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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第三十章 紅い幽鬼
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第二話

 その夜、海華は兄に背負われて帰宅することとなった。

雪乃が気をきかせて飲ませてくれた痛み止めが良く効き……いや、海華の場合は効きすぎたのか、半ば意識朦朧の状態だったのだ。

だが、それから五日もたった頃には煩わしい物も治まり、いつものように外出できるまで体調は回復した。


 修一郎の屋敷から帰って六日目の昼、海華は兄に使いを頼まれ人形に着せる衣装を頼みに仕立屋であるお駒の元を訪れる。

連日冷たい雪の花を降らせていた分厚い暗雲もどこかへ流れ去ったのか、この日は朝からすっきり晴れ渡り、降り注ぐ陽光が暑いくらいに感じた。

錦屋で買い求めた反物を持参し、それをお駒に手渡せばいいだけ。

しかし、海華はとある罠に掛かってしまったのだ。

お駒の十八番おはこ『長話』と言う罠に。


 気付いた時には白い太陽は茜色の夕日に変わり、西の空へと傾きかけている。

『日が暮れるまでには帰ってこい』という兄の言葉を思い出した彼女は、半纏を小脇に抱え慌ててお駒の部屋を飛び出した。

昼間は暖かかった外気も今はひんやりと冷たく、茜から紫に変わり掛けた東の空には、糸のように細い月が姿を現す。

各店先に灯りだす提灯の前を足早に歩く海華の瞳が、自分のすぐ前をふらつきながら歩く一人の女の背中を捉えた。


 すらりと細身の女は、今にも倒れてしまうかと思うほど右に左に体を揺らし、雪が解けてぬかるんだ地面に刻む下駄が、ぐちゃぐちゃ湿った音を立てる。

今の時間に酔っ払いか? と怪訝そうに眉を寄せる海華の前で、突然女は足を止め、力無くその場へ屈み込んでしまった。


 「あ! ちょっと、大丈夫!?」


 思わず女に駆け寄る海華に、寒そうに身を縮め先を急ぐ人々の視線が刺さる。

そんなことはお構い無しに、女の顔を覗き込んだ海華の口から、あっ! と小さな叫びが漏れた。

ひどく苦し気に顔を歪め、吐き気を耐えるように口を両手で押さえる女は、先日長屋を訪れた豆腐屋の娘、お雪だ。


 美人の条件とも言える色白の顔は、白を通り越して真っ青、長い睫毛に囲まれた大きな瞳は涙で潤んでいる。

一目見て具合が悪いのだとわかった海華は、急いで手にしていた半纏を彼女の背中へかけた。


 「お雪さん? ねぇ、大丈夫?」


 「は、い……。あ、貴女は、確か……」


 ゆっくりと横にいる海華へ顔だけを向けたお雪は、どこか不安げに瞳を揺らす。 そんな彼女ににこりと微笑んだ海華は、丸まる背中を静かに撫でた。


 「海華よ。朱王の妹。お雪さんどこか悪いの? 顔、真っ青よ」


 「いえ、違うんです。その……」


 一瞬の恥じらいの後、お雪は自らの腹部に片手を当てる。

その仕草に、海華は全てを覚った。


 「もしかして、月の物?」


 小さく囁かれたその問いに、お雪はこくんと無言で頷く。


 「寒くなると、痛みが酷くて……」


 「わかるわ、あたしもそうなのよ。家まで送るわ。立てる?」


 はい、と答えたお雪は、海華の手を借り、よろよろと身を起こす。

痛みを必死でこらえる彼女の横顔を見ながら、 海華は女はつくづく損な生き物だと感じていた……。





 お雪を無事家に送り届け、海華が長屋に帰った頃には既に辺りは暗闇に包まれていた。

澄み切った夜空には金銀の星屑が煌めいている。


 「人助けができた」といい心持ちで戸を開いた海華を待っていたのは、『遅いっ!』と言う兄の一喝、思わず身を竦めた妹をぎろりと一睨みする朱王の手には、酒が並々と注がれた湯飲みがある。


 「なによぉ…… まだご飯済んでないのに、 もう飲んでるの?」


 「お前がいつまでもふらふらしてるからだ! 暗くなる前に帰ってこいと、あれほど言っただろう!」


 恨みがましい目付きでこちらを見る妹を一蹴し、湯飲みを傾ける兄に溜め息を漏らしつつ、海華は継ぎの当たった前掛けを手に取った。

早く飯の支度をしなければ、もっと兄の機嫌が悪くなるのが目に見えていたからだ。

空腹は、人を苛立たせる名人である。


 「別にね、遊び歩いてた訳じゃないのよ。お駒さんの長話に捕まっちゃってさ。帰りにはお雪さんに会って、家まで送って行ったのよ。なんだか具合が悪そうで」


 「お雪さんが?」


 意外そうな表情を浮かべた朱王はヒビ割れた壁に背中を預け、隣に置いていた酒瓶を手にする。

前掛けをしめながら、海華は軽く頷いた。


 「そう、あたしと同じで月の物が重いみたい。……あ、お雪さんにはあたしが言ったってことは内緒ね」


 ちろっ、と舌先を覗かせ、海華が肩を竦める。


 「道端でふらふらしててね、悪い奴らにおかしな真似されたら大変でしょ? ほら、お雪さん美人だし。だから家まで送って行ったのよ。それで、遅くなったの」


 「そういう訳なら、まぁ仕方無いか。だがな、修一郎様からお前が夜歩きしないようにき つく言われているんだ。万が一『血吸い鬼』に襲われちゃ大事おおごとだからな」


 その言葉に、芋の皮を剥いていた海華は小さく笑みをこぼす。


 「心配してくれるのは有り難いけど、『血吸い鬼』が出るのは月末でしょ? 明日からもう師走なのよ?しばらくは大丈夫だって」


 確かに妹の言う通りだ。

だが、油断大敵、今この時も『血吸い鬼』は新たな獲物を探して夜の帳が降りた街をうろついているかもしれない。

そんな朱王の心配もよそに、海華が濡れ布巾で手を拭き拭き間延びした声を出した。


 「でもねぇ、月末だけに出てくるあたりなんてさぁ、月賦げっぷの集金みたいじゃない?」


 「何を呑気なことぬかしてる。夜道で喉首食い破られても、俺は知らんからな」


 そんな冷たい一言を朱王が放っても海華は笑ったまま聞き流す。

もしそんな事態となった時、一番大騒ぎするのは兄だとわかっているからだ。


 「だから平気だって。『血吸い鬼』が狙うのは犬猫ばっかりなんだからさ」


 人は大丈夫、そんな海華の考えは師走も終わりになった頃、物の見事に裏切られることとなる。

だが、今の二人はそんなことを知るよしもなかった……。





 修一郎から『血吸い鬼』の名を聞いてから、はやひと月。

師走も終わりに近付いた江戸の街は、皆が気忙しく年越しの準備に追われている。

それは兄妹も同じ、朱王は今年最後となる仕事を片付けるために終日机に向かい、海華は大掃除やら正月の支度やらで、ろくに休む暇もない。


 後ひと踏ん張りで全てが終わるそんな時、月の物がやってきた。

しかも忙しい時に限って痛みは酷く、初日から猛烈な痛みと疼き、そして目眩に襲われた海華は布団から起き上がることすら出来ず、横になったままうんうん唸っている。


 そんな妹を気にかけながらも、朱王は錺物屋である幸吉の元へ人形の簪を受け取りに出掛けて行った。

真っ白く分厚い雪が積もる家々の瓦屋根。

冬の太陽が雪に反射し、網膜を貫く眩しさに目を細めて歩く朱王の耳は身も凍るような風に吹かれて赤く染まっている。


 無事に簪を受け取り、妹が臥せる長屋へ足早に向かう朱王。

日本橋を過ぎ、長屋が立ち並ぶ一角まで来た時だった。

長屋と長屋の間、猫が一匹やっと通れるかどうかの細い裏道の前に黒山の人だかりが出来ている。


 その人混みを縫うように黒い羽織を纏った数人の侍の姿がちらちら見えた。

何かあったのだろうか? 漠然とそう思う朱王の足は、自然とざわめく人だかりへ向かう。

派手な継ぎが当てられた分厚い反転を纏う女や、襟巻きにどてら姿の老人の間から顔を覗かせる朱王。

切れ長の瞳が、人垣の向こうに、ある一人の侍の姿を映し出す。


 「桐野様!」


 思わずその侍の名前を叫べば、浅黒い痩せた顔が、ひょいとこちらへ向けられる。

朱王の姿を認めた侍、桐野はその瞬間驚きの表情を浮かべ、ざくざく雪を踏み締めながらこちらへと近寄ってきた。


 「朱王! どうしてここに……」


 「たまたま近くを通り掛かって…… 一体何の騒ぎですか?」


 周りにいる野次馬の視線が、一斉に朱王と桐野へ向けられる。

ここで話すのはまずい、とでも思ったのだろう、桐野は人垣を掻き分け人気の無い長屋脇へ朱王を押し遣った。


 「また殺られた。『血吸い鬼』だ」


 悔しげに顔を歪め、桐野は唇を噛み締める。

ひと月ぶりに聞いた忌まわしいその名前、しかし、それにしては尋常ではない騒ぎだ。


 「また、犬猫が殺されたのですか?」


 「犬でも猫でもない。人だ。赤ん坊が殺された。喉を……噛まれて血を吸われた」


 白い息と共に口からこぼれた桐野の声が、微かに震える。

返す言葉が見付からず、朱王はただ目を見開いたまま、うつ向く彼を凝視するしか出来ない。

ひと月前に耳にした桐野の不安が、見事的中してしまった瞬間だった。


 『血吸い鬼』が赤ん坊を食い殺した。

この凄惨な事件の話しは、瓦版や人々の口伝えでその日のうちに江戸中を駆け巡った。

今まで、殺されていたのは犬猫だけと楽観視していた奉行所も大騒ぎだ。

桐野から『夜に出歩くな』ときつく言われ、朱王は現場を後にした。

丁度良く、と言ってはなんだが、妹はとても外を歩ける状態ではない。

部屋に籠っていれば襲われはしないだろう。


 この時はそう考えていた彼だが翌日買い求めた瓦版を読んだ途端それが甘い考えだったと思い知らされた。

赤ん坊は室内で寝ていた所を拐われた、というのだ。

事件の概要はこうだ。

殺されたのは、日本橋から少し離れた長屋に住む左官屋の息子、まだ生まれて半年程だった。

殺される前日、左官屋夫婦はいつものように赤ん坊を真ん中に川の字になって眠りにつく。

そして翌朝、母親が目を覚ました時には既に赤ん坊の姿は影も形もなかった。

子供がいないのに気付いた二人は吃驚仰天、慌てて部屋の中から外まで探し回った。


 長屋裏の小道、袋小路になっている所に喉を咬み切られて息絶えている赤ん坊を発見したのは、父親だったらしい。

つまり、『血吸い鬼』は夫婦に気付かれることなく室内に侵入したことになる。

本当にそんな真似が出来るのだろうか? 半信半疑ながらも、朱王はこの日から戸締まりをいつもより厳重にすることにした。


 夜中、ここに忍び込まれたところで自分が気付かない訳はない。

しかし万が一ということもあるし何より妹は満足に抵抗出来る状態ではないのだ。

早めの夕餉を済ませ、日が落ちたと同時につっかい棒を掛ける兄の背中を布団に寝たままぼんやりと見遣る海華は、ずきずき痛む腹を撫でつつ小さな溜め息をつく。

ここ数日臥せったまま、家の事は全て兄に任せっきりだ。


 「兄様ぁ…… ごめんなさいね迷惑掛けて」


 「気にするな。具合が悪いんだから仕方無いさ」


 手桶の冷水で布巾を洗い、真っ赤になった手を拭う朱王。

夜の帳が降りた外では、寒風が甲高い悲鳴を上げて吹き抜けていった。


 「月の物、後少しで終わると思うから。それまでお願いします」


 ふにゃりと顔を綻ばせ布団から出た彼女は、火鉢にかけていた鉄瓶の湯を使い茶の用意をし始める。

やがて、爽やかな茶の香りが隙間風の吹く部屋に広がった。


 「はい、どうぞ」


 真っ白な湯気の立つ湯飲みを渡され、それを両手で包めば、冷えた手のひらにじんわりと熱が染み込んだ。


 「……ねぇ兄様、『血吸い鬼』のこと、あれから何か聞いた?」


 熱そうに茶を啜る妹からの唐突な問いに朱王の眉がぴくりと動く。


 「いや、何も。あれから殺された人間はいないようだ。犬猫も無事らしい。── どうしてそんなことを聞くんだ?」


 「なんだか気になったの。兄様この頃帰りが遅くなるじゃない?だから…… 」


 妹は妹なりに自分のことを案じていた。

それを知った朱王は僅かに頬を緩め、恥ずかしげに顔を伏せる海華の頭をくしゃくしゃ撫でる。


 「俺のことなら心配いらない。簡単に殺られるほどヤワじゃないからな」


 兄の笑顔と返った答えに安心したのか、海華は両手で湯飲みを包んだまま小さく頷き、にっこりと白い歯を見せていた。

赤ん坊を殺めた下手人の行方は未だわからず、年の暮れを向かえた江戸市中は戦々恐々だ。

相手は鬼だ、人の手に負えまい、そんな空気が色濃く漂い始めると人々が頼るのは『奉行所』から、『神仏』へと移るのは自然なことだろう。


 怪しげな願人坊主がんじんぼうずや陰陽師が次々と街に現れ、鬼避けの札だの退魔の呪文を書いた紙切れを売り歩き、ここぞとばかりに荒稼ぎする始末だ。

夕方暗くなるまで遊んでいる子供にかける言葉は、『もうご飯だよ!』から『血吸い鬼に拐 われるよ!』に変わり、それを聞いた幼子は青い顔をして家に駆け込むらしい。


 日が沈んでから出歩く女子供はいなくなり、男でさえもいつ鬼に喰われるかとびくびくしながら歩いている。

狐狸妖怪の類いも、神仏すらも信じない朱王の部屋の軒先にも、難解な漢字や妙な記号がごちゃごちゃと書かれた一枚の札が冷たい風になびいていた。

勿論兄妹が好きで貼った物ではない。

大家の女房、お石が信仰している山伏から買い求めた物で、鬼避けの札らしい。

『襲われたら大変だから』と各部屋に配ったその札。

剥がしたいのは山々だが、またお石に文句を付けられては堪らないと、そのままにしているのだ。


 ぎらつく緋色の夕日が西の空に姿を隠し、長く冷たい夜が辺りを包む。

月の物がやっと終わりかけ、何とか動ける状態にまでなった海華は久し振りに前掛けをし、夕餉の支度に取り掛かろうとしていた。


 冬瓜の煮付けでも作ろうか、そう思いながら醤油瓶を手に取った海華の顔がみるみる曇る。

瓶はやけに軽く、それは醤油が殆ど無い事を示していた。


 「兄様、あたしお醤油買ってくるわ。切らしちゃったの」


 いそいそ前掛けを外しだす妹を慌てて止めた朱王。

机の下から酒瓶を引っ張り出し、それを抱えて土間へと降りる。


 「俺が行くよ。酒も買ってこなきゃならないしな」


 「そう? なら、お願いします。暗くなってからごめんなさいね」


 苦笑いしながら醤油瓶を渡す妹に見送られ、ひゅうひゅうと冷たい牙を向いて吹き荒ぶ風の中を出掛けた朱王は、黒髪を舞い上げる風の強さに思わず身震いし、羽織の前を掻き合わせる。

暗闇に包まれた通りに人影は疎らだ。

足早に酒屋と醤油屋で目的の品を買い求め、固く締まる雪を踏み締めて帰路につく彼の肩が、突然ぽん!と叩かれる。


 手にしていた瓶がぶつかり合う派手な音を耳にしながら、顔を強張らせた朱王は弾かれるように後ろを振り返った。


 「よう! 久し振りだな」


 「志狼さん、か」


 そこにいたのは闇に佇む一人の男、分厚い半纏に薄灰色の襟巻きをした志狼は、にやりと口角をつり上げ、ひょいと片手を上げた。


 「驚かせないでくれ。てっきり……」


 「血吸い鬼だと思ったか? ありゃ女子供の血を啜るんだろ」


 ほっと息をつく朱王を面白そうに眺め、彼は顔にかかる髪を無造作に掻き上げた。


 「血吸い鬼のせいで、この辺りも随分と寂しくなったな。ところで、朱王さんが使いに出るなんて珍しいじゃねぇか」


 「ああ。海華が体調悪くてな。志狼さんも買い物か?」


 ばさばさと靡く髪を片手で押さえる朱王の問いに、襟巻きを鼻の下まで引き上げた志狼は無言で頷く。 よくよく話しを聞けば、桐野はここ数日奉行所に詰めっぱなしで家には帰ってこないと言う。


 「一人だと暇だからな。ちょいと飲みに出てきた」


 「桐野様も大変だな。どうだ、飲むならうちで飲まないか?」


 「そりゃ有難いがよ、海華大丈夫なのか?」


 小さく鼻を啜り、海華を案じるように訪ねる彼に、朱王は一瞬闇に視線わさ迷わせる。

次に彼の口から躊躇いがちに出た言葉、それは『病気ではないからな』の一言だった。

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