主本当にその女と面識は無いのだな?」


 海華と朱王へ交互に視線を向けながら桐野が尋ねる。


 「ありません。今日が初対面です、間違いありません」


 「なら、なぜ腹の子の父親がお前だなどと名乗り出たのだ?」


 ごつい顔を傾げて不思議そうに言う都筑。

それは朱王自身が一番知りたいことだ。


 「その女、気狂いでなければ何か良からぬことを企んでいるのだろうか? でなければ、どうしても子の親を朱王殿にしなくてはならない訳でもあるのか……」


 「生まれた赤子の腹にでも母親と父親の名が書いてあるなら良いのになぁ」


 怪訝な面持ちの高橋に続き、都筑が冗談めかした台詞を放つが、今の朱王は勿論海華も笑うことなど出来ない。

とにかく、もう一度あの女としっかり話をしなくてはならないようだ。


 「明日、あの女の所に話をつけに行きます。 お騒がせして申し訳ありません。さ、海華帰るぞ」


 そそくさと立ち上がる兄に手招きされた海華は、なぜかその場から動かない。


 「どうしたんだ。早く……」


 「嫌よ! あたし帰らないわ。あの女の赤ちゃんが兄様の子じゃないってわかるまで、あたし帰らないから!」


 涙の跡が残る頬を河豚のように膨らませ、ぷい、とそっぽを向く妹に朱王は盛大に眉を寄せた。


 「いつまでむくれているつもりだ、みっともない。大体お前、まだ洗濯が終わっていないだろう? それに俺の飯は誰が作るんだ?」


 兄の口から出たその言葉に海華は一瞬自分の耳を疑った。

が、次の瞬間彼女の顔は激しい怒りの色一色に染まり、だんっ! と物凄い勢いで足が畳を蹴り上げる。 阿修羅の如き形相、怒髪天を突かんばかりの彼女に、その場にいた朱王以外の表情が凍り付いた。


 「洗濯!? 飯!? あたしは兄様のお世話係でもなけりゃ女中でもないわよっ! そんな、そんな物……あの女にやって貰えばいいじゃない!」


 「何を馬鹿なこと言って……」


 豹変した妹に戸惑いを隠せない朱王は、何とか彼女を宥めようとその手を引く。

しかし、海華は兄の手を思い切り振り払い、地団駄を踏まんばかりの勢いで更に怒声を張り上げた。


 「どうせ馬鹿よ! でもねっ! 人に隠れてこそこそ女と乳繰りあってる人よりずっとましだわ! あたし邪魔でしょ!? さっさとあの女と一緒になればいいじゃない! あたしのこと追い出して、女房子供と面白おかしく暮らしたいんでしょ!?」


 吐き捨てられたその台詞に、さすがの朱王も我慢の限界を向かえた。


 「黙って聞いてりゃぁ下らんことをべらべらとっ! そんなに帰りたくないなら、もういい! どこへなりと行ってしまえっ!」


 こめかみに青筋を浮かべて怒鳴る彼を止められる者は誰一人としていない。

兄妹の視線が激しくぶつかり、目には見えない火花を散らす。


 「実の兄貴がそこまで信じられないかっ!?  あんな女の言い分を信じるのか!? お前こそ、適当に男掴まえて好きに暮らせばいい! もう帰って来るなっ!」


 弾かれるように立ち上がった朱王は、そのまま乱暴に戸口を叩き開け、海華を残して風のように出て行ってしまう。

そんな兄を身体全体で荒い息をつき無言のまま見詰めていた海華の目尻から、新たな涙が一筋、赤くなった頬を滑り落ちていった。



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