第三話
墨を流したような漆黒の空から細かい白が舞い落ちる。
先程まで唸りを上げていた寒風は息を潜め、音もなく降り積もる雪の中を朱王と志狼は中西長屋へと向かっていた。
視界を覆う真っ白な雪の簾、ぼんやりと仄かな灯りを放つ蕎麦屋の提灯が、いつも見慣れた通りを幻想の世界へと変えていく。
長屋まで後僅か、という所まで来た時だった。
身を竦めて歩く二人の目の前を、淡い水色の着物がふらつきながら横切った。
「ん? あれは……?」
道に積もる雪を踏み締める朱王の足がぴたりと止まる。
右へ左へふらふらふらふら身体を揺らせて歩く小柄な人影、細かい雪の間から垣間見た横顔は、朱王のよく知った女のものだった。
「なんだありゃ? 朱王さん知り合いか?」
突然暗がりから姿を現した妙な女に目を瞬かせ、隣にいた志狼が朱王に問う。
『ああ』と短く答えながら、彼は酒と醤油の瓶を志狼に預け、直ぐ様その女へと駆け寄った。
結わえた髪や肩にうっすらと雪を雪を積もらせ、足を引き摺るように歩く女は、朱王の思った通り、豆腐屋の娘、お雪だった。
病的なくらい 青白い首筋、夢を見ているかのように虚ろな、 悪く言えば死んだ魚に似た瞳は目の前の朱王に向けられてはいない。
ただ、ひたすらに闇へ視線をさ迷わすお雪に、朱王はただならぬ気配を感じていた。
「お雪さん! お雪さんどうしたんです? こんな時分に一体何をして…… 」
細く薄い両肩に手を置き、軽く前後に揺さぶれど何の返事も返らぬまま、がくがく頭を前後に揺する彼女の胸元、そしてだらりと力無く垂れ下がる両手に目を落とした朱王は、『ぐっ』と息を詰め、思わず肩から手を離して一歩後退る。
白い肌によく似合う薄い水色の着物。
その胸元には、べっとりと粘る赤黒い液体がこびりついていた。
それは細くしなやかな五指や手のひらも同じ、 恐る恐る彼女の手を取り、指先でその気味悪い物を拭った刹那、びくりと華奢な体が跳ね上がる。
驚いて顔を上げると、お雪の円らな瞳が微かに揺れ、ようやく視線が朱王へと向けられた。
「お雪さん? お雪さん大丈夫ですか?」
「あ…… す、おう、さん?」
案じるようにこちらを見詰める朱王に掛けられた今にも消え入りそうなか細い声。
やっと正気に戻ってくれたことに安堵しながらも、すぐに彼は真剣な表情でお雪の手を握った。
「お雪さん、どこか怪我でもしましたか? これは…… 」
その言葉に、彼女の顔がみるみるうちに強張り、朱王に掴まれていた手をゆっくりゆっくり顔の前へ持ち上げる。
どす黒く染まった己が手のひらを見た瞬間、白く血の気の失せた唇が戦慄いた。
身体は小刻みに震え、目は張り裂けんばかりに見開かれる。
発狂するのではないかと思われる様子で手のひらを凝視する彼女は明らかにおかしかった。
『とにかく、うちで手当てを』そう告げたと同時、彼女は力一杯朱王の身体を突飛ばし、積もった雪を跳ね上げて転がるように駆け出していく。
脱兎の如く逃げ去り、闇へ消えていくお雪の後ろ姿を呆然と見詰める朱王。
二人の様子を離れて静観していた志狼も何かおかしいと思ったのだろう、小走りでこちらへ近寄ってきた。
「おい朱王さん、何なんだありゃ? 随分妙な女だな?」
「ちょっと、な。顔見知りなんだ……」
ぽつりと気のない返事を返し、朱王はあの液体が、いや、固まりかけて粘ついた物がついた指を鼻先に近付ける。
それがなんであるかわかった瞬間彼の眉間に深い皺が刻まれた。
鼻腔に感じる生臭さと鉄の臭い。
べとべとと指を汚して粘りつく不気味な『朱』は明らかに『血潮』そのものだった……。
「やっぱり、血か……」
指先に付いた赤黒い粘液に目を落としたまま、ぽつりと呟く。
それを耳にした志狼はみるみる眉根を深く寄せ、朱王の指を凝視した。
「そうだな、確かに血だ。しかも時間がたったやつだぜ? あの女、どこか怪我でもしてたのか?」
志狼の一言に、一瞬間を置いて朱王は緩く首を横に振る。
胸元や手のひらについていた血はかなりの量があった。
だが、自分の前を走り去って行った彼女は、どう見てもそれだけの出血を伴う怪我をしていたようには見えない。
暴漢か何かに襲われたとしても着物や結い上げ髪に乱れは無かった。
何より朱王が気になったのは、漆黒の闇を凝縮したような、彼女の虚ろな目だ。
「お雪さんは……どこから出てきた?」
指に付いた血をそのままに、朱王は志狼へ顔を向ける。
細かい雪にまみれた長髪が、重たく揺れた。
酒と醤油の瓶を抱えた志狼は、怪訝な面持ちのまま顎で朱王の左後ろを指し示す。
「そこの路地からだ。まるで幽霊みてぇだったな。ふらふらしながら出てきた」
志狼の示した路地へ視線を向けると、そこには闇が凝り、まるで奈落の底のような不気味さが漂っている。
なぜ、人通りも絶えた夜に彼女はあんな場所にいたのか……?
自然と朱王の足はその路地へと向く。
降り積もる新雪に下駄の跡を刻み無言で路地へ消えていく彼の後を志狼は慌てて追い掛けた。
細く暗い道を少し歩けば、その先は袋小路。
道の脇で温かい光を放つ破れ提灯を吊しているのは、年季の入った店構えの小さな一杯飲み屋だ。
商売をする気があるのか無いのかわからぬくらい、人目に付かない場所にあるひなびた飲み屋。
月が暗雲に飲まれている今、唯一の光源は、細雪に曝され揺れる提灯のみだった。
ぼぅっ、と幽玄の光に照らされた袋小路の先に、何やら黒っぽい塊が雪に埋もれているのを、朱王の澄んだ瞳が捉えた。
「あれは……なんだ?」
「さぁ? ここからじゃ、よく見えねぇな」
塊の存在は志狼にも見えたのだろう、小首を傾げながらそう答えた彼と朱王は、降り積もったばかりの柔雪を踏み締め、一歩一歩塊へ近付いてゆく。
ぎりぎりまで近付き、その塊が何なのかわかった二人は、思わず息を詰め表情を強張らせながら互いに顔を見合せた。
音も無く深々と降る雪を全身に纏い、転がっていたのは一匹の黒猫だった。
身体の大きさは、大人の手のひらに乗る程度。
まだ成猫ではないのだろう。
ぐんにゃりと力無く横たわる猫の周りはどす黒い血が白雪を染め、生前は艶やかだったであ う黒の体毛も、べっとりとついた血糊で汚れていた。
カッと二人を射殺さんばかりに見開かれた金色の瞳。
しかし、そこに光は無い。
白く鋭い牙を剥き、赤くざらついた舌を覗かせる口元。
今にも獲物に飛び掛からんとする格好のまま、黒猫は息絶えていたのだ。
尖った耳が乗る丸い頭、その下には既に黒く変色しかかった生肉がさらけ出されている。
横一文字に首を切り裂かれ、皮一枚で胴体と繋がった『黒猫だったもの』は、辺りに死臭を漂わせ、お雪と同じ虚ろな瞳で呆然と立ち尽くす二人を睨み付けていた。
逃げるように路地を去った二人は、長屋に着くまで始終無言を貫いたままだった。
誰が猫を惨殺したのか、そんな事はお互い利かなくてもわかる事だ。
そして巷を、特に女子供を恐れ戦かせている 「血吸い鬼』が誰なのかも。
使いに出た兄が一向に帰らぬのを心配し、そわそわと落ち着かない様子で待っていた海華は、顔を蒼白にして帰宅した兄と、何故か酒と醤油の瓶を抱えて姿を表した志狼を見るなり、ぽかんと口を半開きにさせた。
どうして遅くなったのか、なぜ志狼が一緒なのかと問い質す彼女に、朱王が抑揚の無い声で放った一言は、『酒の支度をしてくれ』ただそれだけだった。
不満げに唇を尖らせ、ぶつぶつ文句を垂れながらも海華は早速明々と燃える火鉢にかけていた鉄瓶の中へ酒を満たした徳利を突っ込み、酒の肴を用意するために包丁を握る。
夕餉も済ませていない空きっ腹へ人肌に温まった酒を流し込む朱王と、苦虫を噛み潰した表情で海華の用意した蒟蒻の鰹節和えを口に放る志狼。
一言も喋らず、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせて次々と徳利を空にしていく二人を見ていた海華は、痺れを切らしたように外した前掛けを畳へ勢いよく叩き付けた。
「ちょっとなんなのよ、さっきから二人して黙り決め込んで! 陰気臭く飲んでばっかりいないで、あたしの質問に答えてよ!」
狭い室内に響く海華の怒声。
柳眉をつり上げて自分の隣へ座る彼女にちらりと視線だけを投げた朱王は、空の猪口を指先で弄びながら、ふぅっ、と小さく息を吐いた。
「志狼さんとは、醤油屋から帰る時に偶然会った。今夜は桐野様が奉行所に詰めていて帰らない、だから家で一緒に飲もう、と」
「ふぅん……それはわかったわ。で? どうしてこんなに遅くなったの?」
じろりと兄を睨み付ける海華の左隣では、粗方肴を平らげた志狼が、空になった皿へ箸を放り出している。
「遅くなったのは……お雪さんに会ったんだ。そこの路地で。 ──着物に血を付けた、お雪さんと……」
兄の口から漏れた言葉を聞いた瞬間、海華は胸の前で組んでいた腕をほどき、ひどく驚いたように兄の横顔を凝視した。
「お雪さんが!? 着物に血を付けたって…… どこか怪我してたんじゃないの!? それでお雪さんはどうしたの? まさか、そのまま置いてきた訳じゃないでしょうねっ!?」
お雪の身を案じる海華は、兄の腕を強く揺さぶり矢継ぎ早に問い掛ける。
慌てふためく彼女とは正反対に、畳へ視線を落とす朱王と志狼は未だ顔をしかめたままだ。
「お雪さん、何だか様子がおかしかったんだ。まるで夢の中にいるような感じだった。声は掛けたんだが、俺のことを見て逃げていった」
ぴたりと腕を揺さぶっていた海華の動きが止まる。
朱王の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「お雪さんが出てきた路地に行ってみた。奥の袋小路に、猫が死んでいたよ。ざっくりと喉首切り裂かれてな」
その刹那、部屋の空気が凍り付く。
兄の言った意味がにわかに理解出来ないのか、一杯に瞳を見開いた海華は今にも泣き出しそうな面持ちで兄と志狼を交互に見遣っていた。
「ちょっと待ってよ、じゃあ、お雪さんが猫殺し……ううん、『血吸い鬼』だって言いたいの?」
くしゃりと悲しそうに顔を歪めた海華が弱々しい声色で呟く。
雪に当たり、湿った髪を苛立たしげに掻きむしる志狼は、隣へ座る彼女へちらりと視線を投げた。
「そうとしか考えられないだろう? 聞くまでもねぇじゃねぇか」
苛立ちを露にする彼へ海華は下げていた眉尻を再びつり上げ、胸の前で深く腕組みをした。
「決め付けることないでしょ? 志狼さん、お雪さんが猫の血啜ってる所を見たの?」
「見てねぇさ。だがな、着物にべったり血付けた女が路地から出てきた、そこに喉裂かれた猫の死骸があった、他に人はいない、とくればだ、あの女以外に誰が猫ぶち殺せる?」
「お雪さんが路地に行く前に殺されてたってこともあるんじゃない? 大体ね、あんなに優しくて綺麗な人が……『豆腐屋小町』が血を飲むなんて信じられないわ」
その言葉に、志狼は『ふん』と鼻を鳴らし お前は馬鹿だとでも言いたげに薄ら笑いを浮かべた。
「お前、以外と間抜けだな。人は見掛けによらない、って言うだろうが。知らねぇのか?」
「志狼さん、根性が胡瓜並みにひん曲がってるんじゃない? 人柄は顔に出るのよ」
これまた小馬鹿にするような口調で、そう言い放つ海華。
みるみるうちに志狼の眉間に深い皺が刻まれる。
「人に喧嘩売ってんのか?」
「そりゃぁこっちの台詞よ! 売られた喧嘩は買うわよ?その代わり十倍にして返してやるわっ!」
ばんっ! と白っ茶けた畳をひっぱたき、海華は腰を浮かせる。
ぎりぎり睨み合う二人の視線が激しくぶつかり、見えない火花を散らせた。
と、一触即発の状態を見るに見兼ねた朱王が、宥めるように海華の背中を叩く。
「少し落ち着け。ここで喧嘩して何になるんだ? それに、あまり大声出すと隣に聞こえるぞ」
兄にたしなめられ、渋々座り直す海華と、面白くなさそうに唇を尖らせ顔を背ける志狼。
頬を膨らませた海華は、下からねめつけるように兄を見上げる。
「兄様は? 兄様も、お雪さんがやったと思ってるの?」
その問い掛けに朱王は即答することが出来なかった。
なぜなら、血塗れのお雪と猫の死骸を実際志狼と共に目撃しているし、何より彼の言い分もわかる。
だが、あの清楚、しとやかを絵に描いたようなお雪が、犬猫を惨殺して血を啜り、あまつさえ赤ん坊を拐って殺したなど、正直思いたくはないのだ。
困ったように低く唸る朱王へ、志狼と海華両方の視線が注がれていた。
「とにかく、明日お雪さんの所へ海華、お前が行って様子を見てきてくれ。それと志狼さん、この事を桐野様に話すのは、一日だけ待ってくれないか?」
その台詞に、一瞬間を置いて志狼は小さく頷いた。
「まぁ、一日だけなら。でもよ朱王さん。海華をあの女の所へ行かせてどうする気だ?『自分から番屋へ行って、洗いざらい吐け』とでも言うつもりかよ?」
「もし、お雪さんが本当にやったのなら、な。必ず番屋へやる。ただ、あの人の言い分も聞きたいんだ」
空になった皿を難しい顔で見詰め、朱王はそう呟きながら長めの前髪を無造作に掻き上げる。
そして翌朝、海華は朝日が昇ると同時に、お雪の元へと走ったのだった。
翌朝、早々とお雪の元へ出掛けて行く妹を見送った朱王は、あちこちに継ぎ接ぎの当たったみすぼらしい、見方によっては色とりどりの褞袍を背中に引っ掛け、炭の爆ぜる火鉢にかじかむ両手を翳していた。
外はすっきりと晴れ渡り、風も無いが、その分骨の髄まで凍るかと思う位に底冷えしている。
ひびが走る薄い土壁から忍び込む冷気で、室内はほぼ外と同じ寒さだ。
鼻の頭は赤くなり、吐く息は白く煙りながら宙へ溶けていく。
ひんやりと冷たいささくれ畳に胡座をかき、火鉢にへばりつく朱王。
顔を洗わなければ、着替えもしなくては、頭ではそう思うのだが、いかんせん全身の筋肉が固まりきっている。
立ち上がるのも億劫な状態のまま褞袍の前を掻き合わせる朱王の肩が、ぶるりと小さく震えた。
ぼんやりと火鉢に当たり続けてどのくらいの時が過ぎたろうか。
表から聞こえる女達のにぎやかなお喋りと笑い声を淡々と拾っていた朱王の耳が、『兄様ーっ!』と遠くから響く絶叫に近い海華の声を受け止めた。
凍り付いた地面を蹴るけたたましい下駄の響き、引き戸がぶち壊さんばかりに跳ね開けられ、冷えた空気を引き連れて土間に転がり込んできた海華は、まるで化け物と遭遇したように顔を引き攣らせながら、雪まみれの下駄を脱ぎ捨てた。
「兄様! 兄様っ! 大変、大変よっっ!」
ばたばた四つん這いでこちらに来る妹に、朱王の眉が盛大に寄せられた。
「なんだ、そんな大声で、みっともないぞ」
「そんな呑気なこと言ってられないわ! 大変なのよ!」
寒さで赤く染まる頬、乱れた黒髪を更に振り乱し海華は兄の腕を掴む。
「とにかく落ち着け、何が大変なんだ。ちゃんと話さなきゃわから……」
「お雪さんが自害したっ!」
兄の言葉を途中で遮り、そう一言叫んだ海華は、ぜぇぜぇと荒い息を乾いてひび割れた唇から吐き出す。
今度は朱王が驚きに目を剥く番だった。
「お、雪さんが、自害? なぜだっ!? どういう事なんだっ!?」
褞袍を跳ね飛ばし、四つん這いのままでいる妹の両肩をひっ掴んだ朱王は、思い切りその身体を前後に揺さぶる。
今にも泣き出しそうに顔を歪めた海華の唇から放たれた叫びは、ほぼ悲鳴に近いものだった。
「わかんないわよっ! 剃刀で手首切ったって……お店の前に人だかりが出来てて……!」
「お雪さんはっ!? 死んだのかっ!?」
「小石川に運ばれたって……生きてるか死んでるかなんてわかんない!」
それもそのはず、豆腐屋の前に群がる野次馬からお雪が自害したようだ、と聞いた瞬間、海華は脱兎の如く長屋へ向かって駆け出していたのだ。
ばん! と畳から跳ね上がるように立ち上がった朱王は、『小石川に行くぞっ!!』と一言叫び、壁際に置いてある長持ちの中から自分の着物と羽織をひったくっていた。




