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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十章 紅い幽鬼
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第四話

 顔も洗わず、髪も整えず、着物と羽織を乱に纏ったままで朱王は妹と共に小石川へ駆け付けた。

下駄を突っ掛けた素足は雪にまみれ、冷えきってじんじん疼くような痛みを発するが、今の二人はそんなことに構っていられない。

療養所の玄関に飛び込み、荒い息の下から大声で中に向かい人を呼ぶと、暫くして薄墨色の着物に藍色の羽織を纏った、ひょろりと痩せた中年男が姿を現した。


 「清蘭せいらん、先生!」


 上がり框に両手をつき、身体全体を使って呼吸する朱王は、その男に向かって息も絶え絶えに呼び掛ける。

その後ろでは、今にも崩れ落ちそうな身体を壁に預けた海華が、激しく咳き込んでいた。

そんな二人を目の当たりにした男、ここの医師である清蘭は目を丸くしたまま、ぽかんと口を半開きにさせる。


 「朱王、さん。海華さんも。どうしたのです? 急病……という訳でもなさそうだが……」


 息を切らせて駆け込んでくる怪我人や病人などいるはずがない。

真っ赤に上気した顔をよろよろ上げ、清蘭を見上げた朱王の目にはうっすら涙が浮かんでいた。


 「先生……お雪さん、は? 今朝がた運ばれた……」


 「お雪……ああ、手首を切って運ばれた娘ですか?」


 「そう、そうです……容体は、まだ生きて……?」


 すがるような目付きで自分を見上げる朱王へ、清蘭はにっこり微笑みながら二、三度首を縦に振った。


 「勿論。傷は浅いし、出血もそれほどではありませんでしたから。命に別状はありません」


 『良かったぁ!』そう一言叫び海華は、ずるずる土間へ崩れ落ちる。

朱王も安心したかのように、未だ苦し気に歪む顔をがっくりと伏せた。


 「あなた方、あの娘さんと知り合いでしたか」


 「はい、ちょっとした縁で……お雪さんと、話は出来ますか?」


 朱王の問いに、清蘭の眉間に小さな皺が寄る。

顎の下を指先で擦り、暫し考えていた彼だが、やがてこくりと頷いた。


 「まぁ、少しくらいならいいでしょう。ですが、余り無理はさせないで下さいね。今しがたあの娘の両親を面会させたのですが、泣くは喚くはで大変でしたから。気持ちはわからないでもないですがね」


 その言葉によたつきながら兄の隣へ来た海華が『はい』と掠れた返事をする。

手塩に掛けた一人娘が自害を図ったのだ、泣きたくなるのも無理はないだろう。

玄関に上がった二人は、清蘭に連れられて療養所の奥へ向かう。

素足に感じる廊下の感触は固く、氷のように冷たかった。

どうやら、療養所内の一番奥の部屋にお雪はいるらしい。


 真っ白な雪に覆われた中庭、そこに面する一室の前で清蘭は足を止めた。


 「この中にいますよ。お藤が一緒にいるはずですから」


 『くれぐれも刺激を与えないように』そう言い残し、清蘭は他の患者がいるからとその場を後にする。 廊下に残された朱王の手が、障子へ伸びた時だった。

にゅっ、と横から突き出た海華の小さな手が、兄の手を押さえたのだ。


 「待って兄様。今は、あたしだけで行かせてくれない?」


 「お前だけ? どうしてだ」


 怪訝そうな顔付きの兄を横に、海華はちらりと障子へ視線を投げる。


 「お雪さん、兄様に猫を殺したのがばれたと思ってるのよ。だから自害なんて真似したんじゃないかしら? もしもそうだとしたら、自害し損ねた姿なんて、兄様に見せたくないはずよ」


 「いや、しかしな。なぜ俺に見られたからって……」


 妹の言葉に困惑する朱王。

そんな兄を見ながら、海華は呆れたように深い溜め息をつく。


 「兄様バカよ。はっきり言えばね、惚れた男に無様な姿は見られたくないでしょ? いいからここで待っててよ」


 『本当、何にもわかってないんだから』


 そんな捨て台詞を吐かれて狼狽える兄を前に、海華は指が二本入るくらい細く、障子を引き開けていた。



 「失礼します。あの……お藤さん?」


 障子の僅かな隙間から、海華が遠慮がちにお藤を呼ぶ。

火鉢が置いてあるのだろう、ふわりと暖かい空気が流れる室内からすぐに『はい』と小さな返事が返り、海華の前にお藤が顔を覗かせた。


 「あら、海華さん?」


 「お早うございます。いきなりすみません、あの……お雪さん、具合はどうですか?」


 小声で尋ねる海華に、お藤は形の良い唇を三日月形に上げ、柔らかな笑みを浮かべた。


 「大丈夫ですよ。今は落ち着いていますから。海華さん、お雪さんとはお知り合い?」


 「はい、私も兄様もお雪さんには良くしてもらっていて……少し話しがしたいんですが、いいですか? 勿論、先生の許可は頂いているんですが……」


 『少しお待ちになってね』そう告げ、一度奥に下がったお藤。

やがて、するすると障子が開かれ薄い水色の着物を纏ったお藤が室内から姿を現した。

軽く会釈をする兄妹に、彼女は朗らかな笑みを湛えたままちらりと室内へ視線を向ける。


 「中へどうぞ。お雪さんも、海華さんに話したいことがあるそうですよ」


 それを聞いた海華は安堵の溜め息をつき、すぐに室内へ足を踏み入れる。

廊下に残された朱王へすまなそうに軽く頭を下げたお藤は、冷たい板張りへ正座する彼の横に腰を下ろした。


 「ごめんなさいね朱王さん。今は女だけで話しをさせて上げて下さい。男の方には話し難いこともありますから……」


 「はい。承知しています。実は妹にもそのように言われておりますので」


 苦笑いしながらお藤に頭を下げる朱王は、妹が閉めていった障子へ目を遣る。

朝日を反射し白く輝く障子の向こうからは、話し声一つ漏れてはこなかった。


 後ろ手に障子を閉めた海華の目に飛び込んできたのは、室内の真ん中に敷かれた一組の布団だった。 たっぷりと綿の詰められた布団、その足元では、ぱちぱちと乾いた音を立て明々と炭を燃やす火鉢が一つ置かれている。


 足音を忍ばせ布団に近付いた海華は、そこで静かに横たわる一人の女の顔を見るなり、ぐっと唇を噛み締めた。

色白を通り越し、血の気が失せた蒼白な顔。

普段は紅の一つも塗っているだろう花のように可憐な唇は渇きひび割れ、青黒くくすんでいる。


 本当に生きているのかすら疑わしいくらい血色の悪いその女は、海華が傍らに座るのを待っていたように、漆黒の長い睫毛を震わせて虚ろな瞳をゆっくりと開いた。


 「お雪さん? 大丈夫?」


 「海、華さん……私……私、死ねなかっ、た……こんな、みっともない姿、晒して……」


 かさかさの唇から切れ切れに漏れる哀しき呻き。

眉間に皺を寄せ、悔しそうに顔を歪める彼女を覗き込みながら、海華は僅かに眉をつり上げる。


 「何がみっともないよ。生きてて良かったわ。死なないでくれて、本当に良かった。あのねお雪さん。人間なんて、ちょっとやそっとで死ぬほど脆く出来てないんだから。それに……」


 『兄様も心配してるわよ』


 そう告げた瞬間だった。

お雪の顔がみるみる歪み、虚ろに揺れる瞳から白玉を思わせる大粒の涙が溢れ出す。

唇を噛み、声を圧し殺し、お雪はひたすら流れる涙で枕を濡らしていった。


 『私の中には、鬼が住んでいるんです』


 涙に声を詰まらせ、お雪は振り絞るように 『血吸い鬼』事件の真相を語り始める。

元々彼女は月の物が重く、それが始まると身体が火照り、魂が抜けたようにぼうっ、としてしまう日が続くのだそうだ。

ある時、母親が買い求めてきた生魚が台所に置かれているのを見付けた。

気付いた時には、その魚の腹を裂き、流れ出る血とはらわたを、夢中になって啜っていたという。


 生臭く、どろどろと流れるその血が、この世の物とは思えぬ程に美味だった。


 「舌が蕩けるとは、この事なのだと思いました……。本当に、美味しくて美味しくて……。 でも、すぐにこれはおかしい、自分は狂っていると」


 泣き腫らし、赤くなった瞼を瞬かせるたび新たな涙が枕を濡らす。

彼女の口から生まれるあまりにも衝撃的、そして異常な告白を海華は顔を強張らせ、ただただ無言で聞いていた。


 「何度も止めよう、止めなければと思いました。でも、出来なかった……。月の物がくる度に、親に隠れて魚を買って……でも、だんだんそれだけでは足りなくなりました」


 とにかく血が欲しかった。

温かく鉄臭い命の液体。

自らの胎内から流れるそれを補うように、無性に血が飲みたくて仕方無かった。


 「魚以外の血を吸ったのは、いつの頃だったか覚えていません。── 朝起きたら、顔や手が血塗れで……枕元に剃刀が転がっていました。猫が殺され、血を吸われたと瓦版で知った時、私がやったんだ、と」


 意識が飛ぶ時間が増えた。

どうしようもなく身体が火照って、自分が何をしていたのか覚えていない。

もう、自らに潜む『鬼』を止める術は無かった。


 「両親に気付かれずに家を抜けて、犬猫を殺して血を吸って……月末が、月の物がくるのが怖くて仕方ありませんでした……まさか朱王さんに見られてしまうなんて……!」


 ぐぅっ、と声を詰まらせ、両手で顔を覆うお雪。

左手首には、微かに赤が滲む真新しい包帯が巻かれていた。


 「朱王さんにだけは見られたくなかった…… あんな浅ましい姿なんて、見られたくなかった! 鬼になった私を……犬猫だけではなく赤ちゃんまで殺めてしまった……もう、このまま生きてなんかいたくない!」


 わあわあ声を上げて泣きじゃくる彼女に、どんな言葉を掛けたらよいのだろう?

明確な答えが見つからないまま、海華はお雪の胸辺りにそっと手を置いた。


 「あのね……あのねお雪さん、兄様は、勿論あたしも、貴女がどれだけ優しくて、心の綺麗な人なのか、よく知ってるわ」


 ゆっくり、噛んで含めるように語りかける海華に、お雪は顔を覆っていた手をそろそろと避ける。

真っ赤に充血した瞳が、怯えを含んだ眼差しが、泣き出しそうに顔を歪める海華へと放たれた。


 「兄様ね、貴女のことを本当に心配してた。 私も兄様も、貴女が鬼だなんて信じない。だからもう少しだけ教えて? 赤ん坊を殺めた時のこと、覚えてる?」


 その質問に、お雪は小さく顔を横に振る。


 「覚えては、いません。いつもなんです。血を吸っている間の記憶が無くて……でも、絶対に私です。あんなむごい真似が出来るなんて…… 私しかいないから……」


 消え入りそうな弱々しい声色。

白く色褪せ、乾いた唇をきつく噛み締めたお雪。

自ら犯した罪に怯えるその姿を直視することに耐えられなくなった海華は、足元で勢いよく炭を燃やす火鉢へ視線を反らせ、小さな小さな溜め息をついていた。


 泣きじゃくるお雪を何とか宥め海華は部屋を出る。

廊下では寒そうに背中を丸めた朱王が一人、雪に閉ざされた庭を向いてぽつねんと座っていた。

どうやらお藤は既に席を外したようだ。

たった今、お雪から聞いた事の真相を全て話すと、朱王はふぅ、と白い溜め息を吐き、『そうか』と一言答えただけ。

小石川を後にし、長屋へ帰る間も始終彼は難しい顔をし、口を閉ざしたままだった。


 これからどうしたらいいのだろう? すっかり途方に暮れながら、まんじりともせずに一日を過ごした海華。

『あの人が血吸い鬼です』と桐野らに告げるのも気が引ける。

しかし、このままシラを切り通せる覚悟も無かった。


 それは朱王も同じ気持ちだったのだろう。

太陽が西の空に隠れ出す頃、彼の口から出た台詞は『修一郎様の所へ行くぞ』というものだった。


 細かい雪がちらつく夜道に仄かな提灯の明かりが揺れる。

身体に染みる寒さを少しでも和らげようと寄り添って歩く兄妹の周りには、暗く寂しい闇が大きく口を開けていた。


 突然訪問した二人に修一郎は一瞬驚きの表情を見せたが、朱王が『血吸い鬼のことについてお話したいのですが』と告げると、直ぐ様二人を温かな自室に招き入れ、熱い茶でもてなしてくれた。

大きな丸火鉢の置かれた修一郎の自室。

寒さで固まっていた身体を火鉢で暖め、美味そうに茶を啜りながら、海華は小石川でお雪から聞いた全てを修一郎に話した。


 「そうか、では……そのお雪とか言う娘が、 犬猫の血を啜っていたのだな?」


 太い指先でこめかみを掻き、そう低く呻く修一郎の眉間には深い皺が刻まれている。

湯飲みを静かに茶托に置き、軽く頷く朱王は正面に座する彼を真っ直ぐに見詰めた。


 「本人がそう申しておりますので……。ですが、彼女が左官屋の赤ん坊を殺めたのではないと、これではっきり致しました」


 「うむ。そうだな」


 そんな二人の会話を聞いて仰天したのは海華だ。

目を白黒させながら口に含んでいた茶を飲み下し、慌てて隣に座る兄を見上げた。


 「どうしてよ兄様!? だってお雪さん、自分がやったかもしれないって……」


 「── お前は馬鹿か?」


 心底呆れた、と言った様子で横目で妹を見る朱王と、柳眉を逆立てる海華。

二人を前にしている修一郎は苦笑いを隠しきれない。


 「海華、左官屋の住まいはな、六畳一間の長屋なのだ。十畳二十畳もある御殿住まいではない」


 「狭い部屋で親子三人川の字で寝ていたんだ。仮にな、部屋にお雪さんが忍び込んで赤ん坊をさらったとして、親が両方共気付かないはずないだろう」


 『ああ……』と一言こぼしたまま、海華は顔を赤く染めて恥ずかしそうにうつ向いてしまう。

確かに修一郎や兄の言う通りだった。


 「なら……誰が赤ちゃんを殺したんですか? お雪さんでなければ誰が……?」


 おろおろ視線をさ迷わせ、か細い声で尋ねる海華。

彼女の最もな問い掛けに、二人は無言で互いに目配せし合う。

狼狽える海華一人を置いてきぼりに、二人の視線は赤ん坊を殺した下手人が誰か粗方めぼしがついている、そう物語っていた。

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