第七話
朱王や浅黄と一旦別れた海華はいつものように大勢の客で賑わいをみせる呉服問屋、錦屋の客でごった返す店内へ滑り込み、きょろきょろあたりを見回して女将、そしてお久仁の姿を探す。店の奥に引っ込んでいるのか、はたまた客の陰に隠れて見付けられないだけなのか、お久仁の姿はどこにもない。女将はと言えば、店の奥で大番頭と何やら話をしているようだ。
「女将さん! 女将さん!」
「え? あら、あらあら海華ちゃん! どうしたの、今日は随分お早いこと」
水浅葱に白鷺の模様が描かれた涼しげな着物を纏う女将は海華の姿を確かめるなり、いつもと同じにこやかな笑顔ですぐこちらへ来てくれる。
彼女を店の片隅に、ちょうど他の客から話し声も聞こえない土間の隅に向かった海華は、『お願いがあるんです』と一言、まるで仏様を拝むように両手を合わせて女将を上目遣いで見上げた。
「私にお願い? あら、何かしらねぇ?」
不思議そうに首を捻りつつ女将は海華を見詰める。
「はい、実は……お久仁さんを少しの間だけ貸してもらえませんか? お久仁さんにどうしても会いたいって人が、表で待ってるんです」
海華のこれまた不思議な申し出に、女将は目をパチクリ瞬かせて頬に手を当てた。
「お久仁さんに、会いたい人? 」
「そうなんです。兄様のお得意様なんですけど、お久仁さんを一目見た時から気に入っちゃって……ほら、一目惚れってやつですよ。もう寝ても覚めてもお久仁さんの顔が頭から離れない、一度でいいから会って話しをしたい! って言って聞かないんですよ」
『困っちゃいますよねぇ』そうわざとらしく多くな溜息を吐き出し苦笑いをして、海華はさらに唇を動かす。
「恋に焦がれてとうとう食事もの喉を通らない、朱王さんお願いだから口利きをしてくれないか、って、その人、兄様に頼み込んできたんですよ。何回も断ったんですけどしつこくて……。女将さん、人助けだと思って、お願いします!」
パン! と乾いた音を立てて両手を打ち合わせ、深く頭を垂れる海華に、女将はさもおかしそうにコロコロ笑って何度も頷いた。
わかったわ、わかったから海華ちゃん、もう顔をお上げなさいな。すぐにお久仁さんを呼んできますから、ここで待っていて頂戴ね。でも……海華ちゃんも色々大変ね」
どこか慰めを含んだ響きを残して、女将は足早に店の奥へと去っていく。すぐに彼女から話を聞いたのであろうお久仁が少々戸惑いがちに姿を現し、海華に向かってペコリと頭を下げた。
「急に呼び付けてごめんなさい。あたし、海華と言います」
「お久仁、と申します。女将さんから伺いました。私に会いたい方って……」
降って湧いたような話に話に多少なりとも警戒しているのだろう、彼女は口元に手を当てほんの少し、疑いの混ざった眼差しを海華へと向ける。
「急に呼び付けてごめんなさい。あたし海華と言います。女将さんから聞いているとは思うけど、どうしてもあなたに一目会ってお話をしたいってお人がいるの。申し訳ないけれど、これから一緒に来てもらえるかしら?」
お得意の人懐こい笑顔を見せてそう言った海華に、お久仁は少し場かり疑いの混ざった眼差しを投げる。ここでもう一押し、そう瞬時に考えた海華は笑顔を絶やさぬまま再び唇を開いた。
「突然言われても吃驚するわよね。でも、そのお人はとても良い方よ。変な人じゃないことは確かだから。勿論、あたしとあたしの兄様も一緒に立ち会うから、安心して。その人ね、あなたに会えなきゃこのまま死ぬ! って、もう大騒ぎよ。人助けだと思って、お願いします」
先ほどと同じく、深々と一礼する海華にお久仁は一瞬躊躇いの表情を見せたが、すぐに『わかりました』と答えて首を縦に振る。その台詞と同時に上げられた海華の顔には満面の笑みが宿っていた。
「ありがとうお久仁さん、そのお方もきっと喜ぶわ。ここから少し離れた河原で待っているから。一緒に行きましょう」
話は整った、心の中でそう呟いた海華は早速お久仁を連れて朱王と浅黄が待つ河原、ここから道を一本挟んだ場所にある大川の河原へと急ぐ。そこは葦が生い茂る薄暗く寂しい場所であり、普段人の気配は全くない。つまり、人に気が付かれずに話が出来る場所である。通りからは葦の群生に阻まれ姿も見えないから、と、朱王がその場所を指定したのだ。
まだ頭上高くは昇り切らない太陽の白色の光が地上へと降り注ぐ。本格的に暑くなるには早い、真夏ではそれなりに過ごしやすい時分だろう。
通りを歩く人々をすり抜けお久仁の横を歩く海華の視線は時折お久仁の顔へと向けられる。透明な光を浴びて歩く彼女は、錦屋の店内で見た時には気が付かなかったが肌理細かい肌を持つ顔立ちも整ったなかなかの美人である。
細面に切れ長の涼やかな目はどこか浅黄に似ており、薄化粧の顔もしっかりと濃いめの化粧を施せば見違えるほど艶っぽさを増すだろう。
すっきり通った鼻筋に長い睫、固く結ばれた薄めの唇……。
可憐な美人、と言うより徒っぽい美人の表現がしっくりくる彼女が身を包むのは地味を通り越して野暮ったい薄茶色をした簡素な着物だ。
わざと平々凡々の容姿と地味に地味を重ねた目立たない格好ができる彼女に引き込み女は適役か。そんな事を考えながら河原までやってきた海華は何の迷いもなく斜面となっている土手を降り、生い茂る葦の野原を掻き分けていく。
「あの、本当にこんな所にいらっしゃるの?」
頬や頭に当たる柔らかな葦の葉を顔を顰めて払いのけるお久仁の声は、葉が擦れ合う乾いた音に掻き消される。一度足を止めて彼女の方を振り向いた海華はニコニコ顔を保ったまま、コクンと頷いた。
「そうですよ、もう少しですから。はぐれないように、ちゃんとついてきてくださいね」
そう言って再び踵を返すと、彼女は目の前にある深緑色をした葦の壁を両手で真横に押し分ける。
「兄様、浅黄さん、お久仁さんを連れてきたわよ」
叢の向こうに一声掛けた海華、彼女の手で押し開かれる歪な空間の向こうから、葦のさざめく音とともに、水面に反射する光の欠片が視界にちらつく。海華について恐る恐る葦の壁を越えたお久仁の前には、滔々と流れる大川を背にして立つ二人の男……朱王と浅黄の姿を見て、サッと顔色を変えた。
「……お、にぃ、ちゃん……? 惣太郎、にぃちゃ、ん……」
「お前、お仙……! やっぱり、やっぱりお仙だ!!」
お仙の美しい顔から見る見るうちに血の気が引いていく。そんな彼女に向かい、唇を戦慄かせた浅葱は大きく震える手で袂をまさぐり、朱王のところから持ってきた瓦版、くしゃくしゃの瓦版を引っ張り出し、彼女の前に突き付けた。
「お仙、お前……これ、これは、お前なのか? 違うだろう? 盗賊の、引き込み女なんて、嘘だよな?」
震える声で彼女に訊ね、瓦版に描かれた人相書きをお久仁に向かって突き付けつつよろめきながら彼女へ歩み寄る浅葱。生き別れの兄妹、感動の再開には似つかわしくない血走った両眼、鬼気迫る表情、自らを追い詰めるが如くににじり寄ってくる彼に恐れをなしたのか、お久仁は酷く怯えた面持ちで一歩、また一歩と後ずさっていく。
「答えろお仙ッッ! お前……本当にお前がこんな、黙ってないで、何とか言えッッ!」
何も答えぬ彼女に痺れを切らせたのだろう、朱王や海華が今まで聞いたこともない怒鳴り声を張り上げて、浅黄はお久仁……、いや、お仙に飛び掛かる。朱王や海華が止める間もない、全ては刹那の出来事だ。
掠れたお仙の悲鳴と、浅黄を引き剥がそうと二人の間に割って入る海華、そして彼を背後から羽交い締めにする朱王……。誰かの悲鳴と誰かの叫びが混在する草いきれに満ちた空間に、『あたしがやったんだ!』と一際大きな金切り声が響き渡る。
「あたしだよ! あたしがやったんだ! 大野屋から逃げた使用人ってぇのは、このあたしだよッッ!」
切れ長の目を逆立て、光を反射し白く光る歯を剥き出して、お仙は腹の底から叫び声を上げる。それを聞いた三人は一瞬で動き得を止め、彼女の胸倉を引っ掴んでいた浅黄の手から急速に力が抜けていった。
糸が切れた操り人形よろしく、グズグズとその場に崩れ落ちた浅黄は、小さくしゃくり上げながら地面に伸びた青草に額を擦り付ける。そんな彼に浴びせかけるようにお仙は顔を真っ赤にして柳眉を逆立てた。
「仕方ないじゃないか……仕方ないじゃないかッッ! にぃちゃんがいなくなって、おっかさんが死んで…… あたし一人で何ができるってんだ! 何の特技もない、芸もない女一人が……体ぁ売るほかに生きていく手段なんて、ほかに何があるって言うんだぃっ!!」
見開いた両眼からボロボロ涙をこぼしつつ、声の限りに叫んだお仙は、そのまま兄である浅黄の隣に泣き崩れる。二人分の涙に濡れる川辺で、朱王と海華は互いに顔を見合わせ固く唇を結んだ。