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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十章 紅い幽鬼
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第五話

 修一郎の屋敷から帰った翌日、朝から朱王は急遽頼まれた文楽人形のかしら修理に、海華は土鈴の絵付けにと、朝から大忙しだ。


 未だ小石川で療養しているお雪の事は心配だが、こちらも食い扶持を稼がねばならない。


 隙間風が忍び込み、かんかんと火鉢を焚いていても底冷えが激しい部屋で、背中にどてらを掛け、黙々と彫刻刀を振るう朱王と指から手のひらを白い顔料で汚し、ひたすら兎の顔を描き続ける海華の間では、朝餉が済んでから殆ど会話らしい会話は無かった。


 障子戸を一枚挟んだ外からは、厚く降り積もった雪を投げ、きゃあきゃあとはしゃぎ回る子供らの歓声だけが聞こえる。

内職を半分程まで片付け、絵筆を傍らの小皿に置いた海華が、ふぅっ、と一息ついた時だった。


 『邪魔するぜ』との言葉と共にがらりと戸口が開き、鼻の頭を赤くした志狼が凍える風を伴って、姿を現す。


 「あら、志狼さん。いらっしゃい」


 濡れ布巾で手を拭う海華が、にこりと白い歯を見せる。

朱王は作業机から顔も上げずに、軽く片手を上げただけだ。

首に巻いていた襟巻きを外し、室内に上がる志狼は、すぐに火鉢の前に腰を下ろし、白くなった両手をかざし出した。


 「忙しいところ悪いな。旦那様からの伝言があるんだ」


 「桐野様から?」


 火箸で赤く燃える炭をつつき、海華は小首を傾げる。

小さく頷いた志狼は、未だ自分に背を向けたままの朱王へと振り返る。


 「赤ん坊殺しの下手人、お縄になった」


それを耳にした途端、朱王の彫刻刀がぴたり と止まる。


「そうか…… お縄に、なったか」


 「ああ、たった今な。で、その下手人、誰 だったと思う?」


 「誰? ねぇ、誰だったの?早く教えてよ!」


 思わせ振りな態度を見せる志狼に痺れを切らしたのか、海華は顔料の残る指で彼の袖を引く。

そんな彼女に、にやりと口角を上げながら、志狼は話の続きを喋り始めた。


 「殺ったのは母親で、喉首切り裂いて外に棄てたのは父親だったとさ」


 ぽかん、と口を開けて志狼を見詰める海華とは正反対に、ゆっくりとこちらを振り向いた朱王は表情一つ変えず、ただ一度だけ小さく頷く。


 「なんだ朱王さん、驚かないのか? ……もしかして、始めから気付いてたのかよ?」


 「大体目星は付いていた。外から来た誰かが拐える状況じゃなかったからな。疑うとすれば中にいた人間……つまりは親だ」


 『わかってたんなら教えてよ!』そう吐き捨てるように呟き、横目で睨み付けてくる妹に、朱王は困ったような笑みを浮かべて、手にしていた彫刻刀を机へと置く。


 「お雪さんがやったんじゃないとわかった時点で、お前なら気付くと思ったんだがな。それで? なぜまだ歩けもしない赤ん坊を手にかけたんだ?」


 「そう、それよ! 生まれて半年だったんでしょ? 一番可愛い盛りじゃない!」


 志狼に向かって身を乗り出す海華は、早く話せと言わんばかりに握っていた火箸をぐさりと灰に突き刺す。


 「わかったわかった。母親が言うにはな……」


 『夜泣きが酷かったんだと』


 そう言いながら、彼の目はぱちぱちと乾いた音を立て、真っ赤に燃え盛る炭にじっと向けられていた……。


 「夜泣きが、酷い? それだけで殺したの? 赤ん坊は泣くのが仕事じゃない。それをどうして……」


 志狼の答えに納得がいかないのか、海華の眉間に皺が寄る。

火鉢に翳していた手のひらを擦り合わせ、志狼は淡々と続きを語り出した。


 「まぁ、話しはここからだ。その殺された赤ん坊ってのがな、親が『さぁ、寝るか』って頃に合わせて泣き始めるんだ。乳をやっても、おしめを替えても泣き止まない。母親は必死であやすが父親は知らぬふり決め込んでた」


 「なにそれ、随分酷い話しじゃないの」


 眉をつり上げ頬を膨らませる海華の横で、朱王は腕組みしながら志狼の話しに耳を傾けている。

どこからか吹き込む隙間風が、彼の髪を微かに揺らした。


 「それだけじゃない。ぴーぴー泣く赤ん坊が煩くて寝れやしねぇってんで、女房共々寒空の下に放り出したことも一度や二度じゃなかったんだってよ。亭主までがそれじゃあ女房だって堪ったもんじゃねぇ」


 「確かにな。その女房も可哀想なものだ」


 そうぼそりと呟く朱王は、苛立たしげに首筋をがりがり掻きむしる。

どうもその亭主には『労り』と『愛情』が欠落しているようだ。


 「赤ん坊が首切り裂かれて死んだ前日の夜、 亭主の帰りが遅かったらしい。で、いつもの如くに赤ん坊が泣き出した。このままじゃ、また亭主の機嫌が悪くなる。早く泣き止ませなくちゃって、焦ったんだろうよ。事もあろうに赤ん坊の顔に座布団被せて泣き止ませようとした。亭主が帰った時には、息詰まらせて死んでる赤ん坊と、その側で放心している女房がいた、って訳だ」


 「このままじゃ女房はお縄になる、自分の面倒をみてくれる人間がいなくなる。そうだ、『血吸い鬼』の仕業にしてやれ。……そんな所か?」


 深々とした溜め息と共に朱王の口から出た台詞。

それを聞いた志狼は黙ったまま、大きく頷いた。


 「真夜中に裏の小路に赤ん坊の死骸を運んで、そこで首を切り裂いた。

女房には余計な事は言うなと口止めしてな。あとは、朝になって子供がいないと騒ぎ立てれば良かったんだ。」


 「つくづく酷い男ねぇ! 自分の子殺しをお雪さんのせいにするなんて!」


 怒りを隠さない海華は火箸を力任せに引っこ抜き、燃える炭をがしがし掻き回す。

舞い上がる紅い火の粉は一瞬にして白い灰と変わり、畳に散った。


 「自分では上手くやったと思ってたらしいが、唯の浅知恵だったな。── ところでよ、 昨夜家に小石川の医者が来たんだ確か……清蘭とか言っていたな」


 視線を宙にさ迷わせ、頬を掻く志狼。

彼の口から出た思いもよらぬ名前に、兄妹は互いの顔を見合せる。

小首を傾げる海華の膝の横で、小皿に置いていた白い顔料まみれの絵筆が、ころりと畳に転がった。


 「清蘭先生が桐野様に何のご用だったのかしら?」


 首を傾げっぱなしでそう呟いた海華につられるように、傍らの志狼も顔を横に傾ける。


 「さぁな? 俺も横で付きっきりだった訳じゃないから、何を話していたのかはわからないが……そう言えば、あの先生が帰られてから旦那様が妙なことを仰ってたな」


 「なに、妙なこと?」


 横から口を挟む朱王に向かい、志狼は小さく頷きながら指先でこめかみを掻いた。


 「ああ。『世の中には奇妙な病があるものだな』ってな。まぁ、大方あのお雪って女のことで来たとは思うが、あの女、病気だったのか?」


 「病気? うーん……月の物が来ると血を吸いたくなる病ってのがあるんなら、病気かしらね?」


 しどろもどろに答えた海華だが、勿論確信を持って言えた答えではない。

もしもそんな病が本当に存在するのならば、今までにもこんな騒ぎが起こっているはずだ。


 「……もし、お雪さんがそんな病を患っているのだとしたら、このまま牢屋に入れるのも気の毒だな。あの人に必要なのは罰じゃなくて、 医者だろう」


 朱王のこぼした台詞に海華も志狼も異論は無かった。

ただ、そうなると困るのは修一郎である。

なにしろある大名から、直々に犬殺しの下手人を探せと仰せつかっているのだ。


 このまま『下手人はわからずじまいでした』 では済まされないだろう。


 「どうにかならないのかしら? このままじゃお雪さんがあんまり可哀想よ……」


 しょんぼりと項垂れる海華に、男二人は掛ける言葉が見付からない。

重苦しい空気が支配する部屋。

表から響いていた子供達の甲高い叫び声もいつの間にか消え、空っ風の吹き抜ける、ひゅうひゅうと乾いた音だけが三人の鼓膜を微かに揺らしていた。


 翌日、朝から重たい気分を引き摺ったままの海華は、昨夜遅くまでかけて仕上げた土鈴を納めに出掛けた。

空は灰色の厚い雲で一面覆われているが、幸い雪も降らず風もそれほど強くはない。

受け取った代金で二人分のいなり寿司を買い、部屋で仕事に励む兄と遅い昼食をとろうと、寒さに頬を赤く染め、海華は長屋に急いだ。


 真っ白な雪に覆われた長屋門を潜った、その時である。

『ちょっと! 海華ちゃん!』と、やや嗄れた声に呼び止められ、海華はぴたりと足を止める。

誰かと思って振り返れば、そこには分厚い褞袍どてらをしっかり着込んだ歩く瓦版……いや、大家の女房、お石が自室から出てくるところだった。


 「ちょうど良いとこに来たよ。あのね、この間渡したお札、あれもう剥がしていいよ」


 浅黒い顔に数多の皺を刻みながら、お石はにこにこと笑う。


 「お札……ああ、鬼避けのですよね? もう剥がしてもいいんですか?」


 『元々鬼などいないのに』心の中でそう思いながらも、なに食わぬ顔で答える海華。

次にお石から返った台詞は、彼女を驚愕させるに充分な物だった。


 「もういいんだよ。『血吸い鬼』は退治されたらしいからねぇ」


 「え!? た、いじ!?」


 すっとんきょうな叫びを上げて目を白黒させる海華を不思議そうに見るお石は、一度部屋に戻り一枚の瓦版を手に海華の元に戻ってきた。


 「これに書いてあるよ。あげるからさ、部屋でゆっくりご覧よ」


 「あ、ありがとうございますっっ! 兄様ぁ! 兄様ー!」


 瓦版を鷲掴み、足をぬかるむ地面に取られながら部屋に飛び込む彼女を一人ぽつんと残されたお石は何度も小首を傾げながら見詰めていた。


 お石からもらった瓦版を握り締め、朱王と海華は雪を蹴散らし、人混みの間をすり抜け押し避けて大通りをある場所目掛けて疾走した。

海華の手に握られた皺だらけの瓦版、そこに書かれていることがはたして真実なのか確かめるためだ。


 走りに走って辿り着いたは八丁堀の桐野宅。

雪が積もる石畳に足を取られながらも玄関に着 いた朱王は、『お邪魔します!!』 と一言叫 び、叩き付けるように激しく戸口を引き開けた。


 がたん! ばちん! と響く物音に気付いたのか、奥から両手を水で濡らし、襷掛けをした志狼が何事かと言わんばかりの表情で飛び出してくる。


 「ああ! いたいた! たぬ……じゃなくて、志狼さんっ!」


 湯気のような白い息を口から吐き出し、上がり框に腰を下ろした海華は持参した瓦版を彼の前でひらひら翳す。

隣にへたり込む朱王は、すっかり息が切れてしまったのか、背中を丸めて苦しそうに噎せていた。


 「どうしたんだ血相変えて……ああ、瓦版見たのか?」


 「見たわよ! 化け狸が下手人ってどういう事なの!? 志狼さん何か知ってる!?」


 真っ赤な顔で捲し立てる海華が框に広げた瓦版をばんばん平手打ちする。

そこには一面大きく、こう書かれていた。


 『昨夜、ある屋敷に遣える下男が某神社の前を通った際、境内の裏手から何物かの凄まじい叫びが聞こえた。

不審に思って見に行くと、ぼろの着物を纏った白髪の老人が猫の首にかじり付いている最中だった。

余りに恐ろしい光景に下男が悲鳴を上げると、老人は猫を放り捨て、下男に襲い掛かってきた。

取っ組み合いの末、下男は傍らに落ちていた石で老人の頭を打ち据えると、頭を割られた老人はたちまちのうちに息絶え、その姿は幼児ほどもある大狸に姿を変わった。


 狸の腹を裂いてみれば、胃袋から大量の血潮が溢れ出た。

この大狸、世間を騒がせていた血吸い鬼に間違いない』


 こんな内容が書かれた瓦版。

それを覗き込んだ志狼は顔色一つ変わらない。

やはり彼は何かを知っているようだ。


 「ねぇ、まさかとは思うけど、この下男って……」


 「一応は俺ってことになってるな。この寒い中で狸捕まえるのも骨が折れたぜ」


 「やっぱりあんただったのか。桐野様のお考えか?」


 なんとか荒い息を整え、目尻に浮かぶ涙を拭う朱王に、志狼は平然として小さく頷く。


 「そうだ。勿論お奉行様にも許可は頂いている。下手人を上げなきゃ犬を殺された大名は納得しないだろ? だが病持ちの女を牢にぶち込むのは酷だ。ま、狸には悪いがな。お雪の身代わりになってもらった」


 にや、と悪戯っ子のように唇をつり上げる志狼。 引き攣った笑みを浮かべる海華は未だにげほご ほ咳込む兄と顔を見合わせた。


 「さすがは桐野様……だが、驚いた……」


 「本当よ。でも……これでお雪さん、ちゃんとお医者様に診てもらえるわね」


 彼女に必要なのは罰ではなく、医者だ。

どうやら修一郎も桐野も同じことを考えてくれたらしい。


 『茶くらい出すから中へ入れ』そう言い残し、さっさと奥に行ってしまう志狼の後ろ姿を見遣りながら、二人は胸の奥から深々と、安堵の溜め息を吐き出す。

血吸い鬼は、もう夜の街をうろつくことはないだろう。

お雪は『鬼』ではなく、豆腐屋の看板娘としていつの日か戻ってくる。


 『明日、お見舞いに行きましょう』 そんな妹の提案に、一も二もなく朱王は頷く。

二人の後ろ、閉じられた玄関の向こうでは、細かい雪を巻き上げて乾いた風が渦を巻く。

冬将軍は、まだまだ江戸から去る気はないようだ。








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